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愛犬と一緒に異世界転生したら、うちの子が神獣に⁈いいえ、普通のパピヨンです  作者: kotao


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第八話 攫われた魔獣

近くの村で魔獣が攫われたとの知らせが届き、エレナとロブも村への調査に同行する。

昨夜の一件を受けて、王宮の警備は目に見えて厳しくなった。


 廊下の曲がり角ごとに騎士が立ち、庭園へ続く扉の前には、昨日までなかった詰所が置かれている。


 私の部屋の外にも、常時二人の騎士がつき、窓の下では、夜が明けてからも何人もの騎士が地面を調べていた。


 けれど、侵入者の痕跡は何も見つからなかった。


 折れた枝も、踏み荒らされた草も、城壁を越えた跡もない。


 異変は、ロブが夜の庭へ向かって唸ったことだけだった。


「お散歩にも、護衛がつくんだね」


 朝の庭園を歩きながら、私は少し後ろにいる騎士たちを振り返った。


 二人とも、私と目が合うと姿勢を正す。


「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」


「お気になさらず、いつもどおりお過ごしください」


 そう言われても、気になる。もちろんロブは、まったく気にしていなかった。


 花壇の端を嗅ぎ、噴水の前で立ち止まり、昨日も確かめた木の根元を念入りにくんくんしている。


 護衛が二人増えたところで、ロブの朝の散歩に変化はないらしい。


「わん」


「はいはい。いつものコースね」


 ロブは短い足で石畳を歩き、庭師のガレドさんを見つけると駆け寄った。


「おはようございます、エレナ様、ロブ。今日は早いね」


 ガレドさんが膝をつくと、ロブはその手と、腰に下げた布袋を順番に嗅いだ。


「ロブ、おやつを探さないの」


「さすがロブ、今朝は干した林檎を持ってきたよ」


「用意しなくていいんですよ?」


「ロブが毎朝顔を見せてくれると、庭の作物も張り合いが出るようで」


 ロブは作物の気持ちまでわかるらしい。ほんと?


 ガレドさんの手のひらにある小さな林檎を見るとロブは、昨夜あれほど唸ったことも忘れたように尻尾を振った。


 その姿を見ていると、私の肩からも少し力が抜ける。いつものロブだ。


 そこへ、騎士団詰所のほうからルークが歩いてきた。


 騎士服姿はきちんと整っているが、目元には寝不足の色が残っていた。


「エレナ。昨夜は、あのあと休めましたか」


「少しだけ。ロブはすぐ寝ました」


 ロブは自分の名前を聞くと、ルークの足元へ寄った。そして、いつものようにルークを見上げる。


「ごめん、今朝は持ってないんだ」


「わふ」


「本当だって」


 ルークが困ったように私を見る。


「確認させれば、納得すると思います」


 ポケットの中に干し肉の入った布袋がないとわかると、ロブはあっさり離れた。


「疑われていたようだな」


「前に干し肉をくれたから、覚えてるんですよ。おやつに対するロブの記憶力は侮れません」


 少し笑ってから、私は声を落とした。


「何かわかりましたか?」


 ルークの顔が、騎士団長のものへ戻る。


「まだ、決定的なものは何も。ロブが見ていた方角を、城壁の外まで調べました。見張りの交代記録にも不審な点はありません」


「『灰の狩人』のことは?」


「王都の治療所と鍛冶場、兵士や傭兵の記録を当たっています。右手に火傷の痕がある者は何人も見つかりましたが、どれも鍛冶仕事で負った傷でした。バルドの証言だけでは、これ以上は絞れません」


