第二十八話 白き獣〜境界の門
七つの標が動き始めた。
ついに公爵城へ入ったエレナとロブ。
開き始めた境界の門の前で、声を聞くロブがとった行動とは?
公爵城へ向かう道で、最初に出会ったのは人ではなかった。
森から、角のある獣が飛び出してきたのだ。
「止まれ!」
先頭の騎士が手を上げ、馬の列が止まった。
青灰色の毛に、槍のように前に出た角。
蒼槍鹿だった。
一頭だけではない。
成獣が五頭、まだ角の短い幼獣も二頭いる。
私たちの姿を見ても、止まらなかった。
蹄が石を叩き、街道へ出る。
馬が怯えて身を引き、騎士たちの手が剣へ動く。
「剣を抜かないでください!」
声を上げる。
蒼槍鹿は私たちへ向かっていない。
街道を横切ろうとしているようだ。
北から南へ、七つの標が囲む内側から、外へ。
「道を開けろ!」
ルークが命じた。
馬を左右へ寄せ、中央が空いた道を、蒼槍鹿が駆け抜ける。
一頭の肩が荷車へ触れた。
木箱が落ちる大きな音に、幼獣が跳ねた。
それでも蒼槍鹿は、人に角を向けることはない。
親らしい一頭の腹に隠れ、また走り出した。
最後の尾が林の向こうへ消える。
ロブは私の腕の中で、その方角を見ていた。
首元には深い青の糸が残っている。
細い糸は、引けばすぐに切れそうだ。
でも七標とつながった印を、力任せに外すのは危険すぎる。
ミラが糸の周囲へ銀色の留め具をつけ、光がロブの皮膚に戻らないよう固定してくれた。
「あの子達を追いたい?」
ロブの耳が動く。
返事かどうかはわからない。
蒼槍鹿が去った森から、さらに音がした。
蛍尾リスや岩角兎という小さな魔獣まで、同じ方向へ走っている。
「魔獣が集まっています!」
後方から声が上がった。
「集まっているんじゃないと思うよ」
ディート先生が地面へしゃがみ、土についた足跡を確かめた。
「全部、南へ向かっているようだ。人を囲もうとしている足跡ではないよ」
「逃げている?」
「おそらく」
先生は断定しなかった。
けれど、次に現れた翼蛇も、私たちの頭上を南へ飛んだ。
普段なら別の縄張りにいる種類が、互いを追い払わず同じ方向へ進んでいる。
七つの標が光り始めてから、半日。
人より先に、魔獣たちは何かを感じていたのかもしれない。
「村へ知らせます」
副団長が伝令を呼ぶ。
「魔獣の群れを見ても攻撃するな。家畜と人を道から離し、南へ抜ける場所を開けるように」
「魔獣被害だと思う者もいるでしょう」
「だから記録も送る。群れの種類、向き、人を襲っていないこと。曖昧にするな」
公爵領では、鐘が鳴り続けている。
何の鐘か知らない領民は、魔獣が森から出れば、襲撃だと思うかもしれない。
怖さは、説明だけでは消えない。
それでも、何が起きているか知れば、槍を向けることも減るだろう。
街道沿いの村では、最初の混乱が起きていた。
風角鳥の群れが屋根を越え、広場へ降りた。
公爵家の兵が弓を構えている。
「撃つな!」
マルクが馬から飛び下りた。
「王都騎士団の命令です。南門を開けてください!」
「魔獣を村へ通せと?」
「村に入るためではありません。村が道の上にあるんです!」
言い方は少し変だったが、実際その通りなのだ。
村人が積んだ荷箱を動かし、柵の一部を外す。
風角鳥は広場の端で翼を震わせていた。
赤い目、荒い呼吸。
攻撃的と言うより不安そうに見える。どこへ逃げればいいかわからないかのように。
ロブが私の腕から身を乗り出す。
「近づけないよ」
青い糸が付けられたロブ自身も狙われている。
騎士たちが、布を使って人の姿を隠しながら道を作った。
南門が開くと、一羽が走り出し、ほかの鳥も続いた。
村の南門から、多くの風角鳥が飛び立った。
人を襲うためではなく、おそらく境界から逃げるために。
◇
公爵城は、七つの標が作る輪の中心近くにあった。
黒い石の城壁に囲まれ、四つの塔が見える。
丘の上から領地を見下ろす、グランツ家の城。
以前なら、街道を行く商人の荷車が列を作っていたはずだ。
今は門が閉じられ、城壁の上に兵が並んでいる。
公爵家の旗は下ろされていない。
王宮から出た拘束命令を伝えると、城門の小窓だけが開いた。
