第十一話 森の奥の声
複数の声の主を見つけるために、夜の森を探すエレナたち。森の奥の洞窟であるものを見つけます。
森の奥から、いくつもの声が聞こえている。
細く高い鳴き声。
喉の奥で転がるような低い唸り。
長く伸びる遠吠え。
どれも同じ場所から聞こえているようで、少しずつ方向が違う。
近くに感じた次の瞬間には、ずっと遠くへ離れてしまう。
夜の森そのものが、あちこちで苦しそうに息をしているようだった。
「一頭じゃない」
私はロブを抱き寄せた。
「助けを求めているのは、一頭だけじゃありません」
ロブは私の腕から下りると、暗い森へ向かって歩き出した。
「ロブ、待って」
リードが張る。
それでもロブは止まらず、前足で地面を掻いた。
「わん!」
普段のおねだりとは違う、強い声だった。
焚き火のそばで休んでいた騎士たちが立ち上がる。ルークは森の闇を見つめ、すぐに首を振った。
「今から動くのは危険です」
「でも、声が」
「夜の森は昼間とは違います。足元の罠を見つけることも難しい。相手が我々を誘い出すため、魔獣を鳴かせている可能性もあります」
正しい判断だった。
昼間、落ち葉の下へ隠された罠を見つけたばかりだ。暗闇の中で同じ道を歩けば、足を挟まれてもおかしくない。
灰の狩人一味が近くにいて、私たちが来たことに気づき、待ち伏せしているかもしれない。
「夜明けを待ちます」
ルークは騎士たちへ言った。
「しっかりと見張れ。声の方角と間隔を記録する。周辺から何か近づけば、結界が知らせる」
「承知しました」
騎士たちが動き出す。
けれど、ロブは納得しなかった。
「わん! わん!」
森へ向かって体を引く。
「ロブ、今は危ないから」
「わん!」
「朝になったら、必ず行くよ」
「くぅん」
振り返ったロブの目を見て、言葉が止まった。
ロブに時間はわからない。
その間、傷ついた魔獣が耐えられるのか。
わからないからこそ、今すぐ行こうとしている。
森の奥から、また声が聞こえた。
高い悲鳴が途中で途切れると、ロブの耳が震えた。
「今、声が聞こえてるのに」
私は小さく言った。
「朝まで待って、本当に間に合うんでしょうか」
ルークの表情が厳しくなる。
「わかりません」
「私も、夜に全員で動くのは危険だと思います。でも、何もしないで待つのも…」
ロブにしか感じられないものがある。
そして、ロブが何を訴えているのかを人へ伝えるのは、私の役目だ。
「全員ではなく、少人数で確認することはできませんか」
「エレナ」
「危険なら、すぐに戻ります。声の場所へたどり着こうとしなくてもいい。せめて、朝まで待てる状態なのかだけでも」
ルークはすぐに答えなかった。
焚き火がぱちりと鳴る。
ディート先生が、薬箱の蓋を閉じながら口を開いた。
「傷ついたものがいるなら、医者としては確認したいところです」
「先生まで」
「朝まで待つことが安全とは限りません。出血しているなら、夜明けまでが命取りになる」
魔術師のミラも杖を手にした。
「足元は私が照らします。金属と魔力を探る術も使えます」
「では、私も」
マルクが剣を腰へ戻しながら言った。
「少人数なら、護衛が必要でしょう」
「簡単に言うな」
ルークが低く叱る。
「簡単ではありません。ただ、神獣様だけが危険へ向かうのを、ここで見ているよりはいいです」
ロブはまだ森を見ている。
その少し先で、黒牙狼が動いた。
昼間の治療を終えて、木の下で眠っていたはずだった。
傷ついた後ろ足を庇いながら、ゆっくり立ち上がる。
「動いちゃだめだ」
ディート先生が近づこうとすると、黒牙狼は牙を見せた。
でも逃げようとしたのではない。
顔を森の奥へ向け、低く、一度だけ鳴いた。
「あなたも、この声を知ってるの?」
私が尋ねると、黒牙狼はこちらを見た。
それからロブを見る。
二頭の視線が、暗闇の中で重なった。
ロブだけが何かを感じているのではない。
魔獣同士にも、私たちにはわからない何かが伝わっているようだった。