 顔を隠し、声まで変え、偽名を使って罠を注文した人物だ。


 何か月も前から準備していた相手が、簡単に尻尾を出すはずはない。


「昨夜、ロブが唸ったのも、その人でしょうか」


「わかりません。ですが、相手がロブの居場所を確かめに来た可能性はあります」


 私は反射的にロブを見た。


 ロブはガレドさんにもらった林檎の欠片を、食べるのに夢中だ。


 誰かに狙われているなんて、少しも感じていない顔だった。


「警備を増やす以外に、今できることがないのが正直なところです」


「ルークは、ずっと調べてくれてるじゃないですか」


「それでも、相手を止められていません」


 低い声には、苛立ちよりも悔しさがあった。


「エレナには窮屈な思いをさせますが、しばらく王宮の外へは――」


「出ません。ロブも。約束します」


「わん」


 呼ばれたと思ったロブが、元気よく返事をした。


「ほら、ロブも」


「内容を理解しているでしょうか」


「たぶん、全然」


 ルークの表情が、ほんの少しだけやわらいだ。


 けれど、すぐ詰所から呼ばれ、彼は戻っていった。


 私はロブと散歩を続けた。


 青い空、きれいに刈られた芝生、朝露に濡れた花壇、噴水の水音。


 平和な景色なのに、どこを見ても騎士の姿が目に入る。


 王宮に来たばかりのころは、豪華な部屋にも、王族と話すことにも慣れなくて、元の世界へ帰る方法ばかり考えていた。


 今は、この世界にも知っている顔が増えた。


 ロブを神獣ではなくロブとして見てくれる人もいる。


 それでも、ときどき思う。


「普通に暮らしたい」


 口から出た言葉は、自分で思っていたより弱かった。


 ロブが足を止める。


「仕事に追われてた日本の生活に戻りたいわけじゃないよ。散歩して、ごはんを食べて、今日は何をしようって考えるくらいでいいの」


 契約者でも、神獣でもない。


 誰かに狙われることも、魔獣が傷つけられることもない。


 ただの私と、愛犬のロブとして。


 ロブは私を見上げ、前足を私の靴へ乗せる。


「抱っこ?」


「わふ」


 抱き上げると、ロブは私の頬をぺろりと舐めた。


「……慰めてくれてる?」


 もう一度、頬を舐める。


 でも、すぐに私の肩越しへ鼻を伸ばした。後ろから来る侍女の籠に、焼きたてのパンが入っているのだろう。


「パンの匂いだったの?」


「わん」


 いつもどおりの返事に、私は笑ってしまった。


「うん。ロブはそれでいいよ、そのままでいてね」


 ロブが一緒なら、どこにいても私たちの暮らしは作れる。


 そう思えた、そのときだった。


 王宮の門の方角から、激しい馬の蹄の音が響き、庭園にいた騎士たちが、一斉に顔を上げる。


 土埃を上げて門をくぐった馬から、伝令の騎士が転がるように降りた。


「ルーク団長はどちらですか! 森の近くのラダ村より、急報です!」


 穏やかだった朝の空気が、一瞬で変わった。


     ◇

 

