第1話 豊作の日の薄いスープ
第1話 豊作の日の薄いスープ
麦の穂が、歩くたびにエレナのスカートを撫でた。
晩夏の陽を吸い込んだ畑は、見渡すかぎり黄金色だった。風が渡ると、重く垂れた穂が一斉に頭を下げる。その波を見ただけで、胸の奥がふわりと軽くなる。
エレナは畦にしゃがみ、一つの穂を手のひらで包んだ。
「また止まりましたね、お嬢様」
後ろからソフィの声がした。
「今度は何を見ているんです?」
「粒」
「さっきも粒でした」
「さっきは南の端の粒。これは畑の真ん中の粒よ」
「麦にも住所があるんですね」
淡々と言いながら、ソフィは腰の小さな帳面を開いた。十六歳の侍女兼書記見習いは、エレナの奇妙な寄り道に慣れている。
エレナは穂から一粒外し、爪を立てた。表面は乾き始めている。潰れず、けれど石のようには硬くない。前歯でそっと噛むと、青臭さの奥に薄い甘みがあった。
「去年より太い。倒れている場所も少ないし、雑草もひどくない」
「では、豊作ですか?」
「少なくとも、悪くはないわ」
すぐに豊作と言い切らなかったのは、癖だった。
九歳のある朝、エレナの中には別の人生の記憶が戻っていた。遠い世界で、畑に実った穀物が、乾燥、運搬、保管を通るうちに、どれだけ食卓へ届かなくなるかを研究していた二十六歳の女の記憶。そこで覚えたのは、知識の名前よりも、見た目の良さだけで結論を出さないことだった。
だから四年前から、領主館の裏にある小さな区画だけは、毎年同じ場所を見てきた。播いた量。穂の数。倒れた場所。刈り取り前の粒の張り。
今年の印は、どれも悪くない。
「今年は、勝てるかもしれない」
口にすると、胸がさらに高鳴った。
「何にです?」
「……いろいろよ」
借金。減らされた使用人。冬になるたび薄くなるスープ。母が夜遅くまで数えている銀貨。
十三歳の自分に、何ができるのかはまだ分からない。それでも、この畑の麦が去年より多いなら、家族の食卓も、領民の冬も、少しは楽になるはずだった。
ソフィが帳面へ短く書き込んだ。
「『お嬢様、麦に勝利宣言』」
「そんなこと書かないで」
「では、『南端と中央、去年より粒太し』」
「そっち」
エレナは立ち上がり、膝についた土を払った。畑の向こうでは、刈り取りを待つ人々が鎌を研いでいる。明日から収穫が始まる。
領主館へ戻る道すがら、刈り取りを待つ人々のそばを通った。研ぎ終えた鎌が布の上へ並び、空の袋が荷車へ積まれている。袋の継ぎ目を確かめる女、車輪へ油を差す少年、明日の天気を雲の形で言い争う男たち。豊作は、穂が実っただけでは家へ入ってこない。多くの手を通って、ようやく麦になる。
道端では、小さな子どもが落ち穂を入れる籠を抱えていた。まだ収穫は始まっていないのに、籠の底には去年のものらしい黒ずんだ粒が数個転がっている。
「今年は、あの籠もいっぱいになるわね」
エレナが言うと、ソフィは少し考えてから答えた。
「いっぱいになれば、ですけど」
「どういう意味?」
「私の口から申し上げると、奥様に叱られる種類の意味です」
「それ、言っているのと同じじゃない」
「では、聞かなかったことにしてください」
ソフィは歩調を速めた。エレナも追いかけたが、答えは得られなかった。
領主館へ戻る道すがらも、エレナは何度も振り返った。
黄金色の畑は、何度見ても豊かに見えた。なのに、ソフィの言葉だけが、小さな棘のように残った。
*
報告を聞いた父アルベルトは、執務机から顔を上げるなり笑った。
「そうか。今年は持ち直したか」
四十七歳の領主は、安堵すると年齢より若く見えた。領民から慕われる柔らかな目も、その瞬間だけは曇りがない。
「まだ刈っていないから、確定ではないけれど。小区画では、去年より粒が太いわ」
「ほら、父上。エレナはちゃんと逃げ道も用意して報告している」
窓辺にいたレオンが笑った。
九歳上の兄は、エレナの髪に絡んでいた芒を一本つまみ取った。そのまま、ソフィから帳面を受け取る。
「南端と中央だけか?」
「館裏の区画も見たわ。三か所とも同じ傾向」
