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愛犬と一緒に異世界転生したら、うちの子が神獣に⁈いいえ、普通のパピヨンです  作者: kotao


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第十話 森の声

第二幕、攫われた魔獣たちの行方を追う冒険編です。

調査隊として旅に出た主人公エレナとロブ。魔獣たちを無事に救い出すことができるのか?

引き続き、お楽しみください。

「全員、速度を上げる!」


 ルークの声が飛び、馬の蹄が強く街道を蹴った。


 馬車の車輪も勢いよく回り始め、窓の外を流れる景色も、急に速くなった。


 私の膝の上で、ロブは北に広がる森を見つめている。


 さっきまで座席で丸くなっていたのに、今は前足を窓枠へかけ、大きな耳をぴんと立てていた。


「誰かが呼んでるの?」


 私はロブへ尋ねた。


 ロブは森を見たまま、小さく鼻を鳴らす。


「くぅん」


 返事なのか、不安なのか、わからない。


 今までの魔獣と出会ったときとは違う雰囲気のロブ。


 あのときロブは、知らない相手を怖がらせないように距離を取り、尻尾を振っていた。今は落ち着かず、私の膝の上で何度も足を踏み替えている。


「痛い、ロブ。爪が」


 ロブを抱き上げて座席へ下ろすが、すぐにまた私の膝へ戻ってきた。


 向かいに座るディート先生が、窓越しに森を眺めた。


「方角以外に、何かわかる?」


「たぶん、何かが苦しんでいることだけです」


「距離は?」


「わかりません。ロブ、近いの? 遠いの?」


 ロブは耳だけを動かした。


「どっちの返事なんだい?」


「どちらでもないと思います」


 私はロブの背中を撫でた。


「ロブは、傷ついた魔獣の居場所が見えるわけじゃないんです。声を言葉として聞いているわけでもないと思います」


 大神殿の古文書には、神獣は傷ついた魔獣の声を最初に聞くと書かれていた。


 けれど、それはGPSみたいに便利な探索装置のような力ではなかっただろう。


 どこかで苦しみ、助けを求めている。


 ロブに伝わるのは、たぶん、それだけだ。


「方角がわかるだけでも、十分だよ」


 ディート先生は言った。


「昨日まで、我々には広すぎる森しかなかった。今は、少なくとも進むべき方角がわかる」


「でも、もし違ったら」


「そのときは戻ればいいんだよ。神獣様に間違えないことまで求めては、気の毒でしょう」


 ロブは自分が話題になっていることなど気づかない様子で、また窓の外へ鼻を向けた。


「ロブは探索の道具じゃありません」


「うん。ただ、少々性能のよい鼻を持つ犬だ」


「少々どころじゃありません」


「飼い主として、そこは譲れないか」


「譲れません」


 ディート先生が小さく笑った。


 馬車は森へ向かって走り続ける。


 最初のうちは、私も緊張していた。


 魔獣がいるかもしれない。


 捕らわれた魔獣の手がかりが見つかるかもしれない。


 そう思えば、多少の揺れなど気にならないはずだった。


 少なくとも、出発してしばらくは。


「……馬車って、こんなに揺れましたっけ」


 私は座席の縁を掴んだ。


「速度を上げているからね」


 ディート先生は平然と答える。


 街道は王都の石畳と違い、土を踏み固めただけだ。


 小さなくぼみを通るたび、体が跳ねるし、大きな石を踏めば、座席からお尻が浮く。


 コンクリートの道路が懐かしい。


「うっ」


 どん、と座席へ落ちた。


 膝にいたロブは、揺れる直前にひらりと隣へ移っている。


「ロブ、器用に対応するじゃん」


「わん」


 ロブは座席の上で上手に足を広げ、揺れに合わせて体を動かしている。