 私が知らせを聞いたのは、国王陛下の執務室だった。


 長い机の上には森周辺の地図が広げられ、ラダ村の位置に小さな駒が置かれている。


「昨夜、村の近くにいた魔獣が、何者かに連れ去られたらしいとのことです」


 伝令の言葉に、部屋の中が静まり返った。


「討伐されたのではなく、連れ去られたのか」


 国王陛下が確かめる。


「はい。村人が複数の男の怒鳴り声と、大きな荷車の音を聞いています。獣の鳴き声は森から街道へ遠ざかり、その後、聞こえなくなったと」


「魔獣の種類は」


 ルークが尋ねた。


「岩角熊と思われます。村の北側にある岩場を縄張りにしていた魔獣です」


 岩角熊。大きな熊の姿が浮かぶ。


「村を襲っていたんですか?」


「いいえ」


 伝令は首を振った。


「村長によれば、長く近くに棲んでいたものの、人里へ下りたことはないそうです。昨夜も、魔獣が村を襲ったのではなく、人間たちが森へ入ったようだと」


 国王陛下が地図へ視線を落とす。


「現場は保存されているか」


「村の者には近づかぬよう伝えました。ただ、夜のうちに雨が少し降っています」


「すぐに調査隊を出せ。ルーク、お前が指揮を」


「承知いたしました」


 私はロブを抱き直した。


「私たちも行きます」


 ルークが即座にこちらを見る。


「危険です」


「でも、例の罠が使われたなら、ロブが何か気づくかもしれません」


「昨夜、不審なことがあったばかりです」


「王宮に残れば絶対に安全、とも言えません」


 自分でも、怖くないわけではなかった。


 普通に暮らしたいと、さっき言ったばかりだ。


 それでも、連れ去られた魔獣がいると聞いて、何もせずに待っていられない。


 ロブは私の腕から降りたがり、床へ下ろすと、地図が置かれた机の前まで行った。


 そして、じっとルークを見上げる。


「わん」


「ロブも行くって言ってます」


「俺が持っているおやつが欲しいだけでは」


 ロブの視線は、確かにそちらへ向いている。


「……半分くらいは、行く気だと思います」


 ルークは眉間を押さえている。


 国王陛下はしばらく私とロブを見比べ、やがて言った。


「同行を許可しよう。ただし、現場が危険と判断された場合は、すぐに戻ること。ルークの指示には必ず従うように」


「はい」


「ロブを守るための判断でもある」


 その言葉に、私は深く頷いた。


     ◇

 

 王都を出た馬車は、街道を北へ急いだ。窓の外を畑と草原が流れていく。


 同行するのはルークの他、騎士八人と、罠や薬品に詳しい王宮の魔術師だった。


 私の向かいに座っているルークは、膝の上で地図と報告書を見比べていた。


「岩角熊は、人を襲う魔獣ではないのですか?」


「縄張りへ入れば襲うことはあります。ただ、本来は人里を避けます。ラダ村で被害の記録がないなら、村人と一定の距離を保っていたのでしょう」


「黒牙狼と同じですね」


「ええ。人の近くにいても、争うことなく暮らす魔獣は多い」


 それを誰かが傷つけ、捕まえたのか。


 ロブは私の膝で眠っていた。


 馬車が大きく揺れても目を開けない。王宮を出る前に、料理長からもらった鶏肉を食べたから満足しているらしい。


「これまでは、傷ついた魔獣が暴れていると思っていました」


 私は窓の外を見ながら言った。


「罠を仕掛けた人は、魔獣が嫌いで、追い払おうとしているのかもしれないって。でも、捕まえて運んでいるなら」


「傷つけることが目的ではなかった」


 ルークが続ける。


「弱らせ、恐怖と怒りで判断を奪い、捕らえやすくしていた」


「魔獣を集めるために」


 一体何が目的なのだろう。


 黒牙狼や狐の魔獣も、すでに捕まっているのか。


 ロブが寝返りを打ち、私の手へ鼻先を押しつけた。


 私は、その背中をゆっくり撫でた。


 ラダ村は、森と岩山の間にある小さな村だった。


 木造の家が十数軒。畑には背の低い麦が揺れ、柵の向こうでは放牧された山羊が草を食んでいる。普段なら静かな村なのだろう。


 けれど今は、村の広場に不安そうな顔をした人たちが集まっていた。


「騎士様、こちらです」


 村長だという白い髭の老人が、私たちを案内する。


 村の北側を抜けると、畑の先に深い森が見えた。その手前には、岩がいくつも重なった場所がある。


「岩角熊は、あの岩山の奥に棲んでおりました」


「いつからですか」


「わしが子どものころには、もう。一頭です。春には岩山で暮らし、冬が近づくと森の奥へ入ります。こちらが近づかなければ、害を与える事もありません。村へ来たこともありませんでした」


