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愛犬と一緒に異世界転生したら、うちの子が神獣に⁈いいえ、普通のパピヨンです  作者: kotao


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4/30

第四話 神獣様、森へ入る

主な登場人物

神田エレナ:この物語の主人公。ブラックな職場で社畜として働く、少し疲れた独身女性。仕事はかなりできる。趣味は愛犬。ロブがいるから生きていられると言うほど溺愛。事故でロブと一緒に異世界転生した。

ロブ:エレナの愛犬。神獣としての自覚無し!エレナとおやつが大好き!

ルーク•ヴァレンティア:イケメン硬派な騎士団長。真面目で冷静、頼れる男。

アルベルト国王:アルディア王国の国王。穏やかで誠実な人柄。威厳もあり、国民から尊敬されている。

黒牙狼が王宮の庭から去った、その日の午後。


 私はロブを抱いたまま、王宮の会議室にいた。


 昨日も似たような部屋で国王陛下の話を聞いたけれど、今日の空気はもっと重い。


 長い机の向こうには国王陛下と王妃、アレクシス王子、セシリア王女が座っている。


 ルークは騎士団長として、扉の近くに立っていた。ほかにも大臣や魔術師らしい人が何人かいる。


 ロブ用に、私の椅子の横に小さなクッションが用意されていたが、ロブはそこへ座らず、いつものように私の膝に乗っている。


「神獣様は、エレナ殿の膝の上がよろしいようですね」


 年配の大臣が言った。


「たぶん、椅子より落ち着くんです」


「なるほど」


 また何か深い意味があるように受け取られた気がする。


 国王陛下が、机の上に置かれた数枚の書状へ手を伸ばした。


「まず、今朝の黒牙狼について話そう」


 会議室が静かになる。


「庭師ガレドの証言によれば、あの黒牙狼は半年ほど前から王宮近くの林に姿を見せていた。人へ害をなすことはなく、むしろ人を避けていたという」


「それが、十日ほど前から急に荒れた」


 アレクシス王子が続ける。


「庭園へ現れたときも、攻撃する意思はあったように見えました。しかし、ロブが近づくとそれが収まった」


 私は足元のロブを見た。


 ロブは会議にまったく興味がないらしい。前足のあいだに鼻先を入れ、うとうとしている。


「ロブは、黒牙狼と遊びたかっただけだと思います」


「それでも、あの変化は見過ごせぬ」


 国王陛下の声は穏やかだったが、そこには強い意志があった。


「王都周辺だけではない。ここ数か月、各地から似た報告が届いている」


 老魔術師が書状を広げた。


「北の街道では、普段は人を恐れる岩角猪が荷馬車を襲いました。南の村では、穏やかな水棲魔獣が川から出て、畑を荒らしたそうです。西の森では、群れで暮らす獣たちが仲間同士で争う姿も見られています」


「急に、ですか?」


「はい。共通するのは、皆、理由なく怯え、怒り、周囲を傷つけるようになったことです」


 私は昨日の黒牙狼を思い出した。


 ロブへ唸りかけたときの、黄色い目。


 あれは、誰かを傷つけたい目ではなかった。何かに追い詰められて、どうすればいいかわからなくなっているように見えた。


「魔獣が悪いわけじゃないかもしれない」


 私が言うと、会議室の視線が集まった。


「黒牙狼も、ロブと匂いを嗅ぎ合ったあとは、ただの大きな犬みたいでした。怖がっていたのは、私たちじゃなくて……何か別のものだったんじゃないでしょうか」


 アレクシス王子は腕を組んだ。


「何者かが魔獣を操っている、と?」


「断言はできません。ただ、ドラゴンも毒矢で傷つけられていました。偶然が続きすぎている気がします」


 ルークが頷く。


「騎士団でも、森の奥で不審な痕跡がないか調べています。ですが、黒牙狼がいた林の先は、最近、魔獣の気配が濃く、深く踏み込めていません」


「だからこそ、討伐を急ぐべきではない」


 国王陛下は、はっきりと言った。


「魔獣を見つけ次第、力で排除すれば、一時は静かになるだろう。しかし、それではなぜ彼らが苦しみ始めたのか、永遠にわからぬ。もし原因が別にあるなら、同じことが何度でも起こる」


