第六話 神獣様、大神殿に招待される
大神殿に招待されたエレナとロブ。大神官からもたらされた言葉とは?
ある朝、私たちの部屋に一通の手紙が届いた。
厚手の白い便箋には金色の縁取りがあり、封蝋には翼を広げた獣の印が押されている。
「王都の大神殿から?」
私は手紙を持ったまま、何度も宛名を見直した。
そこには、こう書かれていた。
――神獣ロブ様、ならびにそのご加護を賜るエレナ・カンダ様を、大神殿へお迎え申し上げます。
「大神殿が、ロブを?」
足元では、ロブが朝食用のパンを食べ終え、次のおやつが出てこないかと私を見ていた。
「わん」
「そうだよね。ロブは大神殿に呼ばれるような子じゃないよね」
ロブは首をかしげた。
もちろん、呼ばれる理由はある。
この世界の人たちにとって、ロブは三百年ぶりに現れた神獣で、ドラゴンや黒牙狼を落ち着かせた特別な存在だ。
でも私にとっては普通の犬だ。朝になると食パンを欲しがり、ブラッシングの途中で眠くなり、濡れた足が嫌い。
「普通の犬なんだけどな」
私が呟いていると、扉がノックされた。
入ってきたのは、ルークだった。
今日はいつもの騎士服ではなく、濃紺のスーツ姿だった。
ジャケットには銀色の飾り紐が付いていて、フォーマルな雰囲気だ。
「ロブが神獣として大神殿に招かれました。普通の犬なのに」
「でも、大神殿の方々にとっては、犬というだけではないのでしょう」
「それはわかるんです。でも……大神殿って、何をするところなんですか?」
ルークは少し考えてから答えた。
「人々が神々へ祈りを捧げる場所です。旅の安全や、豊作、病からの回復を願う者が訪れます。古い記録や、神獣に関する伝承も保管されています」
「ロブが何者か、調べられるんでしょうか」
「おそらく。大神官は、神獣についての古い文献に詳しい方です」
ロブは神殿の話に興味がないらしく、ルークの靴の匂いを嗅いでから、私の膝へ前足をかけた。
「断ることもできますか?」
「できます。陛下も、無理に行く必要はないとおっしゃっていました」
それを聞いて、少し安心する。
でも、神殿にはロブのことを知る手がかりがあるかもしれない。
ロブがどうしてこの世界で神獣と呼ばれるのか。なぜ魔獣たちがロブの声を聞くのか。これから先、何が起きるのか。
私が知っておくべきことは、きっとある。
「行ってみます」
「よろしいのですか?」
「ロブが嫌がったら、すぐ帰ります。でも、ロブのことを勝手に決められるのは嫌なので。私も話を聞きたいです」
ルークは頷いた。
「では、俺がご一緒します」
「ルークも来てくれるんですか?」
「神殿からの使いが、護衛をお願いしたいと。……それに」
ルークはロブを見た。
「ロブが初めて行く場所では、あなたのほかにも、慣れた者がいるほうがいいでしょう」
ロブはルークの手を一度だけ舐めた。
「わふ」
「ロブも賛成みたいです」
大神殿は、遠くからでもすぐ見つけることができる。
白い石でできた高い建物で、屋根の上には金色の尖塔が何本も伸びている。
中央の大きな塔には、朝の光を受けて七色に輝く窓がはめ込まれていた。
馬車が大神殿に近づくにつれ、私はだんだん落ち着かなくなってきた。
「すごいですね」
「大神殿は、この国で最も古い建物のひとつです」
ルークが窓の外を見ながら言う。
「建国の王がこの地に都を置いたときから、祈りの場所だったと聞いています」
「そんな場所に、ロブを連れて行って大丈夫かな」
「ロブは、普段どおりで構いません」
ロブは私の膝で、あくびをした。
馬車を降りると、長い石段の上に、純白のローブを纏った神官たちが並んでいた。
年配の人も、若い人もいる。全員が胸元で手を組み、こちらを見つめている。
先頭に立つ細身の神官が、一歩前へ出た。