黒牙狼は足を引きずりながら、森へ一歩踏み出した。
「案内してくれるの?」
返事はない。
けれど、その足取りには迷いがなかった。
ルークは黒牙狼と森を見比べ、深く息を吐いた。
「確認だけです。声の発生源が遠い、あるいは危険だと判断した時点で戻ります」
「はい」
「私とマルク、ミラ、ディート先生で向かう。残りは野営地と馬車を守れ」
「黒牙狼も同行するつもりのようだね」
ディート先生が言った。
「止められますか」
ルークが聞き返す。
黒牙狼はすでに森の手前まで進んでいる。
「無理だろうね」
先生は諦めたように薬箱を背負った。
「傷が開く前に、目的地へ着くことを願うよ」
◇
夜の森は、昼間よりずっと狭く感じた。
灯りの届く範囲しか見えず、その外側には濃い闇がある。
ミラの杖の先に浮かぶ白い光が、地面と木の根を照らしていた。
先頭を行くのは黒牙狼だった。
足を引きずり、ときどき立ち止まる。それでも道を探す様子はない。
何度も通った場所をたどるように、森の奥へ進んでいく。
ロブは私の隣を歩き、先へ走り出そうとはしない。
黒牙狼の歩みに合わせ、離れそうになれば待っている。
「今日は、あの子が案内役だね」
「わふ」
ロブだけでは方角しかわからず、黒牙狼だけでは人間と歩こうとしなかったかもしれない。
二頭がいるから、私たちは進めている。
「神獣様が魔獣を従えている、という感じではありませんね」
マルクが小声で言った。
「王宮では、神獣様がすべての魔獣を率いるという話を聞きました」
「黒牙狼のほうが、ロブより森に詳しいんでしょう」
先を行く大きな黒い背中と、私の足元の小さな白い背中。
「得意なほうが案内すればいいんですよ」
「それも、神獣様らしい在り方なのかもしれません」
「ロブは誰かを従えたりしません。ごはんの前では、むしろ私に従わされてます」
暗い森の中で、マルクが少し笑った。
しばらく進むと、地面に残る痕跡が増え始めた。
大きな三本指の足跡。
木の幹についた白い毛。
低い枝へ絡まった青い羽。
土を掘り返したような跡。
種類も、進んだ方向も、ばらばらだった。
「ここを、何頭もの魔獣が通っています」
ルークが足跡の前へしゃがむ。
「新しいものもある。今夜ついた跡かもしれない」
私は周囲を見た。
「黒牙狼と同じように、逃げてきたんでしょうか」
「そのようには見えません」
ルークは大きな足跡を指でなぞった。
「爪先が森の奥を向いている。こちらの小さな跡も同じです」
足跡は外へ向かっていない。
森のあちこちから、奥へ向かって集まっている。
「逃げてるんじゃない」
ミラが青い羽を調べる。
「翼を傷めた跡もありません。自分から飛んできたのでしょう」
「どうして?」
誰も答えられなかった。
捕まった仲間の声を聞いたから。
それとも、何かに呼び寄せられているのか。
森の奥から、また低い声がした。
黒牙狼が立ち止まる。
頭を低くし、耳を前へ向ける。
ロブも同じ方角を見た。
声は地面の下から聞こえていた。
「下?」
私は足元を見るが、厚く積もった落ち葉と、木の根しかない。
ミラが杖を地面へ近づけた。
「ここではありません。音が地下を伝っているようです」
黒牙狼が再び歩き出す。
森は次第に上り坂となり、木々の間に岩が増えてきた。
やがて私たちは、崖の下へ出た。
岩壁は人の背丈の何倍もあり、左右へ長く続いている。
黒牙狼は壁際の茂みへ入った。
太い蔓と倒れた枝の向こうで、低く鳴く。
「何かあります」
マルクとルークが枝をどける。
そこには、人が一人通れるほどの小さな穴が開いていた。
岩と枝で隠され、知らずに通れば気づかないだろう。
ミラが穴の縁へ触れた。
土を払い、表面を杖で軽く叩くと、岩だと思ったものから、乾いた音が返った。
「これは自然の洞窟ではありません」
「人が掘ったもの?」
「入口を狭く見せていますが、内側は削られています。補強の魔術も使われている」
蔓も自然に伸びたものではない。入口を隠すよう、細い縄で岩へ留められていた。
