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第13話 母の帳簿

 公式帳簿にない数字を、母は衣装箱の底から出した。


 クラリッサの私室には、冬でも花の香りが残っていた。蓋を開けた衣装箱から絹布を二枚取り、その下の薄い板を外す。


 現れたのは宝石ではなく、革表紙の帳面だった。


「座りなさい」


 エレナはルカとの交渉で使った白札を抱えたまま椅子へ座った。


「なぜ公式帳簿に入っていないの?」


「家の借金ではあっても、領地の徴税や倉庫とは別に扱ってきたからです。人に見せれば家名を傷つけるものもあります」


 最初の頁には、売却済みの品が並んでいた。母方の祖母から受け継いだ首飾り。銀の燭台。客用の絹。


「これ、もうないの?」


「秋に売りました」


「あの夜会では着けていた」


「石をガラスへ替えました」


 エレナは母の耳元で光っていたものを思い出した。誰にも違いを悟らせず、クラリッサは家の信用だけを身に着けていた。


     *


 次の頁は、売ったものより重かった。


 使用人の賃金。三人分が半月遅れている。親族からの短期借入。春までに直さなければ梁まで傷む屋根。レオンの遠征装備。


 最後に、見覚えのない欄があった。


「持参金候補、エレナ」


 自分の名だった。


「私の?」


「将来、婚姻を選ぶ時に相手の家へ持たせるものです」


「いらない」


「あなたが今そう思うことと、将来の選択肢を残すことは別です」


「家が潰れるなら意味がないわ」


「家を救うために娘の将来を最初に売る母にはなりたくありません」


 冷たい言い方だった。けれど、線を引く手はわずかに震えていた。


 クラリッサが守ってきた体面は、飾りではない。使用人が来月も働けると思うこと。親族が返済を待てると思うこと。娘が選ぶ余地を失わないこと。


 信用を包む外皮だった。


「ガラスへ替えたことを知られたら?」


「笑う方はいるでしょう。ですが、支払日を守り、客を迎える衣服を整えていれば、取引相手はすぐには離れません」


 クラリッサは衣装箱の布を撫でた。


「体面だけで腹は満ちません。でも、体面を一度に捨てれば、雇い主としても婚姻相手としても、明日まで持たない家だと思われる」


「なら、どこまで残すの?」


「そこを数字で決めるために、あなたを呼びました」


 母は秘密を告白するためだけに帳面を開いたのではない。娘の記録を、家全体の判断へ使おうとしていた。


「どうして今まで見せなかったの」


「十三歳の娘に、母の首飾りの値段を背負わせたくなかったからです」


「でも、倉庫の改善費が家計のどこへ響くか、私は知らなかった」


「倉庫を任せたのであって、家計を任せたのではありません」


「分けたままでは、どちらも正しい数字にならない」


 エレナの声が少し強くなった。


「麦の損耗を減らせば、買い足す現金が減る。その現金で賃金を払えるかもしれない。屋根を放置すれば、倉を直しても別の部屋の穀物が濡れる」


「ええ」


「知っていたの?」


「今、あなたの記録を見て初めて、どれほど減るか比べられました」


 母も全部を知っていたわけではなかった。


 同じ家の危機を、別々の帳簿で見ていた。


     *


「ソフィを呼びます」


「家の秘密です」


「だから、誰が記録を見るかを決めます。ソフィは書く。口外しない誓約を取る。私と母上が確認する」


 クラリッサは少し考え、呼び鈴を鳴らした。


 ソフィが来ると、衣装箱の帳面を見て目を丸くした。


「私が見てよいのですか」


「見たことを、見なかったことにできる?」


「忘れるのは苦手です。書いたことは特に」


「なら、忘れなくていい。外で話さないで」


「はい」


 三人は机へ札を並べた。


 売れる物。支払う日。遅らせると失うもの。止められる損失。


 宝飾売却は一度だけ現金を生む。賃金延期は今月を助けるが、使用人が辞めれば来月の仕事が止まる。屋根修理は先送りできるが、春雨まで。親族借入は利息が増える。


 クラリッサは遅れている賃金の名簿を開いた。


「台所のリサは娘の薬代を待っています。厩のオットーはまだ何も言いません。何も言わない者ほど、突然いなくなることがあります」


「先に困っている人へ払う?」


「それだけでは不公平になります。期限を示し、全員へ同じ割合を払い、緊急分は貸付として別に出す」


 穀物の選別と似ていた。全体の規則と、例外の記録が両方要る。


 ソフィは賃金札へ、共通支払と緊急貸付の二本線を引いた。


 エレナは倉庫の札を加えた。


「袋の破れを減らせば、買い替え費用が下がる。乾燥損を区別すれば、存在しない不足分を買い足さずに済む」


 クラリッサが別の札を動かした。


「浮いた分を全部倉へ戻してはいけません。遅れている賃金が先です」


「保管を止めれば損失が戻る」


「全部止めるとは言っていません」


 母娘の指が同じ札を押さえた。


「母上は、私が倉へお金を全部使うと思っていた?」


「あなたは必要なものを見つけると、そこへ真っ直ぐ走ります」


「止める理由を見せてくれれば比べるわ」


「見せれば、あなたまで眠れなくなる」


「もう眠れていない」


 十三歳らしい苛立ちが声へ出た。


 クラリッサは自分の帳面を娘の側へ半分押した。


「では、今夜から一緒に眠れなくなりましょう」


 和解ではなかった。秘密を分け合う、母なりの許可だった。


「半分ずつ?」とソフィ。


「いいえ」


 二人の声が重なった。


 思わず顔を見合わせる。


「期限で分けるの」エレナが言った。


「失った時に戻せるかでも分けます」クラリッサが続けた。


 ソフィは二人の言葉を一枚へ書いた。


 期限。失えば戻るか。代わりがあるか。信用を失うか。


 別々だった帳簿の数字が、同じ机の上で初めて比べられた。


     *


 夜更け、最後に三枚の札が残った。


 春の種。橋の補修。借入の利息。


 残る現金では、三つすべてを払えない。


「種を削れば、次の収穫が減る」


「橋を放置すれば、収穫を運べない」


「利息を落とせば、担保を取られる」


 三枚とも動かせなかった。


 選ぶのは、払う一つだけではない。


 切り捨てる二つを、決めなければならなかった。


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