「なら期待してもよさそうだな」
レオンは、妹の話を子どもの遊びとして笑わない。数え方を聞き、足りなければ足りないと言い、それでも続きを待ってくれる。
エレナはそれが嬉しくて、つい早口になった。
「倒伏も少ないの。春の排水が効いたのかもしれない。収穫のあとで袋数を比べれば——」
「刈り取りは、予定どおり明日からですか」
母クラリッサの声が、喜びの流れを静かに止めた。
「東の畑から三日。西側はそのあとです」
アルベルトが答える。
「まとまった荷を倉へ入れるのは?」
「天気がもてば、五日後には」
クラリッサは頷いた。しかし、豊作を喜ぶ言葉はなかった。細い指で机上の紙を一枚伏せる。
エレナは、母が見ていた紙の端に赤い封蝋が付いているのを見た。
「母上?」
「畑を見てきたのでしょう。まず着替えていらっしゃい。食事に遅れます」
泥のついた裾へ目を落とされ、エレナは口を閉じた。
隣でレオンが小声で言った。
「湯を使え。芒が首にも入ってる」
「先に言ってよ」
「言う前に父上へ飛びついただろう」
兄は笑っていたが、クラリッサの伏せた紙を見た時だけ、その目から笑いが消えた。
*
夕食のスープは、皿の底が見えるほど薄かった。
豆が三粒。細く切った根菜が数本。匙を入れても、とろみはほとんどない。
黒パンは焼いてから何日も経っているらしく、レオンが割ると乾いた音がした。クラリッサは一本のパンを同じ厚さに切り、アルベルト、レオン、エレナ、自分の皿へ配った。
畑で見た麦の重さが、まだエレナの掌に残っていた。
黄金色の穂。爪を押し返した粒。地平まで続く、収穫を待つ畑。
そのすぐそばにある領主館で、パンは向こう側が透けそうなほど薄い。
「今年の麦なら、白いパンも焼けるだろう」
アルベルトが努めて明るく言った。
「マルタも喜ぶ。去年は粉の質が悪いと、ずいぶん苦労していたからな」
「ええ」
クラリッサは短く答え、パンをスープへ浸した。
誰も、二切れ目へ手を伸ばさない。そもそも籠に二切れ目がなかった。
子どもの頃は、領主の食卓とはもっと贅沢なものだと思っていた。前世で読んだ物語には、皿から肉があふれ、果物が山になっていた。実際のヴァルディエ家では、銀器だけは古く立派で、その上に載る食べ物が年々少なくなっている。
クラリッサは最後に残った豆を匙で二つに分け、その片方をエレナの皿へ落とした。
「母上、私は——」
「畑を歩いたのでしょう」
「でも」
「食べなさい」
命令する声は厳しかった。けれど母の皿には、もう豆が残っていなかった。
レオンが何も言わず、自分のパンを少しだけ割ろうとした。エレナは先に兄の手首を押さえた。
「いらない。子ども扱いしないで」
「さっきまで芒を首につけていた子が?」
「それとこれは別」
レオンは小さく笑い、パンを戻した。笑いの奥に、困ったような色があった。
エレナは硬いパンを噛んだ。畑で確かめた粒より、ずっと古い味がした。
分からなかった。
作物が取れない土地なら、貧しい理由は分かる。雨が足りない。病気が出た。土が痩せている。けれどリュネールの畑は、少なくとも今年、あれほどの穂を実らせている。
なのに、食卓には届いていない。
「今年も、不作なの?」
匙の音が止まった。
アルベルトが目を伏せた。レオンは割りかけたパンを皿へ戻した。
クラリッサだけが、まっすぐエレナを見た。
「いいえ。今年の畑は、あなたの言うとおり悪くないでしょう」
「だったら、どうして——」
「畑の麦が、すべてヴァルディエ家のものになるわけではないからです」
クラリッサは席を立ち、執務室から持ってきたらしい紙束を食卓の端へ置いた。赤、黒、青。封蝋の印が違う契約書が、細い紐でまとめられている。
「今年刈る麦の一部は税として出ます。働いた人の賃金にもなります。借りた種籾の返済にも使います」
母の指が、いちばん厚い束に触れた。
「そして、その麦は——刈る前から、半分近く持ち主が決まっています」
まだ畑に立っている麦に、もう別の持ち主がいる。
その意味を、エレナはまだ知らなかった。