 大臣のひとりが、慎重に口を開く。


「ですが陛下。王都の安全を考えれば、危険な魔獣を放置するわけには」


「放置はしない。民を守ることと、原因を知ることは両立できる」


 国王陛下は静かに言った。


 しかし、しばらく沈黙していた別の大臣が、ゆっくり立ち上がった。


「陛下のお考えは理解しております。ですが、王都の民は不安を抱いております。王宮の庭園にまで黒牙狼が現れたとなれば、明日には『王宮すら守れぬ』という噂が広がりましょう」


「噂を恐れて、理由のわからぬ命を斬れというのか」


「そうではありません。ただ、見せるべき強さもございます」


 大臣は一度こちらを見てから、言葉を選ぶように続けた。


「神獣様がいらっしゃる今こそ、王国が魔獣を制する力を示すべきではないかと」


 ロブは自分の名前が出たことだけわかり、私を見上げた。


 その顔を見て、私は思わずロブの背中を撫でた。


 国を守る力。


 言葉だけ聞けば、立派なことに思える。でもその中には、ロブを担ぎ上げて、人々を安心させたいという気持ちも混ざっているのだろう。


「大臣」


 国王陛下が呼びかけた。


「ロブが黒牙狼を退けたように見えたのは、力で従わせたからではない。あの子が怯えを鎮めたからだ。ならば我らが学ぶべきは、さらに大きな力を見せつけることではなく、怯えの理由を知ることではないか」


「ですが……」


「民を守るために、恐怖をさらに大きくしてはならぬ」


 国王陛下の声は大きくなかった。


 それでも、その一言で会議室の空気が変わった。


 アレクシス王子も、ゆっくり頷く。


「騎士団は、街道と村の警備を増やしてくれ。魔獣を見つけても、まずは追い払うか、距離を取る。討伐が必要な場合は、その理由を記録させる」


「記録を?」


「ただ数を減らして終わりにしては、次も同じことが起きる。どこで、いつ、どのような魔獣が荒れたのか。傷はあったか。人の手が入った跡はないか。全部、記録として残すべきだ」


