第七話 神獣を狙う者
契約者という存在に戸惑うエレナ。そんなエレナをある人物が元気づけてくれた…
大神殿から帰った翌日、私は窓辺の椅子に座り、何度目かわからないため息をついた。
窓の外には、穏やかな王宮の庭園が広がっている。庭師のガレドさんが花壇の手入れをし、遠くでは侍女たちが洗濯物を干していた。
私の足元では、ロブが気持ちよさそうに昼寝をしている。
「契約者かぁ」
フェリアス大神官が言った言葉を思い出す。
神獣が自ら選び、心を預ける人間。神獣の声を聞き、人へ伝える者。人の恐れを、神獣へ伝える者。
立派な話だ。でも、私にできる気がしない。
「契約者なんて無理…」
「わふ」
ロブは寝たまま返事をした。
「ロブ、気楽そうじゃん。私もただ、ロブのごはんを考えて、散歩に連れて行ってるだけの毎日を過ごしたいよ…」
ロブは後ろ足を一度だけぴくりと動かした。
夢の中で走っているのかもしれない。
そこへ、アレクシス王子が訪ねてきた。
「入る。休んでいるところだったか」
「ロブは休んでます。私は、考えすぎてます」
王子はロブを見て、少しだけ表情をやわらげた。
「大神官の話だな」
「はい。神獣の契約者だなんて、急に言われても」
「エレナは、すでにロブと心を通わせている」
「それは飼い主としてです」
「それで、十分ではないだろうか」
私は顔を上げた。
王子は窓の外を見ながら、静かに続ける。
「契約者という言葉があれば、皆はお前に特別な役目を求めるだろう。だが、ロブが信じているのは肩書きではない。怖いときに抱いてくれる人。嬉しいときに一緒に笑ってくれる人だ」
ロブは王子の声に気づいたのか、目を薄く開けた。
「わん」
「起こしたか」
ロブは起き上がると、王子の手を舐め、また私の足元へ戻った。
王子が微笑む。その横顔は絵画のように美しい。完璧だ。
実は私は王子の顔が好きだ。王子に会う機会はあまりない。今日はしっかりこっそり見ておこう。
私は王子に気づかれないようにそっと彼を盗み見る。一見冷たそうに見える王子の微笑み、尊い。
「か、顔がいい」
「古文書の写しは、私の執務室に用意してある。ロブも連れて来い」
「はい」
ハッとして我に帰り、私は何事もなかったように頷いた。
◇
アレクシス王子の執務室は、スッキリと整っていた。
大きな机の上には書類が何段にも分けられ、壁際の棚には分厚い本が隙間なく並んでいる。明るい光が差し込む窓際には小さな鉢植えが置かれていた。
ロブは早速、部屋を探検しはじめる。
机の脚をくんくん、椅子の下をくんくん。王子の上着が掛けられたコートハンガーの前で立ち止まる。
「ロブ、勝手に入らないでね」
「わん」
返事をしてから、ロブは再び机の下へ潜った。
「神獣様は、何かを探しておられるのですか」
王子の秘書官が、緊張した声で尋ねる。
「たぶん、匂いチェックです」
「匂い……」
ロブは次に、壁際のサイドボードの前で鼻を上げた。そこには小さな袋が置いてある。
「あれは何ですか?」
「乾燥させた薬草だ。眠気覚ましに茶へ入れる」
王子が答える。
ロブは薬草の匂いを嗅いで、くしゃみをした。
「へくし」
秘書官が息をのんだ。
「神獣様が、薬草へ反応を」
「ただのくしゃみです」
「ですが、何か悪しきものを感じ取られたのでは」
「ただ、鼻がむずむずしただけでしょう」
アレクシス王子が口元を押さえた。笑っている。
「笑いました?」
「いや、咳だ」
「……(笑顔、いただきましたぁ、ナイスです、秘書官様)」
ロブがようやく私の椅子の足元へ戻ってきた。前足を揃え、文書のほうを見ている。
「もう匂いチェックは終わったの?」
「わふ」
私は慎重に古い文書の写しを開いた。
そこには、三百年前の契約者の日記の一部が記されていた。
王子は日記の写しを手に取り、先ほどより真剣な表情で言った。