 村長は荒れた地面の前で立ち止まった。


 草が広く倒れ、土が深くえぐれている。


 大きな爪痕。何本もの靴跡。引きずられたような二本の筋。


 そして、街道へ続く荷車の轍。


 車輪の跡は、普通の荷車よりずっと深かった。


「夜中に、地面が揺れるような音がしました」


 村長の後ろにいた女性が言った。


「窓から見たら、森のところに灯りがいくつもあって。男たちが『縄を引け』『眠るまで近づくな』と叫んでいました。獣の声もして……でも、怖くて外へ出られませんでした」


「人数はわかりますか」


「六人か、七人。もっといたかもしれません。顔は見えませんでした。皆、黒っぽいローブを着ていました」


「荷車はどちらへ」


「北の旧街道です。大きな檻のようなものが載っていました。布が掛けられていて、中は見えませんでしたが」


 ルークが騎士たちへ目配せをする。


「足跡と轍を記録しろ。街道にも二人出せ。ただし深追いはするな」


「はっ」


 騎士たちが散っていく。


 私はロブを地面へ下ろした。


 ロブはすぐに倒れた草の匂いを嗅ぎ始めた。


 いつものようにあちこちへ鼻をつけているように見える。でも、尻尾は下がり、耳が後ろへ倒れていた。


「怖い匂いがする?」


「くぅん」


 小さな声に、胸が締めつけられる。


 王宮の魔術師が土へ手をかざした。


「弱い魔力の残滓がありますが、雨でほとんど流されたようです」


 ルークは草の下へ手を伸ばし、鉛色の金具を拾い上げた。


 二重になったばね。片側は無理に折られ、金属が歪んでいる。


「あの罠と同じ作りだ」


 今まで森で見つけた罠は、仕掛けられたままか、獲物に壊されていた。


 でも、これは違う。


 罠にかけたあと、人が回収しようとして一部だけ残ったのだろう。


「岩角熊が暴れて、誰かが仕方なく連れ去ったわけじゃないんですね」


「ええ」


 ルークは金具を布で包んだ。


「初めから、捕らえるために来ているのでしょう」


 村長が青ざめた顔で森を見る。


「なぜ、あの魔獣を連れていくのです。角も毛皮も、珍しいものではありません」


 誰も答えられなかった。


 魔獣を傷つけただけではない、魔獣を集めている者がいる。


 ばらばらに見えていた出来事が、つながり始めていた。


「黒牙狼も、茜火狐も」


 思わず声が出た。


「捕まえるために、あんなことをしたのかもしれない」


 ロブが顔を上げる。


 次の瞬間、ロブが地面を強く蹴った。


「ロブ!」


 止める間もなく、ロブは倒れた草を飛び越え、村の裏手へ向かって走る。


 いつもの散歩で鳥を追いかける速さではない。


 耳を後ろへなびかせ、私を振り返ることなく駆けていく。


「ロブ!」


 ロブを追って、私は走り出した。


 ルークと騎士たちも、すぐ後を追う。


 ロブは畑の脇の細い道へ入った。


 ぬかるみに足を取られそうになりながら、私も追いかける。


「ロブ、止まって!」


 呼んでも、ロブは止まらない。


 道は森の縁に沿って続き、やがて古い小屋の前へ出た。


 崩れた屋根に傾いた壁、積まれたまま腐った薪が見える。


 ロブは小屋を通り過ぎ、その裏にある茂みへ飛び込んだ。


 私も必死にロブを追う。茂みの先は細い獣道になっていた。枝が腕に当たり、痛みを感じたが、ロブの白い尻尾を見失うわけにはいかない。


 地面には、ところどころ黒い毛が落ちている。


「岩角熊の毛です!」


 追いついた村の猟師が叫んだ。


 ロブは毛の匂いを追っているのだ。


「ロブ、待って!一人で行かないで!」


 悲鳴にも近い私の声が届いたのか、少し先でロブが一度だけ振り返った。


 でも、すぐにまた走り出す。


 獣道は森の中へ深く入り、朝なのに薄暗い。鳥の声も聞こえない。


 足元には、確かに誰かが通った跡があった。