「王宮の部隊は、魔獣の群れを連れて領内を混乱させている。グランツ公爵閣下は、領地を守るため城を離れられない」
中から答えが返る。
ルークが説明する。
「証拠がある。翼猫二頭の移送記録。七標への物資。公爵本人と灰の狩人の関係。命令に従わない者は、公爵個人ではなく王国法に背くことになる」
城壁の兵たちが顔を見合わせる。
風止まりの礼拝所の時と同様に、全員が事情を知っているわけではないだろう。
公爵へ従う者。
領地を守るため立っている者。
家族が城内にいて、動けない者。
同じ鎧を着ていても、同じ考えではない。
「門を破りますか」
騎士が尋ねる。
「まだだ」
ルークは即答した。
「城内へ避難している領民がいる。攻撃魔術は使わない」
七標からの光は、城へ集まっている。
急がなければならない。
でも急ぐことと、目の前の人を巻き込むことは同じではない。
城の構造を知る兵が呼ばれた。
第七標で公爵に従わず、私たちへ協力してくれた人だった。
「古い水路があります」
男は城の東側を指す。
「三年前に閉じられました。ですが、城内へ入る道は残っているはずです」
「公爵が川の流れを戻した年ですね」
「はい」
七標と川で、領地を囲む輪を作った。
水路の修復も、その一部だった。
二隊に分かれる。
副団長は正門へ残り、城内の兵へ投降を呼びかける。
私とロブ、ルーク、ミラ、サレス、ロジェ神官とマルクを含む騎士八人で水路へ向かう。
ディート先生は村に残った。
南へ逃げる魔獣と、混乱する人の双方に治療が必要だった。
「ロブちゃんを城へ近づけるのは危険じゃないかな」
出発前にディート先生に言われた。
「ここへ残すほうが安全かもしれないよ」
私は何も答えられなかった。
城、そして南へ続く街道を見る。
「公爵の印は、距離では切れない」
ルークが言った。
ロブの首元の糸は、城へ近づくほど明るくなっている。
「ここへ残しても狙われるかもしれない。離れた場所で何が起きているかわからないよりはいいと思う」
「私も同じ意見です。糸を安全に切るには、公爵側の術式も止める必要があります」
ミラが言う。
危険がない道はない。
なら、誰と、何を見ながら進むかを選ぶ。
ロブだけを残して私が戻れなかったら……。その方が怖い。
私はロブを抱き直した。
「一緒に行こう」
「わふ」
返事に聞こえた。
◇
ロブは水路の入口から漂う湿った匂いに、鼻を動かしていた。
古い水路には、ほとんど水がなく、足首ほどの流れが、黒い石の間を進んでいる。
壁には新しい削り跡があった。細い溝、銀色の粉。
七標から城へ力を集める線が、水路の底を通っていた。
「踏まないでください」
ミラが透明な石を前へ出す。
青く曇る場所を避け、一人ずつ歩く。
途中で、上から鐘が聞こえた。
九回。
短い間。
また九回。
「時刻を合わせる術式が速くなっています」
ミラが砂時計を見る。
「七標の間隔が縮んでいる。最初は九つ数える時間があった。今は、その半分もない」
完全に同時になれば、どうなるのだろう。
水路の出口には鉄格子があった。
新しい錠が三つ。
マルクが道具を出す。
「開けられます」
「鍵を持っているのか」
「いいえ」
「壊すのか」
「はい。それも含めて、開けると言います」
音を抑えるため布を巻き、留め具へ細い楔を入れる。
一つ。
二つ。
三つ目が外れたとき、格子の向こうに人が立っていた。
黒いローブ。
右手に、古い火傷の痕。その内側に、1の焼き印。
自分を灰の狩人と名乗った男。
私たちを試すように現れ、何度も逃げた男。
「最初から、公爵のために?」
「最初からではない」
男の後ろに、黒いローブの人間が四人現れる。
それぞれに数字の焼き印がある、名を捨てた者たち。
「私は境界を探していた。公爵は土地を渡す方法を探していた。必要なものが一致した」
「魔獣を苦しませることも?」
「声が必要だった」
「それだけですか」
男は少し首を傾ける。
「お前は、まだ理由があれば行いの形が変わると思っている」
「変わりません」
私は答えた。
「理由を知っても、傷つけたことはなくならない。でも、止めるためには何を望んでいるか知らないといけない」
男の目が細くなる。
「以前より、話が短くなった」
「急いでいるから」
