第四話 神獣様、森へ入る
主な登場人物
神田エレナ:この物語の主人公。ブラックな職場で社畜として働く、少し疲れた独身女性。仕事はかなりできる。趣味は愛犬。ロブがいるから生きていられると言うほど溺愛。事故でロブと一緒に異世界転生した。
ロブ:エレナの愛犬。神獣としての自覚無し!エレナとおやつが大好き!
ルーク•ヴァレンティア:イケメン硬派な騎士団長。真面目で冷静、頼れる男。
アルベルト国王:アルディア王国の国王。穏やかで誠実な人柄。威厳もあり、国民から尊敬されている。
黒牙狼が王宮の庭から去った、その日の午後。
私はロブを抱いたまま、王宮の会議室にいた。
昨日も似たような部屋で国王陛下の話を聞いたけれど、今日の空気はもっと重い。
長い机の向こうには国王陛下と王妃、アレクシス王子、セシリア王女が座っている。
ルークは騎士団長として、扉の近くに立っていた。ほかにも大臣や魔術師らしい人が何人かいる。
ロブ用に、私の椅子の横に小さなクッションが用意されていたが、ロブはそこへ座らず、いつものように私の膝に乗っている。
「神獣様は、エレナ殿の膝の上がよろしいようですね」
年配の大臣が言った。
「たぶん、椅子より落ち着くんです」
「なるほど」
また何か深い意味があるように受け取られた気がする。
国王陛下が、机の上に置かれた数枚の書状へ手を伸ばした。
「まず、今朝の黒牙狼について話そう」
会議室が静かになる。
「庭師ガレドの証言によれば、あの黒牙狼は半年ほど前から王宮近くの林に姿を見せていた。人へ害をなすことはなく、むしろ人を避けていたという」
「それが、十日ほど前から急に荒れた」
アレクシス王子が続ける。
「庭園へ現れたときも、攻撃する意思はあったように見えました。しかし、ロブが近づくとそれが収まった」
私は足元のロブを見た。
ロブは会議にまったく興味がないらしい。前足のあいだに鼻先を入れ、うとうとしている。
「ロブは、黒牙狼と遊びたかっただけだと思います」
「それでも、あの変化は見過ごせぬ」
国王陛下の声は穏やかだったが、そこには強い意志があった。
「王都周辺だけではない。ここ数か月、各地から似た報告が届いている」
老魔術師が書状を広げた。
「北の街道では、普段は人を恐れる岩角猪が荷馬車を襲いました。南の村では、穏やかな水棲魔獣が川から出て、畑を荒らしたそうです。西の森では、群れで暮らす獣たちが仲間同士で争う姿も見られています」
「急に、ですか?」
「はい。共通するのは、皆、理由なく怯え、怒り、周囲を傷つけるようになったことです」
私は昨日の黒牙狼を思い出した。
ロブへ唸りかけたときの、黄色い目。
あれは、誰かを傷つけたい目ではなかった。何かに追い詰められて、どうすればいいかわからなくなっているように見えた。
「魔獣が悪いわけじゃないかもしれない」
私が言うと、会議室の視線が集まった。
「黒牙狼も、ロブと匂いを嗅ぎ合ったあとは、ただの大きな犬みたいでした。怖がっていたのは、私たちじゃなくて……何か別のものだったんじゃないでしょうか」
アレクシス王子は腕を組んだ。
「何者かが魔獣を操っている、と?」
「断言はできません。ただ、ドラゴンも毒矢で傷つけられていました。偶然が続きすぎている気がします」
ルークが頷く。
「騎士団でも、森の奥で不審な痕跡がないか調べています。ですが、黒牙狼がいた林の先は、最近、魔獣の気配が濃く、深く踏み込めていません」
「だからこそ、討伐を急ぐべきではない」
国王陛下は、はっきりと言った。
「魔獣を見つけ次第、力で排除すれば、一時は静かになるだろう。しかし、それではなぜ彼らが苦しみ始めたのか、永遠にわからぬ。もし原因が別にあるなら、同じことが何度でも起こる」