 少し冷たく聞こえる声なのに、王子の言葉には熱い正義が感じられた。


 黒牙狼に対して、最初は警戒していた人だ。


 でもロブが見せたものを、ちゃんと受け取ろうとしている。


「調査の目的は、魔獣を利用する者がいるのか、魔力の異常が起きているのか、それとも別の原因なのかを見極めることです」


 老魔術師が言った。


「森の奥には、古い魔力の流れがございます。近年、大きな乱れは観測されておりませんでしたが……改めて確認する必要がありましょう」


「魔力の流れ?」


「川に水の流れがあるように、この世界にも目には見えぬ力の流れがあります。魔獣はそれに敏感なのです。もし流れが淀めば、心身へ影響することもあります」


 ますます、ロブを森へ連れていくのが怖くなった。


 私の気持ちを察したのか、国王陛下は少しだけ表情をやわらげた。


「今日ここで返事を出さずともよい。森へ入るとしても、最初は入口近くまでだ。ロブが嫌がったら、すぐに引き返す」


 その言葉に、私は小さく頷いた。


「森を調べる者には、十分な護衛をつける。危険があれば退く。魔獣が攻撃しようとしてきたら、最後の手段としてのみ力を使う」


 それから、国王陛下は私を見た。


「エレナ殿。ひとつ、頼みたいことがある」


 ロブの耳が、ぴくりと動いた。


「森の調査へ、ロブとともに協力してもらえないだろうか」


 私はすぐには答えられなかった。


「ロブは、魔獣が何を恐れているのかを感じ取るように見える。エレナ殿は、その行動を誰より理解し、我らへ伝えてくれる。二人の力を借りたい」


 国王陛下は続ける。


「だが、これは命令ではない。ロブは我が国の道具ではないし、エレナ殿もまた自由な客人だ。断るならば、我らは別の方法を探す」


 昨日も言っていた。頼ることと、利用することは違う、と。


 国王陛下の目は真剣だった。でも、私に選ばせようとしている。


「少し、考えさせてください」


「もちろんだ」


 会議はそこでいったん終わった。


 私はロブと部屋へ戻った。


 ロブは廊下ですれ違う侍女に尻尾を振り、部屋へ入ると、昨日と同じようにいちばん柔らかいクッションの上で丸くなった。


 悩んでいるのは、私だけのようだ。


「森、だって」


 窓の外には、王宮の庭と、その向こうの深い緑が見える。


 日本にいたころ、ロブと行ったのは近所の公園や河川敷くらいだった。虫が多い場所は嫌がったし、濡れた草の上を歩くと、すぐに足を気にしていた。


 そんなロブを、魔獣がいる森へ連れていくなんて、考えるだけで怖い。


「ロブを危険な場所へ連れて行きたくない」


 口に出すと、ロブが顔を上げた。


「わん」


「ロブは、どうしたい?」


 ロブは私の膝へ前足をかけた。


 会議室で国王陛下が言ったことは、わかる。黒牙狼が苦しんでいた理由を知りたい。ほかの魔獣たちも、助けられるなら助けたい。


 でも、そのためにロブが怪我をしたら。


 きっとずっと後悔する。私がもっと慎重なら、ロブを危ない目に遭わせずに済んだのではないかと。


 ロブは、私の迷いなど気にしていない様子で、窓際まで歩き、庭園のほうを見ている。昨日、黒牙狼が消えていった方向だ。


 もしあの子がまた苦しんでいたら、ロブはきっと、迷わず近づくのだろう。大きいから怖いとか、魔獣だから危ないとか、そんなことより、困っている相手がいることのほうを先に見る。


「ロブは、優しいもんね」


「わん」


「でも、私は優しくないかもしれない」


 私はロブを抱き寄せた。


「ロブが誰かを助けたいと思っても、危ないなら止めたい。ロブが悲しそうでも、私のそばにいてほしいって思っちゃう」


 ロブは私の頬を一度だけ舐めた。


 昔からそうだった。残業で遅くなって、疲れて帰ってきた私が泣きそうになっていると、ロブはただ、そばへ来た。


 そっと、一緒にいてくれた。


 今も、きっと同じだ。


「エレナ」


 扉の向こうから、ルークの声がした。


「入ってもよろしいでしょうか」


「はい」


 ルークは扉を開け、いつもより少し硬い表情で入ってきた。


「先ほどの件ですが。無理にお受けになる必要はありません。あなたが不安なら、俺は陛下へそう伝えます」


 私は少し驚いた。


 騎士団長として、国のために協力してほしいと言うのかと思っていた。


「でも、森のことは心配じゃないですか?」


「心配です。だから、調べる必要があります」


 ルークは窓の向こうの森へ目を向けた。


「ですが、ロブを危険にさらしてまで調べるべきだとは思いません。ロブは、昨日も今日も、誰かを助けたかったから動いた。俺たちがその優しさをあてにして、危険な場所へ連れていくのは違う」


 その言葉に、少しだけ心が軽くなった気がした。


「もし……行くと決めたら」


 私はロブの背中を撫でながら尋ねた。


「ロブを守ってくれますか?」


 ルークは一瞬も迷わなかった。


「命に変えても守る」


 強い声だった。


 あまりにもまっすぐで、私は言葉を失った。


 ロブは何も言わない。ただ、ルークへ近づいていくと、差し出されていた手をぺろりと舐めた。


「わふ」


 ルークの表情が少しだけゆるむ。


「……信頼された、ということでしょうか」


「たぶん。ロブは、ルークのこと好きです」


「干し肉をくれたから、ではなく?」


「それもあります」


 思わず笑ってしまった。


 ルークも、ごく小さく笑った。


 ルークは、いつもロブを怖がらせない距離にいてくれる。


 ロブを神獣として扱いながら、犬であることも忘れない。


 だから、少しだけ信じてもいいのかもしれない。


「ロブが、行きたいかどうか」


 私は言った。


「それを見てから決めます。ロブが森を怖がるなら、行きません」


「わかりました」


 

