↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
愛犬と一緒に異世界転生したら、うちの子が神獣に⁈いいえ、普通のパピヨンです  作者: kotao


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
11/30

第十一話 森の奥の声

複数の声の主を見つけるために、夜の森を探すエレナたち。森の奥の洞窟であるものを見つけます。

 森の奥から、いくつもの声が聞こえている。


 細く高い鳴き声。


 喉の奥で転がるような低い唸り。


 長く伸びる遠吠え。


 どれも同じ場所から聞こえているようで、少しずつ方向が違う。


 近くに感じた次の瞬間には、ずっと遠くへ離れてしまう。


 夜の森そのものが、あちこちで苦しそうに息をしているようだった。


「一頭じゃない」


 私はロブを抱き寄せた。


「助けを求めているのは、一頭だけじゃありません」


 ロブは私の腕から下りると、暗い森へ向かって歩き出した。


「ロブ、待って」


 リードが張る。


 それでもロブは止まらず、前足で地面を掻いた。


「わん!」


 普段のおねだりとは違う、強い声だった。


 焚き火のそばで休んでいた騎士たちが立ち上がる。ルークは森の闇を見つめ、すぐに首を振った。


「今から動くのは危険です」


「でも、声が」


「夜の森は昼間とは違います。足元の罠を見つけることも難しい。相手が我々を誘い出すため、魔獣を鳴かせている可能性もあります」


 正しい判断だった。


 昼間、落ち葉の下へ隠された罠を見つけたばかりだ。暗闇の中で同じ道を歩けば、足を挟まれてもおかしくない。


 灰の狩人一味が近くにいて、私たちが来たことに気づき、待ち伏せしているかもしれない。


「夜明けを待ちます」


 ルークは騎士たちへ言った。


「しっかりと見張れ。声の方角と間隔を記録する。周辺から何か近づけば、結界が知らせる」


「承知しました」


 騎士たちが動き出す。


 けれど、ロブは納得しなかった。


「わん! わん!」


 森へ向かって体を引く。


「ロブ、今は危ないから」


「わん!」


「朝になったら、必ず行くよ」


「くぅん」


 振り返ったロブの目を見て、言葉が止まった。


 ロブに時間はわからない。


 その間、傷ついた魔獣が耐えられるのか。


 わからないからこそ、今すぐ行こうとしている。


 森の奥から、また声が聞こえた。


 高い悲鳴が途中で途切れると、ロブの耳が震えた。


「今、声が聞こえてるのに」


 私は小さく言った。


「朝まで待って、本当に間に合うんでしょうか」


 ルークの表情が厳しくなる。


「わかりません」


「私も、夜に全員で動くのは危険だと思います。でも、何もしないで待つのも…」


 ロブにしか感じられないものがある。


 そして、ロブが何を訴えているのかを人へ伝えるのは、私の役目だ。


「全員ではなく、少人数で確認することはできませんか」


「エレナ」


「危険なら、すぐに戻ります。声の場所へたどり着こうとしなくてもいい。せめて、朝まで待てる状態なのかだけでも」


 ルークはすぐに答えなかった。


 焚き火がぱちりと鳴る。


 ディート先生が、薬箱の蓋を閉じながら口を開いた。


「傷ついたものがいるなら、医者としては確認したいところです」


「先生まで」


「朝まで待つことが安全とは限りません。出血しているなら、夜明けまでが命取りになる」


 魔術師のミラも杖を手にした。


「足元は私が照らします。金属と魔力を探る術も使えます」


「では、私も」


 マルクが剣を腰へ戻しながら言った。


「少人数なら、護衛が必要でしょう」


「簡単に言うな」


 ルークが低く叱る。


「簡単ではありません。ただ、神獣様だけが危険へ向かうのを、ここで見ているよりはいいです」


 ロブはまだ森を見ている。


 その少し先で、黒牙狼が動いた。


 昼間の治療を終えて、木の下で眠っていたはずだった。


 傷ついた後ろ足を庇いながら、ゆっくり立ち上がる。


「動いちゃだめだ」


 ディート先生が近づこうとすると、黒牙狼は牙を見せた。


 でも逃げようとしたのではない。


 顔を森の奥へ向け、低く、一度だけ鳴いた。


「あなたも、この声を知ってるの?」