大臣のひとりが、慎重に口を開く。
「ですが陛下。王都の安全を考えれば、危険な魔獣を放置するわけには」
「放置はしない。民を守ることと、原因を知ることは両立できる」
国王陛下は静かに言った。
しかし、しばらく沈黙していた別の大臣が、ゆっくり立ち上がった。
「陛下のお考えは理解しております。ですが、王都の民は不安を抱いております。王宮の庭園にまで黒牙狼が現れたとなれば、明日には『王宮すら守れぬ』という噂が広がりましょう」
「噂を恐れて、理由のわからぬ命を斬れというのか」
「そうではありません。ただ、見せるべき強さもございます」
大臣は一度こちらを見てから、言葉を選ぶように続けた。
「神獣様がいらっしゃる今こそ、王国が魔獣を制する力を示すべきではないかと」
ロブは自分の名前が出たことだけわかり、私を見上げた。
その顔を見て、私は思わずロブの背中を撫でた。
国を守る力。
言葉だけ聞けば、立派なことに思える。でもその中には、ロブを担ぎ上げて、人々を安心させたいという気持ちも混ざっているのだろう。
「大臣」
国王陛下が呼びかけた。
「ロブが黒牙狼を退けたように見えたのは、力で従わせたからではない。あの子が怯えを鎮めたからだ。ならば我らが学ぶべきは、さらに大きな力を見せつけることではなく、怯えの理由を知ることではないか」
「ですが……」
「民を守るために、恐怖をさらに大きくしてはならぬ」
国王陛下の声は大きくなかった。
それでも、その一言で会議室の空気が変わった。
アレクシス王子も、ゆっくり頷く。
「騎士団は、街道と村の警備を増やしてくれ。魔獣を見つけても、まずは追い払うか、距離を取る。討伐が必要な場合は、その理由を記録させる」
「記録を?」
「ただ数を減らして終わりにしては、次も同じことが起きる。どこで、いつ、どのような魔獣が荒れたのか。傷はあったか。人の手が入った跡はないか。全部、記録として残すべきだ」
少し冷たく聞こえる声なのに、王子の言葉には熱い正義が感じられた。
黒牙狼に対して、最初は警戒していた人だ。
でもロブが見せたものを、ちゃんと受け取ろうとしている。
「調査の目的は、魔獣を利用する者がいるのか、魔力の異常が起きているのか、それとも別の原因なのかを見極めることです」
老魔術師が言った。
「森の奥には、古い魔力の流れがございます。近年、大きな乱れは観測されておりませんでしたが……改めて確認する必要がありましょう」
「魔力の流れ?」
「川に水の流れがあるように、この世界にも目には見えぬ力の流れがあります。魔獣はそれに敏感なのです。もし流れが淀めば、心身へ影響することもあります」
ますます、ロブを森へ連れていくのが怖くなった。
私の気持ちを察したのか、国王陛下は少しだけ表情をやわらげた。
「今日ここで返事を出さずともよい。森へ入るとしても、最初は入口近くまでだ。ロブが嫌がったら、すぐに引き返す」
その言葉に、私は小さく頷いた。
「森を調べる者には、十分な護衛をつける。危険があれば退く。魔獣が攻撃しようとしてきたら、最後の手段としてのみ力を使う」
それから、国王陛下は私を見た。
「エレナ殿。ひとつ、頼みたいことがある」
ロブの耳が、ぴくりと動いた。
「森の調査へ、ロブとともに協力してもらえないだろうか」
私はすぐには答えられなかった。
「ロブは、魔獣が何を恐れているのかを感じ取るように見える。エレナ殿は、その行動を誰より理解し、我らへ伝えてくれる。二人の力を借りたい」
国王陛下は続ける。
「だが、これは命令ではない。ロブは我が国の道具ではないし、エレナ殿もまた自由な客人だ。断るならば、我らは別の方法を探す」
