第3話 神獣様、王宮でお友達ができる
王宮に滞在することになったエレナとロブ。庭園を散歩中に魔獣に出会ってしまう!
目を覚ました瞬間、私は自分がどこにいるのかわからなかった。
天井が高い。
白い漆喰の天井には、金色の蔦模様が描かれている。窓から差し込む朝の光は薄いレースのカーテンを通り、優しく降り注ぐ。ベッドは、身体が沈み込むほど柔らかい。
「……あ」
王宮だ。
昨日、国王陛下に招かれて、ロブと一緒に王宮に滞在することになったのだ。
ぼんやりした頭で思い出してから、私はもう一度だけ枕に顔を埋めた。
ふかふかだ。
あまりにもふかふかで、起き上がる気がなくなる。
日本の部屋で寝ていたのは、自分で組み立てるタイプの安いベッドだった。毎朝、目覚ましのアラームに起こされて、今日も会社へ行かなければならないのかと天井を見つめていた。
通勤の満員電車。積み上がった仕事。終電近くに帰って、コンビニのおにぎりを食べて、ロブを撫でながら眠る。
あの頃の私に、この部屋を見せたらどうなるだろう。
たぶん、疲れすぎて変な夢を見ていると思う。
「ロブは……」
私はゆっくり顔を上げ、部屋を見回した。
窓辺には、ロブ用らしい丸いクッションが置かれている。白い布地に金糸の刺繍まで入った、明らかに以前使っていた私の枕より高そうなクッションだった。
けれど、その上にロブはいなかった。
ロブは私の隣で、爆睡していた。
前足は胸の前で折れ、後ろ足はだらんと開いている。長い耳の毛は枕に広がり、お腹を全部見せた、完璧なへそ天だ。
「……すごくくつろいでるね」
「ふぁふ」
声をかけると、ロブは目を閉じたまま返事をした。
国王に頭を下げられても、神獣様と呼ばれても、王宮の豪華な客室に泊まっても、ロブはロブだ。
知らない場所では、まず一周歩いて安全を確認する。ごはんがある場所を覚える。大丈夫だとわかれば、いちばん柔らかいところで寝る。
昨日までの宿でもそうだった。
「神獣様って呼ばれている子が、へそ天で寝ていていいのかな」
「わん」
片目だけ開けたロブは、何が悪いの、と言いたげだった。
「いいよね。ロブだもんね」
私は笑いながら、ふわふわのお腹をそっと撫でた。
そのとき、控えめなノックが聞こえた。
「エレナ様。お目覚めでしょうか」
「はい。どうぞ」
扉を開けて入ってきたのは、昨日の夜にも世話をしてくれた若い侍女だった。銀色の盆には湯気の立つお茶と、小さな焼き菓子が載っている。
彼女はベッドの中央で堂々とへそ天をしているロブを見つけると、ぴたりと動きを止めた。
「……神獣様は、今朝も大変お健やかでいらっしゃいますね」
「ただ、よく寝ているだけです」
「なるほど。心から王宮を信頼してくださっているのですね」
「たぶん、ベッドが気に入っただけです」
侍女は真剣な顔で頷いた。
「神獣様にお気に召していただけて、光栄でございます」
たぶん話が通じていない。
でも、ロブが歓迎されていることはわかるので、私はそれ以上何も言わなかった。
侍女によれば、朝食は国王一家と一緒にとることになっているらしい。私は用意された淡い緑色のワンピースに着替え、ロブには昨日より少し丁寧に耳の毛をとかしてあげた。
ロブはブラッシングが終わるまで、窓の外を見ていた。
その視線の先には、朝露に濡れた広い庭園がある。
「散歩、行きたい?」
ロブの耳が、ぴくりと動いた。
「朝ごはんのあとね」
ロブは不満そうに鼻を鳴らしたが、ご飯もおやつも大好きな食いしん坊は、”朝ごはん”という単語にすかさず反応し、すぐに扉の前へ行った。
王宮の朝食室は、私が想像していたよりも明るく、あたたかな雰囲気の場所だった。