「神獣ロブ様。ようこそ、大神殿へ。本日ご案内させていただくロジェと申します」
神官たちが一斉に深く頭を下げた。
私は反射的にロブを抱き上げた。
「えっと、ロブです」
「はい。神獣ロブ様」
「普通の犬でもあります」
「はい。神聖なる、尊き犬でいらっしゃいます」
少し前まで、王宮の人たちがロブを神獣として扱うことに慣れないと思っていた。
でも神殿の人たちは、その上を行くようだ。
神官たちはロブが前足を動かしただけで、息をのむ。ロブが鼻を鳴らすと、近くの神官が感動したように目を閉じる。
「神獣様は、神殿の香りをお確かめになっておられる」
「たぶん、初めての場所の匂いが気になるだけです」
「建物のひとつひとつにも宿る祈りを、お感じに……」
話がどんどん大きくなる。
大神殿の内部は、外から見た以上に豪華だった。
高い天井には、星空のような模様が描かれている。
壁を飾る色ガラスから、赤や青、金色の光が差し込み、白い床の上で揺れていた。
柱には翼のある獣や、角を持つ馬の彫刻があり、どの顔も穏やかだった。
思わず息を止めて見惚れてしまうほど、静かで、荘厳で、美しい場所。
でもロブは、その美しさにはまったく興味がなかった。
ロブは私の腕の中から身を乗り出し、右のほうを見ている。
そこには祭壇があった。
白い布の上に、果物、丸いパン、焼き菓子、小さな壺などが、きれいに並べられている。
「ロブ?」
「わん」
ロブの尻尾が揺れた。
「あれは、お供物だよ」
「わふ」
ロブは私の腕から抜け出そうとした。
神官たちは一瞬、驚いた顔になったあと、すぐに道を開けた。
「神獣様が、祭壇へお進みになる!」
「お供物をお受け取りくださるのですね!」
ロブは床へ下りると、まっすぐ祭壇へ向かった。石の床を、短い足でてくてく歩いていく。その後ろを、神官たちが緊張した顔で見守る。
ロブは祭壇の前で止まり、鼻を上げた。
くん。
くん、くん。
果物を嗅ぐ。蜂蜜を嗅ぐ。丸いパンを嗅ぐ。
そして、一番端に置かれた小さな干し肉へ鼻先を近づけた。
「……あ」
ロブは私を見た。
「わん」
「欲しいの?」
「わふ」
神官たちが、再び一斉に息をのむ。
「神獣様が、供物をお選びになった」
「神殿の祈りをお受け取りくださったのだ」
「干し肉が好きなだけです」
「なんと慈悲深い……もっとも質素な供物を」
なぜそうなるのだろう。
ロジェ神官が、笑みを浮かべた。
「どうぞ、お与えください。神獣様がお望みなら、それがもっとも尊いことです」
「いいんですか?」
「もちろんです」
私は干し肉を一枚だけ取った。
「ロブ、ひとつだけね」
ロブは嬉しそうに食べた。その小さな咀嚼音まで、静かな神殿に響くような気がする。
神官のひとりが、目元をぬぐった。
「三百年ぶりに、神獣様が我らのお供物を……」
「おやつだと思っていただけ……」
ルークが横で、少しだけ咳払いをした。笑いを堪えているのがわかる。
「ルーク、笑わないでください」
「笑っていません」
ロブは干し肉を食べ終えると、満足そうに私の足元へ戻ってきた。
金色の刺繍が施された純白のローブを着た神官が、ロブと私に向かって静かに礼をした。
「ようこそおいでくださいました。私は大神官のフェリアスと申します。大神殿にお越しいただき、心より感謝いたします」
その姿には、他の神官たちの大げさな感動とは少し違う、穏やかな敬意があった。
大神官は祭壇の脇に置かれた低い長椅子を指した。
「どうぞ、少しお休みください。ロブ様にも水をご用意いたします」
すぐに神官が、銀の器へ水を運んできた。
ロブは器を一度嗅ぎ、私を見た。
「飲んでいいよ」
そう言うと、ロブはぺろぺろと水を飲み始める。
水皿のそばには、白い布が敷かれ、さらに小さな花まで飾られていた。
「神獣様のお水も、神殿の泉から汲んだものです」