昨日も言っていた。頼ることと、利用することは違う、と。
国王陛下の目は真剣だった。でも、私に選ばせようとしている。
「少し、考えさせてください」
「もちろんだ」
会議はそこでいったん終わった。
私はロブと部屋へ戻った。
ロブは廊下ですれ違う侍女に尻尾を振り、部屋へ入ると、昨日と同じようにいちばん柔らかいクッションの上で丸くなった。
悩んでいるのは、私だけのようだ。
「森、だって」
窓の外には、王宮の庭と、その向こうの深い緑が見える。
日本にいたころ、ロブと行ったのは近所の公園や河川敷くらいだった。虫が多い場所は嫌がったし、濡れた草の上を歩くと、すぐに足を気にしていた。
そんなロブを、魔獣がいる森へ連れていくなんて、考えるだけで怖い。
「ロブを危険な場所へ連れて行きたくない」
口に出すと、ロブが顔を上げた。
「わん」
「ロブは、どうしたい?」
ロブは私の膝へ前足をかけた。
会議室で国王陛下が言ったことは、わかる。黒牙狼が苦しんでいた理由を知りたい。ほかの魔獣たちも、助けられるなら助けたい。
でも、そのためにロブが怪我をしたら。
きっとずっと後悔する。私がもっと慎重なら、ロブを危ない目に遭わせずに済んだのではないかと。
ロブは、私の迷いなど気にしていない様子で、窓際まで歩き、庭園のほうを見ている。昨日、黒牙狼が消えていった方向だ。
もしあの子がまた苦しんでいたら、ロブはきっと、迷わず近づくのだろう。大きいから怖いとか、魔獣だから危ないとか、そんなことより、困っている相手がいることのほうを先に見る。
「ロブは、優しいもんね」
「わん」
「でも、私は優しくないかもしれない」
私はロブを抱き寄せた。
「ロブが誰かを助けたいと思っても、危ないなら止めたい。ロブが悲しそうでも、私のそばにいてほしいって思っちゃう」
ロブは私の頬を一度だけ舐めた。
昔からそうだった。残業で遅くなって、疲れて帰ってきた私が泣きそうになっていると、ロブはただ、そばへ来た。
そっと、一緒にいてくれた。
今も、きっと同じだ。
「エレナ」
扉の向こうから、ルークの声がした。
「入ってもよろしいでしょうか」
「はい」
ルークは扉を開け、いつもより少し硬い表情で入ってきた。
「先ほどの件ですが。無理にお受けになる必要はありません。あなたが不安なら、俺は陛下へそう伝えます」
私は少し驚いた。
騎士団長として、国のために協力してほしいと言うのかと思っていた。
「でも、森のことは心配じゃないですか?」
「心配です。だから、調べる必要があります」
ルークは窓の向こうの森へ目を向けた。
「ですが、ロブを危険にさらしてまで調べるべきだとは思いません。ロブは、昨日も今日も、誰かを助けたかったから動いた。俺たちがその優しさをあてにして、危険な場所へ連れていくのは違う」
その言葉に、少しだけ心が軽くなった気がした。
「もし……行くと決めたら」
私はロブの背中を撫でながら尋ねた。
「ロブを守ってくれますか?」
ルークは一瞬も迷わなかった。
「命に変えても守る」
強い声だった。
あまりにもまっすぐで、私は言葉を失った。
ロブは何も言わない。ただ、ルークへ近づいていくと、差し出されていた手をぺろりと舐めた。
「わふ」
ルークの表情が少しだけゆるむ。
「……信頼された、ということでしょうか」
「たぶん。ロブは、ルークのこと好きです」
「干し肉をくれたから、ではなく?」
「それもあります」
思わず笑ってしまった。
ルークも、ごく小さく笑った。
ルークは、いつもロブを怖がらせない距離にいてくれる。
ロブを神獣として扱いながら、犬であることも忘れない。
だから、少しだけ信じてもいいのかもしれない。
「ロブが、行きたいかどうか」
私は言った。