「黒牙狼は、ここから逃げてきたのでしょうか」
私の言葉に、黒牙狼が穴へ向かって唸った。
入りたくない。でも、この奥に何かいる。
体が、その両方を表していた。
ロブが黒牙狼の隣へ座る。
「無理しなくていいよ」
私は黒牙狼へ言った。
「ここまで連れてきてくれて、ありがとう。あとは私たちが見るから」
言葉が通じたとは思わない。
それでも黒牙狼は、それ以上進まなかった。
入口の外へ伏せ、ロブを見る。
ロブは少し迷うように私と黒牙狼を見比べた。
「ロブ、一緒に行こう」
私はリードを握り直した。
ルークを先頭に、私たちは穴へ入った。
入口を抜けると、すぐに天井が高くなった。
人が三人並んで歩けるほどの通路が、地下へ向かって緩やかに下っている。
壁には、松明の跡が残っていた。
奥から聞こえるかすかな声は、外で聞いたときより近い。
けれど洞窟の壁へ反響し、数も場所もわからなかった。
ロブは耳を動かしながら、慎重に歩いている。
通路を下りきると、広い地下空間へ出た。
ミラが杖を掲げると、白い光が大きく広がり、石の床と壁を照らした。
檻はなく、魔獣の姿も見えない。
でも、ここに何かがいたことは、一目でわかった。
壁へ埋め込まれた太い鉄の輪。そこから垂れた、途中で切れた鎖。
床へこびりついた黒い血。
石壁を深く削った爪痕。
隅には灰になった布と、割れた器が積まれている。
甘く苦い薬品の匂いが、湿った空気に残っていた。
「ここに、魔獣をつないでいた」
声が震える。
ロブが鎖へ近づき、匂いを嗅いだ。
すぐに顔を背け、私の足元へ戻ってくる。
「長く使われた場所ではありません」
ルークが床へ積もった土を調べる。
「人の足跡は多いが、生活の跡が少なすぎる。寝具も、食料を保管した跡もない」
「一時的な収容所でしょう」
ディート先生は、乾いた血を小さな刃で削り取った。
「捕らえた魔獣をここへ集め、ある程度まとまったところで別の場所へ運ぶ」
「じゃあ、隠れ家はここじゃない」
「ええ。移動の途中で使う場所です」
灰の狩人たちは、一つの拠点だけで動いているのではない。
魔獣を捕まえる場所。
一時的に集める場所。
そして、最後に運び込む場所。
人目につかない道と地下の収容所をつなぎ、王国の各地から魔獣を運んでいる。
「思っていたより、ずっと組織的です」
マルクが呟いた。その顔から、いつもの明るさが消えていた。
ミラは地下空間の中央へ進み、杖の光を床へ向けた。
「魔法陣があります」
泥と灰に隠れ、円の一部だけが見えていた。
布で床を拭うと、複雑な線と、知らない文字が現れる。
「何の魔法ですか」
「すでに力が消えています。転移、拘束、感覚の増幅……いくつかの術が重なっているようですが、これだけでは」
ミラが魔法陣の端を照らすと、小さな印が見えた。
三日月の内側に、一本の塔。
「青い瓶と同じです」
黒牙狼の逃げ道で拾った、薬瓶の底に焼きつけられていた印だ。
「薬を作った工房の印ではなかったのか」
ルークが尋ねる。
「工房の印なら、魔法陣へ刻む理由がありません。術式を作った者か、灰の狩人一味の印かもしれません」
まだ意味はわからないが、罠と薬品とこの場所が、同じ相手につながっている証拠だった。
「すべて写し取ってください」
「はい」
そのとき、地下空間のさらに奥から物音がした。
かり、と石を引っ掻くような音。
ロブが顔を上げる。
「わん!」
右手の壁際へ走り、積み上げられた木箱の前で止まった。
「何かいるの?」
木箱の向こうには、細い通路があった。
人間なら体を横にしなければ通れない。ロブは隙間へ鼻を入れ、尻尾を下げたまま小さく鳴く。
「くぅん」
奥から、甲高い声が返った。
外で聞いた声の一つだ。
ルークが木箱を静かに動かすと、ミラの灯りが細い通路を照らす。
暗がりの奥で、二つの小さな目が光った。
「大丈夫」
私はその場へしゃがんだ。
「出てこなくてもいいからね」
ロブが隙間の手前へ伏せる。
しばらくすると、奥の影が少しだけ動いた。