「ありがとうございます。でも、ロブは普通のお水も飲みます」
「日々の水を尊ぶことも、神獣様のお教えなのですね」
「たぶん違います」
私が言っても、神官は微笑むだけだった。
少し離れたところでは、数人の若い神官が、ロブへ近づいてよいものか迷っている。全員、手を胸の前で組み、こちらをちらちら見ていた。
そして、恐る恐るという感じで若い神官が口を開いた。
「神獣様に触れさせていただいてもよろしいでしょうか」
「ロブが怖がらなければ大丈夫です。手の甲を、先に見せてあげてください」
若い神官のひとりが、ゆっくり近づいてきた。
「こ、こうでしょうか」
私は頷いた。
ロブは彼の手の匂いを嗅いだ。神官は緊張のあまり、まったく動けない。
しばらくしてロブは、自分からその手の下へ頭を入れた。
「わふ」
「あ……」
神官は、壊れ物に触れるような手つきでロブの背中を撫でた。
ロブは耳を少し倒し、目を細める。
「触れさせてくださった……」
「ロブは背中を撫でてもらうのが好きなんです」
「神獣様が、我らの敬意をお受け取りくださったのですね」
もう訂正するのは諦めた。
隣の神官も、今度は自分から手の甲を差し出した。ロブは同じように匂いを嗅ぎ、今度は少し考えてから顔を背ける。
「……お気に召さなかったのでしょうか」
神官が青ざめる。
「いえ、たぶん香油の匂いが苦手なんです。強い匂いだと、くしゃみをすることがあるので」
「香油を落としてまいります!」
「そこまでしなくても……」
でも神官は、すでに早足で去っていた。
ルークが、長椅子のそばで小さく息を吐く。
「神殿の方々は、王宮以上にロブを大切にされますね」
「大切にしてくれるのは嬉しいんですけど、ロブが普通にくしゃみもできなくなりそうです」
「ロブは、くしゃみもよくするのですか」
「しますよ、普通に。春先に鼻がむずむずする事もあります」
その会話を聞いた神官が、真剣な顔でメモを取っていた。
「……春の兆しをお感じになる、と」
どうしても、いい話にしたいらしい。
神殿はとても荘厳で、何百年もの祈りが積み重なった場所なのだと思う。
でもロブにとっては、初めて来た建物で、いい匂いの食べ物があり、優しく撫でてくれる人がいる場所らしい。
それでいい。
私はそう思った。
大神官は私の顔を見て、ふっと笑った。
「エレナ様は、ロブ様が神獣であることを否定なさるのではなく、ロブ様がロブ様であることを守っておいでなのですね」
「……そう、かもしれません」
「それは、簡単なようで難しいことです」
その言葉の意味を考える前に、大神官は扉のほうを向いた。
「では、記録の間へ参りましょう。神殿がロブ様をお招きした理由を、お話しいたします」
大神官は私たちを、神殿の奥へ案内した。
一般の人が祈る礼拝堂を抜けると、回廊が続く。そこから先は人影が少なくなる。回廊の壁には、古いランプが並び、窓から差す光も少なくなった。
「ここより先は、歴代の大神官と、許された神官だけが入れる記録の間です」
「私たちが入ってもいいんですか?」
「神獣様がおいでになる今、これ以上に相応しい客人はおりません」
重い扉が開く。そこは祈祷室のような場所だった。
丸い天井は低く、壁には大きな壁画が描かれている。古いものなのか、少し色褪せていた。それでも、描かれた人物や獣の姿ははっきりわかった。
人間と、さまざまな獣が並んでいる。
翼のある狼。角のある白馬。大きな魚。ドラゴン。そして、その中央に、小さな犬のような獣がいた。
私は思わず近づいた。
「これ……」
長い耳。
ふさふさした尻尾。
白と茶色の毛並み。
絵の中の獣は、ロブによく似ていた。
「ロブに似てます」
「はい」
大神官は壁画を見上げた。
「これは三百年以上前に描かれた、最後の神獣と、その時代の人々の姿です」