 翌朝。


 王宮の中庭へ出ると、ガレドさんが大きな籠を抱えて待っていた。


「おはようございます」


「おう。森へ行くんだってな」


 籠からいい匂いがしているのか、ロブはガレドさんの足元でぴょんぴょん跳ね始めた。


「森では腹が減るだろう。だから、ロブ用のおやつを持ってきた」


 ガレドさんは、いかにも当然という顔で言った。


「こんなに?」


 籠の中には、干した鶏肉、小さく切ったさつまいも、硬めに焼いたビスケットが、布の袋に分けて入っていた。さらに水筒と、水皿まである。


「食べすぎないように、エレナ様が一回ずつ出してやるんだぞ」


「はい。でも、ガレドさん、用意しすぎじゃ……」


「森では何があるかわからん。人間も犬も、腹が減ると判断を間違える」


 ロブは籠へ鼻を突っ込み、すでに干し肉の袋を探している。


「ロブ。出発前のおやつは、ひとつだけだよ」


「わふ……」


 しょんぼりした声を出すけれど、尻尾は揺れている。


 ガレドさんはロブの頭を撫でた。


「森で怖いものを見たら、無理に立ち向かわなくていい。足が短いんだから、逃げるときはエレナ様に抱いてもらえ」


「ロブ様は神獣ですから、いざというときは……」


 近くの若い騎士が言いかける。


「神獣でも犬でも、怖いときは怖いだろう」


 ガレドさんはきっぱり言った。


 ロブはガレドさんを見上げ、嬉しそうに尻尾を振った。


「わん」


「そうだ。元気で帰ってくるのが一番だ」


 その言葉は、私の胸にもまっすぐ届いた。


 森へ入るのは、私とロブ、ルークら騎士四人だった。


 王宮を出る前に、国王陛下はもう一度言った。


「危険を感じたら、すぐに戻りなさい。これは命令だ」


「はい」


「ロブにも伝えてくれ」


「ロブ、危なかったら帰ろうね」


「わん」


 わかっているかは怪しいけれど、国王陛下は満足そうに頷いた。


 森の入口は、王宮から馬で少し行ったところにあった。


 木々は高く、枝が重なり合って、昼間なのに道の先が薄暗い。最初は鳥の声も聞こえたが、森へ入るほど、それさえ聞こえなくなった。風が葉を揺らす音と、自分たちの足音だけがする。