現れたのは、猫より小さな魔獣だった。
栗色の体。背中には木の葉のような薄い翼があり、長い尾の先だけが淡く光っている。
「蛍尾リスです」
ミラが囁く。
「人里には近づかない、おとなしい魔獣です」
怪我をしているようには見えないが、ブルブルと全身が震えている。
ロブを見ると一歩近づき、私たち人間を見るとすぐに通路の奥へ戻ろうとする。
特にルークとマルクの鎧に強く反応していた。
金属が小さく鳴っただけで、翼を広げて身を伏せる。
「怪我がないのに、人間を見ただけでこんなに」
「薬品を吸わされた可能性もあります。恐怖だけが長く残ることはある」
蛍尾リスはロブの匂いを嗅いだ。
ロブは動かず、床へ顎をつけて待っている。
やがて小さな魔獣は、ロブの前足へ体を寄せた。
尾の光が、ほんの少し明るくなる。
「この子、ロブは怖がらないんですね」
「神獣様だからでしょうか」
マルクの言葉は、静かだった。
私たちが近づけば、蛍尾リスは怯えてしまう。助けたいと思っていることは伝わらないようだ。
「エレナ様」
マルクが、少し迷うように口を開いた。
「でも、魔獣が人間を襲ったら、どうすればいいのでしょう」
責める声ではなかった。騎士として、何度も人を魔獣から守ってきた人の疑問だった。
「怖がっているとわかっても、村に入ってきた魔獣を放ってはおけません。話せない相手が何をするか、見極めている間に誰かが傷つくかもしれない」
私はすぐに答えられなかった。
黒牙狼も茜火狐も、ロブを襲わなかった。
でも、すべての魔獣が人間を傷つけないとは言えない。
恐怖で我を失えば、実際に襲うこともあるだろう。
騎士が剣を抜かなければ、人間が死ぬかもしれない。
「……わかりません」
正直に答えた。
マルクが私を見る。
「何が正しいのか、まだわかりません。魔獣を守るために、人が傷ついてもいいとは思えない。目の前で襲われている人がいたら、止めるべきだと思います」
私は、ロブへ身を寄せる蛍尾リスを見た。
「でも、わからないからこそ、怖がっている理由を知るべきです」
「理由を」
「人を憎んでいるのか、傷が痛いのか、薬の影響なのか。それを知らないまま、魔獣だから仕方ないって決めたくない」
私は、国王陛下の言葉を思い出しながら言った。
「だから、まず見るんです。牙だけじゃなくて、その奥に何があるのか」
マルクはしばらく黙っていたが、自分の剣へ触れて言った。
「私は今まで、剣を抜くのが早いほど多くを守れると思っていました」
「それで助かった人も、たくさんいると思います。私は戦えないから、マルクが守ってくれないと困ります」
「では、私は剣を見る。エレナ様は、その奥を見る」
「できるだけ、ですけど」
「十分です」
私たちはわずかに笑った。
蛍尾リスが少し落ち着いたのを確認し、私たちは地下空間の調査を続けた。
細い通路の奥には、ほかにも小さな魔獣が隠れていた。
手のひらほどの羽鼠が二頭。
石に似た甲羅を持つ石殻亀。
皆、檻が運び出されたあとも恐怖で動けず、この洞窟に残っていたのだろうか。
外で聞こえた複数の声は、この子たちの声が地下道を通り、森の各所へ響いていたもののようだ。
そしてその声を聞いた周囲の魔獣が、逃げるのではなく、ここへ集まってきていた。
「仲間を助けようとしていたのでしょうか」
「そうかもしれません」
ミラが言った。
「少なくとも、人が考えるより、魔獣同士は繋がっているようです」
神獣だけが声を聞くわけではない。魔獣同士の大きな繋がりの中に、ロブは今いるのだろう。それでも、遠くから苦しみを感じ取れる理由はわからないけれど。
「こちらにも部屋があります」
ルークの声に呼ばれ、地下空間の奥へ向かった。
低い石壁で仕切られた、小さな作業場だった。
長い机と倒れた棚、床には割れた瓶と金属の道具が散らばっている。
壁には何枚もの紙が貼られていたらしい。ほとんどは剥がされ、留め具と破れた端だけが残っている。
「撤収するとき、記録を持ち出したのでしょう」
ルークが焼け残った紙を拾う。
