第二十七話 七つの標
風止まりの礼拝所だけではない、七つの標を調べる必要があった。
グランツ公爵を阻止するため、万全の体制で臨む。
王宮からの第二陣が、風止まりの礼拝所へ到着したのは、翌日の昼前だった。
最初に聞こえたのは、馬の蹄ではない。
マルクの声だった。
「団長!」
谷へ入る道の向こうから、よく通る声が響く。
風止まりという名前のとおり、礼拝所の周囲では風の音が消える。
そのためか、まだ姿が見えないうちから声だけが近づいてきた。
「エレナ様!ロブ様!」
呼ばれたロブが顔を上げる。
今度は、石柱の内側から真似た声ではない。
耳が前へ向き、尻尾が動いた。
道の曲がり角から馬が現れる。
騎士団の副団長を先頭に、王宮騎士、宮廷魔術師、大神殿の神官、治療師と記録官。
長い列の途中で、マルクが大きく手を振っていた。
馬を下りるより先に飛び出しそうになり、副団長から肩を掴まれている。
「停止してからにしろ」
マルクが地面へ下り、走ってきた。
「ご無事で!」
「はい」
「神獣様も!」
「わん!」
ロブが前へ出る。
マルクは勢いのまま抱き上げようとして、直前で止まった。
手の甲を見せると、ロブは匂いを嗅ぎ、前足をマルクの膝へ載せた。
「覚えていてくださったんですね!」
「何日も離れてませんよ」
「神獣様の一日は、人の一年に等しいかもしれません」
「初めて聞きました」
「今、考えました」
変わっていなかった。
その後ろから、ディート先生とミラが歩いてくる。
ディート先生は、鞄を二つ下げていた。
「怪我は?」
挨拶より先だった。
「肘を少し打ちまして」
「少し、は本人の判断。見せて」
巻いていた布を取られる。
傷は昨日、自分で洗浄した。腫れもひどくない。
先生は指が動くことを確かめ、もう一度きれいな布を手際よく巻いた。
「すごい本当のお医者さんみたい」
「こっちが本職だよ。そんな軽口が叩けるなら大丈夫だね。さ、ロブちゃんも診せて」
ロブの目を見る。鼻を確かめる。
口を開けようとして、顔を背けられる。
「口の中も診せてくれる?」
ロブは逃げた。
「診察を拒む元気はあるね」
先生は追いかけなかった。代わりに干し肉を一片出す。
ロブが戻ってくる。
口を開けたところで、歯と舌の色まで確認された。
「先生のほうがうわ手ですね」
「患者との信頼関係だよ」
第二陣が来た。
もう、礼拝所にいる人数だけで七つの標を守らなくていい。
翼猫二頭も、すぐディート先生の診察を受けた。
薬が抜けきっていない一頭へ温めた水が与えられる。
もう一頭は人が近づくと翼を広げた。
「守っているんですか」
マルクが尋ねる。
「そう見えるだけかもしれないね」
ディート先生が答える。
「怖いから、体を大きくしている可能性もある。どちらにしても、今は距離を取ったほうがいいな」
籠の周囲へ布が張られた。
人の視線を減らし、二頭が互いを見られる隙間だけを残す。
治療師が交代で呼吸と体温を記録していた。
◇
礼拝所の外には、七つの標を調べるための机が並べられた。
サレスが保存していた地図。
王宮から持ってきた土地台帳。
各地の古い神殿記録。
グランツ公爵家の倉庫で見つかった物資の控え。
第二陣が途中の村で集めた証言。
記録官が一つずつ番号をつけ、誰がどの紙を持ったかまで書き残す。
記録を消されてきた相手と戦うなら、見つけるだけでは足りない。
同じものを複数作り、違う場所へ残す必要がある。
「第七標の状態から確認します」
ミラが黒い石の輪へ近づいた。
ロブと私は礼拝所の外で見る。
反応を測るためだけに、命を術式の近くへ置かない。
サレスが守ってきた方法でもあった。
ミラは四つの水皿と、細い銀線、透明な石を使った。
魔力を直接流さない。
標から自然に漏れている力だけを銀線へ受け、石の曇り方を調べる。
「南の溝は、第一標へつながっています」
透明な石の片側が青く曇る。
「残り六本にも反応があります。同じ強さではありません」
「第七標が壊れているからか」
ルークが聞く。
「それだけではありません。ここを見て」
ミラが床を指す。
黒い石の溝へ、銀色の粉が薄く残っていた。
翼猫の輪から伸びていた術式と同じ色。
けれど、籠へ向かう線とは別だった。
石の輪の外側を回り、七本の溝へ細く分かれている。
「これは第七標だけを逆流させる術式ではないようです」
「では、何を」
「ほかの六つへ、同じ合図を送るためのものです」
サレスが身を乗り出した。
疲労は残っているだろう。
ディート先生から横になるよう言われていたけれど、標の話が始まってから立ったままだ。
「合図の回数はわかるか」
「三度の警告とは違います。一定の間隔で、非常に弱い波を送っています」