 静かすぎる。


 森の入口に立ったとき、私は一度だけ後ろを振り返った。


 王都の白い城壁が、木々の隙間から小さく見える。ここからなら、まだ走って帰れる距離に思えた。


 でも一歩進むたび、木の匂いが濃くなる。湿った土、古い葉、苔。それから、ときどき鼻を刺すような、何か焦げたような匂い。


「この匂い、何ですか?」


 私はルークに尋ねた。


 彼は立ち止まり、周囲を見回した。


「焚き火ではありません。魔獣が残す瘴気に似ていますが、濃くはない……」


 騎士のひとりが、木の幹に手を触れた。


「ここにも爪痕があります。新しいものです」


 幹には、三本の深い傷が斜めに刻まれていた。


 黒牙狼のものかもしれない。けれど、ただ縄張りを示すための傷よりも、ずっと乱れている。何度も何度も爪を立てたような跡だった。


 ロブはその木へ近づき、傷の匂いを嗅いだ。


 静かな森を進んで行く。


 ロブは私の少し前を歩きながら、地面の匂いを嗅ぐ。木の根元を嗅ぐ。時々、顔を上げて風の向きを確かめる。


「神獣様は、何かを感じておられるのでしょうか」


 後ろの騎士が小声で言った。


「たぶん、誰が通ったか確認しているだけです」


「誰が通ったかを……」


「犬は匂いでいろいろわかるので」


 ちょうどそのとき、ロブは木の根元に鼻を近づけたまま動かなくなっていた。


 騎士たちが緊張して見守る。


 そしてロブは、後ろ足を少し上げた。


「……印を残しておられる?」


「それは、たぶん犬の縄張りの挨拶だろう」


 ルークが咳払いをした。


「先へ進むぞ」


 私は顔が熱くなった。


 ロブは何も悪くない。


 そのあとも、ロブは何度か立ち止まった。


 落ち葉の下に残った小さな足跡を嗅ぎ、沢のそばでは水面をじっと見つめる。


 騎士たちはそのたびに緊張した顔になる。


「神獣様が、魔力の残滓を探しておられる」


「あちらに、何か重要なものが?」


 私はできる限り説明した。


「たぶん、あっちに行きたいのかな?」


「たぶん、水の中の虫が気になるんです」


 落ちている鳥の羽を、ロブが前足でそっと触る。


「鳥の羽は、おもちゃにしないよ」


 これ以上ロブの行動に意味を見出されないうちに、ロブに注意する。


 ロブは少しだけ残念そうに羽を見送った。


 ルークが小さく笑う。


「エレナがいなければ、我々は本当に、すべてを神獣の啓示だと思い込むところでした」


「ロブの気持ちを勝手に難しくしないでほしいです」


「ええ」


 ルークは前を向いたまま答えた。


「ですが、ロブが普通の犬としてすることにも、我々には見えないものがあるのかもしれません」


「どういうことですか?」


「ロブは、怖がっている魔獣のそばへ行ける。俺たちは、危険だと思えば剣を抜く。どちらが正しいという話ではありません。ただ、ロブが見ているものを、俺たちも見ようとするべきなのでしょう」