「すべてではないようです」
ミラが机の下から、細い木箱を引き出した。
中には小さな紙包みが並んでいた。
一つずつ番号が書かれ、黒い毛や白い毛、青い羽、角を削った粉のようなものが入っている。
「魔獣の体の一部を採取したものだろう」
ディート先生が紙包みを調べる。
「量が少ない。素材として使うためではなく、何かを比較するためか」
箱の蓋の裏には、短い記録が書かれていた。
――黒狼。投与後、反応あり。持続、長。
――角鹿。反応、弱。再採取。
――翼蛇。反応なし。個体差の可能性。
――岩角熊。反応あり。収容後、再検査。
「反応って、何に対する?」
私が尋ねる。
「書かれてないね」
ディート先生は紙包みを慎重に戻した。
「薬品か、魔術か。何らかの条件を与え、魔獣ごとの違いを調べていたようだ」
「ただ集めていたわけではない」
ルークの声が低くなる。
「魔獣を使って、実験しているのか」
弱らせ、捕らえ、実験する。
魔獣たちを生き物ではなく、数字のついた材料として見ている。
「何を調べているのでしょう」
「この記録だけではわかりません」
ミラは魔法陣と紙包みを見比べた。
「しかし、種類の違う魔獣を集めた理由は、これかもしれません。同じ条件でどの魔獣が反応するのか、比較するためです」
箱は大切な証拠として、そのまま持ち帰ることになった。
私は壁へ残った紙の切れ端を見ていた。
一つでも、実験の目的が書かれていないか。
灰の狩人が次にどこへ向かったのか、手がかりがないか。
ロブも作業場へ入り、床の匂いを嗅ぎ始める。
「ロブ、割れた瓶に気をつけてね」
「わふ」
ロブは机の脚を嗅ぎ、倒れた棚の前で止まった。
鼻先を動かす。
それから壁の隅へ向かい、前足で何かを掻いた。
「そこに何かあるの?」
石壁と床の間に、布の端が挟まっている。
引き抜くと、手のひらほどの白い布だった。
泥で汚れ、片側には細い糸がついている。
見覚えがある気がした。
「これ……」
ロブが布へ鼻を押しつける。
尻尾が一度だけ動いた。
「ロブの匂いがするの?」
私にも、かすかに覚えのある香りがした。
王宮でロブを洗ったときに使う石鹸の匂いだ。
白い布には、柔らかな毛が数本ついていた。
ロブの毛だ。
「なぜ、ここに」
ルークが布を受け取る。
裏側には、小さな文字が書かれていた。
――白。雄。小型。王宮内で保護。
――異界の女に強く執着。
――食餌、鶏肉、乾燥肉、林檎。警戒心、低。
鳥肌が立つ。
「ロブのことだ」
小型の白い犬。
王宮にいる。
私といつも一緒にいる。
鶏肉も干し肉も、林檎も好き。
偶然ではない。
「この布は、どこから取られたんでしょう」
「毛がついている。王宮でロブが使ったものかもしれません」
ルークの顔が険しくなる。
「洗濯物、寝具、体を拭いた布。持ち出せる機会はいくつもある。王宮の中に協力者がいる可能性もあります」
黒いローブの人物が、王宮の外からロブを見ていた。
それだけではなかった。
何を食べるのか。
どれほど人を警戒するのか。
誰に心を許しているのか。
灰の狩人は、すでにロブのことを詳しく調べていた。
私たちが魔獣の痕跡を追い始めるより前から。
「異界の女」
私は文字を見つめた。
名前ではない。
でも、私がこの世界の人間ではないことまで知られている。
「私のことも、調べてる」
ロブが私を見上げる。
何も知らない、いつもの目だった。
この地下室へ入ってから、ずっと魔獣たちの苦しみばかり考えていた。
助けなければ。
止めなければ。
その気持ちは変わらない。
でも初めて、はっきり怖いと思った。
狙われているのは、遠くにいる知らない魔獣だけではない。
私の足元にいるロブだ。
毎晩、私の隣で眠るロブ。
おやつの袋を見つければ尻尾を振り、怖いときには私の腕へ逃げ込むロブ。
そのロブが、記録の一つとして見られているなんて。
「エレナ」
ルークが私の前へ立ち、布を隠すように折った。
「今からでも、王宮へ戻ることはできます」