「それを見てから決めます。ロブが森を怖がるなら、行きません」
「わかりました」
翌朝。
王宮の中庭へ出ると、ガレドさんが大きな籠を抱えて待っていた。
「おはようございます」
「おう。森へ行くんだってな」
籠からいい匂いがしているのか、ロブはガレドさんの足元でぴょんぴょん跳ね始めた。
「森では腹が減るだろう。だから、ロブ用のおやつを持ってきた」
ガレドさんは、いかにも当然という顔で言った。
「こんなに?」
籠の中には、干した鶏肉、小さく切ったさつまいも、硬めに焼いたビスケットが、布の袋に分けて入っていた。さらに水筒と、水皿まである。
「食べすぎないように、エレナ様が一回ずつ出してやるんだぞ」
「はい。でも、ガレドさん、用意しすぎじゃ……」
「森では何があるかわからん。人間も犬も、腹が減ると判断を間違える」
ロブは籠へ鼻を突っ込み、すでに干し肉の袋を探している。
「ロブ。出発前のおやつは、ひとつだけだよ」
「わふ……」
しょんぼりした声を出すけれど、尻尾は揺れている。
ガレドさんはロブの頭を撫でた。
「森で怖いものを見たら、無理に立ち向かわなくていい。足が短いんだから、逃げるときはエレナ様に抱いてもらえ」
「ロブ様は神獣ですから、いざというときは……」
近くの若い騎士が言いかける。
「神獣でも犬でも、怖いときは怖いだろう」
ガレドさんはきっぱり言った。
ロブはガレドさんを見上げ、嬉しそうに尻尾を振った。
「わん」
「そうだ。元気で帰ってくるのが一番だ」
その言葉は、私の胸にもまっすぐ届いた。
森へ入るのは、私とロブ、ルークら騎士四人だった。
王宮を出る前に、国王陛下はもう一度言った。
「危険を感じたら、すぐに戻りなさい。これは命令だ」
「はい」
「ロブにも伝えてくれ」
「ロブ、危なかったら帰ろうね」
「わん」
わかっているかは怪しいけれど、国王陛下は満足そうに頷いた。
森の入口は、王宮から馬で少し行ったところにあった。
木々は高く、枝が重なり合って、昼間なのに道の先が薄暗い。最初は鳥の声も聞こえたが、森へ入るほど、それさえ聞こえなくなった。風が葉を揺らす音と、自分たちの足音だけがする。
静かすぎる。
森の入口に立ったとき、私は一度だけ後ろを振り返った。
王都の白い城壁が、木々の隙間から小さく見える。ここからなら、まだ走って帰れる距離に思えた。
でも一歩進むたび、木の匂いが濃くなる。湿った土、古い葉、苔。それから、ときどき鼻を刺すような、何か焦げたような匂い。
「この匂い、何ですか?」
私はルークに尋ねた。
彼は立ち止まり、周囲を見回した。
「焚き火ではありません。魔獣が残す瘴気に似ていますが、濃くはない……」
騎士のひとりが、木の幹に手を触れた。
「ここにも爪痕があります。新しいものです」
幹には、三本の深い傷が斜めに刻まれていた。
黒牙狼のものかもしれない。けれど、ただ縄張りを示すための傷よりも、ずっと乱れている。何度も何度も爪を立てたような跡だった。
ロブはその木へ近づき、傷の匂いを嗅いだ。
静かな森を進んで行く。
ロブは私の少し前を歩きながら、地面の匂いを嗅ぐ。木の根元を嗅ぐ。時々、顔を上げて風の向きを確かめる。
「神獣様は、何かを感じておられるのでしょうか」
後ろの騎士が小声で言った。
「たぶん、誰が通ったか確認しているだけです」
「誰が通ったかを……」
「犬は匂いでいろいろわかるので」
ちょうどそのとき、ロブは木の根元に鼻を近づけたまま動かなくなっていた。
騎士たちが緊張して見守る。
そしてロブは、後ろ足を少し上げた。
「……印を残しておられる?」
「それは、たぶん犬の縄張りの挨拶だろう」
ルークが咳払いをした。
「先へ進むぞ」
私は顔が熱くなった。