ミラが砂時計を置く。
透明な石の曇りが、薄くなり、また濃くなる。
九つ数える間隔だった。
「今も動いている?」
「はい。翼猫との接続を切っても止まっていません」
礼拝所の地下深くに、別の術式が残っている。
床を掘れば確かめられるかもしれないが、標そのものを傷つける危険がある。
「ほかの標でも、同じ間隔かを調べよう」
サレスが地図へ七つの印を置いた。
第一標は、セレム原神殿。
第二標は、枯れ井戸の残る村。
第三標は、古い見張り塔。
第四標は、森の中のストーンサークル。
第五標は、閉鎖された銀鉱山。
第六標は、川沿いの祠。
そして第七標が、風止まりの礼拝所。
「全部へロブを連れていくことはできません」
私は言った。
「連れていかん」
サレスが答える。
「白き獣が近づけば、標は起きる。調べたい反応と、獣に起こされた反応を分けられなくなる」
「では、ロブはここで待つ?」
「それも危険だ」
ルークが地図を見る。
公爵は逃げており、残った灰の狩人が何人いるかもわからない。
第七標にとどまれば、また狙われるかもしれない。
「エレナ様と神獣様は、中央の連絡隊と動くことにしてはどうでしょう」
副団長が提案した。
「どの標にも近づきすぎず、各隊から半日で戻れる位置を移動する。護衛は六人」
「第一標に指揮所を置く。グランツ公爵が狙う対象を守る者と、七標を守る者は分ける」
役目を分ける。
それは、人をばらばらにすることとは違う。
連絡の方法。
戻る時刻。
異変があったときの合図。
先に決めれば、離れていても同じ目的で動ける。
七つの調査隊が作られた。
各隊に騎士、魔術師、神官、記録を取る者を一人ずつ。
井戸と銀鉱山には、毒や薬品を調べる治療師も加わる。
マルクは第四標へ。
ミラは最初に第七標を調べたあと、第一標へ戻り全体の結果を比べる。
ディート先生は翼猫とサレスをセレム原神殿へ移し、治療の指揮を執ることになった。
「私は患者ではない」
サレスが言った。
「歩いて三度ふらついた人は患者です」
「二度だ」
「さきほど机へ手をついた分を入れて三度です」
「あれは地図を見た」
「横になっても地図は見られます」
ディート先生は譲らなかった。
サレスも最後には、原神殿から各隊の報告を見ることで受け入れた。
出発前、マルクがロブの前へしゃがんだ。
「第四標を守ってまいります」
ロブは差し出された手を嗅いだ。
「帰ったら、神獣様よりお褒めの言葉をいただければ」
「わふ」
「いただきました」
「まだ行ってもいないのに」
「前払いです」
ロブが褒めたかはわからない。
でもマルクは元気よく立ち上がった。
◇
七標の調査には、二日かかる予定だった。
最初の報告は、その日の夕方に届いた。
第二標。
枯れ井戸の底に、銀色の杭が九本打ち込まれていた。
杭は標を壊していない。
井戸の周囲を同じ間隔で囲み、地面の振動を地下へ伝えている。
公爵家の兵が、魔獣除けの工事だと村人へ説明していたらしい。
第三標からは、見張り塔の鐘について報告が来た。
使われなくなっていた鐘が、三年前に公爵家の費用で修復されている。
鐘の内側へ、新しい文字が刻まれていた。
周辺にある十二の村の名前だった。
「村の名前を?」
私は報告を読み直した。
人の名ではないが、場所にも名はある。
「名ある声は、呼ぶ者と呼ばれる者の間を行く」
サレスの研究にあった言葉を思い出す。
「土地を呼ぶつもりでしょうか」
「土地は返事をしません」
「普通なら」
ルークが言う。
ロブは私の隣で眠っている。
馬車が揺れるたび、耳の飾り毛も揺れた。
第一標へ戻ると、翼猫二頭は同じ籠の中で眠っていた。
金属輪があった首には、柔らかい布が巻かれている。
一頭が水だけでなく、潰した木の実を少し食べたと聞いた。
ディート先生は、それを大きな前進とは言わなかった。
「一度食べられたことと、回復したことは違うよ。でも次の一口へ進める状態にはなった」
嬉しいことも、断定しすぎない。
先生らしい言い方だった。
夜には、第四標からマルクが戻った。
泥だらけだった。
右の靴は紐が切れ、腰へ下げた鞄には木の枝が刺さっている。
「何があったんですか」
「森が思ったより深くて」
森の中のストーンサークルは、蔦と苔に覆われていた。
公爵側も手をつけていないように見えた。
けれど、苔の下から細い銅線が見つかった。
石を一周し、北東へ伸びている。
線の先には、小さな木箱。
中には時計のような術具があった。
「九つ数えるごとに、一度だけ針が動きます」
マルクは術具を回収せず、描き写した図を見せた。
「触れていません。見張りを残しました」
「よく守ったな」
ルークが言った。