 四本足は、こういうときに便利らしい。


「ロブちゃんは馬車の旅にも適応が早いねぇ」


「私は全然ダメです」


 馬車がもう一度大きく跳ねた。


 今度は鞄が座席から落ち、中に入っていたロブの干し肉が床へ転がる。


 ロブの目が輝いた。


「だめ。拾い食い禁止」


「わん!」


「待って!」


 揺れる馬車の床で、私とロブが干し肉を取り合う。


 前を行く騎士に何事かと覗かれ、事情を話すと笑われた。


 その騎士はマルクという、私と同じくらいの年齢の青年だった。森で茜火狐を見つけたときにも同行していた。


「神獣様、旅の初戦は干し肉ですか」


「今のところ、ロブが優勢です」


 私が端を掴んだときには、反対側がロブの口に入っていた。


「わふ」


「もう食べたらいいよ」


 手を離すと、ロブは勝ち誇ったように尻尾を振った。


「先が思いやられますね」


 マルクが笑う。


「本当にそうです」


 干し肉の戦いが終わると、今度は別の問題が起きた。


 朝、王宮を出る前にお茶を飲みすぎたかもしれない。


「あの、ディート先生」


 どう言えばいいのかわからず、声を落とす。


「次の休憩は、いつですか」


「団長が速度を上げるって言ってたし、昼くらいまでは止まらないと思うよ」


「お昼……」


 まだ太陽は、朝の位置にある。


「エレナちゃん、どうしたの?」


 先生は本気でわかっていない顔をしていた。


「……お手洗いに行きたいです」


「なるほど」


 ディート先生は何でもないことのように頷き、窓から御者へ声をかけようとした。


「言わなくていいです! 全員に聞こえます!」


「生理現象は恥ずかしくないよ」


 結局、一行は近くの林で休憩することになった。


 家も店もない場所。用意されたのは、木々と大きな布だけだった。


「マジか……」


 思わず呟く。外でトイレなどしたことがない。


 王宮の生活に慣れてきた私は、ここが異世界であることを忘れていた。


 この旅は、景色を眺めながら快適に移動できるわけでないのだ。


 簡易トイレから戻ると、ロブが楽しそうに草の上を走っていた。


「ロブはいいね。どこでもお手洗いできて」


「わん」


 ロブは私の悩みなど知らず、一本の細い枝をくわえて戻ってきた。


 マルクが枝を受け取り、少し先へ投げる。


 ロブは勢いよく追いかけた。


「休憩中でも元気ですね」


「馬車の中で寝てましたから」


「旅慣れているように見えます」


「たぶん、全部を散歩だと思ってます」


 もう一人、魔術師のミラも枝遊びへ加わった。


 ミラは薄い茶色の髪をした女性で、ラダ村の薬品を調べた魔術師だった。


 真面目で静かな人だと思っていたけれど、ロブが目の前へ枝を置くと、表情が変わった。


「私に投げろと?」


「わん」


「承知しました」


 なぜか命令された騎士のように姿勢を正し、枝を投げる。


 枝は魔術の風に乗り、マルクが投げた倍ほど遠くへ飛んだ。


 ロブは喜んで追いかける。


「魔法をそういうことに使っていいんですか?」


「神獣様の運動を補助しています」


「ロブは遊びたいだけだと……」


「極めて重要な任務です」


 調査隊の中にも、ロブを前にすると王宮の人たちと同じになる人がいるらしい。


 ルークが戻る時間だと告げるまで、ロブはマルクとミラの間を何度も走った。


 馬車へ乗ると、すぐに私の膝で眠り始める。


「いっぱい遊んでもらってよかったね」


 柔らかな耳を撫でると、ロブは満足そうに鼻を鳴らした。


 さっきまでほとんど話したことのなかった仲間たちとも、ロブのおかけで少しだけ距離が近くなった気がした。


 昼を過ぎるころ、街道の両側には森が迫り始めた。


 高い木々が日差しを遮り、空気が急に冷たくなる。


 道も細くなり、馬車の速度が落ちた。


