↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

12/18

第12話 麦より先に尽きるもの

 ルカ・サレルは、空の粉箱を見ても値引きしなかった。


 応接室の卓上に、マルタが箱を置いた。底には白い粉が一筋だけ残っている。


「ご事情は理解しました」


 ルカは箱を覗き、蓋を戻した。


「ですが、粉が少ないことと、私の荷が安くなることは別です」


 年齢はレオンより少し上に見えた。黒い上着に雪一つ残さず、指には飾りのない銀環がある。


 商人らしい笑顔だった。


 助けるとも、断るとも言わない笑顔。


「必要なのは、水車の留め具二本、乾いた薪を荷車八台分、運送の荷車三台」


 エレナが言った。


「いつまでに?」


「留め具は明朝。薪は三日以内。荷車は今日から」


「急ぎの値がつきます」


「分かっています」


「お支払いは?」


 そこでクラリッサが口を開いた。


「手元の銀で三分の一。残りは春以降」


「春に、何を売って」


 部屋が少し寒くなった。


     *


 エレナは窮状を語らなかった。


 代わりに、白札を卓へ並べた。


「今の水車は一日にこの袋数。留め具を替え、石臼を二つ使えるようにすれば、ニコが安全に増やせるのはこの分です」


 札を一枚移す。


「薪が予定どおり届けば、共同窯の空き時間を二回使える。手回し臼を合わせても、増えるのは一日これだけ」


「ずいぶん控えめな数字ですな」


「晴れた日の最大ではなく、冬に続けられる量です。軸を冷ます時間と、作業者の交替を引いています」


 ルカは初めて、札へ身を乗り出した。


「何戸へ配れる」


「今より二十七戸多く、配給を止めずに回せます。留め具が予定より一日遅れれば、三戸分減る」


「薪が湿っていたら?」


「受け取り時に一本割って確認します。湿りが強ければ受領量に入れない」


「荷車が一台故障したら?」


「二台で先に留め具と乾いた薪を運ぶ。残りは遅れても配給停止には直結しません」


 質問が来るたび、エレナは札の位置を変えた。


 数字は相手を圧倒するためではない。


 約束できる範囲と、できない範囲を同じ卓へ置くためにある。


「なるほど」


 ルカは椅子へ戻った。


「成功すれば、村は冬を越す。失敗すれば、私の荷代は消える」


「だから、失敗した場合にも残る担保を求めるのね」


「話が早い方は好きです」


「あなたの利益も聞かせて」


 エレナは札から目を上げた。


「利だけなら、もっと苦しい領地へ高く売れます。なぜここへ来たの」


「ヴァルディエ家は麦を隠す家ではなくなりつつある。倉入れ記録を整える領地と早く取引すれば、来年以降の仕入れが読みやすい」


「私たちが立ち直ること自体が利益?」


「立ち直り、契約を守るなら。潰れれば損です」


 善意ではない。


 だが、相手が生き残ることを利益に含む商人なら、冬を越した後も交渉できる。


     *


「来年の麦を三割」


 ルカが提示した。


「高すぎる」


 レオンが即座に返した。


「では二割と、水車の優先使用権」


「村の粉挽きを止める条件は飲めない」


 エレナが言う。


「今、同じことを避けようとしているの」


「ならば、何を差し出せます」


 クラリッサは帳面を開いた。


「亜麻」


 来年収穫する亜麻の一部を、残代金に充てるという意味だった。


「奥様」


「来年の作付予定のうち、契約済みでない分の四分の一。それ以上は春の現金収入が細り、別の支払いが止まります」


 母の声には迷いがなかった。


「倉入れ記録の閲覧も付ける」


 エレナが顔を上げた。


「母上、それは——」


「商人が返済可能性を確認できなければ、利は高くなる。見せる範囲を決めればいい」


 クラリッサは別紙へ線を引いた。


「閲覧は亜麻の収穫量、出荷量、契約分だけ。麦の備蓄、種、領民の名は除く」


「記録が正しいと誰が保証します?」


 ルカが聞く。


「発注した者ではなく、受け取った者とソフィが記す。必要ならあなたの番頭が立ち会っていい」


 エレナは答えた。


 ルカはレオンを見た。


「若様は、何を付けます」


「ダルヴァ商会が冬の配給を支えた事実を、春の市で公にする。契約どおり届けば、だが」


「評判で値引けと?」


「評判も商人の在庫だろう」


 レオンは笑った。


 ルカも、今度は少しだけ本当に笑った。


「亜麻四分の一。倉入れ記録の限定閲覧。支払いの残りは亜麻出荷時。遅れれば定めた利を加える」


「水車の優先権はなし」


「亜麻が不作なら、麦で補う条項もなし」


 クラリッサが加えた。


「では現金で」


「上限を定めます。家畜、種籾、領民の冬配給を差し押さえる条項も認めません」


 ルカは指先で卓を二度叩いた。


「ずいぶん守りが固い」


「守れない契約を結べば、あなたも取り立てに費用を使うでしょう」


「違いない」


 断る条件を先に置くと、交渉の輪郭がはっきりした。飢えを盾に、将来の食料まで渡す契約にはしない。



「受領検査で湿った薪は数に入れない」


「異議ありません」


 クラリッサが最後に契約書を読み、上限を越える条項がないことを確かめた。


 飢えを避けたいというエレナ一人の焦りだけでは、印を押さなかった。


 領地が守れる範囲で、母が決めた。


     *


 ルカの仕事は早かった。


 翌朝、鍛冶屋の印がある留め具が二本届いた。ニコは古い金具と並べ、穴の幅と厚さを確かめる。


「合います」


「すぐ取り付けて」


「先に軸を休ませます。急いで曲げたら、商人だけが儲かります」


 ニコは手順を変えなかった。


 薪は一本ずつ割られた。マルタが内側の色を見て、火へ入れる束と乾かし直す束を分けた。


「全部乾いているとは言っていませんでしたよ」


 立ち会ったルカが言う。


「湿った分を数に入れない契約です」


 エレナが返す。


「ええ。ですから数え直しましょう」


 揉めなかった。


 契約に、揉める場所まで書いてあったからだ。


 水車の軸から高い音が消えた。二つ目の石臼がゆっくり回り始め、粉袋が順番に膨らむ。


 共同窯の板には新しい時間割が掛けられた。雪の日の空きを館が使い、晴れた日は川向こうへ薪を返す。


 夜、マルタが焼き上がったパンを籠へ並べた。


 一つ、二つ、三つ。


 前の日より多い。約束した数を超えてはいない。


「二十七戸」


 ソフィが白札へ書いた。


「止めずに回せます」


 エレナは温かいパンを両手で持った。


 勝ったような気持ちは、半分だけだった。


 来年の亜麻の四分の一は、もう自由に売れない。


 今日のパンは、来年の選択肢で焼かれている。


     *


 粉箱が満ちた夜、クラリッサが別の帳簿を持ってきた。


「これは冬の帳簿ではありません」


 厚い表紙を卓へ置く。


「この家の帳簿です」


 粉箱は満ちた。


 母の帳簿を開くと、家の底は抜けたままだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。