ロブも壁画の前へ行き、首をかしげる。
自分に似た獣だと思っているのかは、わからない。
「神獣って、犬の姿だったんですか?」
「伝承では、神獣はひとつの姿に定まらぬと言われています。その時代に最も必要とされる姿をとる、と」
「じゃあ、ロブが犬なのも……」
「偶然ではないのかもしれません」
私は壁画を見た。
犬に似た神獣は、人間たちの輪の中央にいる。でも誰かの前に立って守っているわけではない。人間と魔獣の間を、ただ穏やかに歩いているように見えた。
「この神獣は、戦ったんですか?」
「ほとんど戦わなかった、と記録されています」
大神官の声が、静かな部屋に落ちた。
「彼らは魔獣の心を聞き、人に言葉を伝えた。争いが起こる前に、恐れや怒りの理由を見つけようとしたのです」
ロブが黒牙狼と匂いを嗅ぎ合ったこと。
茜火狐のそばへ座ったこと。
傷ついたドラゴンへ近づいたこと。
どれも、壁画の中の神獣と重なるような気がした。
「でも、ロブは何も話しません」
「言葉だけが、心を通わせる方法ではないのでしょう」
国王陛下も、同じことを言っていた。
大神官は壁画の右側を指した。
そこには、神獣のすぐ隣に、一人の女性が描かれていた。派手な服ではない。旅人のような簡素な服を着て、神獣へ手を差し出している。
「この人は?」
「神獣の契約者です」
私はその言葉を知らなかった。
「契約者?」
「神獣には、時代ごとに、ただ一人だけ深く心を通わせる人間がいたと伝わっています。その者は神獣へ命令する者ではありません。神獣の声を聞き、人へ伝える者。人の恐れを、神獣へ伝える者です」
ルークが、壁画をじっと見ていた。
「つまり、神獣と人の間をつなぐ役目を持つ者、と」
「はい。記録では『契約者』と呼ばれています」
大神官は続けた。
「最後の神獣が姿を消したあと、契約者の血筋もまた、歴史から消えました。三百年、神殿は神獣が再び現れる日を待ち続けてきたのです」
私は、壁画の女性を見つめた。
その表情は穏やかだった。神獣を引っ張るのでもなく、後ろからついていくのでもない。ただ同じ方向を見ている。
なぜか、少し切ない気持ちになる。
「契約者って、どうやって決まるんですか?」
「神獣が選ぶ、と伝わっています」
「選ぶ?」
「力の強さでも、家柄でもありません。神獣が心を預ける相手を、自ら選ぶのです」
ロブは壁画よりも、大神官のローブの裾が気になっているようだった。近づいて匂いを嗅ぎ、少し首をかしげる。
大神官は嫌がらず、そっと手の甲を差し出した。
ロブはその手を嗅ぎ、それから私の足元へ戻ってきた。
「わふ」
私はロブの背中を撫でた。
「エレナ様」
大神官のその声は、とても静かだった。
「ロブ様がこの世界へ現れたとき、最初にそばにいたのは、あなたなのですね」
「はい。一緒に来ました」
「ロブ様は、あなたの言葉を聞く。あなたは、ロブ様の仕草を読み、人へ伝える。ロブ様が恐れるときは守り、喜ぶときは共に喜ぶ」
私は何も言えなかった。
それは、ただ当たり前のことだと思っていた。
ロブは私の家族で、私はロブの飼い主だから。
「契約者は、神獣を所有する者ではありません。誰より近くで、神獣をひとつの命として見る者です」
壁画の女性が、こちらを見ているように思えた。
「大神官様は、何を言いたいんですか?」
私の声は、少しだけ震えた。
大神官は深く息を吸った。
「神獣は再び、契約者を選ばれた」
「え?」
ロブが、私の足へ前足をかけた。
いつものように、抱っこしてほしいときの仕草だった。
私が反射的にロブを抱き上げると、ロブは私の腕の中で、満足そうに小さく鳴いた。
「わふ」
古い壁画の前で。
神官たちが息をのむ中で。
私だけが、何もわからないまま、ロブのあたたかさを抱きしめていた。
――第六話おわり