水路の上で鐘が鳴る。
男たちが同時に動いた。
ルークの剣が、男の短剣を受ける。
騎士たちが前へ出ると、狭い水路へ金属音が響いた。
マルクは私とロブの前に立った。
ミラとロジェ神官が銀色の溝から離れる。
「殺すな!」
ルークが命じる。
「公爵と術式について話を聞く!」
男の火傷痕のある手が、壁に触れた。
銀線が光る。
水路の水が逆向きに流れた。
足を取られ、私はロブを抱いたまま壁へ手をついた。
青い糸が強く光り、ロブが鳴いた。
「きゃん!」
「糸へ力が来ています!」
ミラが杖を床へ置く。
銀色の溝を横切るように、透明な石を三つ並べた。
青い光が石へ移る。
全部は止まらなかったが、ロブの首元の光が少し弱くなった。
男が壁から手を離す。
ルークの剣が短剣を弾いた。
マルクが男の足元へ体を入れ、肩で押し上げると、男が水の方へ倒れた。
騎士二人が腕を取り、銀線へ触れないよう拘束した。
ほかの四人も、拘束した。
男は水に片膝をついたまま、ロブを見ていた。
「最初に会ったときから、ロブを境界へ連れていくつもりだったんですか」
私が尋ねる。
男は、少し考えるように目を伏せた。
「最初は、白き獣かどうかを確かめていた」
「魔獣を操って?」
「声へ反応するか。人の命令と、魔獣の恐れのどちらを選ぶか。自分が傷つく危険があっても近づくか」
試されていた。
ロブだけではないだろう、私がロブを止めるか。
王宮が神獣をどうするか、魔獣に対してどう動くか
彼らは、それを観察していた。まるで実験のように。
「傷つけた魔獣の数を覚えているの?」
「数は記録している」
「数ではなく、一頭ずつを」
答えなかった。
蛍尾リス、翼蛇、岩角猪、蒼槍鹿。
種類と数を並べても、その一頭が何を怖がり、どんな声で鳴いたかまでは残らない。
「その火傷痕、旧鉱山にいたのはあなたね」
引きつれた右手を見る。
男が初めて、ロブから視線を外した。
「二十年前、北の森で青い霧が出た。私の村では、霧へ触れた者の皮膚が焼けた」
グランツ公爵が話していた異変のひとつか。
「誰もまともに調査しなかった」
「だから、公爵に協力した?」
「公爵だけが、違うと言った。境界の向こうに答えがある。道を開けば、同じことは起きない。そう言った」
公爵はこの男を利用した。
でも、ただ命令したのではない。
答えを求めていた人間に、答えと解決策を与えた。
「名前を捨てたのは、なぜ?」
「名を呼ぶ者が、もういないからだ」
短い言葉だった。
村で家族や仲間を失ったのか、私にはわからない。
彼もそれ以上は言わない。
「呼ぶ人がいなくなっても、名前がなかったことにはならない」
「戻る場所がない者に、名は重い」
「だから、ほかの魔獣からも名前を奪ったの?」
男の顔から、わずかに表情が消えた。
「一頭ずつの声を残せば、術式は完成しない」
「完成しなくていい」
「それでは、何も変わらない」
「変える方法を、間違っている」
水路の壁で、青い線が脈打つ。
「遅すぎる」
「まだ門は開いていないはず」
「門のことではない」
男は南の方角へ顔を向けた。
「獣が逃げ始めた。境界は、もうこの土地を岸として認めていない」
「どういう意味?」
「七つの標が囲んだ内側は、どちらの岸にも属さなくなった」
公爵領は、まだ境界を渡っていない。
でも、こちらの世界から切り離され始めている人ということか。
だから魔獣は逃げるのか。
地面の下にある魔力の変化を、人より先に感じて。
「今なら戻せますか」
ミラが尋ねる。
「公爵は戻すつもりがない」
「あなたの考えを聞いています」
男はミラを見た。
少しだけ口を開く。
けれど答える前に、水路の上で大きな鐘が鳴った。
九回ではない。
一度だけ。
城全体を震わせる音だった。
男は目を閉じた。
「公爵が、門の前へ着いた。俺を止めても、公爵の術式は動く」
「七標を止めます」
「止めれば、一つに集まる」
「何が集まるんですか」
男は笑った。
「逃げている獣にでも聞け」
それ以上は答えなかった。
◇
水路の先は、公爵城の地下倉庫へ続いていた。
穀物袋や薬草箱、冬に備えた薪など、領民を守ろうとして集めたものが、きちんと並んでいる。