 私が尋ねると、黒牙狼はこちらを見た。


 それからロブを見る。


 二頭の視線が、暗闇の中で重なった。


 ロブだけが何かを感じているのではない。


 魔獣同士にも、私たちにはわからない何かが伝わっているようだった。


 黒牙狼は足を引きずりながら、森へ一歩踏み出した。


「案内してくれるの?」


 返事はない。


 けれど、その足取りには迷いがなかった。


 ルークは黒牙狼と森を見比べ、深く息を吐いた。


「確認だけです。声の発生源が遠い、あるいは危険だと判断した時点で戻ります」


「はい」


「私とマルク、ミラ、ディート先生で向かう。残りは野営地と馬車を守れ」


「黒牙狼も同行するつもりのようだね」


 ディート先生が言った。


「止められますか」


 ルークが聞き返す。


 黒牙狼はすでに森の手前まで進んでいる。


「無理だろうね」


 先生は諦めたように薬箱を背負った。


「傷が開く前に、目的地へ着くことを願うよ」


     ◇


 夜の森は、昼間よりずっと狭く感じた。


 灯りの届く範囲しか見えず、その外側には濃い闇がある。


 ミラの杖の先に浮かぶ白い光が、地面と木の根を照らしていた。


 先頭を行くのは黒牙狼だった。


 足を引きずり、ときどき立ち止まる。それでも道を探す様子はない。


 何度も通った場所をたどるように、森の奥へ進んでいく。


 ロブは私の隣を歩き、先へ走り出そうとはしない。


 黒牙狼の歩みに合わせ、離れそうになれば待っている。


「今日は、あの子が案内役だね」


「わふ」


 ロブだけでは方角しかわからず、黒牙狼だけでは人間と歩こうとしなかったかもしれない。


 二頭がいるから、私たちは進めている。


「神獣様が魔獣を従えている、という感じではありませんね」


 マルクが小声で言った。


「王宮では、神獣様がすべての魔獣を率いるという話を聞きました」


「黒牙狼のほうが、ロブより森に詳しいんでしょう」


 先を行く大きな黒い背中と、私の足元の小さな白い背中。


「得意なほうが案内すればいいんですよ」


「それも、神獣様らしい在り方なのかもしれません」


「ロブは誰かを従えたりしません。ごはんの前では、むしろ私に従わされてます」


 暗い森の中で、マルクが少し笑った。


 しばらく進むと、地面に残る痕跡が増え始めた。


 大きな三本指の足跡。


 木の幹についた白い毛。


 低い枝へ絡まった青い羽。


 土を掘り返したような跡。


 種類も、進んだ方向も、ばらばらだった。


「ここを、何頭もの魔獣が通っています」


 ルークが足跡の前へしゃがむ。


「新しいものもある。今夜ついた跡かもしれない」


 私は周囲を見た。


「黒牙狼と同じように、逃げてきたんでしょうか」


「そのようには見えません」


 ルークは大きな足跡を指でなぞった。


「爪先が森の奥を向いている。こちらの小さな跡も同じです」


 足跡は外へ向かっていない。


 森のあちこちから、奥へ向かって集まっている。


「逃げてるんじゃない」


 ミラが青い羽を調べる。


「翼を傷めた跡もありません。自分から飛んできたのでしょう」


「どうして?」


 誰も答えられなかった。


 捕まった仲間の声を聞いたから。


 それとも、何かに呼び寄せられているのか。


 森の奥から、また低い声がした。


 黒牙狼が立ち止まる。


 頭を低くし、耳を前へ向ける。


 ロブも同じ方角を見た。


 声は地面の下から聞こえていた。


「下?」


 私は足元を見るが、厚く積もった落ち葉と、木の根しかない。


 ミラが杖を地面へ近づけた。


「ここではありません。音が地下を伝っているようです」


 黒牙狼が再び歩き出す。


 森は次第に上り坂となり、木々の間に岩が増えてきた。


 やがて私たちは、崖の下へ出た。


 岩壁は人の背丈の何倍もあり、左右へ長く続いている。


 黒牙狼は壁際の茂みへ入った。


 太い蔓と倒れた枝の向こうで、低く鳴く。


「何かあります」


 マルクとルークが枝をどける。


 そこには、人が一人通れるほどの小さな穴が開いていた。


 岩と枝で隠され、知らずに通れば気づかないだろう。


 ミラが穴の縁へ触れた。


 土を払い、表面を杖で軽く叩くと、岩だと思ったものから、乾いた音が返った。


「これは自然の洞窟ではありません」


「人が掘ったもの?」