 私は返事をしなかった。


 でも、その言葉は胸に残った。


 森の奥へ進むにつれ、地面には不自然な痕が増えた。


 大きな爪痕や折れた枝、何かが地面を掻きむしったような跡。


 ルークはそれらを見つけるたびに立ち止まり、騎士たちと短く言葉を交わした。


 小さな沢を越えるところは、足元がぬかるんでいた。


「エレナ、こちらへ」


 ルークが先に渡り、私へ手を差し出した。


 私は少し迷ってから、その手を取った。


「ありがとうございます」


「足元を見てください。石が滑ります」


 ルークの手は大きくてほんのり温かい。私が向こう岸へ渡りきるまで離れなかった。


 ロブはどうしたかというと、私が心配する間もなく、浅いところをぴょこぴょこと渡っていた。最後に前足をぱたぱた振って、水を飛ばす。


「ロブ、足が濡れたね」


「わふ」


 少し不満そうだ。


 私はガレドさんの籠から小さな布を取り出し、ロブの足を拭いた。


「ガレドさん、こういうことまで予想してたのかな」


「庭師殿は、用意がよい方です」


 ルークが言う。


「ロブのことを、普通の犬として心配してくれるから」


「それが、ロブにとっていちばん必要なことなのかもしれません」


 ルークの声は、静かな森によく馴染んだ。


 その直後、ロブが急に耳を立て、右手の茂みへ走り出した。


「ロブ!」


 呼んでも止まらない。


 騎士たちが剣を抜き、ルークがすぐにそのあとを追う。私は足元に気をつけながら、必死で後を追った。


 茂みを抜けた先には、小さな空き地があった。


 その中央で、赤茶色の小さな狐のような生き物が、前足をばたばたさせている。


 足首に、金属の罠が噛みついていた。


「茜火狐だ。罠にかかっているようだ」


 ルークが低く言う。


 茜火狐は、私たちに気づくと、恐怖で体を縮めた。細い尾は泥で汚れ、目の周りの毛も濡れている。


 足首の周りには、血がにじんでいた。


 罠はただ挟むだけのものではない。金属の内側には細かな棘がついていて、動くたびに傷が深くなる仕組みになっている。


「ひどい」


 思わず言うと、ルークの目が鋭くなった。


「獣を生け捕りにするための罠ではありません。傷つけ、弱らせるためのものです」


「誰が、こんなことを」


「わかりません。ですが、魔獣を怯えさせ、荒れさせることが目的なら……」


 ルークは言葉を切った。


 茜火狐は、こちらの会話を聞いているわけではない。ただ、必死に足を引こうとして、また金属を鳴らす。


 ロブは罠のすぐそばまで行った。


「ロブ、近づきすぎないで」


 茜火狐は威嚇するように歯を見せる。けれど、ロブは少し距離を取って座り込んだ。


「わふ」


 それだけだった。


 茜火狐は、しばらくロブを見ていたが、そのうち、前足の動きが少しだけ止まった。


「罠を外せますか?」


 私が聞くと、ルークは頷いた。


「古い型です。俺がやります。皆、周囲を警戒しろ」


 ルークは剣を鞘に収め、ゆっくりと罠へ近づいた。


 狐の魔獣が怯えて暴れそうになるたび、ロブが小さく鳴く。


 私はガレドさんにもらった布を取り出した。


「ルーク。これ、口元に置いてもいいですか? 怖がらないように」


「エレナ、手を出すのは危険です」


「近づきません。ロブがいます」


 私はロブへ尋ねた。


「ロブ、この子、大丈夫かな」


 ロブは茜火狐を見てから、私を見た。


「わふ」


 私はゆっくり、土の上へ布を置いた。さつまいもの甘い匂いが少し残っている布だ。


 茜火狐は一度鼻を鳴らし、布へ顔を寄せた。さっきより、呼吸が少しだけ落ち着く。


「今です」


 ルークが金属のばねへ力をかけると、ぎり、と硬い音がする。


「もう少しです」


 額に汗を浮かべながら、ルークはばねを押し開いた。


 茜火狐の足が、するりと抜ける。


「行け」


 ルークが手を離すと、茜火狐は一瞬動きが止まり、ロブとルークを見た。


 それから、茂みのほうへ駆け出した。


 けれど、数歩進んだところでぴたりと止まる。森のさらに奥を見て、全身を震わせた。


 耳を伏せ、尾を体へ巻きつける。


「……あの奥に、何かいるのかな」


 私が呟くと、茜火狐は小さく鳴いた。


 悲鳴のような声だった。


 次の瞬間、別の方向へ走り去っていく。


 あとには、罠の金属と、湿った土の匂いだけが残った。


「誰かが、罠を仕掛けた?」


 若い騎士が周囲を見回す。


「この森で、魔獣を捕まえようとしている者がいるのかもしれません」


 ルークは罠を拾い上げた。


「だが、ただ狩りに使うものとは思えない。王都近くの森で魔獣用の罠を使うには、許可もいる」


 ロブは茜火狐が見ていた奥を、じっと見つめていた。


 さっきまで遊びたそうにしていた尻尾が、今は下がっている。


「今日はここまでにしましょう」


 私は言った。


「ロブも、あの先は嫌みたいです」


 ルークはすぐに頷いた。


「そうしましょう。陛下との約束どおり、危険を感じたら戻ります」


 帰り道、森は行きよりも静かに感じた。


 騎士たちは周囲を警戒し、私はロブを抱いて歩いた。ロブは疲れたのか、私の腕の中で大人しくしている。


 森の出口が見えてきたころ、ロブが急に顔を上げた。


「どうしたの?」


 遠くから、低く長い遠吠えが聞こえた。


 黒牙狼の声か。


 苦しそうな声ではない。夜明けの空へ届くような、まっすぐな声だった。


 ロブは森の奥を見た。


 それから、返事をするように鳴いた。


「わふ」


 小さな声だった。


 でも、森の静けさの中では、確かに響いた。


 もう一度、遠くで遠吠えが返る。


 ロブの尻尾が、ほんの少しだけ揺れた。


 森の奥には、まだ何かがいる。黒牙狼を苦しめ、狐の魔獣を怯えさせた何かが。


「また、来ることになるのかな」


 ロブは私を見上げた。


「わん」


 答えは、わからない。


 森を出ると、張りつめていた体から力が抜けた。


 ルークは一度だけ、振り返って森の暗がりを見た。


「次に来るときは、罠を仕掛けた者のことも調べます」


「無理はしないでくださいね」


「それは、こちらの台詞です」


 少しだけ笑ったルークの横で、ロブはおやつの袋を見つめていた。


 怖い森から戻ってきても、ロブにとって大事なものは変わらないらしい。


 私は袋から干し肉をひとつ取り出した。


「今日は頑張ったから、特別にひとつ」


「わん!」


 その声は、森の中で聞いた遠吠えよりも、ずっと明るく響いた。


 ――第四話おわり

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