第九話 神獣様、旅立ちの朝
第一幕王宮編最終回です。
村の調査から戻ったがロブは落ち着かない様子。攫われた魔獣を救うためエレナは決意する。
ラダ村から戻った翌朝、ロブは夜明けより早く目を覚ました。
窓の外はまだ薄暗い。
いつもなら、私が起きるまでベッドの上で丸くなっている時間だ。なのに今日は、部屋の中を何度も歩き回っている。
扉の前まで行く。戻ってくる。窓辺へ前足をかけ、外の匂いを嗅ぐ。
そしてまた扉の前へ行く。
「ロブ、どうしたの?」
「くぅん」
ベッドから声をかけると、ロブは私を見た。
抱っこしてほしいときの顔ではない。お腹が空いているときとも、散歩をねだるときとも違う。
何かを探しているけれど、どこへ行けばいいのかわからないといった表情。
私は上着を羽織り、ロブを抱き上げた。
「昨日の熊さんが心配?」
ロブは答えず、私の腕の中から窓の外を見た。
庭園の向こう。王宮の城壁より、さらに遠い場所を。
「黒牙狼たちのことも?」
「くぅん」
小さな声が胸へ響いた。
昨日、私たちは罠の跡を見つけた。岩角熊の毛も、血も、薬品も見つけた。
けれど、助けられなかった。
荷車は川へ入り、痕跡ごと消えてしまった。
「大丈夫だよ」
何が大丈夫なのか、自分でもわからないまま言った。
「ルークたちが探してくれてる。きっと見つかるから」
ロブは私の顔を見た。
その目に、自分の不安が映っているような気がした。
これまでも、同じことを言ってきた。騎士団が調べてくれる。王宮にいれば安全だから。
だから、私たちは待っていよう。
でも、その間にも魔獣は傷つけられ、連れ去られていた。
ロブは私の腕から下りると、また扉の前へ行った。
「外に出たいの?」
「わん」
今度の返事には、迷いがない。
夜明けの庭園は、白い霧に包まれていた。巡回する騎士の鎧だけが、遠くで小さく光っている。
ロブは石畳へ下りるなり、北の方角へ歩き始めた。
花の匂いも嗅がない。ガレドさんの作業小屋にも寄らない。
まっすぐ、王宮の門へ向かう。
「ロブ、そっちは出られないよ」
でもロブは止まらなかった。
門の手前には、昨夜から増やされた騎士二人が立っている。
ロブが近づくと、騎士は緊張した顔で道を開けた。
「神獣様、お出かけでしょうか」
「いえ、散歩です。門の外には出ません」
ロブは門の前で座り、閉じた大扉をじっと見つめている。
「ロブ」
私が呼んでも振り返らない。
やがて、門の外から馬の蹄の音が聞こえた。
門が少しだけ開き、泥だらけの騎士が入ってくる。
夜通し走ってきたようで、馬も騎士も疲れが見えた。
「ルーク団長へ報告を。西の森でも、魔獣が一頭消えました」
「また、連れ去られたんですか?」
騎士は私に気づき、慌てて馬から降りた。
「エレナ様。お聞きになられたのですか」
「どんな魔獣ですか」
「角鹿です。村の者が見回りに行ったところ、角鹿の縄張りに血と罠の欠片が残されていたと。荷車の跡も見つかっています」
ラダ村の岩角熊と同じだ。
「いつですか」
「昨日の夜と思われます」
私たちがラダ村で痕跡を追っていた、その夜、灰の狩人はもう、別の場所で次の魔獣を狙っていた。
ロブが低く鼻を鳴らす。
騎士はさらに声を落とした。
「北東の村からも、翼蛇が姿を消したとの知らせが届いています。そちらはまだ、罠との関係が確認できていませんが」
一頭ではない。
同じ夜に、離れた場所でいくつもの魔獣が消えている。
灰の狩人は一人ではない。
罠を仕掛ける者。薬を使う者。檻を運ぶ者。
私が思っていたより、ずっと大きな計画なのかもしれない。
「わん!」
ロブが突然、大きく鳴いた。
門の前へ立ち、振り返って私を見る。
「行きたいんだね」
「わん!」
今度は、はっきりわかった。
ロブは門の向こうへ行こうとしている。
傷ついた魔獣たちを探そうとしている。
