第十話 森の声
第二幕、攫われた魔獣たちの行方を追う冒険編です。
調査隊として旅に出た主人公エレナとロブ。魔獣たちを無事に救い出すことができるのか?
引き続き、お楽しみください。
「全員、速度を上げる!」
ルークの声が飛び、馬の蹄が強く街道を蹴った。
馬車の車輪も勢いよく回り始め、窓の外を流れる景色も、急に速くなった。
私の膝の上で、ロブは北に広がる森を見つめている。
さっきまで座席で丸くなっていたのに、今は前足を窓枠へかけ、大きな耳をぴんと立てていた。
「誰かが呼んでるの?」
私はロブへ尋ねた。
ロブは森を見たまま、小さく鼻を鳴らす。
「くぅん」
返事なのか、不安なのか、わからない。
今までの魔獣と出会ったときとは違う雰囲気のロブ。
あのときロブは、知らない相手を怖がらせないように距離を取り、尻尾を振っていた。今は落ち着かず、私の膝の上で何度も足を踏み替えている。
「痛い、ロブ。爪が」
ロブを抱き上げて座席へ下ろすが、すぐにまた私の膝へ戻ってきた。
向かいに座るディート先生が、窓越しに森を眺めた。
「方角以外に、何かわかる?」
「たぶん、何かが苦しんでいることだけです」
「距離は?」
「わかりません。ロブ、近いの? 遠いの?」
ロブは耳だけを動かした。
「どっちの返事なんだい?」
「どちらでもないと思います」
私はロブの背中を撫でた。
「ロブは、傷ついた魔獣の居場所が見えるわけじゃないんです。声を言葉として聞いているわけでもないと思います」
大神殿の古文書には、神獣は傷ついた魔獣の声を最初に聞くと書かれていた。
けれど、それはGPSみたいに便利な探索装置のような力ではなかっただろう。
どこかで苦しみ、助けを求めている。
ロブに伝わるのは、たぶん、それだけだ。
「方角がわかるだけでも、十分だよ」
ディート先生は言った。
「昨日まで、我々には広すぎる森しかなかった。今は、少なくとも進むべき方角がわかる」
「でも、もし違ったら」
「そのときは戻ればいいんだよ。神獣様に間違えないことまで求めては、気の毒でしょう」
ロブは自分が話題になっていることなど気づかない様子で、また窓の外へ鼻を向けた。
「ロブは探索の道具じゃありません」
「うん。ただ、少々性能のよい鼻を持つ犬だ」
「少々どころじゃありません」
「飼い主として、そこは譲れないか」
「譲れません」
ディート先生が小さく笑った。
馬車は森へ向かって走り続ける。
最初のうちは、私も緊張していた。
魔獣がいるかもしれない。
捕らわれた魔獣の手がかりが見つかるかもしれない。
そう思えば、多少の揺れなど気にならないはずだった。
少なくとも、出発してしばらくは。
「……馬車って、こんなに揺れましたっけ」
私は座席の縁を掴んだ。
「速度を上げているからね」
ディート先生は平然と答える。
街道は王都の石畳と違い、土を踏み固めただけだ。
小さなくぼみを通るたび、体が跳ねるし、大きな石を踏めば、座席からお尻が浮く。
コンクリートの道路が懐かしい。
「うっ」
どん、と座席へ落ちた。
膝にいたロブは、揺れる直前にひらりと隣へ移っている。
「ロブ、器用に対応するじゃん」
「わん」
ロブは座席の上で上手に足を広げ、揺れに合わせて体を動かしている。
四本足は、こういうときに便利らしい。
「ロブちゃんは馬車の旅にも適応が早いねぇ」
「私は全然ダメです」
馬車がもう一度大きく跳ねた。
今度は鞄が座席から落ち、中に入っていたロブの干し肉が床へ転がる。
ロブの目が輝いた。
「だめ。拾い食い禁止」
「わん!」
「待って!」
揺れる馬車の床で、私とロブが干し肉を取り合う。
前を行く騎士に何事かと覗かれ、事情を話すと笑われた。
その騎士はマルクという、私と同じくらいの年齢の青年だった。森で茜火狐を見つけたときにも同行していた。
「神獣様、旅の初戦は干し肉ですか」
「今のところ、ロブが優勢です」
私が端を掴んだときには、反対側がロブの口に入っていた。
「わふ」
「もう食べたらいいよ」
手を離すと、ロブは勝ち誇ったように尻尾を振った。
「先が思いやられますね」