 ロブは眠ったままだった。


 私は何度も窓の外を見る。似たような景色が続き、どこに何がいるのかわからない。


 森へ向かえば、ロブが正確な道を教えてくれる。


 心のどこかで、そんなふうに期待していたのかもしれない。


 でもロブは、普通に眠っている。


「聞こえなくなったのかな」


 呟いた直後だった。


 ロブが目を開けた。頭を上げ、鼻を動かすと、急に立ち上がった。


「ロブ?」


 窓枠へ前足をかける。


 今度は街道の先ではなく、左側に広がる森を見ていた。


「あっちなの?」


「わふ」


 ロブは鼻先をわずかに左へ動かす。


 私が反対側へ顔を向けると、短く鳴いた。


「わん!」


「こっちじゃない?」


 また左を向く。


「左の森?」


 ロブの耳が前へ向いた。


 正確な場所はわからないものの、進む方向が違うとロブの反応が変わる。


「止めてください!」


 私は御者台へ声をかけた。


 馬車が速度を落とし、前を行くルークが馬を寄せる。


「どうしました」


「ロブが、左の森を気にしています。こっちっぽいです」


「こっちっぽい、ですか」


「正確にはわかりません。でも、前を向いたときより反応が強いです」


 ルークはロブを見る。


 ロブは森へ鼻を向けたまま、低く鳴いている。


「わかりました。街道を外れます」


「私もまだ自信がありませんけど」


「ロブの反応を最もよく知っているのは、エレナです」


 私の言葉が、調査隊の進む道を決めた。


 契約者とかは関係なく、毎日一緒にいて、いつものロブを知っているから。


 馬車を街道脇の開けた場所へ停め、徒歩で森へ入ることになった。


 荷物の一部は御者と護衛二人が守り、ルーク、騎士四人、魔術師二人、ディート先生、私とロブが先へ進む。


 森の中には道がない。


 湿った土に木の根が張り、低い枝が行く手を塞いでいる。


 ロブは地面の匂いを嗅ぎながら歩いた。


 ときどき立ち止まり、耳を澄ませ、また進む。


 前回の探索の時に、ロブが急に走り出してしまった経験から、今回はリードを付けることにした。


 私はリードをしっかり握り、ロブの様子をルークへ伝えた。


「少し右へ行きたいみたいです」


「右へ」


「今度はまっすぐです」


 ロブは迷いなく歩いているように見える。


 見えない線をたどるように、少しずつ進んでいる。


「団長」


 先頭の騎士が、折れた枝を示した。


 人の肩ほどの高さで、太い枝が無理に折られており、切り口は新しい。


「大型の獣が通った跡のようです」


 追跡役の騎士が土へ膝をついた。


「足跡は雨で崩れていますが、こちらへ向かっています。引きずったような跡もある」


 少し先の木の幹には、黒い毛がついていた。


「黒牙狼の毛のようです」


 ロブも気づき、匂いを嗅ぐと、走り出そうとした。


「待って、ロブ」


 リードを強く引かず、私はその場へしゃがんだ。


「行きたいのはわかる。でも、一緒に行こう」


 ロブは黒い毛と私の顔を交互に見た。


「また罠があるかもしれないから」


 ルークが騎士たちへ合図を送ると、全員が剣の柄へ手をかけ、進む速度を上げようとした。


 その焦りが、一行全体へ広がるのがわかった。


「待ってください」


 気づけば、私は声を上げていた。


 騎士たちが振り返る。


「どうしました」


 ルークが尋ねた。


「罠があるかもしれません」


「魔術師に探らせています」


「魔力がない罠もありました。落ち葉の下に隠されていたら、急いで進むほうが危険です」


 ラダ村で見つけた罠を思い出す。


 鉛色の歯は、草と土に半分埋まっていた。


 魔獣だけでなく、人間の足にもかかる大きさだった。