「入口を狭く見せていますが、内側は削られています。補強の魔術も使われている」


 蔓も自然に伸びたものではない。入口を隠すよう、細い縄で岩へ留められていた。


「黒牙狼は、ここから逃げてきたのでしょうか」


 私の言葉に、黒牙狼が穴へ向かって唸った。


 入りたくない。でも、この奥に何かいる。


 体が、その両方を表していた。


 ロブが黒牙狼の隣へ座る。


「無理しなくていいよ」


 私は黒牙狼へ言った。


「ここまで連れてきてくれて、ありがとう。あとは私たちが見るから」


 言葉が通じたとは思わない。


 それでも黒牙狼は、それ以上進まなかった。


 入口の外へ伏せ、ロブを見る。


 ロブは少し迷うように私と黒牙狼を見比べた。


「ロブ、一緒に行こう」


 私はリードを握り直した。


 ルークを先頭に、私たちは穴へ入った。


 入口を抜けると、すぐに天井が高くなった。


 人が三人並んで歩けるほどの通路が、地下へ向かって緩やかに下っている。


 壁には、松明の跡が残っていた。


 奥から聞こえるかすかな声は、外で聞いたときより近い。


 けれど洞窟の壁へ反響し、数も場所もわからなかった。


 ロブは耳を動かしながら、慎重に歩いている。


 通路を下りきると、広い地下空間へ出た。


 ミラが杖を掲げると、白い光が大きく広がり、石の床と壁を照らした。


 檻はなく、魔獣の姿も見えない。


 でも、ここに何かがいたことは、一目でわかった。


 壁へ埋め込まれた太い鉄の輪。そこから垂れた、途中で切れた鎖。


 床へこびりついた黒い血。


 石壁を深く削った爪痕。


 隅には灰になった布と、割れた器が積まれている。


 甘く苦い薬品の匂いが、湿った空気に残っていた。


「ここに、魔獣をつないでいた」


 声が震える。


 ロブが鎖へ近づき、匂いを嗅いだ。


 すぐに顔を背け、私の足元へ戻ってくる。


「長く使われた場所ではありません」


 ルークが床へ積もった土を調べる。


「人の足跡は多いが、生活の跡が少なすぎる。寝具も、食料を保管した跡もない」


「一時的な収容所でしょう」


 ディート先生は、乾いた血を小さな刃で削り取った。


「捕らえた魔獣をここへ集め、ある程度まとまったところで別の場所へ運ぶ」


「じゃあ、隠れ家はここじゃない」


「ええ。移動の途中で使う場所です」


 灰の狩人たちは、一つの拠点だけで動いているのではない。


 魔獣を捕まえる場所。


 一時的に集める場所。


 そして、最後に運び込む場所。


 人目につかない道と地下の収容所をつなぎ、王国の各地から魔獣を運んでいる。


「思っていたより、ずっと組織的です」


 マルクが呟いた。その顔から、いつもの明るさが消えていた。


 ミラは地下空間の中央へ進み、杖の光を床へ向けた。


「魔法陣があります」


 泥と灰に隠れ、円の一部だけが見えていた。


 布で床を拭うと、複雑な線と、知らない文字が現れる。


「何の魔法ですか」


「すでに力が消えています。転移、拘束、感覚の増幅……いくつかの術が重なっているようですが、これだけでは」


 ミラが魔法陣の端を照らすと、小さな印が見えた。


 三日月の内側に、一本の塔。


「青い瓶と同じです」


 黒牙狼の逃げ道で拾った、薬瓶の底に焼きつけられていた印だ。


「薬を作った工房の印ではなかったのか」


 ルークが尋ねる。


「工房の印なら、魔法陣へ刻む理由がありません。術式を作った者か、灰の狩人一味の印かもしれません」


 まだ意味はわからないが、罠と薬品とこの場所が、同じ相手につながっている証拠だった。


「すべて写し取ってください」


「はい」


 そのとき、地下空間のさらに奥から物音がした。


 かり、と石を引っ掻くような音。


 ロブが顔を上げる。


「わん!」


 右手の壁際へ走り、積み上げられた木箱の前で止まった。


「何かいるの?」


 木箱の向こうには、細い通路があった。


 人間なら体を横にしなければ通れない。ロブは隙間へ鼻を入れ、尻尾を下げたまま小さく鳴く。


「くぅん」


 奥から、甲高い声が返った。


 外で聞いた声の一つだ。


 ルークが木箱を静かに動かすと、ミラの灯りが細い通路を照らす。


 暗がりの奥で、二つの小さな目が光った。


「大丈夫」


 私はその場へしゃがんだ。