ロブは何も悪くない。
そのあとも、ロブは何度か立ち止まった。
落ち葉の下に残った小さな足跡を嗅ぎ、沢のそばでは水面をじっと見つめる。
騎士たちはそのたびに緊張した顔になる。
「神獣様が、魔力の残滓を探しておられる」
「あちらに、何か重要なものが?」
私はできる限り説明した。
「たぶん、あっちに行きたいのかな?」
「たぶん、水の中の虫が気になるんです」
落ちている鳥の羽を、ロブが前足でそっと触る。
「鳥の羽は、おもちゃにしないよ」
これ以上ロブの行動に意味を見出されないうちに、ロブに注意する。
ロブは少しだけ残念そうに羽を見送った。
ルークが小さく笑う。
「エレナがいなければ、我々は本当に、すべてを神獣の啓示だと思い込むところでした」
「ロブの気持ちを勝手に難しくしないでほしいです」
「ええ」
ルークは前を向いたまま答えた。
「ですが、ロブが普通の犬としてすることにも、我々には見えないものがあるのかもしれません」
「どういうことですか?」
「ロブは、怖がっている魔獣のそばへ行ける。俺たちは、危険だと思えば剣を抜く。どちらが正しいという話ではありません。ただ、ロブが見ているものを、俺たちも見ようとするべきなのでしょう」
私は返事をしなかった。
でも、その言葉は胸に残った。
森の奥へ進むにつれ、地面には不自然な痕が増えた。
大きな爪痕や折れた枝、何かが地面を掻きむしったような跡。
ルークはそれらを見つけるたびに立ち止まり、騎士たちと短く言葉を交わした。
小さな沢を越えるところは、足元がぬかるんでいた。
「エレナ、こちらへ」
ルークが先に渡り、私へ手を差し出した。
私は少し迷ってから、その手を取った。
「ありがとうございます」
「足元を見てください。石が滑ります」
ルークの手は大きくてほんのり温かい。私が向こう岸へ渡りきるまで離れなかった。
ロブはどうしたかというと、私が心配する間もなく、浅いところをぴょこぴょこと渡っていた。最後に前足をぱたぱた振って、水を飛ばす。
「ロブ、足が濡れたね」
「わふ」
少し不満そうだ。
私はガレドさんの籠から小さな布を取り出し、ロブの足を拭いた。
「ガレドさん、こういうことまで予想してたのかな」
「庭師殿は、用意がよい方です」
ルークが言う。
「ロブのことを、普通の犬として心配してくれるから」
「それが、ロブにとっていちばん必要なことなのかもしれません」
ルークの声は、静かな森によく馴染んだ。
その直後、ロブが急に耳を立て、右手の茂みへ走り出した。
「ロブ!」
呼んでも止まらない。
騎士たちが剣を抜き、ルークがすぐにそのあとを追う。私は足元に気をつけながら、必死で後を追った。
茂みを抜けた先には、小さな空き地があった。
その中央で、赤茶色の小さな狐のような生き物が、前足をばたばたさせている。
足首に、金属の罠が噛みついていた。
「茜火狐だ。罠にかかっているようだ」
ルークが低く言う。
茜火狐は、私たちに気づくと、恐怖で体を縮めた。細い尾は泥で汚れ、目の周りの毛も濡れている。
足首の周りには、血がにじんでいた。
罠はただ挟むだけのものではない。金属の内側には細かな棘がついていて、動くたびに傷が深くなる仕組みになっている。
「ひどい」
思わず言うと、ルークの目が鋭くなった。
「獣を生け捕りにするための罠ではありません。傷つけ、弱らせるためのものです」
「誰が、こんなことを」
「わかりません。ですが、魔獣を怯えさせ、荒れさせることが目的なら……」
ルークは言葉を切った。
茜火狐は、こちらの会話を聞いているわけではない。ただ、必死に足を引こうとして、また金属を鳴らす。
ロブは罠のすぐそばまで行った。
「ロブ、近づきすぎないで」