「黒牙狼がいるなら、追い詰めないほうがいいと思います。人を怖がっているはずです。大勢で剣を持って近づいたら、逃げるか、襲ってくるかもしれません」


 騎士の一人が、森の奥を警戒しながら言う。


「しかし、相手は魔獣です。先に襲われれば守りきれません」


「だから、剣を抜かないでという意味ではありません。ただ、戦うために来たわけではないことを忘れないでほしいんです」


 王宮を発つ前、国王陛下に言われた言葉を思い出していた。


 目的は、敵を討つことではない。


 行方を突き止め、捕らわれた命を救うこと。


 魔獣を恐れる騎士は、牙を見れば剣を抜く。


 だから私には、その前に傷を見る目が必要なのだと。


「慎重に進みましょう」


 自分の声が少し震えていた。


 私は剣を使えない。魔法も使えない。森の歩き方も、罠の外し方も知らない。


 それでも、見落としてはいけないものならわかる。


 ルークは私を見つめ、それから剣の柄から手を離した。


「そのとおりです」


 騎士たちへ向き直る。


「二人一組で足元を確認しろ。間隔を空ける。剣は抜かず、いつでも動けるようにしておけ。黒牙狼を見つけても囲むな」


「承知しました」


 浮き足立っていた空気が静まった。


 魔術師のミラが、細い杖を地面へ向ける。


 淡い光が落ち葉の上を走り、金属へ触れたところで止まった。


「ありました」


 枝の陰に、鉛色の罠が隠されていた。その少し先にも、もう一つ。


 それらはまだ作動していない。


 勢いのまま進んでいたら、誰かが踏んでいたかもしれない。


 マルクが息を吐く。


「助かりました、エレナ様」


「私は、罠があるかもって言っただけです」


「それを言う人がいなければ、私は今ごろ足を挟まれていました」


 冗談めかした言い方だったが、顔は真剣だった。


「先を見る目は、剣と同じくらい役に立ちます」


 国王陛下の言葉を、少しだけ実践できたのだろうか。


 そうだとしたら、少し嬉しい。


 罠を撤去しながら、私たちはさらに森の奥へ進んだ。


 黒い毛は少しずつ増えていき、土には血が落ちていた。


 一滴。その先に、もう一滴。


 ロブが焦るように鼻を鳴らす。


「もう少しだよ」


 自分にも言い聞かせるように呟いた。


 やがて、前方から低い唸り声が聞こえ、全員が足を止める。


 茂みの向こうの、倒れた大木の下に黒い影があった。


 黒牙狼が体を伏せ、こちらを睨んでいる。


 王宮の庭で見たときより、ひどく痩せていた。


 後ろ足には切れた鎖が絡み、首には銀色の首輪が食い込んでいる。黒い毛は血と泥で固まり、息をするたび脇腹が大きく動いた。


「黒牙狼」


 私の声に反応し、黒牙狼が牙を剥く。


「ううう……」


 騎士たちの体が強張ったが、誰も剣を抜いていない。


 けれど、黒牙狼には鎧を着た人間が並んでいるだけで恐ろしいのだろう。


 逃げようとして立ち上がる。


 しかし、傷ついた後ろ足へ力が入らず、すぐに崩れた。


「動かないで」


 思わず近づこうとすると、ルークが腕を出して止めた。


「今は刺激しないほうがいい」


「でも」


「人間を恐れています」


 ディート先生が低い声で言った。


「薬の影響も残っているでしょう。近づけば、傷が開いても逃げてしまうかもしれない」


 どうすればいいのか。


 助けに来たと伝えたくても、私の言葉は届かない。


 そのとき、ロブが歩き出した。


「ロブ」


 リードを引こうとして、手が止まる。


 黒牙狼はロブを見た。


 牙を剥いたままだったが、唸り声がわずかに弱くなる。


 ロブは急がなかった。一歩ずつ、ゆっくり近づく。


 尻尾も振らず、目をじっと見つめることもしない。


 黒牙狼から少し離れた場所で止まり、地面の匂いを嗅いだ。


 まるで、あなたを見ていませんよ、と伝えるように。