「出てこなくてもいいからね」


 ロブが隙間の手前へ伏せる。


 しばらくすると、奥の影が少しだけ動いた。


 現れたのは、猫より小さな魔獣だった。


 栗色の体。背中には木の葉のような薄い翼があり、長い尾の先だけが淡く光っている。


「蛍尾リスです」


 ミラが囁く。


「人里には近づかない、おとなしい魔獣です」


 怪我をしているようには見えないが、ブルブルと全身が震えている。


 ロブを見ると一歩近づき、私たち人間を見るとすぐに通路の奥へ戻ろうとする。


 特にルークとマルクの鎧に強く反応していた。


 金属が小さく鳴っただけで、翼を広げて身を伏せる。


「怪我がないのに、人間を見ただけでこんなに」


「薬品を吸わされた可能性もあります。恐怖だけが長く残ることはある」


 蛍尾リスはロブの匂いを嗅いだ。


 ロブは動かず、床へ顎をつけて待っている。


 やがて小さな魔獣は、ロブの前足へ体を寄せた。


 尾の光が、ほんの少し明るくなる。


「この子、ロブは怖がらないんですね」


「神獣様だからでしょうか」


 マルクの言葉は、静かだった。


 私たちが近づけば、蛍尾リスは怯えてしまう。助けたいと思っていることは伝わらないようだ。


「エレナ様」


 マルクが、少し迷うように口を開いた。


「でも、魔獣が人間を襲ったら、どうすればいいのでしょう」


 責める声ではなかった。騎士として、何度も人を魔獣から守ってきた人の疑問だった。


「怖がっているとわかっても、村に入ってきた魔獣を放ってはおけません。話せない相手が何をするか、見極めている間に誰かが傷つくかもしれない」


 私はすぐに答えられなかった。


 黒牙狼も茜火狐も、ロブを襲わなかった。


 でも、すべての魔獣が人間を傷つけないとは言えない。


 恐怖で我を失えば、実際に襲うこともあるだろう。


 騎士が剣を抜かなければ、人間が死ぬかもしれない。


「……わかりません」


 正直に答えた。


 マルクが私を見る。


「何が正しいのか、まだわかりません。魔獣を守るために、人が傷ついてもいいとは思えない。目の前で襲われている人がいたら、止めるべきだと思います」


 私は、ロブへ身を寄せる蛍尾リスを見た。


「でも、わからないからこそ、怖がっている理由を知るべきです」


「理由を」


「人を憎んでいるのか、傷が痛いのか、薬の影響なのか。それを知らないまま、魔獣だから仕方ないって決めたくない」


 私は、国王陛下の言葉を思い出しながら言った。


「だから、まず見るんです。牙だけじゃなくて、その奥に何があるのか」


 マルクはしばらく黙っていたが、自分の剣へ触れて言った。


「私は今まで、剣を抜くのが早いほど多くを守れると思っていました」


「それで助かった人も、たくさんいると思います。私は戦えないから、マルクが守ってくれないと困ります」


「では、私は剣を見る。エレナ様は、その奥を見る」


「できるだけ、ですけど」


「十分です」


 私たちはわずかに笑った。


 蛍尾リスが少し落ち着いたのを確認し、私たちは地下空間の調査を続けた。


 細い通路の奥には、ほかにも小さな魔獣が隠れていた。


 手のひらほどの羽鼠が二頭。


 石に似た甲羅を持つ石殻亀。


 皆、檻が運び出されたあとも恐怖で動けず、この洞窟に残っていたのだろうか。


 外で聞こえた複数の声は、この子たちの声が地下道を通り、森の各所へ響いていたもののようだ。


 そしてその声を聞いた周囲の魔獣が、逃げるのではなく、ここへ集まってきていた。


「仲間を助けようとしていたのでしょうか」


「そうかもしれません」


 ミラが言った。


「少なくとも、人が考えるより、魔獣同士は繋がっているようです」


 神獣だけが声を聞くわけではない。魔獣同士の大きな繋がりの中に、ロブは今いるのだろう。それでも、遠くから苦しみを感じ取れる理由はわからないけれど。


「こちらにも部屋があります」


 ルークの声に呼ばれ、地下空間の奥へ向かった。


 低い石壁で仕切られた、小さな作業場だった。


 長い机と倒れた棚、床には割れた瓶と金属の道具が散らばっている。


 壁には何枚もの紙が貼られていたらしい。ほとんどは剥がされ、留め具と破れた端だけが残っている。


「撤収するとき、記録を持ち出したのでしょう」


 ルークが焼け残った紙を拾う。


「すべてではないようです」