「契約者は神獣へ何かを命じる者ではない。むしろ、神獣が何を伝えようとしているのかを、人が取り違えないようにする役目だったらしい」
「取り違えないように」
「神獣が足を止めたとき、周囲の者は『敵がいる』『危険がある』と考える。だが契約者は、神獣の表情や行動を見て、傷ついた者がいるのではないか、怖がっている者がいるのではないかと考えた」
私は黒牙狼を思い出した。
騎士たちが剣を抜いたとき、ロブは黒牙狼に尻尾を振っていた。
「私は、ロブが普通の犬だと思っているから、そう見えるだけだと思うんですが」
「それは悪いことではない」
王子の声は、静かだった。
「私は最初、ロブを伝承の神獣として見た。国を救う存在か、国を揺るがす存在かを見極めようとした。だが、お前は最初から、ロブが怖がっていないか、腹を空かせていないかを見ていた」
「それは、飼い主ですから」
「そうだ。だが、その当たり前を忘れる人間は多い」
王子は視線を日記へ落とした。
「契約者という言葉に、お前が押し潰される必要はない。ロブの飼い主でいればいい。私たちは、そのお前の声を聞く」
胸の中にあった重いものが、少しだけほどけた気がした。
ロブは私の足へ顎を乗せる。
「ロブは、契約者なんて考えてないよね」
「わん」
「考えていない顔だな」
――人は、牙を向ける獣を恐れる。だが神獣は、その牙の奥にある痛みを先に聞く。
――神獣は傷ついた魔獣の声を最初に聞く。ゆえに、我らは神獣が足を止めた理由を、決して急かしてはならない。
指先が少し震えた。
傷ついたドラゴン。
庭園に現れた黒牙狼。
罠にかかっていた狐の魔獣。
ロブはいつも、傷ついている子のところへ最初に行った。
「ロブは、何も考えていない顔をしていますが、傷や恐怖を感じ取っているのかもしれません」
「それでも、ロブが足を止めるときには意味がある。俺たちは、その意味を見落とさないようにしよう」
王子は文書を丁寧に畳んだ。
「エレナが、ロブの普段を知っているからこそ、違う行動にも気づけるのだ」
私は、うとうとし始めたロブの背中を撫でた。
契約者になれるかどうかは、まだわからない。
でも、ロブが何を怖がり、何を喜ぶかを見失わないようにしたい。
それなら、私にもできると思った。
◇
その頃、ルークは騎士団詰所で、罠の捜査を進めていた。
王都の鍛冶師たちへ確認した結果、似た作りのばねを何度も注文した人物がいることがわかったのだ。
「注文は三か月前から。月に一度、十組から二十組ずつ」
鍛冶師バルドが、帳面を指で叩いた。
「顔は隠していた。声も低くしていたから、男か女かもわからん。ただ、代金はいつもきっちり払った」
「名前は?」
「偽名だろう。『灰の狩人』と名乗った」
ルークの目が鋭くなる。
「ほかに覚えていることは」
バルドはしばらく考え込み、やがて自分の右手を見た。
「右手だ。手袋を外して銀貨を取り出したとき、手の甲から指にかけて大きな火傷の痕があった。古い痕だが、ひどいものだった」
「火傷の痕」
「ああ。鍛冶仕事の火傷とは違う。火に巻かれたような、広い火傷痕だった」
ルークはすぐに、記録係へ命じる。
「王都の治療所、鍛冶場、兵士の名簿を確認しろ。右手に大きな火傷の痕がある者を探す。ただし、本人へ悟られるな」
「承知しました」
「『灰の狩人』が次に来たら、必ず知らせろ。追跡は俺が行う」
夕方、ルークはその報告をエレナへ伝えに来た。
エレナはちょうどロブのブラッシングをしていた。ロブは耳の付け根を梳かされ、気持ちよさそうに目を閉じている。
「火傷の痕がある人ですか」
「ええ。まだ、それだけです」
「でも、罠を作らせていた人がいるんですね」
「人為的であることは、ほぼ間違いありません」
ロブが前足を伸ばして、あくびをした。