 黒牙狼の耳が動く。


 ロブは、もう一歩だけ近づいた。


「うう……」


 黒牙狼が低く唸る。


 ロブは止まった。


 それ以上は近づかず、その場へ座る。


「わふ」


 小さな声だった。


 王宮の庭で、小枝をくわえた黒牙狼へ鳴いたときと同じ声。


 黒牙狼はロブを見つめていた。


 息は荒く、体は震えていたが、もう牙を見せていなかった。


 ロブは何もしない。


 傷を舐めようとも、無理に近づこうともしない。


 ただ、隣に座っている。


 風が木の葉を揺らす音だけが聞こえる。


 森の中にいる全員が、息をひそめていた。


 やがて黒牙狼の鼻先が、ほんの少しロブへ動く。


 匂いを確かめているのか。


 そして、張りつめていた前足から力が抜け、黒い頭が地面へ下りる。


「ロブのこと、覚えてたんだ」


 涙が出そうになった。


 ロブは黒牙狼を見ず、黒牙狼と同じ方向を向いて、ただじっと座っている。


 友達が落ち着くまで、急かさず待つように。


 私は、大神殿の古文書の言葉を思い出していた。


 ――神獣が足を止めた理由を、決して急かしてはならない。


 ロブは声を聞くだけではない。


 怖がる相手へ、どう近づけばいいのかを知っている。


 それは魔法のような光でも、命令する力でもなかった。


 相手の恐れを感じ、そばにいる力だった。


「今なら、近づけるかもしれません」


 ディート先生が言った。


 まず私が、ロブの少し後ろへ座った。


 黒牙狼の耳が動く。


「大丈夫。傷を見るだけだからね」


 言葉では伝わらないかもしれないが、低く、ゆっくり話す。


 ディート先生も、両手を見せながら近づいてきた。


 黒牙狼が一度唸ると、ロブが小さく鳴いた。


「わふ」


 黒牙狼は逃げなかった。


 先生は首へ食い込んだ銀の首輪を調べた。


「拘束具です。魔力を流すと内側の棘が出る仕組みになっている。無理に外そうとした傷がある」


「自力で逃げたんでしょうか」


「後ろ足の鎖が途中で切れている。移動させる際に暴れ、荷車か檻から飛び出したんだろうね。よくここまで来られたよ」


 ミラが魔術で拘束具を解除し、マルクが金具を切った。


 首輪が外れると、黒牙狼は苦しそうに息を吐く。


 そのまま、ディート先生が傷を洗った。


 薬を塗るたび黒牙狼の体が強張り、ロブが隣で鼻を鳴らす。


「足の傷は罠によるものだろう。首と背中は、檻の鉄格子へ何度も体をぶつけてできたのかしれない」


「自然にできた傷じゃないということ?」


「そうだね。すべて人の手で負わされたものだろう」


 先生は黒牙狼の身体に鼻を近づけ、すぐに顔をしかめた。


「あの薬品の匂いもするね」


「恐怖と怒りを強くする薬?」


「おそらく。傷口から入れば、わずかな物音や人の姿にも強い恐怖を感じる。逃げられなければ、攻撃するしかない」


 黒牙狼が王宮の庭へ現れた夜を思い出す。


 痛みに耐え、近づく騎士へ牙を向けていたのも、この薬のせいだったのだろう。


「この子たちを暴れさせて、やっぱり魔獣は危険だって思わせる」


「そうすれば、人は傷ついた魔獣を助けようとはしない」


 ルークが答えた。


「討伐されても、薬を使った者には都合がいい。生き残れば、弱ったところを捕らえる」


 あまりに身勝手だった。


 魔獣と人間、両方の恐れを利用している。


 治療が終わるころには、黒牙狼の呼吸は少し落ち着いていた。


 ディート先生が包帯を巻こうとすると嫌がったため、傷口を覆う薬だけを塗る。


「今すぐ歩かせるのは無理だよ。今夜はここで休ませよう」


「連れて帰らなくていいんですか」


「檻へ入れれば、また恐怖を与えてしまう。この状態で王宮まで運ぶのも危険だよ」


 黒牙狼は人間をまだ警戒している。