 折れた草。木の幹を擦った太い縄の跡。土に残る、重いものを引きずった筋。


 追える。まだ、追いつけるかもしれない。


 そんな期待が胸に浮かんだとき、前を走っていたロブが急に止まった。


 大きな樫の木の下だった。


 ロブは地面へ鼻をつけ、同じ場所を何度も行き来している。


「ここに、何かあるの?」


 息を切らしながら近づくと、ロブは前足で土を掻いた。


 落ち葉の下から、罠の一部である鉛色の金属が現れた。


 周りの土には大きな穴が四つ並び、太い杭を抜いた跡が残っている。


 樫の幹には、新しい縄の傷。そして地面には、荷車を停めたらしい二本の轍。


「ここで檻へ移したのか」


 ルークが周囲を見回した。


「岩場で捕らえ、ここまで引いた。荷車は村のそばへ長く置けないから、森の陰で待たせていたんだ」


 轍は樫の木の先で獣道を外れ、北へ曲がっている。


 けれど、その先は硬い岩場であり、車輪の跡は、そこで途切れていた。


 ロブはなおも地面を嗅いでいる。


 やがて、短くくしゃみをした。


「へくし」


 もう一度、鼻を近づけようとして、嫌がるように顔を背ける。


「この匂い……」


 私にもわかった。


 甘いのに、喉の奥へ苦さが張りつくような匂い。


 森で茜火狐を見つけたとき、壊れた罠に残っていたものと同じだった。


「触れないでください」


 王宮の魔術師が私たちを下がらせ、小さな布で土を採った。


 薬品へ反応する粉を振りかけると、白かった粉が暗い紫色へ変わる。


「ディート医師がおっしゃっていた薬品と同じものです。恐怖と怒りを強め、魔獣を興奮させる効果があります」


「眠らせたのではないんですか?」


「おそらく、別の薬も使ったのでしょう。暴れさせて体力を奪い、最後に眠らせる。大型の魔獣を捕らえるなら、理にかなった方法です」


 理にかなっている。


 その言葉が、ひどく冷たく聞こえた。


 誰かが、魔獣を苦しませることを一つの手順として考えている。


 怖がらせる量も、弱るまでの時間も、檻へ入れる方法も。


 ロブが低く鼻を鳴らした。


 樫の根元には、黒い毛に混じって血が少し残っていた。


「魔獣もきっと痛かったよね」


 私はしゃがみ、ロブの背中へ手を置いた。


「怖かったよね」


 ロブは血の跡を見つめている。


 いつもなら、知らない場所へ来れば匂いを嗅ぎ、私を見て楽しそうに尻尾を振るロブ。


 今は、尻尾が全く動かない。


 ルークが追跡に出した騎士たちを待つ間、私たちは岩山の周辺を調べたが、連れ去った人物につながるものは何も見つからなかった。


 やがて、二人の騎士が戻ってくる。


「旧街道を三里ほど追いましたが、轍を見失いました」


「どういうことだ」


「川へ入っています。浅瀬を下ったようですが、対岸へ出た場所がわかりません。上流と下流へ人を出しましたが、痕跡が多すぎます」


 川を使って車輪の跡と匂いを消したと言うことは、相手は、追われることを最初から考えていたのだ。


「村人が音を聞いたのは、夜の何時ごろですか」


「日付が変わる少し前です」


 村長が答える。


 今は、もう昼を過ぎている。


 雨も降った。川も通った。きっと荷車は、ずっと遠くへ行ってしまっているだろう。


「遅かった……」


 口にした途端、力が抜けそうになった。


 ロブが走っていたとき、一瞬だけ、助けられると思った。


 でも、見つけたのは残された罠と、血と、消された跡だけだ。


「ロブが見つけてくれたのに」


 私は唇を噛んだ。


「何もできない……」


 ロブは私の膝へ前足を乗せた。


 抱き上げると、土で汚れた鼻先を私の頬へ押しつける。


「ごめんね」


 誰に謝っているのか、自分でもわからなかった。


 連れ去られた岩角熊に?助けを求めていたかもしれない黒牙狼と茜火狐に?


 走ってくれたロブに?