マルクが笑う。
「本当にそうです」
干し肉の戦いが終わると、今度は別の問題が起きた。
朝、王宮を出る前にお茶を飲みすぎたかもしれない。
「あの、ディート先生」
どう言えばいいのかわからず、声を落とす。
「次の休憩は、いつですか」
「団長が速度を上げるって言ってたし、昼くらいまでは止まらないと思うよ」
「お昼……」
まだ太陽は、朝の位置にある。
「エレナちゃん、どうしたの?」
先生は本気でわかっていない顔をしていた。
「……お手洗いに行きたいです」
「なるほど」
ディート先生は何でもないことのように頷き、窓から御者へ声をかけようとした。
「言わなくていいです! 全員に聞こえます!」
「生理現象は恥ずかしくないよ」
結局、一行は近くの林で休憩することになった。
家も店もない場所。用意されたのは、木々と大きな布だけだった。
「マジか……」
思わず呟く。外でトイレなどしたことがない。
王宮の生活に慣れてきた私は、ここが異世界であることを忘れていた。
この旅は、景色を眺めながら快適に移動できるわけでないのだ。
簡易トイレから戻ると、ロブが楽しそうに草の上を走っていた。
「ロブはいいね。どこでもお手洗いできて」
「わん」
ロブは私の悩みなど知らず、一本の細い枝をくわえて戻ってきた。
マルクが枝を受け取り、少し先へ投げる。
ロブは勢いよく追いかけた。
「休憩中でも元気ですね」
「馬車の中で寝てましたから」
「旅慣れているように見えます」
「たぶん、全部を散歩だと思ってます」
もう一人、魔術師のミラも枝遊びへ加わった。
ミラは薄い茶色の髪をした女性で、ラダ村の薬品を調べた魔術師だった。
真面目で静かな人だと思っていたけれど、ロブが目の前へ枝を置くと、表情が変わった。
「私に投げろと?」
「わん」
「承知しました」
なぜか命令された騎士のように姿勢を正し、枝を投げる。
枝は魔術の風に乗り、マルクが投げた倍ほど遠くへ飛んだ。
ロブは喜んで追いかける。
「魔法をそういうことに使っていいんですか?」
「神獣様の運動を補助しています」
「ロブは遊びたいだけだと……」
「極めて重要な任務です」
調査隊の中にも、ロブを前にすると王宮の人たちと同じになる人がいるらしい。
ルークが戻る時間だと告げるまで、ロブはマルクとミラの間を何度も走った。
馬車へ乗ると、すぐに私の膝で眠り始める。
「いっぱい遊んでもらってよかったね」
柔らかな耳を撫でると、ロブは満足そうに鼻を鳴らした。
さっきまでほとんど話したことのなかった仲間たちとも、ロブのおかけで少しだけ距離が近くなった気がした。
昼を過ぎるころ、街道の両側には森が迫り始めた。
高い木々が日差しを遮り、空気が急に冷たくなる。
道も細くなり、馬車の速度が落ちた。
ロブは眠ったままだった。
私は何度も窓の外を見る。似たような景色が続き、どこに何がいるのかわからない。
森へ向かえば、ロブが正確な道を教えてくれる。
心のどこかで、そんなふうに期待していたのかもしれない。
でもロブは、普通に眠っている。
「聞こえなくなったのかな」
呟いた直後だった。
ロブが目を開けた。頭を上げ、鼻を動かすと、急に立ち上がった。
「ロブ?」
窓枠へ前足をかける。
今度は街道の先ではなく、左側に広がる森を見ていた。
「あっちなの?」
「わふ」
ロブは鼻先をわずかに左へ動かす。
私が反対側へ顔を向けると、短く鳴いた。
「わん!」
「こっちじゃない?」
また左を向く。
「左の森?」
ロブの耳が前へ向いた。
正確な場所はわからないものの、進む方向が違うとロブの反応が変わる。
「止めてください!」
私は御者台へ声をかけた。
馬車が速度を落とし、前を行くルークが馬を寄せる。
「どうしました」
「ロブが、左の森を気にしています。こっちっぽいです」
「こっちっぽい、ですか」
「正確にはわかりません。でも、前を向いたときより反応が強いです」
ルークはロブを見る。
ロブは森へ鼻を向けたまま、低く鳴いている。
「わかりました。街道を外れます」
「私もまだ自信がありませんけど」