その床を、七本の青い線が横切っていた。
公爵の望みは、嘘ではないだろう。
方法が独善的で、誰にも選ばせていないというだけで。
地下から上がると、城内は静かだった。
王宮の部隊は、正門にいる兵に呼びかけ続けている。
使用人や避難してきた領民は、大広間へ集められていた。
騎士が扉を守っている。
私たちを見て剣へ手をかけた。
「神獣様……?」
一人が白い姿に気づく。
「公爵閣下は、神獣が領地を救うと」
「ロブ一頭へ、領地を背負わせるつもりです」
私は言った。
「皆さんを土地ごと境界の向こうへ渡そうとしている。向こうが安全か、公爵自身にもわかっていません」
兵の顔が変わる。
「そんな命令は聞いていない」
「だから、確かめてください。私の言葉も、公爵の言葉も、そのまま信じなくていい。地下の術式を見て、城の人たちを外へ逃がしてください」
すぐには動かなかったが、そのうちの一人が剣から手を離した。
「術式は、どこに」
マルクが案内する。
残った騎士が大広間を開き、領民を南側の庭へ誘導する。
私たちは七本の線を追う。
階段を上がり、公爵家の紋章がある大きな扉を開き、謁見の間に入る。
グランツ公爵は一人で座っていた。
「第1は」
私たちを見ると、最初に聞いた。
「拘束しました」
ルークが答える。
「そうか」
公爵の声に驚きはない。
「彼は最後まで、名より役目を選んだ」
「あなたが選ばせた役目です」
「名を捨てたのは本人だ」
「捨てなければ、ここに立てないようにしたのは誰ですか」
公爵は答えず、玉座の後ろを見た。
壁が取り外されている。
その奥に、大きな石の輪があった。
三日月ではない。
完全な円。
黒い石の輪。
内側には、何もない。
暗い空間だけがある。
七本の青い線が床から円へ集まっていた。
「境界の門」
ロジェ神官の声が震える。
「門ではない」
公爵が言った。
「まだ、門になる前の場所だ」
「止めろ」
ルークが剣を向ける。
「領民の避難が始まっている。あなたの計画を望んでいない者まで連れていくことはできない」
「避難?」
公爵は窓の外を見る。
城の南庭で人が動いている。
「どこへ逃げるのだ。土地が死ねば、南へ移っても同じことだ」
「だからといって、行き先もわからない境界へ送るのか」
「ここに残れば起きることはわかっている」
公爵の声が初めて強くなった。
「井戸は枯れる。森は死ぬ。魔獣は力を失い、人の子は冬を越せない。王宮は調査すると言い、大神殿は祈れと言う。その間に、私は墓を増やした」
「だから、あなた一人が全員の岸を選ぶの?」
「領主とは、選べぬ者に代わって選ぶためにいる」
「違う!」
公爵が私を見る。
「事実を知らせることもなく、代わりに選んだことにしないで!」
領民は魔獣被害だと聞かされた。
兵は領地を守る戦いだと思っていた。
灰の狩人は名を捨てた。
ロブは魔獣の声を聞かされ、岸を選ばされようとした。
「あなたは、誰にも本当のことを話していません」
「話せば、恐れて反対する」
「恐れる理由があるからです」
「恐れで未来を捨てる者に、任せられない」
その言葉で、わかった。
公爵は領民を信じていない。
大切だし、守ろうとしている。
でも、自分と違う答えを選ぶことを許さない。
「ロブにも同じですか」
私は腕の中の白い体を抱く。
「こちらを選ぶと決めている。だから、何をしても選ばせたことになる」
「白き獣は声のある方へ渡る」
「助けを求める声へ向かうことと、その岸を選ぶことは違います」
公爵の目が、首元の青い糸へ向く。
「白き獣がどちらへ進むか、それが答えだ」
右手を上げた。
その指に、公爵家の印章がある。
ルークが動いたが、公爵の手が早かった。
印章を玉座の肘掛けへ押しつける。
七本の線が強く光った。
「ミラ!」
「切らないで! 同時に止めます!」
ミラが術具を床へ広げる。
七つの透明な石。
各標の調査隊が持つものと対になっている。
「各隊へ合図!」
窓から七色の光が上がる。
遠く。
第一標から返事。
第二標。
三つ。
四つ。
七つすべての伝令光が空へ上がった。
それぞれの場所で、騎士、魔術師、神官、記録官が待っている。
私たちだけではない。
「第一標、準備!」