 でも、ロブの隣なら休めるだろう。


「黒牙狼が逃げてきた方向を調べます」


 ルークが立ち上がる。


「移送の途中だったなら、道があるはずです」


 黒牙狼のそばにはディート先生と騎士二人が残った。


 私もロブと残ろうとしたが、黒牙狼が逃げてきた道ならロブが匂いを追えるかもしれない。


「少しだけ離れるね」


 黒牙狼へ言うと、片方の耳だけが動いた。


 ロブは立ち上がらない。


「ロブ、一緒に行かないの?」


 ロブは黒牙狼を見た。


 まだ一人にしたくないらしい。


「わかった。ロブはここにいて」


 私はルークたちと、黒牙狼の足跡を逆にたどった。


 追跡役の騎士が先頭に立つ。


 血の跡は、森の奥へ続いていた。


 枝が大きく折れ、土には車輪の跡が残っている。


「荷車です」


 ルークが轍へ触れた。


「ラダ村で見つけたものと幅が同じだ」


 道は北西へ向かっている。人が普段使う街道ではない。


 けれど、木の枝が何本も切られ、大きな荷車が通れる幅だけ開けられていた。


「この道から魔獣を運んできたんですね」


「あるいは、運び出している途中だったのかもしれません」


 マルクが先へ進み、何かを拾い上げた。


「団長、これを」


 小さな青いガラス瓶だった。


 口は割れ、中身はほとんど残っていないが、甘く苦い匂いがした。


「薬品の瓶です」


 ミラが布越しに受け取る。


 瓶の底には、銀色の印が焼きつけられていた。


 三日月の内側に、小さな塔が描かれている。


「見たことのない印です」


「王都の薬師組合のものではないのか」


「少なくとも、登録された工房の印ではありません。瓶自体も珍しい。王国では青いガラスを薬瓶に使う工房は限られます」


「調べられるか」


「はい。これなら、作った場所を絞れるかもしれません」


 罠以外の手がかりが見つかった。


 道をさらに進む。


 しかし、期待は長く続かなかった。


 轍は小さな川へ入っていたのだ。


 川の深さは膝より浅かったが、痕跡はここで途切れた。


 上流と下流を調べても、荷車が岸へ出た場所は見つからなかった。


 途中には小さな支流が何本も流れ込み、足跡も匂いも水に消されている。


「また、川ですか」


 私の声に悔しさが滲んだ。


「追跡されることを知っている」


 ルークが流れの先を睨む。


「黒牙狼が逃げても、すぐに移動したのでしょう。我々が来るころには、痕跡が消えると計算している」


「今回も、逃げられた」


「ですが、何もないわけではありません」


 ミラが青い小瓶を掲げた。


「相手はこれを落としたことに気づいていないはずです」


 小さな瓶が、木漏れ日を受けて青く光る。


 灰の狩人へつながる、細い糸。


「今度は、こっちが一歩近づいたんですね」


「ええ」


 ルークははっきり頷いた。


「それに、一頭は取り戻しました」


 戻ると、黒牙狼は同じ場所で眠っていた。


 その隣にはロブがいる。


 ロブも前足へ顎を乗せ、眠りかけていた。


 黒い大きな狼と、白い小さな犬。


 体の大きさはまったく違うのに、並んでいる姿は不思議と自然だった。


「ただいま」


 声をかけると、ロブだけが顔を上げる。


「待っててくれたんだね」


「わん」


 ロブが私の足元に寄ってきたので抱き上げる。


 黒牙狼は目を開けたが、もう唸らなかった。


 夕方まで周囲を調べたあと、私たちは少し離れた開けた場所で野営することにした。


 騎士たちがテントを張り、焚き火を起こす。


 ミラは周囲へ魔獣避けではなく、人間が近づくと反応する結界を張った。


「魔獣避けを使うと、あの子も休めませんから」


「ありがとうございます」


 ルークは火のそばで肉を焼いていた。