「ロブの反応を最もよく知っているのは、エレナです」
私の言葉が、調査隊の進む道を決めた。
契約者とかは関係なく、毎日一緒にいて、いつものロブを知っているから。
馬車を街道脇の開けた場所へ停め、徒歩で森へ入ることになった。
荷物の一部は御者と護衛二人が守り、ルーク、騎士四人、魔術師二人、ディート先生、私とロブが先へ進む。
森の中には道がない。
湿った土に木の根が張り、低い枝が行く手を塞いでいる。
ロブは地面の匂いを嗅ぎながら歩いた。
ときどき立ち止まり、耳を澄ませ、また進む。
前回の探索の時に、ロブが急に走り出してしまった経験から、今回はリードを付けることにした。
私はリードをしっかり握り、ロブの様子をルークへ伝えた。
「少し右へ行きたいみたいです」
「右へ」
「今度はまっすぐです」
ロブは迷いなく歩いているように見える。
見えない線をたどるように、少しずつ進んでいる。
「団長」
先頭の騎士が、折れた枝を示した。
人の肩ほどの高さで、太い枝が無理に折られており、切り口は新しい。
「大型の獣が通った跡のようです」
追跡役の騎士が土へ膝をついた。
「足跡は雨で崩れていますが、こちらへ向かっています。引きずったような跡もある」
少し先の木の幹には、黒い毛がついていた。
「黒牙狼の毛のようです」
ロブも気づき、匂いを嗅ぐと、走り出そうとした。
「待って、ロブ」
リードを強く引かず、私はその場へしゃがんだ。
「行きたいのはわかる。でも、一緒に行こう」
ロブは黒い毛と私の顔を交互に見た。
「また罠があるかもしれないから」
ルークが騎士たちへ合図を送ると、全員が剣の柄へ手をかけ、進む速度を上げようとした。
その焦りが、一行全体へ広がるのがわかった。
「待ってください」
気づけば、私は声を上げていた。
騎士たちが振り返る。
「どうしました」
ルークが尋ねた。
「罠があるかもしれません」
「魔術師に探らせています」
「魔力がない罠もありました。落ち葉の下に隠されていたら、急いで進むほうが危険です」
ラダ村で見つけた罠を思い出す。
鉛色の歯は、草と土に半分埋まっていた。
魔獣だけでなく、人間の足にもかかる大きさだった。
「黒牙狼がいるなら、追い詰めないほうがいいと思います。人を怖がっているはずです。大勢で剣を持って近づいたら、逃げるか、襲ってくるかもしれません」
騎士の一人が、森の奥を警戒しながら言う。
「しかし、相手は魔獣です。先に襲われれば守りきれません」
「だから、剣を抜かないでという意味ではありません。ただ、戦うために来たわけではないことを忘れないでほしいんです」
王宮を発つ前、国王陛下に言われた言葉を思い出していた。
目的は、敵を討つことではない。
行方を突き止め、捕らわれた命を救うこと。
魔獣を恐れる騎士は、牙を見れば剣を抜く。
だから私には、その前に傷を見る目が必要なのだと。
「慎重に進みましょう」
自分の声が少し震えていた。
私は剣を使えない。魔法も使えない。森の歩き方も、罠の外し方も知らない。
それでも、見落としてはいけないものならわかる。
ルークは私を見つめ、それから剣の柄から手を離した。
「そのとおりです」
騎士たちへ向き直る。
「二人一組で足元を確認しろ。間隔を空ける。剣は抜かず、いつでも動けるようにしておけ。黒牙狼を見つけても囲むな」
「承知しました」
浮き足立っていた空気が静まった。
魔術師のミラが、細い杖を地面へ向ける。
淡い光が落ち葉の上を走り、金属へ触れたところで止まった。
「ありました」
枝の陰に、鉛色の罠が隠されていた。その少し先にも、もう一つ。
それらはまだ作動していない。
勢いのまま進んでいたら、誰かが踏んでいたかもしれない。
マルクが息を吐く。
「助かりました、エレナ様」
「私は、罠があるかもって言っただけです」
「それを言う人がいなければ、私は今ごろ足を挟まれていました」
冗談めかした言い方だったが、顔は真剣だった。
「先を見る目は、剣と同じくらい役に立ちます」
国王陛下の言葉を、少しだけ実践できたのだろうか。
そうだとしたら、少し嬉しい。