茜火狐は威嚇するように歯を見せる。けれど、ロブは少し距離を取って座り込んだ。
「わふ」
それだけだった。
茜火狐は、しばらくロブを見ていたが、そのうち、前足の動きが少しだけ止まった。
「罠を外せますか?」
私が聞くと、ルークは頷いた。
「古い型です。俺がやります。皆、周囲を警戒しろ」
ルークは剣を鞘に収め、ゆっくりと罠へ近づいた。
狐の魔獣が怯えて暴れそうになるたび、ロブが小さく鳴く。
私はガレドさんにもらった布を取り出した。
「ルーク。これ、口元に置いてもいいですか? 怖がらないように」
「エレナ、手を出すのは危険です」
「近づきません。ロブがいます」
私はロブへ尋ねた。
「ロブ、この子、大丈夫かな」
ロブは茜火狐を見てから、私を見た。
「わふ」
私はゆっくり、土の上へ布を置いた。さつまいもの甘い匂いが少し残っている布だ。
茜火狐は一度鼻を鳴らし、布へ顔を寄せた。さっきより、呼吸が少しだけ落ち着く。
「今です」
ルークが金属のばねへ力をかけると、ぎり、と硬い音がする。
「もう少しです」
額に汗を浮かべながら、ルークはばねを押し開いた。
茜火狐の足が、するりと抜ける。
「行け」
ルークが手を離すと、茜火狐は一瞬動きが止まり、ロブとルークを見た。
それから、茂みのほうへ駆け出した。
けれど、数歩進んだところでぴたりと止まる。森のさらに奥を見て、全身を震わせた。
耳を伏せ、尾を体へ巻きつける。
「……あの奥に、何かいるのかな」
私が呟くと、茜火狐は小さく鳴いた。
悲鳴のような声だった。
次の瞬間、別の方向へ走り去っていく。
あとには、罠の金属と、湿った土の匂いだけが残った。
「誰かが、罠を仕掛けた?」
若い騎士が周囲を見回す。
「この森で、魔獣を捕まえようとしている者がいるのかもしれません」
ルークは罠を拾い上げた。
「だが、ただ狩りに使うものとは思えない。王都近くの森で魔獣用の罠を使うには、許可もいる」
ロブは茜火狐が見ていた奥を、じっと見つめていた。
さっきまで遊びたそうにしていた尻尾が、今は下がっている。
「今日はここまでにしましょう」
私は言った。
「ロブも、あの先は嫌みたいです」
ルークはすぐに頷いた。
「そうしましょう。陛下との約束どおり、危険を感じたら戻ります」
帰り道、森は行きよりも静かに感じた。
騎士たちは周囲を警戒し、私はロブを抱いて歩いた。ロブは疲れたのか、私の腕の中で大人しくしている。
森の出口が見えてきたころ、ロブが急に顔を上げた。
「どうしたの?」
遠くから、低く長い遠吠えが聞こえた。
黒牙狼の声か。
苦しそうな声ではない。夜明けの空へ届くような、まっすぐな声だった。
ロブは森の奥を見た。
それから、返事をするように鳴いた。
「わふ」
小さな声だった。
でも、森の静けさの中では、確かに響いた。
もう一度、遠くで遠吠えが返る。
ロブの尻尾が、ほんの少しだけ揺れた。
森の奥には、まだ何かがいる。黒牙狼を苦しめ、狐の魔獣を怯えさせた何かが。
「また、来ることになるのかな」
ロブは私を見上げた。
「わん」
答えは、わからない。
森を出ると、張りつめていた体から力が抜けた。
ルークは一度だけ、振り返って森の暗がりを見た。
「次に来るときは、罠を仕掛けた者のことも調べます」
「無理はしないでくださいね」
「それは、こちらの台詞です」
少しだけ笑ったルークの横で、ロブはおやつの袋を見つめていた。
怖い森から戻ってきても、ロブにとって大事なものは変わらないらしい。
私は袋から干し肉をひとつ取り出した。
「今日は頑張ったから、特別にひとつ」
「わん!」
その声は、森の中で聞いた遠吠えよりも、ずっと明るく響いた。
――第四話おわり