ミラが一つ目の石へ手を置く。
「第二標!」
二つ目。
七つを同時に止める。
公爵が印章へ力を込めると、床の光が脈打つ。
ロブの青い糸も同じ間隔で光った。
「第五標、応答が弱い!」
銀鉱山。
地下の支柱へ公爵の印が刻まれていた場所。
「もう一度!」
マルクが伝令灯を振るが、返事が来ない。
公爵が静かに言った。
「第五標には、私の兵が向かっています」
七つのうち一つでも止まらなければ、力はそこへ集中する。
双角山で見た仕組み。
「第五隊へ増援を!」
副団長へ伝令が飛ぶが、間に合うかわからない。
黒い円の内側で、細い光が走った。
何もなかった空間に、景色が浮かぶ。
王都ではない。
森でもない。
夜の道路。
白い線。
遠くを走る車の光。
雨に濡れたアスファルト。
日本だ。私が知っている世界だった。
「違う」
円の中の景色を見る公爵が、動揺している。
「源ではない」
「公爵も、知らなかったんですね」
門の向こうは、魔力の源とは限らないと、サレスが何度も言っていた。
公爵は信じなかった。
自分が必要とする答えを、記録の欠けた部分へ入れた。
円の中の景色が変わる。
日本の道路から青い光だけの空間、そして知らない森。
幾つもの景色が重なり、すぐ消える。
「閉じて!」
私は叫ぶ。
「このままでは、どこへ行くかわからない!」
「まだだ」
公爵は印章を離さない。
「源へ届くまで開けばいい」
「領地の人も一緒に?」
「今止めれば、すべてが無駄になる!」
公爵の声に、余裕はなかった。
公爵は領地を救うため、長い時間をかけてきた。
多くの人間も動かした。
そして魔獣を傷つけた。
ここで間違いを認めれば、それら全部に理由がなくなる。
だから、さらに先へ進もうとしているのか。
「間違えたとしても、止まれます!」
「止まった者から死ぬ!」
公爵が叫んだ。
黒い円が広がる。
壁の石が崩れた。
窓の外で、鐘が一斉に鳴っている。
それぞれの標から、七つの光が空へ立ち上がった。
公爵領を囲む大きな輪が、青白く浮かぶ。
地面が沈むような感覚がした。
城が落ちたのではない。
周囲の世界から、切り離され始めている。
窓の向こうを、魔獣の群れが走る。
南へ、輪の外へ。
境界に飲まれる前に逃げるため。
「第五標、応答!」
マルクが叫ぶ。
五つ目の透明な石が光った。
「全標、同時に止めます!」
ミラが両手を広げる。
「三つ数えて!」
一。
七つの石へ手が置かれる。
二。
公爵が印章を押し込む。
三。
「今!」
七標の光が、一度消えた。
次の瞬間。
すべての力が、公爵城の黒い円へ集まった。
止まらなかった。
男が言ったとおりだった。
七つを閉じた力が、一つへ流れ込む。
境界の門が開いたのだ。
青い光が謁見の間を満たす。
足元が見えない。
声が聞こえる。
魔獣たちの鳴き声。
車のブレーキ音。
いくつもの場所が重なっているようだ。
ロブが私の腕の中で暴れた。
「待って!」
青い糸が門へ引かれている。
ミラが留め具を押さえる。
「糸を切ります! 戻る力は石へ逃がす!」
銀の刃が青い糸へ触れたが、すぐには切れない。
「もう一度!」
光が強くなる。
ロブが身をひねり、私の腕から前足が抜ける。
「ロブ!」
門の中から、私の声が返る。
――ロブ。
日本側からも。
青い空間からも。
何十もの私の声が、ロブの名前を呼ぶ。
ロブは門を見た。
次に、私を見た。
何を考えているかはわからない。
怖いのか。
向こうの声へ行きたいのか。
私にはわからない。
ただ、ロブの耳が一度立った。
ロブは自分の首元へ噛みついた。
青い糸を歯で引く。
「駄目、傷つく!」
糸が皮膚へ食い込むが、離さない。
前足で留め具を押すと、青い糸が切れた。
光が透明な石へ流れる。
ロブの体が自由になる。
私は抱き寄せようとしたが、ロブは私の腕をすり抜け、床へ降りた。
門と逆方向へは逃げようとせず、ロブは黒い円に向かって走った。
「ロブ!」
一度だけ振り返る。
ふわふわの尻尾、茶色い耳、いつもの小さな白い体。
「待って!」
手を伸ばすが、届かない。
ロブは境界の門へ飛び込んだ。
白い姿が、青い光の中へ消えた。
――第二十八話おわり