王宮で待つのではなく、自分の足で。
「私もだよ」
私はロブの前にしゃがんだ。
「もう、ここで待ってるだけじゃ助けられない」
その言葉に、ロブは尻尾を一度だけ振った。
◇
王宮の会議室には、朝から重い空気が満ちていた。
王国全土の地図が広げられた大きな円卓の席に、国王陛下、アレクシス王子、大神官、ルーク、ディート先生。そして、魔術師団の代表者の顔が並ぶ。
地図には、魔獣が傷つけられた場所を示す黒い駒と、失踪した場所を示す赤い駒が置かれている。
最初は王都に近い森だけだったが、今は、赤い駒が北、西、北東へ広がっている。
「昨夜だけで二件。ラダ村の岩角熊を含めれば、確認できた失踪は三件です」
ルークが報告する。
「それ以前にも、魔獣が縄張りから消えたという話が五件あります。当初は移動しただけと考えられていましたが、同じ一味の仕業である可能性が高い」
「つまり、すでに八頭か」
国王陛下の声が低くなる。
「最低でも、です。小型の魔獣まで含めれば、さらに多いかもしれません」
アレクシス王子が地図へ身を乗り出した。
「昨夜、これだけ離れた場所で同時に動いている。灰の狩人は仲間がいるな」
「はい。名が個人を示すものなのか、集団全体を示すものなのかもわかりません」
「鍛冶師へ罠を注文した者が、指揮する立場とも限らない」
「そのとおりです」
ルークが赤い駒を指で指す。
「ただ、運ばれた魔獣は、最終的に一か所へ集められていると考えます。大型の檻、薬品、餌、人手。複数の拠点で長く管理するより、まとめたほうが都合がいい」
「目的は、まだわからないのですか」
私は尋ねた。
「売るためなら、珍しい魔獣だけを選ぶはずです」
答えたのはディート先生だった。
机の上には、ラダ村で採取した土と、割れた薬瓶の欠片が置かれている。
「岩角熊の角も、黒牙狼の毛皮も、危険を冒して生け捕りにするほど高価ではありません。薬や魔術の材料としても、共通点がない」
「では、なぜ集めるのです」
大神官が静かに聞く。
ディート先生は少し迷い、私とロブを見た。
「ひとつだけ、共通点があります」
「何ですか」
「ロブ……神獣が、近くにいた魔獣です」
部屋の空気が凍ったように感じた。
黒牙狼、茜火狐は確かにロブが近くにいた。
岩角熊をロブが直接見たわけではない。でも、残された匂いを追い、罠の場所を見つけた。
「すべてではありません」
ディート先生は続ける。
「昨夜消えた角鹿と翼蛇は、ロブと接触していない。しかし、神獣の伝承では、これらは皆、神獣が声を聞くとされた種類です」
大神官の顔がわずかに曇る。
「古文書に記された『従獣』ですか」
「従獣?」
初めて聞く言葉だった。
大神官が頷く。
「神獣に従うという意味ではありません。古い時代、人と争わず、神獣の呼びかけに応えた魔獣を、そう記したのです。黒牙狼、角鹿、翼蛇、岩角熊も含まれます」
「灰の狩人一味は、その古文書を知っているということか?」
アレクシス王子が言う。
「その可能性があります」
「神獣と、神獣に声を届けられる魔獣を集めて、何をするつもりだ」
誰も答えられない。
円卓の下で、ロブが体を起こした。
さっきまで私の足元で伏せていたのに、地図の北側を見つめている。
「ロブ?」
「くぅん」
国王陛下が私たちを見る。
「昨夜から、ずっとこの様子なのか」
「はい。部屋の中を歩き回って、朝は門の前から動きませんでした」
「何かを感じ取っているのかもしれません」
大神官が古文書の一節を思い出すように目を閉じた。
「神獣は、傷ついた魔獣の声を最初に聞く」
「でも、場所まではわからないみたいです」
ロブがわかるのは、誰かが苦しんでいることだけ。
助けに行きたくても、どこへ行けばいいのかわからない。
だから、夜明け前から扉と窓の間を歩き続けていたのか。