大きな窓から庭園が見え、白いテーブルクロスの上には、いくつもの皿が並んでいる。湯気の立つスープ。焼きたてらしいパン。蜂蜜。色とりどりの果物。薄く切った肉や、ふわふわの卵料理まである。
日本でいうなら、高級ホテルの豪華なイングリッシュブレックファーストだ。
しかも、ロブの前にも立派な食事が用意されている。
低い台の上に、鶏肉を細かくほぐしたもの、温野菜、香りのいいスープ、それから小さな焼き菓子まで並んでいた。食事も食器も、日本の我が家で使っていたものよりずっと立派だ。
「ロブ用、ですよね?」
「もちろんですわ」
向かいに座ったセシリア王女が、うれしそうに微笑んだ。
「王宮の料理長が、神獣様のお好みを知りたがっておりましたの。まずは消化によいものを、と」
「ロブは好き嫌いが少ないので、たぶん何でも食べます」
「まあ。なんて素晴らしいのでしょう」
ロブは料理の匂いを順番に確認した。
鶏肉を嗅ぐ。野菜を嗅ぐ。スープを嗅ぐ。
そして、私の皿にあるトーストを見た。
「……あ」
ロブは、私の膝に前足をかけた。
「わん」
「これ?」
私はトーストの端を指でつまんだ。
ロブの尻尾が、ぶんぶんと揺れる。
日本にいたころ、朝が慌ただしい日でも、私は食パンを一枚だけ焼いていた。ロブはその匂いがすると、決まって足元へ来る。そして何も付けていない端っこを、ほんのひとかけらだけもらうのが習慣だった。
特別なものではない。ただ、ロブにとっては朝の合図みたいなものだ。
「はちみつもバターもついていないところだけね」
小さくちぎって差し出すと、ロブは嬉しそうにぱくりと食べた。
その瞬間、食卓が静まり返った。
「……どうしたんですか?」
国王陛下、王妃様、アレクシス王子、セシリア王女、そして少し離れて控えている大臣たちまで、全員がロブを見ている。
セシリア王女が、そっと尋ねた。
「エレナ様。それは、神獣様にとって特別な儀式なのですか?」
「儀式?」
「主と食物を分かち合うことで、加護の絆を確かめる、とか……」
「いえ。食パンが好きなだけです」
私が言うと、今度は全員が私を見た。
「食パン……」
アレクシス王子が、少し考えるように呟く。
「神獣は、そのような質素な食べ物を望むのか」
「たぶん、昨日から急に環境が変わったので、いつものものが欲しいんだと思います」
「いつものもの」
国王陛下は、なるほど、と言って深く頷いた。
「どれほど崇められる存在であろうと、慣れ親しんだものに安心する。大切なことだな」
とてもいい話のようになっているけれど、ロブは単に食パンが好きなだけだ。
その証拠に、私が二口目を食べようとすると、ロブはまた前足で膝を叩いた。
「わん」
「もう一個?」
「神獣様が、再び望まれている!」
大臣のひとりが、慌てて手を挙げた。
「王都中のパン職人を集め、最上の小麦を――」
「集めなくて大丈夫です」
私はすぐに止めた。
「本当に、普通の食パンでいいんです。むしろ、あげすぎると太るので」
「太る?」
「ロブは小型犬なので、体重管理は大事なんです」
その場が、また静かになる。
ロブはその沈黙を気にすることもなく、今度は自分用の鶏肉を食べ始めた。
「……神獣様も、体重管理をなさるのですね」
セシリア王女が感心したように言った。
「ロブは犬ですから」
「そうでしたわ」
王女様は真顔で頷いた。
どうしてだろう。王宮の人たちは、ロブを普通の犬だと説明するたびに、何か新しい教えを聞いたような顔をする。
私たちの朝食が終わるころには、ロブは鶏肉もスープもきれいに食べ、おやつとして出された小さな焼き菓子まで完食していた。
「食べすぎじゃない?」
「わふ」
「パンも食べたよね」
「わん」
まったく反省していない。