 ミラが机の下から、細い木箱を引き出した。


 中には小さな紙包みが並んでいた。


 一つずつ番号が書かれ、黒い毛や白い毛、青い羽、角を削った粉のようなものが入っている。


「魔獣の体の一部を採取したものだろう」


 ディート先生が紙包みを調べる。


「量が少ない。素材として使うためではなく、何かを比較するためか」


 箱の蓋の裏には、短い記録が書かれていた。


 ――黒狼。投与後、反応あり。持続、長。


 ――角鹿。反応、弱。再採取。


 ――翼蛇。反応なし。個体差の可能性。


 ――岩角熊。反応あり。収容後、再検査。


「反応って、何に対する?」


 私が尋ねる。


「書かれてないね」


 ディート先生は紙包みを慎重に戻した。


「薬品か、魔術か。何らかの条件を与え、魔獣ごとの違いを調べていたようだ」


「ただ集めていたわけではない」


 ルークの声が低くなる。


「魔獣を使って、実験しているのか」


 弱らせ、捕らえ、実験する。


 魔獣たちを生き物ではなく、数字のついた材料として見ている。


「何を調べているのでしょう」


「この記録だけではわかりません」


 ミラは魔法陣と紙包みを見比べた。


「しかし、種類の違う魔獣を集めた理由は、これかもしれません。同じ条件でどの魔獣が反応するのか、比較するためです」


 箱は大切な証拠として、そのまま持ち帰ることになった。


 私は壁へ残った紙の切れ端を見ていた。


 一つでも、実験の目的が書かれていないか。


 灰の狩人が次にどこへ向かったのか、手がかりがないか。


 ロブも作業場へ入り、床の匂いを嗅ぎ始める。


「ロブ、割れた瓶に気をつけてね」


「わふ」


 ロブは机の脚を嗅ぎ、倒れた棚の前で止まった。


 鼻先を動かす。


 それから壁の隅へ向かい、前足で何かを掻いた。


「そこに何かあるの?」


 石壁と床の間に、布の端が挟まっている。


 引き抜くと、手のひらほどの白い布だった。


 泥で汚れ、片側には細い糸がついている。


 見覚えがある気がした。


「これ……」


 ロブが布へ鼻を押しつける。


 尻尾が一度だけ動いた。


「ロブの匂いがするの?」


 私にも、かすかに覚えのある香りがした。


 王宮でロブを洗ったときに使う石鹸の匂いだ。


 白い布には、柔らかな毛が数本ついていた。


 ロブの毛だ。


「なぜ、ここに」


 ルークが布を受け取る。


 裏側には、小さな文字が書かれていた。


 ――白。雄。小型。王宮内で保護。


 ――異界の女に強く執着。


 ――食餌、鶏肉、乾燥肉、林檎。警戒心、低。


 鳥肌が立つ。


「ロブのことだ」


 小型の白い犬。


 王宮にいる。


 私といつも一緒にいる。


 鶏肉も干し肉も、林檎も好き。


 偶然ではない。


「この布は、どこから取られたんでしょう」


「毛がついている。王宮でロブが使ったものかもしれません」


 ルークの顔が険しくなる。


「洗濯物、寝具、体を拭いた布。持ち出せる機会はいくつもある。王宮の中に協力者がいる可能性もあります」


 黒いローブの人物が、王宮の外からロブを見ていた。


 それだけではなかった。


 何を食べるのか。


 どれほど人を警戒するのか。


 誰に心を許しているのか。


 灰の狩人は、すでにロブのことを詳しく調べていた。


 私たちが魔獣の痕跡を追い始めるより前から。


「異界の女」


 私は文字を見つめた。


 名前ではない。


 でも、私がこの世界の人間ではないことまで知られている。


「私のことも、調べてる」


 ロブが私を見上げる。


 何も知らない、いつもの目だった。


 この地下室へ入ってから、ずっと魔獣たちの苦しみばかり考えていた。


 助けなければ。


 止めなければ。


 その気持ちは変わらない。


 でも初めて、はっきり怖いと思った。


 狙われているのは、遠くにいる知らない魔獣だけではない。


 私の足元にいるロブだ。


 毎晩、私の隣で眠るロブ。


 おやつの袋を見つければ尻尾を振り、怖いときには私の腕へ逃げ込むロブ。


 そのロブが、記録の一つとして見られているなんて。


「エレナ」


 ルークが私の前へ立ち、布を隠すように折った。


「今からでも、王宮へ戻ることはできます」


 戻りたい。 王宮の守られた空間へ。


 一瞬だけ、そう思った。