「時間がありません」
私は円卓に並ぶ人たちを見た。
「次の報告を待っていたら、また連れ去られます。騎士をひとつの村へ送っている間に、灰の狩人は別の場所へ行く。王宮で知らせを待っているだけでは、追いつけません」
「エレナ」
国王陛下の声は、責めるものではなかった。
それでも、私は一度息を吸ってから続けた。
「ロブと調査へ行かせてください」
ルークの眉が動く。
「危険です。相手の目的にロブが含まれている可能性は、昨日より高くなりました」
「わかっています」
「目的地さえ決まっていません。相手は複数で、魔獣を生け捕りにする装備を持っている。神獣が相手なら、さらに強い罠を用意しているかもしれない」
「それも、わかっています」
怖くないはずがない。
灰の狩人はきっと王宮までロブを見に来ていた。
私が守りきれる相手ではないかもしれない。
でも、私が怖がってロブを閉じ込めておけば、誰かが代わりに傷つけられる。
「ロブに無理をさせたいわけじゃありません。危険な場所へ一人で行かせるつもりもない。でもロブは、もう行こうとしています」
私の足元で、ロブが立ち上がった。
「私たちだけ安全な場所にいて、ロブに待っててと言い続けるのは違うと思うんです」
あの壁画の契約者は、神獣を引っ張っていなかった。
後ろから追い立ててもいなかった。
ただ、同じ方向を見て、隣を歩いていた。
「私は契約者として何ができるのか、まだわかりません。でも、ロブが助けたいものを見失わないようにする。それなら、できます」
静かな会議室に、ロブの爪が床を擦る音がした。
国王陛下は長いあいだ、地図を見つめたあと、顔を上げて言った。
「エレナとロブだけを行かせることはできぬ」
「陛下」
「ゆえに、正式な調査隊を編成する」
ルークが姿勢を正した。
「騎士団長ルークを隊長とし、追跡に長けた騎士を六名。薬品と魔術の痕跡を調べるため、魔術師を二名。ディート医師も加わってほしい」
「僕もですか」
ディート先生が目を見開く。
「負傷した魔獣を見つけたとき、治療できる者が必要だ。もちろん、無理にとは言わぬ」
ディート先生は机の上の薬品を見つめ、ため息をついた。
「魔獣の生態には詳しいですから。僕でお役に立てるのでしたら」
「参加してくださるのですね」
「傷んでいる魔獣を見過ごすことはできません。人を診る医者ではありますが」
国王陛下が頷き、大神官を見る。
「大神殿には、古い記録から従獣と呼ばれた魔獣の生息地を調べていただきたい。次に狙われる場所を予測できるかもしれぬ」
「直ちに神官を集めましょう。また、旅の護符と薬草も用意いたします」
アレクシス王子が地図の北側を指した。
「最初に向かうなら、ラダ村の先だ。荷車が入った川は、北で三本に分かれる。そのうち二本は街道沿いだが、西の支流は旧鉱山地帯へ続いている。人の目を避け、大きな檻を隠せる場所があるかもしれない」
ルークが答える。
「廃鉱と、使われていない砦がいくつか。昨日から先行して調べさせています」
「まずはそこへ向かい、途中の村で情報を集める。部隊が大きすぎれば相手に気づかれる。選んだ者だけで動け」
「承知しました」
話が、急に現実味を帯びてきた。
誰が、どこへ向かうのか。何を持っていくのか。会議は続く。
調査隊は明日の夜明けに王宮を出ると決まった。
会議が終わると、国王陛下が私を呼び止めた。
「エレナ」
「はい」
「行くことを許可したのは、ロブの力を頼ったからだけではない」
国王陛下は、私の足元にいるロブを見た。
「魔獣を恐れる騎士は、牙を見れば剣を抜く。だがロブとそなたは、魔獣が傷ついていないかを見る。調査隊には、その目が必要だ」
「私に、できるでしょうか」
「できる。戦うのではない。その目で見ることをを忘れないでほしい」
魔獣を敵だと決めつけないこと。
神獣の力に頼らないこと。