すると、朝食室の扉の外で小さなざわめきが起きた。
侍女がひとり、困ったような顔で入ってくる。
「失礼いたします。料理長が、神獣様へお伺いしたいことがあると……」
「ロブに?」
「先ほどの、食パンについてでございます」
その後ろから、白い帽子をかぶった恰幅のいい男性が、いかにも緊張した様子で姿を見せた。両手には、小さな籠を大切そうに抱えている。
「神獣様。こちらは王宮で焼いた朝のパンにございます」
籠の中には、丸いパン、細長いパン、種のついたパン、少し黒いパンまで、何種類も入っていた。
「塩を使わぬもの、乳を使わぬもの、甘みを加えたものを用意いたしました。どうか、お好みをお選びくださいませ」
ロブが籠へ近づき、ひとつひとつ丁寧に匂いを嗅いでいくのを、皆が固唾をのんで見守る。
そしてロブは、いちばん端に置かれていた、特に変わったところのない四角いパンを選んだ。
「やはり、あの形に意味が……」
「ないです」
私は食い気味に否定した。
料理長は驚いて私を見たあと、深々と頭を下げた。
「失礼いたしました。これは、エレナ様が召し上がっていたトーストに近い形へ、急ぎ焼かせたものでございます」
「……ありがとうございます」
ロブは四角いパンをもらうと、満足そうに端からかじった。
結局、いつもの形が好きなだけらしい。
それでも料理長は、何か大きな発見をしたように目を輝かせていた。
「神獣様が望まれるのは、華美な品ではなく、心安らぐ日常の味……。以後、毎朝ご用意いたします」
「パンの大きさはこの半分で大丈夫です。ロブが太らない量で」
「承知いたしました!」
なぜか、王宮の朝食にロブ用の食パンが正式採用された。
本人は何も知らず、パンくずがついた鼻先をぺろりと舐めていた。
食後の紅茶を飲んでいた国王陛下が、楽しそうに笑った。
「庭園を案内させよう。神獣……いや、ロブも外へ出たそうにしている」
ロブはその言葉を聞き取ったように、椅子の下から顔を出した。
「散歩、行けるって」
私が言うと、ロブの尻尾が勢いよく揺れた。
庭園へ出ると、朝の空気は少しひんやりしていた。
昨夜、部屋から見たときにはただ広くてきれいだと思った庭園が、近くで見るともっと複雑だった。色の違う花壇がいくつもあり、白い石の小道が迷路のように続いている。小さな噴水の向こうには果樹園らしい木々も見えた。
ロブは地面へ下ろされた途端、忙しそうに歩き始めた。
石畳を嗅ぐ。植え込みを嗅ぐ。見知らぬ鳥の声がすれば、耳を立てて空を見上げる。
「楽しそうですね」
横から声をかけたのはルークだった。
今日は騎士団の制服姿で、腰には剣を下げている。ただの散歩に騎士団長がついてくるのは申し訳ない気もするけれど、護衛が必要だと言われてしまった。
「昨日からずっと外を見たがっていたんです。知らない場所に来たら、まず匂いを覚えたいんだと思います」
「ロブは、匂いで場所を覚えるのですか」
「たぶん。帰り道がわかるのも、景色より匂いのほうが大きいらしいです」
ルークは興味深そうにロブを見た。
「神獣の力ではなく、犬としての習性なのですね」
「そうです。すごいでしょう」
「ええ。すごいです」
素直に頷かれると、なんだか私まで嬉しくなる。
ロブが花壇の前で立ち止まった。黄色い花の間を、青い小さな蝶がひらひらと飛んでいる。
ロブは捕まえようとはせず、ただ首をかしげて見送った。
「おやおや。お客さんかな」
低く、穏やかな声がした。
振り返ると、土のついた手袋をはめた年配の男性が立っていた。茶色の作業着に、麦わら帽子。腰には剪定ばさみが下がっている。
「庭師のガレドです。あんたが神獣様かい」
ロブはガレドさんを見上げ、少しだけ鼻を近づけた。
「わん」