罠を撤去しながら、私たちはさらに森の奥へ進んだ。
黒い毛は少しずつ増えていき、土には血が落ちていた。
一滴。その先に、もう一滴。
ロブが焦るように鼻を鳴らす。
「もう少しだよ」
自分にも言い聞かせるように呟いた。
やがて、前方から低い唸り声が聞こえ、全員が足を止める。
茂みの向こうの、倒れた大木の下に黒い影があった。
黒牙狼が体を伏せ、こちらを睨んでいる。
王宮の庭で見たときより、ひどく痩せていた。
後ろ足には切れた鎖が絡み、首には銀色の首輪が食い込んでいる。黒い毛は血と泥で固まり、息をするたび脇腹が大きく動いた。
「黒牙狼」
私の声に反応し、黒牙狼が牙を剥く。
「ううう……」
騎士たちの体が強張ったが、誰も剣を抜いていない。
けれど、黒牙狼には鎧を着た人間が並んでいるだけで恐ろしいのだろう。
逃げようとして立ち上がる。
しかし、傷ついた後ろ足へ力が入らず、すぐに崩れた。
「動かないで」
思わず近づこうとすると、ルークが腕を出して止めた。
「今は刺激しないほうがいい」
「でも」
「人間を恐れています」
ディート先生が低い声で言った。
「薬の影響も残っているでしょう。近づけば、傷が開いても逃げてしまうかもしれない」
どうすればいいのか。
助けに来たと伝えたくても、私の言葉は届かない。
そのとき、ロブが歩き出した。
「ロブ」
リードを引こうとして、手が止まる。
黒牙狼はロブを見た。
牙を剥いたままだったが、唸り声がわずかに弱くなる。
ロブは急がなかった。一歩ずつ、ゆっくり近づく。
尻尾も振らず、目をじっと見つめることもしない。
黒牙狼から少し離れた場所で止まり、地面の匂いを嗅いだ。
まるで、あなたを見ていませんよ、と伝えるように。
黒牙狼の耳が動く。
ロブは、もう一歩だけ近づいた。
「うう……」
黒牙狼が低く唸る。
ロブは止まった。
それ以上は近づかず、その場へ座る。
「わふ」
小さな声だった。
王宮の庭で、小枝をくわえた黒牙狼へ鳴いたときと同じ声。
黒牙狼はロブを見つめていた。
息は荒く、体は震えていたが、もう牙を見せていなかった。
ロブは何もしない。
傷を舐めようとも、無理に近づこうともしない。
ただ、隣に座っている。
風が木の葉を揺らす音だけが聞こえる。
森の中にいる全員が、息をひそめていた。
やがて黒牙狼の鼻先が、ほんの少しロブへ動く。
匂いを確かめているのか。
そして、張りつめていた前足から力が抜け、黒い頭が地面へ下りる。
「ロブのこと、覚えてたんだ」
涙が出そうになった。
ロブは黒牙狼を見ず、黒牙狼と同じ方向を向いて、ただじっと座っている。
友達が落ち着くまで、急かさず待つように。
私は、大神殿の古文書の言葉を思い出していた。
――神獣が足を止めた理由を、決して急かしてはならない。
ロブは声を聞くだけではない。
怖がる相手へ、どう近づけばいいのかを知っている。
それは魔法のような光でも、命令する力でもなかった。
相手の恐れを感じ、そばにいる力だった。
「今なら、近づけるかもしれません」
ディート先生が言った。
まず私が、ロブの少し後ろへ座った。
黒牙狼の耳が動く。
「大丈夫。傷を見るだけだからね」
言葉では伝わらないかもしれないが、低く、ゆっくり話す。
ディート先生も、両手を見せながら近づいてきた。
黒牙狼が一度唸ると、ロブが小さく鳴いた。
「わふ」
黒牙狼は逃げなかった。
先生は首へ食い込んだ銀の首輪を調べた。
「拘束具です。魔力を流すと内側の棘が出る仕組みになっている。無理に外そうとした傷がある」
「自力で逃げたんでしょうか」
「後ろ足の鎖が途中で切れている。移動させる際に暴れ、荷車か檻から飛び出したんだろうね。よくここまで来られたよ」
ミラが魔術で拘束具を解除し、マルクが金具を切った。
首輪が外れると、黒牙狼は苦しそうに息を吐く。
そのまま、ディート先生が傷を洗った。
薬を塗るたび黒牙狼の体が強張り、ロブが隣で鼻を鳴らす。
「足の傷は罠によるものだろう。首と背中は、檻の鉄格子へ何度も体をぶつけてできたのかしれない」
「自然にできた傷じゃないということ?」