「それ、ロブのじゃないですよね?」


「俺たちの夕食です」


 ロブがルークの足元で座っている。


「ロブには、料理長が用意してくれた分があるだろう」


「わふ」


「そんな顔をされても、この肉は香辛料がついているからあげられないんだ」


「ロブ、こっちを食べよう」


 器にロブ用の鶏肉と野菜を入れる。


 ロブは一度、ルークの肉を振り返ったが、しぶしぶ私のところへ戻ってきた。


 ディート先生も焚き火のそばへ座る。


「黒牙狼は眠っている。熱はあるけど、朝まで休めば少し動けるようになるよ」


「一緒に来てくれるでしょうか」


「それは、あの個体が決めることだからなんとも。人間を信じろと言うには、負わされた傷が多すぎるしね」


 黒牙狼は焚き火から少し離れた木の下にいた。


 炎を怖がり、近づこうとしない。


 しかし逃げようとしないのは、ロブがここにいるからだろうか。


 夕食が終わると、森は急に暗くなった。


 王宮の庭とは違い、灯りは焚き火と小さなランプだけだ。


 木々の向こうから、虫と鳥の声が聞こえる。


 騎士たちは交代で見張りにつき、ほかはテントへ入った。


 私は地面に毛布を敷き、ロブと並んで横になった。


 初めての野営、眠れる気がしない。


 地面は硬いし、どこからか冷たい風が入ってくる。


 当然お風呂には入れず、髪には森の匂いと焚き火の煙の匂いがついていた。


「旅って、大変だね」


「わふ」


 ロブは私の腕に顎を乗せている。


 テントの外、少し離れたところでは、黒牙狼が丸くなっている。


 目は閉じているけれど、耳はときどき周囲の音へ動いているようだ。


「ロブは、あの狼の声が聞こえてるのかな」


 私は小さく呟いた。


「どれくらい痛いとか、怖いとか。そういうのが、わかるの?」


 ロブは答えない。


 黒牙狼の言葉を聞いているのかもしれない。


 ただ匂いと様子を見て、そばにいるだけなのかもしれない。


 でも、どちらでもいい気がした。


 大切なのは、ロブが黒牙狼を見捨てなかったことだ。


 そして私たちも、ロブのおかげで黒牙狼を見つけることができた。


 剣も魔法も使えない私が、旅へ出て何の役に立てるのか不安だった。


 今日、私は罠があるかもしれないと言っただけだが、それでも、誰かが傷つくのを防げた。


 ロブの小さな反応を伝え、進む道をひとつ選べた。


 できることは、たぶん大きくなくていい。


 見て、考えて、言葉にする。


 ロブと人の間に立つというのは、そういうことから始まるのかもしれない。


 私はロブのお腹を撫でた。


「今日は、見つけられてよかったね」


「わん」


 ロブが体を起こし、テントの外に出ようとした。眠そうだった目が、大きく開いている。


「ロブ、どうしたの?」


 ロブはテントから出ると、森のさらに奥をじっと見ている。


 大きな耳が、かすかな音を拾うように動く。


 黒牙狼も目を開けたが、立ち上がらなかった。


 今ロブが感じているのは、黒牙狼の声ではないようだ。


「ロブ?」


 森の奥から、低い鳴き声が聞こえた。


 一つではない。


 遠くで答えるように、別の声が重なる。


 高く、細い声。地面の下から響くような唸り。


 ルークたち騎士も異変に気づき、起き上がった。


「何の声です」


 私がロブを抱き寄せると、小さな体が、かすかに震えている。


 森の奥へ向けられたロブの目には、黒牙狼を探していた朝より強い不安が感じられた。


「助けを求めているのは、一頭だけじゃない」


 ロブの視線の先には、道もない暗い森が広がる。


 いくつもの声が、森の奥からロブを呼んでいるようだった。


 ――第十話おわり

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