「うんうん。お前さん、耳の毛が立派だな。雨の日は大変だろう」
ガレドさんはしゃがみ込み、いきなり頭を撫でようとはしなかった。手の甲を差し出して、ロブが匂いを嗅ぐのを待っている。
ロブはしばらく確認してから、その手の下へ自分から頭を入れた。
「お、いい子だ」
大きな手が、耳の付け根を優しく掻いてくれる。ロブは気持ちよさそうに目を細めた。
私は思わず笑ってしまう。
「ロブ、ガレドさんのこと好きみたいです」
「犬は正直だからな。花や土の世話をしていると、動物に好かれることもある」
ガレドさんはロブを見ている。神獣ではなく、初めて会った犬を見る目だった。
それが、私はとても嬉しかった。
「ロブ、花壇には入らないようにな」
ちょうどそのとき、ロブは花壇の縁に前足をかけていた。
「ロブ、だめ」
「わふ」
ロブは素直に戻ってきた。
ルークが小さく息を吐く。
「ガレド殿。ロブには、もう少し敬意を払っても……神獣なのですから」
「ルーク、今は、散歩中の犬だろう?犬に必要なのは、敬意よりも、いけないことをいけないと言ってくれる人じゃないか」
ガレドさんは、からからと笑った。
「もちろん、腹を空かせていれば飯もいるし、怖がっていれば撫でてもらうのが一番だ」
ロブはその言葉がわかったのか、ガレドさんの足元に座った。
「……ロブは、ガレド殿にずいぶん懐いているな」
ルークが少し驚いたように呟く。
「おやつをもらえるかもしれないと思っているんです」
「違いない」
ガレドさんは笑い、ポケットから小さな乾燥肉を取り出した。
「王宮の犬用だ。ひとつだけなら、いいだろう?」
「ロブは今、豪華な朝食を全部食べたばかりなんですけど……」
ロブが、まっすぐに私を見上げる。
その目に負けて、私は小さく頷いた。
「ひとつだけね」
ロブは大喜びで食べた。
庭園のいちばん奥には、小さな林があった。王宮の外壁に沿うように植えられた木々が、朝の風で揺れている。
ロブはガレドさんにもらったおやつを食べ終えると、急にそちらへ顔を向けた。
耳がぴんと立つ。
「どうしたの?」
ロブは返事をせず、林のほうへ数歩進んだ。
すると、木々の奥から低い唸り声が聞こえた。
ガレドさんの顔色が変わる。
「皆さん、下がってください」
ルークがすぐに私の前へ立ち、剣を抜いた。
次の瞬間、林の影から黒い影が飛び出してきた。
狼に似ている。
けれど普通の狼よりずっと大きい。肩の高さは私の腰ほどあり、黒い毛並みには青い光がちらちらと走っていた。額には短い角があり、黄色い目は周囲を鋭く見回している。
「黒牙狼……!」
ルークの声が低くなる。
「エレナ様、ロブを抱いて後ろへ」
「黒牙狼?」
「森に棲む魔獣です。普通なら人を避けるはずですが、王宮の庭まで来るなど……」
黒牙狼は、歯を見せて唸った。
近くにいた侍女たちが悲鳴を上げ、庭師たちは道具を持ったまま後ずさる。どこから聞きつけたのか、見張りの騎士たちも駆け寄ってきた。
でもロブだけは、黒牙狼を見て尻尾を振った。
「ロブ?」
「わん!」
私が抱き上げるより早く、ロブは黒牙狼のほうへ走り出した。
「ロブ!」
「危ない!」
周囲の声が重なる。
黒い狼は大きく口を開いた。鋭い牙が朝の光に光る。
けれど、ロブは止まらない。
目の前まで行くと、前足を小さく跳ねさせた。遊ぼう、と誘うときの仕草だ。
「わふ!」
黒牙狼は唸るのをやめた。
ロブを見下ろし、ゆっくりと鼻を近づける。
ロブも鼻先を伸ばした。
くん。
くん、くん。
黒牙狼の肩はまだ固く、尻尾も下がったままだった。
ロブは一度だけ後ろへ下がり、相手の目を見た。それから、地面に落ちていた小枝を前足で転がす。
ころん、と枝が黒牙狼の前へ転がった。