ロブをロブとして見ること。
「はい」
私は、今度は迷わず答えた。
◇
出発が決まると、王宮中が慌ただしくなった。
私の部屋には、次々に荷物が運び込まれる。
着替え・コート・毛布・水筒・保存食・薬・雨よけの布などなど。
そのほとんどが、私の想像より立派で重くて大量だった。
「これは何日分ですか?」
「念のため、ひと月分をご用意いたしました」
侍女が真剣な顔で答える。
「馬車に載りきらないんじゃ?」
「では、二台に分けましょう」
「調査隊は目立たないようにする、ということでしたよ」
荷物は何度も減らされ、最終的に大きな鞄二つに収まった。
一つは私のもの。
もう一つは、ロブのものだった。
料理長が持ってきた干し肉。乾燥させた野菜。小さな焼き菓子。ロブ専用の器。体を拭くタオル。寒い夜のための毛布。
「ロブ、人間より荷物が多いじゃん」
「わん」
ロブは荷造りの邪魔をするように、広げた毛布の上で丸くなった。
「それ、今から畳むんだけど」
「わふ」
「気に入ったの?」
ロブは目を閉じた。
仕方なく、その毛布は広げたままにした。
夕方、アレクシス王子が部屋へ来た。
手には、革張りの小さな箱を持っている。
「旅の準備は進んでいるか」
「ロブの毛布以外は」
王子は毛布の上で眠るロブを見て、状況を理解したらしい。
そしてロブの前へしゃがみ、背中を撫でた。
「遠くへ行くのだぞ」
ロブは薄く目を開け、王子の指を一度舐めた。
「わかっている顔ではないな」
「明日はお出かけ!くらいに思ってるのかも」
王子は小さく笑い、それから箱を私へ差し出した。
中にはネックレスが入っていた。
飾りは小さく、青い石がひとつだけ嵌め込まれている。
「これは?」
「護符だ。強い力があるものではない。だが、持ち主の居場所を一度だけ、対になる石へ知らせることができる」
王子は自分の胸元から、同じ色の石を取り出した。
「危険が迫ったら石を強く握れ。距離によっては正確な場所まではわからないが、生きていることは伝わる」
「え?私が持っていっていいんですか?」
「ああ、君たちのために作ったものだ」
「必ず、戻ってきます」
「ああ」
王子はそれだけ答えた。
王子の美しい碧い瞳の色と同じ石、こんな時に不謹慎かもしれない。だけどこのお守りは家宝にします!
夜になると、大神官が護符と薬草を届けに来てくれた。
旅の安全を祈る白い護符をロブの首へ巻こうとして、ロブに端をくわえられた。
「ロブ、離して」
「わふ」
「遊ぶものではありませんよ、神獣様」
大神官が困ったように言う。
ロブは護符をくわえたまま、尻尾を振っている。遊ぶ体勢だ。
「無理に引っ張ると、もっと喜びます」
「では、どうすれば」
「飽きるまで待つしか」
大神殿でいちばん偉い人が見守る中、ロブはしばらく護符を振り回した。
やがて満足したのか布を離す。白い護符には、少しだけ歯形がついていた。
「新しいものを用意いたしましょうか」
「これでいいです」
私は護符をロブの首へ結んだ。
「ロブのだって、すぐわかるから」
大神官は歯形を見つめ、それから穏やかに笑った。
「三百年前の神官も、同じように悩んだのかもしれませんね」
「神獣が護符で遊ぶことに?」
「神獣様を神獣として敬うことと、ひとつの命として愛すること。その間で、です」
大神官はロブの前へ膝をついた。
「どうか、ご無事で」
ロブは差し出された手を嗅ぎ、ぺろりと舐めた。
「わん」
その夜、私はなかなか眠れなかった。
明日から、どんな場所へ行くのだろう。
灰の狩人一味を見つけたら、それから何が起きるのだろう。
本当にロブを守れるのだろうか。
横を見ると、ロブは新しい毛布の上で眠っていた。
歯形のついた白い護符が、胸の毛に半分埋もれている。
「ロブ」
小さく呼ぶと、尻尾の先だけが動いた。
「怖くないの?」