「そうだね。すべて人の手で負わされたものだろう」
先生は黒牙狼の身体に鼻を近づけ、すぐに顔をしかめた。
「あの薬品の匂いもするね」
「恐怖と怒りを強くする薬?」
「おそらく。傷口から入れば、わずかな物音や人の姿にも強い恐怖を感じる。逃げられなければ、攻撃するしかない」
黒牙狼が王宮の庭へ現れた夜を思い出す。
痛みに耐え、近づく騎士へ牙を向けていたのも、この薬のせいだったのだろう。
「この子たちを暴れさせて、やっぱり魔獣は危険だって思わせる」
「そうすれば、人は傷ついた魔獣を助けようとはしない」
ルークが答えた。
「討伐されても、薬を使った者には都合がいい。生き残れば、弱ったところを捕らえる」
あまりに身勝手だった。
魔獣と人間、両方の恐れを利用している。
治療が終わるころには、黒牙狼の呼吸は少し落ち着いていた。
ディート先生が包帯を巻こうとすると嫌がったため、傷口を覆う薬だけを塗る。
「今すぐ歩かせるのは無理だよ。今夜はここで休ませよう」
「連れて帰らなくていいんですか」
「檻へ入れれば、また恐怖を与えてしまう。この状態で王宮まで運ぶのも危険だよ」
黒牙狼は人間をまだ警戒している。
でも、ロブの隣なら休めるだろう。
「黒牙狼が逃げてきた方向を調べます」
ルークが立ち上がる。
「移送の途中だったなら、道があるはずです」
黒牙狼のそばにはディート先生と騎士二人が残った。
私もロブと残ろうとしたが、黒牙狼が逃げてきた道ならロブが匂いを追えるかもしれない。
「少しだけ離れるね」
黒牙狼へ言うと、片方の耳だけが動いた。
ロブは立ち上がらない。
「ロブ、一緒に行かないの?」
ロブは黒牙狼を見た。
まだ一人にしたくないらしい。
「わかった。ロブはここにいて」
私はルークたちと、黒牙狼の足跡を逆にたどった。
追跡役の騎士が先頭に立つ。
血の跡は、森の奥へ続いていた。
枝が大きく折れ、土には車輪の跡が残っている。
「荷車です」
ルークが轍へ触れた。
「ラダ村で見つけたものと幅が同じだ」
道は北西へ向かっている。人が普段使う街道ではない。
けれど、木の枝が何本も切られ、大きな荷車が通れる幅だけ開けられていた。
「この道から魔獣を運んできたんですね」
「あるいは、運び出している途中だったのかもしれません」
マルクが先へ進み、何かを拾い上げた。
「団長、これを」
小さな青いガラス瓶だった。
口は割れ、中身はほとんど残っていないが、甘く苦い匂いがした。
「薬品の瓶です」
ミラが布越しに受け取る。
瓶の底には、銀色の印が焼きつけられていた。
三日月の内側に、小さな塔が描かれている。
「見たことのない印です」
「王都の薬師組合のものではないのか」
「少なくとも、登録された工房の印ではありません。瓶自体も珍しい。王国では青いガラスを薬瓶に使う工房は限られます」
「調べられるか」
「はい。これなら、作った場所を絞れるかもしれません」
罠以外の手がかりが見つかった。
道をさらに進む。
しかし、期待は長く続かなかった。
轍は小さな川へ入っていたのだ。
川の深さは膝より浅かったが、痕跡はここで途切れた。
上流と下流を調べても、荷車が岸へ出た場所は見つからなかった。
途中には小さな支流が何本も流れ込み、足跡も匂いも水に消されている。
「また、川ですか」
私の声に悔しさが滲んだ。
「追跡されることを知っている」
ルークが流れの先を睨む。
「黒牙狼が逃げても、すぐに移動したのでしょう。我々が来るころには、痕跡が消えると計算している」
「今回も、逃げられた」
「ですが、何もないわけではありません」
ミラが青い小瓶を掲げた。
「相手はこれを落としたことに気づいていないはずです」
小さな瓶が、木漏れ日を受けて青く光る。
灰の狩人へつながる、細い糸。
「今度は、こっちが一歩近づいたんですね」
「ええ」
ルークははっきり頷いた。
「それに、一頭は取り戻しました」
戻ると、黒牙狼は同じ場所で眠っていた。
その隣にはロブがいる。
ロブも前足へ顎を乗せ、眠りかけていた。
黒い大きな狼と、白い小さな犬。
