第12話 麦より先に尽きるもの
ルカ・サレルは、空の粉箱を見ても値引きしなかった。
応接室の卓上に、マルタが箱を置いた。底には白い粉が一筋だけ残っている。
「ご事情は理解しました」
ルカは箱を覗き、蓋を戻した。
「ですが、粉が少ないことと、私の荷が安くなることは別です」
年齢はレオンより少し上に見えた。黒い上着に雪一つ残さず、指には飾りのない銀環がある。
商人らしい笑顔だった。
助けるとも、断るとも言わない笑顔。
「必要なのは、水車の留め具二本、乾いた薪を荷車八台分、運送の荷車三台」
エレナが言った。
「いつまでに?」
「留め具は明朝。薪は三日以内。荷車は今日から」
「急ぎの値がつきます」
「分かっています」
「お支払いは?」
そこでクラリッサが口を開いた。
「手元の銀で三分の一。残りは春以降」
「春に、何を売って」
部屋が少し寒くなった。
*
エレナは窮状を語らなかった。
代わりに、白札を卓へ並べた。
「今の水車は一日にこの袋数。留め具を替え、石臼を二つ使えるようにすれば、ニコが安全に増やせるのはこの分です」
札を一枚移す。
「薪が予定どおり届けば、共同窯の空き時間を二回使える。手回し臼を合わせても、増えるのは一日これだけ」
「ずいぶん控えめな数字ですな」
「晴れた日の最大ではなく、冬に続けられる量です。軸を冷ます時間と、作業者の交替を引いています」
ルカは初めて、札へ身を乗り出した。
「何戸へ配れる」
「今より二十七戸多く、配給を止めずに回せます。留め具が予定より一日遅れれば、三戸分減る」
「薪が湿っていたら?」
「受け取り時に一本割って確認します。湿りが強ければ受領量に入れない」
「荷車が一台故障したら?」
「二台で先に留め具と乾いた薪を運ぶ。残りは遅れても配給停止には直結しません」
質問が来るたび、エレナは札の位置を変えた。
数字は相手を圧倒するためではない。
約束できる範囲と、できない範囲を同じ卓へ置くためにある。
「なるほど」
ルカは椅子へ戻った。
「成功すれば、村は冬を越す。失敗すれば、私の荷代は消える」
「だから、失敗した場合にも残る担保を求めるのね」
「話が早い方は好きです」
「あなたの利益も聞かせて」
エレナは札から目を上げた。
「利だけなら、もっと苦しい領地へ高く売れます。なぜここへ来たの」
「ヴァルディエ家は麦を隠す家ではなくなりつつある。倉入れ記録を整える領地と早く取引すれば、来年以降の仕入れが読みやすい」
「私たちが立ち直ること自体が利益?」
「立ち直り、契約を守るなら。潰れれば損です」
善意ではない。
だが、相手が生き残ることを利益に含む商人なら、冬を越した後も交渉できる。
*
「来年の麦を三割」
ルカが提示した。
「高すぎる」
レオンが即座に返した。
「では二割と、水車の優先使用権」
「村の粉挽きを止める条件は飲めない」
エレナが言う。
「今、同じことを避けようとしているの」
「ならば、何を差し出せます」
クラリッサは帳面を開いた。
「亜麻」
来年収穫する亜麻の一部を、残代金に充てるという意味だった。
「奥様」
「来年の作付予定のうち、契約済みでない分の四分の一。それ以上は春の現金収入が細り、別の支払いが止まります」
母の声には迷いがなかった。
「倉入れ記録の閲覧も付ける」
エレナが顔を上げた。
「母上、それは——」
「商人が返済可能性を確認できなければ、利は高くなる。見せる範囲を決めればいい」
クラリッサは別紙へ線を引いた。
「閲覧は亜麻の収穫量、出荷量、契約分だけ。麦の備蓄、種、領民の名は除く」
「記録が正しいと誰が保証します?」
ルカが聞く。
「発注した者ではなく、受け取った者とソフィが記す。必要ならあなたの番頭が立ち会っていい」
エレナは答えた。
ルカはレオンを見た。
「若様は、何を付けます」
「ダルヴァ商会が冬の配給を支えた事実を、春の市で公にする。契約どおり届けば、だが」
「評判で値引けと?」
「評判も商人の在庫だろう」
レオンは笑った。
ルカも、今度は少しだけ本当に笑った。
「亜麻四分の一。倉入れ記録の限定閲覧。支払いの残りは亜麻出荷時。遅れれば定めた利を加える」
「水車の優先権はなし」
「亜麻が不作なら、麦で補う条項もなし」
クラリッサが加えた。
「では現金で」
「上限を定めます。家畜、種籾、領民の冬配給を差し押さえる条項も認めません」
ルカは指先で卓を二度叩いた。
「ずいぶん守りが固い」
「守れない契約を結べば、あなたも取り立てに費用を使うでしょう」
「違いない」
断る条件を先に置くと、交渉の輪郭がはっきりした。飢えを盾に、将来の食料まで渡す契約にはしない。
「受領検査で湿った薪は数に入れない」
「異議ありません」
クラリッサが最後に契約書を読み、上限を越える条項がないことを確かめた。
飢えを避けたいというエレナ一人の焦りだけでは、印を押さなかった。
領地が守れる範囲で、母が決めた。
*
ルカの仕事は早かった。
翌朝、鍛冶屋の印がある留め具が二本届いた。ニコは古い金具と並べ、穴の幅と厚さを確かめる。
「合います」
「すぐ取り付けて」
「先に軸を休ませます。急いで曲げたら、商人だけが儲かります」
ニコは手順を変えなかった。
薪は一本ずつ割られた。マルタが内側の色を見て、火へ入れる束と乾かし直す束を分けた。
「全部乾いているとは言っていませんでしたよ」
立ち会ったルカが言う。
「湿った分を数に入れない契約です」
エレナが返す。
「ええ。ですから数え直しましょう」
揉めなかった。
契約に、揉める場所まで書いてあったからだ。
水車の軸から高い音が消えた。二つ目の石臼がゆっくり回り始め、粉袋が順番に膨らむ。
共同窯の板には新しい時間割が掛けられた。雪の日の空きを館が使い、晴れた日は川向こうへ薪を返す。
夜、マルタが焼き上がったパンを籠へ並べた。
一つ、二つ、三つ。
前の日より多い。約束した数を超えてはいない。
「二十七戸」
ソフィが白札へ書いた。
「止めずに回せます」
エレナは温かいパンを両手で持った。
勝ったような気持ちは、半分だけだった。
来年の亜麻の四分の一は、もう自由に売れない。
今日のパンは、来年の選択肢で焼かれている。
*
粉箱が満ちた夜、クラリッサが別の帳簿を持ってきた。
「これは冬の帳簿ではありません」
厚い表紙を卓へ置く。
「この家の帳簿です」
粉箱は満ちた。
母の帳簿を開くと、家の底は抜けたままだった。