「わふ」
寝言のような返事だった。
私はロブへと手を伸ばし、柔らかなお腹に触れてみる。
日本にいたころ、ロブと遠くへ出かける前日も、私はいろいろ心配で眠れなかった。
「ロブはいつも、先に寝ていたな」
明日がどんな日でも、ロブは私のそばに変わらずいてくれる。
「一緒に帰ってこようね」
今度は返事がなかった。
深い眠りの中、ロブは安心したように、私の手へ鼻先を寄せた。
◇
旅立ちの朝は、よく晴れていた。
夜明けの空が淡い金色に変わるころ、調査隊は王宮の正門前に集まった。
荷を載せた馬車が二台。
騎士たちの馬。
薬品と治療道具を確認するディート先生。
地図を広げ、最後の打ち合わせをするルーク。
私はコートのベルトを結び直し、足元のロブを見た。
「ロブ、さぁ出発だよ」
「わん」
元気よく返事をしたロブを見て、出発前の緊張していた空気が、少しだけやわらぐ。
正門へ続く道の両側に、王宮で働く人たちが集まってきた。
侍女たち。
料理人たち。
庭師のガレドさん。
騎士団。
大神官と神官たちまでいる。
「みんな、どうして……」
「神獣様のご出立ですから」
侍女の一人が言った。
「それに、エレナ様の」
泣きそう。
料理長が大きな包みを抱えて前へ出た。
「神獣様。道中のお食事でございます」
「昨日、たくさんもらいましたよ?」
「昨夜、さらに焼き上げました。鶏肉、鹿肉、白身魚の三種です」
「そんなに持てません」
「では、騎士の皆様で分けてお持ちください」
騎士たちが一斉に姿勢を正した。
ロブは包みから漂う匂いに気づき、料理長の足元で尻尾を振る。
「わん!」
「神獣様、必ず戻ると仰ってくださっているのですね」
「干し肉が欲しいだけです」
「もちろん、戻ってこられたら、いくらでもお作りします」
料理長は笑っていたが、目の端が少し赤いようにい見える。
ガレドさんは、小さな布袋を私へ渡した。
「庭の林檎を干したものだよ。ロブが気に入ったみたいだったから」
「ありがとうございます」
「帰ってくる頃には、また違う実がなっているだろう。楽しみにしていてくれよ」
ロブは布袋を嗅ぎ、ガレドさんの手を舐めた。
「また庭で遊ぼうな」
ガレドさんの声が、最後だけ震えた。
侍女たちは、私のコートの襟を直してくれた。
「エレナ様、夜は冷えますから、必ず毛布を」
「食事を抜いてはいけません」
「はい」
「エレナ様は、すぐにロブ様を優先されますから」
「気をつけます」
返事をするたび、涙が出そうになる。
王宮に来たばかりのころ、ここは私の居場所ではないと思っていた。
豪華すぎて、知らないことが多すぎて、誰もがロブを神獣様と呼ぶ場所。
いつか元の世界へ戻るまで置いてもらっている、仮住まいのつもりだった。
でも今、こんなにたくさんの人が、私たちの帰りを待つと言ってくれている。
「エレナ様」
若い侍女が、目元を押さえた。
「必ず、お戻りください」
「はい」
今度は、声がうまく出なかった。
足元を見ると、ロブは別の侍女から焼き菓子をもらっていた。
「ロブ、今ちょっと大事なところなんだけど」
「わふ」
焼き菓子をがっつきながら、うれしそうに返事するロブを見て、みんなが笑った。
泣いていた侍女も、笑った。
それでよかった。
ロブは寂しい顔より笑っている顔のほうが似合うから。
国王陛下が調査隊の前へ進み出た。
「諸君の目的は、敵を討つことではない。行方を突き止め、捕らわれた命を救い、再び同じことを起こさせぬことだ」
騎士たちが胸へ手を当てる。
「必ず、全員で戻れ」
「はっ」
そろった声が、朝の空へ響いた。
セシリア王女が、私の前で足を止めた。
「無事に戻られるのを待っています。決してご無理をなさらないで」
「はい」
「ロブもね」
王女が声を掛けると、ロブは少し伸び上がり、そっと王女の手を舐めた。