黒牙狼は枝を見た、そしてロブを見る。また枝を見る。
ロブは待っている。
その姿は、いつか公園で初めて会った大きな柴犬に近づいたときと同じだった。
怖がらせないように少し距離を取り、それでも一緒に遊びたい気持ちは隠せない。そんな顔だ。
黒牙狼は、そっと枝へ鼻を近づけた。
しかし、その瞬間、体をびくりと震わせ、再び低い唸り声を漏らした。
毛並みの間に青い光が走る。
「下がれ、ロブ!」
ルークが叫んだ。
黒い狼は苦しそうに頭を振った。誰かを威嚇したいのに、自分でもそうしたくないように見えた。前足で地面を掻き、爪が石畳を削る。
ロブは逃げなかった。
ただ、黒牙狼の前へ戻り、短く鳴いた。
「わふ」
強い声ではなかった。
大丈夫だよ、と言うような、いつも私が泣いているときに聞かせてくれる声だった。
黒牙狼の黄色い目が、ロブへ向く。 青い光が、少しずつ薄れていく。やがて深く息を吐き、頭を下げた。
ロブが近づいても、もう唸らなかった。
お互いの顔の匂いを確かめる。
「神獣様が、黒牙狼の心を読んで……」
誰かが、震える声で呟いた。
次の瞬間、ロブは黒牙狼の横へ回り込み、そのお尻の匂いを嗅いだ。
黒牙狼は、少し戸惑ったように振り返り、そしてロブのお尻の匂いを嗅いだ。
その場にいた全員が、言葉を失った。
「……犬の挨拶です」
私は小さく言った。
「犬の」
「挨拶です」
黒牙狼はロブをもう一度見つめ、それから尻尾をわずかに揺らした。
ロブは嬉しそうにぴょんと跳ねる。
次には、二匹は並んで庭園を歩き始めていた。
ロブが先に行けば、黒牙狼があとを追う。ロブが草の匂いを嗅げば、黒牙狼も同じ場所へ鼻を寄せる。ロブが振り返って「わん」と鳴けば、黒牙狼は低く「うう」と返した。
どう見ても、仲良くなっている。
「遊び相手だと思ってる……」
私は呆然と呟いた。
ルークは剣を持ったまま、信じられないものを見る顔をしている。
「黒牙狼は、群れ以外の相手にこれほど近づかないはずです」
「ロブも、初対面の大きい犬には慎重なんですけど」
ロブが前足を下げ、お尻を少し上げた。
遊びの誘いだ。
黒牙狼の黄色い目が丸くなる。
しばらく迷ったあと、黒牙狼も同じ格好をした。
ロブが駆け出す。黒牙狼が、そのあとを追う。
「走った!」
「神獣様が魔獣と戯れておられる……」
「花壇! 花壇のほうへは行かせないでください!」
いちばん切実だったのは、ガレドさんの声だった。
ロブと黒牙狼は、幸いにも花壇の手前で止まった。ロブが黄色い花に鼻を近づけると、黒い狼も同じように嗅ぐ。
黒牙狼の体からは、さっきまでぴりぴりしたような気配が出ていた。
けれど今は、それが少しずつ薄れているように見える。青い光も、ほとんど消えていた。
そのとき、庭園の入口のほうがざわめいた。
国王陛下と王妃様、それからアレクシス王子とセシリア王女が、数人の側近を連れて歩いてくる。
国王陛下は、ロブと黒牙狼を見ても驚いているようには見えなかった。ただ、深い考えごとをするように目を細めた。
「やはり、神獣は争わないのか」
その言葉は、静かな庭園によく響いた。
私は黒牙狼と並んで歩くロブを見る。
ロブは黒牙狼の耳を、興味深そうに嗅いでいる。黒い狼は嫌がるどころか、ロブの小さな体に合わせるようにゆっくり座り込んだ。
私は言った。
「ただ、友達になりたがっているだけです」
国王陛下がこちらを見た。
「友達に」
「ロブにとっては、相手が人か魔獣かは関係ないんだと思います。怖がっていなければ、匂いを嗅いで、気が合えば遊ぶ。それだけです」
「それだけ、か」
国王陛下は、少し寂しそうにも見える笑みを浮かべた。
「人間には、難しいことかもしれぬな」
アレクシス王子は黒牙狼を注意深く見ていた。