「エレナ」


 ルークの声がした。


「何もできなかったわけではありません」


 彼は、回収した罠の一部を見せる。


「相手が魔獣を捕らえていること。大型の荷車と複数の人間を使っていること。旧街道と川を逃走経路にしていること。それがわかりました」


「でも、岩角熊は」


「今は助けられません。ですが、次に間に合うための手がかりです」


 今は。


 やっぱり、悔しい。


 でも、ルークも同じ顔をしていた。


「北の街道と川沿いの村へ、すぐに手配します。倉庫、廃鉱、使われていない砦。大型の檻を隠せる場所をすべて洗います」


「何頭集められていると思いますか」


 ルークはすぐに答えなかった。


「罠の注文数だけを考えれば、一頭や二頭ではないでしょう」


 気が滅入る。


 ロブは私の腕から、岩山の方を見ている。


 風が森を抜け、木々がざわめいた。


 その中に、助けを呼ぶ声が混じっているような気がした。


「戻ろう。ちゃんと探すために。今度は、間に合うために」


 私はロブに言った。


「わん」


 ロブの返事は、いつもと同じだった。


 けれど、その目は消えた轍の先を、いつまでも見つめていた。


     ◇


 王都から遠く離れた、名もない森の奥。


 崩れかけた石壁に囲まれた建物が、夕闇の中に沈んでいた。


 かつては砦として使われていた場所だったが、今は道すらも地図から消え、近くを通る者もいない。


 地下へ続く石段の先で、重い扉が開いた。


 鎖がじゃらじゃらと鳴り、獣の唸り声がする。


 湿った石と、血と、薬品の匂いに満ちた広い地下室には、いくつもの檻が並んでいた。


 最初の檻には、黒牙狼がいた。


 王宮の庭でロブと小枝を追いかけた黒い狼は、後ろ足を鎖でつながれている。傷口には黒い薬がこびりつき、近づく人間へ牙を見せながら、立ち上がろうとしていた。


 隣の小さな檻には、茜火狐がうずくまっている。


 森でロブを見つめていた魔獣だろうか。


 細い前足には罠の傷が残り、体を丸めたまま動かない。


 その先も、檻が並ぶ。


 角のある白い兎。


 翼を傷めた青い鳥。


 石の鱗を持つ大蜥蜴。


 尾が二つに分かれた猫。


 どの魔獣も傷つき、怯え、暗い檻の奥から人間を睨んでいる。


 地下室の中央では、男たちが新しい檻から太い縄を外していた。


 鉄格子の内側で、大きな影が身じろぎする。


 岩のような角を額に持つ熊が、苦しそうに息をしていた。


「薬が効きすぎたんじゃないか」


 男の一人が言う。


「死にはしない。夜明けには目を覚ます」


 黒いローブの人物が答えた。


 低く歪められた声は、男とも女ともわからない。


 ローブの人物は、檻の間をゆっくり歩いた。


 黒牙狼が鉄格子へ体当たりする。


 鎖が激しく鳴り、周りの男たちが後ずさった。


 けれど、ローブの人物だけはたじろぐことなく、手袋を外した右手を上げる。


 手の甲から指先まで、炎に焼かれたような歪な痕が走っていた。


「よく集まった」

 

 火傷痕のある手が檻に触れると、黒牙狼は唸りながら牙を向く。


「怖いか。憎いか。まだ足りない」


 ローブの人物は、楽しんでいるようにも、何かを確かめているようにも見えた。


 地下室の奥には、ほかの檻より大きな、空の檻がひとつ置かれている。


 銀色の鎖。


 魔術の文字が刻まれた首輪。


 その空の檻の前だけ、床に複雑な紋様が描かれていた。


 ローブの人物は、その前で止まり、火傷痕のある右手を、ゆっくり握りしめた。


「あと一頭……」


 静かで不気味な声が、獣たちの唸りの中へ落ちる。


 黒牙狼が、遠吠えを上げた。


 助けを求めるような、長く、悲しい声だった。


 けれど厚い石壁の外には届かない。


 黒いローブの人物だけが、その声を聞いていた。


 そして、王宮にいる小さな白い犬を思い浮かべるように、静かに笑った。


 ――第八話おわり

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