「ふあぁ」
事件の話をしていても、ロブは変わらない。
それが救いでもあり、少しだけ怖かった。
夕食時、王宮の料理長がロブ専用の夕食をわざわざ持ってきた。
鶏肉を細かくほぐしたもの。温野菜。煮たかぼちゃ。そして、食後用の小さな焼き菓子。
「先日の森の調査でお疲れになった神獣様へ、心を込めて」
ロブは立派な皿を確認したあと、鶏肉から食べ始めた。
料理長はその様子を、まるで神聖な儀礼を見守るように見つめている。
「神獣様は、まず肉を選ばれた」
「ロブは鶏肉が大好きなので」
「次に野菜を残されるかどうかで、明日の献立を」
「野菜も食べます。かぼちゃは好きです」
ロブはその通り、かぼちゃをきれいに食べた。
料理長が感極まったように胸へ手を当てる。
「神獣様は、王宮の畑で育った恵みをお認めくださった」
「普通に甘いから好きなんです」
私は、何度目かわからない説明をした。
ロブは、私のパンを小さくちぎったものまで食べると、満足そうにお腹を見せた。
料理長は静かに皿を下げながら言った。
「神獣様がよくお休みになれますよう、今夜は鶏の骨を煮た香り袋をお部屋へ…」
「それは興奮して、逆に眠れなくなると思いますっ」
私は慌てて止めた。
ロブは私の横で、すでに寝る準備を始めていた。
事件が迫っていても、食べて、寝て、撫でてもらう。
その当たり前を、私は守りたい。
誰かがロブの力を知ったら。
誰かが、ロブを利用しようとしたら。
私は守れるだろうか。
その夜、王宮は静かだった。
昼間の暑さが抜け、窓から入る風は少し冷たい。私は眠れず、ベッドの上で何度も寝返りを打っていた。
ロブはクッションで眠っていたはずだった。
けれど、突然、ロブが低く唸った。
「……ロブ?」
今まで聞いたことがない声だった。
ロブは窓の前に立っている。耳を伏せ、背中の毛を逆立て、闇の向こうを睨んでいた。
「ゔう……」
遊びたいわけでも、怖いわけでもない。明らかに、何かを警戒している。
私はすぐにベッドから降り、ロブのそばへ行った。
「どうしたの? 何がいるの?」
窓の外には、夜の庭園がある。
月明かりに石畳が白く浮かび、噴水の水がかすかに光っている。見張りの騎士が遠くを歩いているだけで、ほかに人影は見えない。
それでもロブは唸り続ける。
「騎士団長を呼んでください」
私が扉の外の護衛兵へ声をかけると、すぐにルークと騎士たちが来た。
「エレナ、無事ですか」
「私は大丈夫です。でもロブが。外に向かって唸っているんです」
ルークは窓の外を確認し、騎士たちへ短く命じた。
「庭園と外壁を調べろ。灯りを増やせ。見つけても単独で追うな」
騎士たちが散っていく。
ルークはロブの前へしゃがんだ。
「ロブ。何か匂いがするのか?」
ロブはルークを見ることもなく、外を見ている。
やがて、小さく鼻を鳴らした。
それから私の足元へ戻り、震えるように体を寄せた。
「大丈夫だよ。一緒にいるからね」
私はロブを抱き上げた。
しばらくして、騎士たちが戻ってくる。
「異常はありません。庭園にも、外壁にも侵入者の痕跡はありませんでした」
ルークは険しい顔で、窓の外を見つめていた。
何もいない。
でも、ロブは確かに何かを感じていた。
「今夜は、警備を増やします」
「ルーク……」
「大丈夫です。誰にも近づかせません」
その声は低く、力強かった。
ロブはルークの手を一度だけ舐め、私の腕の中で目を閉じた。
◇
王宮の城壁の外。
木々の影に、黒いローブの人物が立っていた。
王宮の灯りを、遠くから見つめている。
右手には、月明かりの下でもわかる、歪な火傷の痕があった。
ローブの人物は、窓のひとつを見上げる。
そこに、小さな犬の影が見えた。
「見つけた」
低い声は、夜の風に溶けた。
――第七話おわり