「父上。この魔獣は、今朝、庭へ侵入したのです。警戒を解くべきではありません」
「もちろんだ」
国王陛下は頷く。
「だが、恐れる前に知ることも必要だろう」
ロブが落ちていた小枝を見つけ、前足でつつく。黒い狼はそれをじっと見てから、そっと口にくわえた。
「わん!」
ロブが跳ねる。
黒い狼は枝を口にくわえたまま、少しだけ尻尾を振った。
「あれは、遊ぶ気ですよね」
「遊ぶ気ですね」
私とルークの声が重なった。
庭園に、少しだけ笑いが広がった。
しばらくして、黒牙狼が林のほうを見た。帰りたくなったのかもしれない。
ロブは名残惜しそうに後を追いかけたが、私が呼ぶと、ちゃんと戻ってきた。
黒牙狼は一度だけ振り返る。
ロブと目を合わせると、低く鳴いた。
「またね、って言ってるのかな」
「わふ」
ロブは尻尾を振った。
黒牙狼が林の奥へ消えたあと、ガレドさんは土のついた帽子を胸元で握りしめた。
「陛下。あの黒牙狼のことですが」
国王陛下が振り返る。
「何か知っているのか」
「半年ほど前から、あの林の近くで見かけることがありました。最初は、ただ遠くからこちらを見ているだけでした。庭の果実が落ちると、夜のうちに持っていくこともありましたが、人を襲ったことはありません」
「半年も前?」
ルークが眉をひそめる。
「なぜ報告しなかった」
「申し訳ありません。魔獣ではありますが、こちらを恐れているように見えたのです。罠を置けば、かえって傷つけると思いまして」
ガレドさんは頭を下げた。
「ですが、最近は違いました。十日ほど前から、林の木に爪痕が増えた。夜には、苦しそうな遠吠えも聞こえました。近づく動物を追い払うようになって……今日、あんなふうに庭へ出てくるとは」
国王陛下の表情が静かに引き締まる。
「急に凶暴になった、と」
「はい。でも、今の姿を見ればわかります。あれは根っから人を憎んでいる獣ではありません」
私は、ロブのあとを追って走っていた黒牙狼を思い出した。
尻尾を振ったこと。
小枝をくわえて、どうしていいかわからない顔をしたこと。
あれが本当の姿なら、さっきまでの唸り声は、怖さや苦しさから出ていたのかもしれない。
「魔獣が悪いわけじゃないのかも」
私が呟くと、アレクシス王子がこちらを見た。
「何者かが、魔獣を狂わせている可能性がある、と?」
「わかりません。でも、昨日のドラゴンも傷つけられていました。今日の黒牙狼も、急に変わった。偶然とは思えなくて」
ルークが低い声で言う。
「各地で魔獣が荒れているという報告とも一致します」
風が吹き、庭園の木々がざわりと揺れた。
朝にはただきれいだった庭園が、急に知らない場所のように思える。
ロブはそんな空気を気にせず、私の足元で座っていた。けれど、黒牙狼が消えた林のほうをじっと見つめている。
「ロブ」
私が呼ぶと、ロブは私を見上げた。
その目はいつものロブのものだ。
私はその背中を撫でた。
「友達が困っていたら、心配になるよね」
「わふ」
ロブは小さく鳴いた。
国王陛下は、しばらくロブを見つめていた。
「森の調査を進めよう。ただし、黒牙狼を追い詰めるためではない。何が彼らを苦しめているのかを知るために」
「承知いたしました」
ルークが胸に手を当てる。
私がロブを抱き上げると、ロブは私の腕の中で、まだ林のほうを見ている。
また会えるかな、と言っているように見えた。
その小さな背中を撫でながら、私は思った。
神獣だからといって、ロブに何かを背負わせたくはない。
でも、ロブが自分で助けたいと思うなら。
私はきっと、その隣を歩く。
朝の庭園には、まだ青い空と、踏み荒らされていない花壇が残っていた。
――第三話おわり