戻りたい。 王宮の守られた空間へ。
一瞬だけ、そう思った。
けれど、王宮にも相手の手が届いていた。
逃げて待っているだけでは、終わらない。
次は布ではなく、ロブ自身を攫いに来るかもしれない。
その前に、相手が誰なのか、何をしようとしているのかを突き止めなければならない。
「戻りません」
声が震えないように、ゆっくり答えた。
ロブを抱き上げる。
温かな体を腕の中に感じると、恐怖とは違う感情が生まれた。ロブを守りたい。
「怖いです。でも、だからこそ早く終わらせたい」
「無理をする必要はありません」
「無理はしません。一人で動かないし、ルークの指示も聞きます」
「ロブが突然走り出しても?」
「それは……できるだけ」
「そこは言い切ってください」
真剣な顔で言われ、少しだけ肩の力が抜けた。
「はい。勝手に追いかけません」
「約束です」
「約束します」
ロブが私とルークを交互に見る。
「ロブも約束して」
「わん」
たぶん何もわかっていない。
それでも今は、その返事が心強かった。
◇
証拠を集め、小さな魔獣たちを連れて洞窟を出たころには、東の空がわずかに白み始めていた。
黒牙狼は入口の前で待っていた。
ロブを見ると立ち上がり、蛍尾リスたちの匂いを確かめる。
小さな魔獣たちは黒牙狼を怖がらなかった。
その大きな体のそばへ集まり、森の中を歩き始める。
帰り道は、黒牙狼とロブが並んで先頭を歩いた。
来たときより遅い。
けれど、誰も急かさなかった。
野営地へ戻ると、残っていた騎士たちが安堵した顔で駆け寄ってきた。
小さな魔獣たちのため、焚き火から離れた場所に毛布と水が用意される。
蛍尾リスはしばらく人間を警戒していたが、ロブが水を飲むのを見ると、同じ器へ口をつけた。
「神獣様が安全だと示してくださった」
騎士の一人が感心したように言う。
「ロブが喉渇いてただけです」
ロブは水を飲み終えると、食べ物を探すように私の鞄を見た。
「朝ごはんには、まだ早いよ」
「わふ」
訴える目に負け、干し肉を半分だけ渡す。
蛍尾リスが興味を示したので、もう半分はさらに小さくちぎって地面へ置いた。
ロブは自分の分を食べ終え、蛍尾リスの分を見つめる。
「それは、あの子のだからね」
「わふ」
ロブは残念そうに私の隣へ戻った。
長い夜が終わろうとしている。
騎士たちは再び見張りにつき、洞窟へ向かった者たちは短い休息を取ることになった。
黒牙狼は魔獣たちの近くで伏せる。
ディート先生も薬箱を枕にするように横になり、すぐ目を閉じた。
ミラとマルクのテントからも、やがて音がしなくなった。
私も毛布にくるまった。
ロブは私の胸元で丸くなる。
眠らなければと思うのに、地下で見つけた白い布が頭から離れない。
――異界の女に強く執着。
私とロブの関係を、あの記録はそう書いていた。
客観的な事実として、間違ってはいないのかもしれない。
でも、やっぱり何かが違う。執着なんかじゃない。
私たちは家族なのだ。
ロブが私を選んだのだとしても、それは実験や調査だけでわかるものではない。
私も何度も、ロブを選んできた。
ロブを初めて家に迎えた日。
事故の瞬間、夢中で抱きしめたこと。
この世界で、どこへ行くにも一緒だと決めたこと。
それは一味の調査なんかでは絶対にわからないことだ。
灰の狩人一味がその答えを探ろうとしているとしても、ロブと私が一緒にいる限り、彼らより先に答えを導き出せるはずだ。
なぜロブが神獣なのか、なぜ私が契約者なのか。
私自身、まだ答えはわからないけれど。
私はロブの背を撫でた。
「先に見つけようね」
「わふ」
眠っているはずのロブが、小さく返事をした。
私も目を閉じる。
野営地には、疲れきった人々の静かな寝息が満ちていた。
焚き火が燃え尽き、灰の下で赤く光っている。
静けさの中で、乾いた枝を踏む音がした。
ぱきり。
人の足音だった。
ロブが目を開けた。
耳を立て、暗い木々の間を見つめる。
もう一度、足音が近づいた。
――第十一話おわり