「出発します!」
ルークの声がかかる。
騎士たちが馬へ乗り、御者が手綱を取った。
私とロブは先頭の馬車に乗る。
向かいにはディート先生が座り、呑気に笑って言った。
「治療道具より、ロブちゃんの荷物のほうが多くない?」
「王宮のみんなが持たせてくれて」
馬車がゆっくり動き始めた。
正門へ続く石畳の両側から、声が上がる。
「お気をつけて!」
「神獣様、ご無事で!」
「エレナ様、必ずお戻りください!」
私は窓からみんなに手を振った。
ロブは私の膝に前足をかけ、外を見ている。
「みんな、見送りに来てくれたね」
「わん」
「帰ってこようね」
「わふ」
王都の街道には、朝の光が広がっていた。
王宮を出れば、どこまで続くかわからない旅が始まる。
灰の狩人一味の居場所も、捕らわれた魔獣の数も、まだわからない。
怖い。わからないことが多すぎる。
それでも、私は決意していた。
ロブをギュッと抱きしめる。温かい。
この温もりを守るために、魔獣の命を助けるために、旅に出るのだから。
この世界へ来た日、私が願ったのは、ロブと二人で無事に生き延びることだけだった。
ドラゴンも、神獣も、契約者も、私には関係のない遠い話だった。
王宮へ連れてこられ、誰かに守ってもらわなければ何もできなかった私が、今は自分の意思で王宮の外にいる。
ロブを危険な場所へ連れていきたいわけではない。
この子の力を使いたいわけでもない。
ただ、ロブが聞いた声を、聞こえなかったことにはしたくなかった。
ロブが誰かのもとへ行こうとするなら、私はその隣を歩く。
馬車が王都を抜けた。
ロブは窓から顔を出し、遠ざかる城壁を見ていた。
白い護符が朝の風に揺れる。
ロブが今何を考えているのか私にはわからない。寂しいのか、帰る場所を覚えているのか。
やがてロブは前を向くと、街道の先にある森へ向かって、短く鳴いた。
「わん」
私にはそれが、旅立ちの合図に聞こえた。
◇
同じ朝。
森の奥に隠された古い砦には、まだ光が届いていなかった。
地下の檻の中で、黒牙狼は横たわっていた。
何度も鎖を引きちぎろうとした前足は傷つき、黒い毛には乾いた血が固まっている。
隣の檻では、茜火狐が浅い息を繰り返していた。
遠くで、岩角熊の鎖が鳴る。
黒牙狼は顔を上げようとしたが、もう力が残っていない。
鉄格子の外にいるのは魔獣を傷つける人間だけで、声を上げても、厚い石壁に吸い込まれる。
誰にも届かない。
あの庭で出会った、小さな白い友達にも。
黒牙狼は、ゆっくり目を閉じた。
同じ瞬間。
王都から北へ進む馬車の中で、ロブが立ち上がった。
「ロブ?」
私の呼びかけにも答えず、窓へ前足をかける。
街道はまだ、三つ目の村へ差しかかったところだった。
遠くには、朝霧に包まれた森が広がっている。
何かが見える距離ではない。声が聞こえるはずもない。
それでもロブは、森の奥の一点を見つめた。
大きな耳を前へ向け、かすかな音を探すように動かす。
そして、胸の奥から絞り出すように鳴いた。
「くぅん」
悲しい声だった。
私はロブを抱き上げ、同じ方向を見たが、森の向こうには、まだ何も見えない。
でも、ロブには届いているのかもしれない。
諦めかけた、誰かの声が。
「あっちにいるの?」
ロブは答えない。ただ、森の奥を見つめている。
私は窓からルークを見つけると、声をかけた。
「ルーク! ロブが何か感じています!」
前を行くルークが馬上から振り返る。
調査隊の進む方角、その先にある深い森を見た。
「全員、速度を上げる!」
馬の蹄が、強く地面を蹴る。
馬車の速度も上がっていく。
私の腕の中で、ロブは一度も森から目を逸らさなかった。
見えない何かとつながるように。
消えかけた声を、今度こそ見失わないように。
朝の光の中、調査隊は森へ向かって進んでいった。
――第九話おわり