 けれど、王宮にも相手の手が届いていた。


 逃げて待っているだけでは、終わらない。


 次は布ではなく、ロブ自身を攫いに来るかもしれない。


 その前に、相手が誰なのか、何をしようとしているのかを突き止めなければならない。


「戻りません」


 声が震えないように、ゆっくり答えた。


 ロブを抱き上げる。


 温かな体を腕の中に感じると、恐怖とは違う感情が生まれた。ロブを守りたい。


「怖いです。でも、だからこそ早く終わらせたい」


「無理をする必要はありません」


「無理はしません。一人で動かないし、ルークの指示も聞きます」


「ロブが突然走り出しても?」


「それは……できるだけ」


「そこは言い切ってください」


 真剣な顔で言われ、少しだけ肩の力が抜けた。


「はい。勝手に追いかけません」


「約束です」


「約束します」


 ロブが私とルークを交互に見る。


「ロブも約束して」


「わん」


 たぶん何もわかっていない。


 それでも今は、その返事が心強かった。


     ◇


 証拠を集め、小さな魔獣たちを連れて洞窟を出たころには、東の空がわずかに白み始めていた。


 黒牙狼は入口の前で待っていた。


 ロブを見ると立ち上がり、蛍尾リスたちの匂いを確かめる。


 小さな魔獣たちは黒牙狼を怖がらなかった。


 その大きな体のそばへ集まり、森の中を歩き始める。


 帰り道は、黒牙狼とロブが並んで先頭を歩いた。


 来たときより遅い。


 けれど、誰も急かさなかった。


 野営地へ戻ると、残っていた騎士たちが安堵した顔で駆け寄ってきた。


 小さな魔獣たちのため、焚き火から離れた場所に毛布と水が用意される。


 蛍尾リスはしばらく人間を警戒していたが、ロブが水を飲むのを見ると、同じ器へ口をつけた。


「神獣様が安全だと示してくださった」


 騎士の一人が感心したように言う。


「ロブが喉渇いてただけです」


 ロブは水を飲み終えると、食べ物を探すように私の鞄を見た。


「朝ごはんには、まだ早いよ」


「わふ」


 訴える目に負け、干し肉を半分だけ渡す。


 蛍尾リスが興味を示したので、もう半分はさらに小さくちぎって地面へ置いた。


 ロブは自分の分を食べ終え、蛍尾リスの分を見つめる。


「それは、あの子のだからね」


「わふ」


 ロブは残念そうに私の隣へ戻った。


 長い夜が終わろうとしている。


 騎士たちは再び見張りにつき、洞窟へ向かった者たちは短い休息を取ることになった。


 黒牙狼は魔獣たちの近くで伏せる。


 ディート先生も薬箱を枕にするように横になり、すぐ目を閉じた。


 ミラとマルクのテントからも、やがて音がしなくなった。


 私も毛布にくるまった。


 ロブは私の胸元で丸くなる。


 眠らなければと思うのに、地下で見つけた白い布が頭から離れない。


 ――異界の女に強く執着。


 私とロブの関係を、あの記録はそう書いていた。


 客観的な事実として、間違ってはいないのかもしれない。


 でも、やっぱり何かが違う。執着なんかじゃない。


 私たちは家族なのだ。


 ロブが私を選んだのだとしても、それは実験や調査だけでわかるものではない。


 私も何度も、ロブを選んできた。


 ロブを初めて家に迎えた日。


 事故の瞬間、夢中で抱きしめたこと。


 この世界で、どこへ行くにも一緒だと決めたこと。


 それは一味の調査なんかでは絶対にわからないことだ。

 

 灰の狩人一味がその答えを探ろうとしているとしても、ロブと私が一緒にいる限り、彼らより先に答えを導き出せるはずだ。

 

 なぜロブが神獣なのか、なぜ私が契約者なのか。


 私自身、まだ答えはわからないけれど。


 私はロブの背を撫でた。


「先に見つけようね」


「わふ」


 眠っているはずのロブが、小さく返事をした。


 私も目を閉じる。


 野営地には、疲れきった人々の静かな寝息が満ちていた。


 焚き火が燃え尽き、灰の下で赤く光っている。


 静けさの中で、乾いた枝を踏む音がした。


 ぱきり。


 人の足音だった。


 ロブが目を開けた。


 耳を立て、暗い木々の間を見つめる。


 もう一度、足音が近づいた。


 ――第十一話おわり

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。