体の大きさはまったく違うのに、並んでいる姿は不思議と自然だった。
「ただいま」
声をかけると、ロブだけが顔を上げる。
「待っててくれたんだね」
「わん」
ロブが私の足元に寄ってきたので抱き上げる。
黒牙狼は目を開けたが、もう唸らなかった。
夕方まで周囲を調べたあと、私たちは少し離れた開けた場所で野営することにした。
騎士たちがテントを張り、焚き火を起こす。
ミラは周囲へ魔獣避けではなく、人間が近づくと反応する結界を張った。
「魔獣避けを使うと、あの子も休めませんから」
「ありがとうございます」
ルークは火のそばで肉を焼いていた。
「それ、ロブのじゃないですよね?」
「俺たちの夕食です」
ロブがルークの足元で座っている。
「ロブには、料理長が用意してくれた分があるだろう」
「わふ」
「そんな顔をされても、この肉は香辛料がついているからあげられないんだ」
「ロブ、こっちを食べよう」
器にロブ用の鶏肉と野菜を入れる。
ロブは一度、ルークの肉を振り返ったが、しぶしぶ私のところへ戻ってきた。
ディート先生も焚き火のそばへ座る。
「黒牙狼は眠っている。熱はあるけど、朝まで休めば少し動けるようになるよ」
「一緒に来てくれるでしょうか」
「それは、あの個体が決めることだからなんとも。人間を信じろと言うには、負わされた傷が多すぎるしね」
黒牙狼は焚き火から少し離れた木の下にいた。
炎を怖がり、近づこうとしない。
しかし逃げようとしないのは、ロブがここにいるからだろうか。
夕食が終わると、森は急に暗くなった。
王宮の庭とは違い、灯りは焚き火と小さなランプだけだ。
木々の向こうから、虫と鳥の声が聞こえる。
騎士たちは交代で見張りにつき、ほかはテントへ入った。
私は地面に毛布を敷き、ロブと並んで横になった。
初めての野営、眠れる気がしない。
地面は硬いし、どこからか冷たい風が入ってくる。
当然お風呂には入れず、髪には森の匂いと焚き火の煙の匂いがついていた。
「旅って、大変だね」
「わふ」
ロブは私の腕に顎を乗せている。
テントの外、少し離れたところでは、黒牙狼が丸くなっている。
目は閉じているけれど、耳はときどき周囲の音へ動いているようだ。
「ロブは、あの狼の声が聞こえてるのかな」
私は小さく呟いた。
「どれくらい痛いとか、怖いとか。そういうのが、わかるの?」
ロブは答えない。
黒牙狼の言葉を聞いているのかもしれない。
ただ匂いと様子を見て、そばにいるだけなのかもしれない。
でも、どちらでもいい気がした。
大切なのは、ロブが黒牙狼を見捨てなかったことだ。
そして私たちも、ロブのおかげで黒牙狼を見つけることができた。
剣も魔法も使えない私が、旅へ出て何の役に立てるのか不安だった。
今日、私は罠があるかもしれないと言っただけだが、それでも、誰かが傷つくのを防げた。
ロブの小さな反応を伝え、進む道をひとつ選べた。
できることは、たぶん大きくなくていい。
見て、考えて、言葉にする。
ロブと人の間に立つというのは、そういうことから始まるのかもしれない。
私はロブのお腹を撫でた。
「今日は、見つけられてよかったね」
「わん」
ロブが体を起こし、テントの外に出ようとした。眠そうだった目が、大きく開いている。
「ロブ、どうしたの?」
ロブはテントから出ると、森のさらに奥をじっと見ている。
大きな耳が、かすかな音を拾うように動く。
黒牙狼も目を開けたが、立ち上がらなかった。
今ロブが感じているのは、黒牙狼の声ではないようだ。
「ロブ?」
森の奥から、低い鳴き声が聞こえた。
一つではない。
遠くで答えるように、別の声が重なる。
高く、細い声。地面の下から響くような唸り。
ルークたち騎士も異変に気づき、起き上がった。
「何の声です」
私がロブを抱き寄せると、小さな体が、かすかに震えている。
森の奥へ向けられたロブの目には、黒牙狼を探していた朝より強い不安が感じられた。
「助けを求めているのは、一頭だけじゃない」
ロブの視線の先には、道もない暗い森が広がる。
いくつもの声が、森の奥からロブを呼んでいるようだった。
――第十話おわり