マルクが一瞬、何も言えない顔になり、すぐに姿勢を正した。
「はい!」
声が大きすぎて、翼猫が動いた。
「声を落として」
ディート先生に叱られ、マルクは慌てて口を押さえた。
ロブが足元から見上げている。
褒めたようには見えない。
驚いただけだと思う。
◇
二日目の朝、第五標と第六標から報告が届いた。
第五標の銀鉱山では、古い坑道へ新しい支柱が入れられていた。
閉鎖後の崩落を防ぐため、公爵家が修繕した記録がある。
しかし支柱には、鉱山の外から内へ向けて同じ印が刻まれていた。
すべてが、坑道の奥ではなく、公爵領の中心へ向いている。
第六標の川沿いの祠には、大きな水車が作られていた。
農業用と説明されていたが、つながる水路に畑はない。
水車が九回転すると、祠の地下で鐘が一度鳴る。
その音は人の耳にはほとんど聞こえない。
水皿だけが揺れた。
「全部、九です」
ミラが報告を机へ並べた。
第七標の波。
第二標の杭。
第四標の術具。
第六標の水車。
九つごとに動く。
「三百年間隔で現れた神獣は三頭」
ロジェ神官が言う。
「九百年分?」
「その可能性はあります。でも、それだけなら村の名を鐘へ刻む理由がない」
ミラは七つの位置を大きな紙へ写した。
そこへ、各標で見つかった線の方向を加える。
第二標は北西。
第三標は西。
第四標は南西。
第五標は南。
第六標は南東。
第七標は第一標へ。
七つが中央の門を囲み、内側の圧を外へ逃がす。
サレスの図では、そうなっていた。
けれど公爵が加えた術式は違う。
「内側へ向いています」
私が言った。
「全部、同じ場所へ」
「門を開くなら、中央へ集めるのは不自然ではない」
ルークが答える。
「でも、中央はどこですか」
七標の位置だけを見れば、中心は人の住まない丘陵だった。
サレスの調査でも、そこに門は見つかっていない。
地図には森と、浅い谷しかない。
ところが、術式の向きを線のまま延ばすと、丘陵では重ならなかった。
少しずつずれる。
「描き間違いでは?」
記録官が、それぞれの報告を確かめる。
方位は二度測られていた。
別の人が書いた写しも同じ。
「公爵が失敗した?」
「十二年以上準備して、七か所すべてで同じ方向へずれるとは思えない」
ミラは別の地図を求めた。
現在の街道図。
百年前の領地図。
三百年前の河川図。
地形は少しずつ変わっている。
川は曲がり、村が移り、森が広がった。
それでも標は動かない。
「中心を探す考えが違うのかもしれません」
私は言った。
「三日月の内側に塔があるから、私たちはずっと図の真ん中に門があると思っていました」
「実際、サレス前大神官の研究にも中央の門とあります」
「でも、公爵は門を探しているんじゃない」
第七標で言った言葉を思い出す。
魔力の源を、こちらの岸へ結ぶ。
この土地を残す。
「公爵は、自分で行き先を作っている?」
ミラが顔を上げた。
七本の線を、逆に辿る。
標から中央を見るのではなく、線が向かう先に何があるかを見る。
現在の地図では、すべて少しずつ外れる。
百年前も同じ。
けれど三百年前の地図へ重ねたとき、六本が一つの場所へ集まった。
最後の一本だけは、大きくずれている。
「川です」
マルクが古い地図を回した。
三百年前、大雨で流れが変わった川。
元の河道へ沿って線を引き直す。
七本が交わった。
グランツ公爵家の城。
「公爵城の地下に門がある?」
「違う」
横になっていたサレスが立ち上がった。
ディート先生が止めるより早く、机へ来る。
「門なら、土地の変化で位置を変えぬ。境界路は川や街道に従って曲がらん」
「では、なぜ全部が公爵城へ」
サレスは第三標の報告を取った。
鐘の内側へ刻まれた十二の村名。
「名を呼ぶためだ」
その声が、低くなった。
「人の名だけが名ではない。村。川。森。領地。人が同じものを長く呼び続ければ、場所にも名が結ばれる」
「公爵城は、領地の名前を代表する場所……」
「代々の領主が土地を受け継ぐ場所だ。領主印、土地台帳、境界を定めた誓約書。グランツという名と、この土地を結ぶものがすべて集まっている」
グランツ公爵の暗号印。
公爵家の封蝋。
各地へ出された命令。
私たちは、それを犯行の証拠だと思っていた。
もちろん、証拠でもある。
でも、それだけではなかった。
「公爵家の名を、七つの標すべてへ行き渡らせた?」
王宮の記録官が土地台帳を開く。
この三年、公爵家が修復した場所。
古い鐘。
井戸。
水車。
鉱山。
橋。
礼拝所。
すべての工事許可に、グランツ公爵の印がある。
「七標へ、自分の名を結んだ」
ミラが呟く。
「でも、何のために?」
私は地図を見た。
公爵は、源をこちらへ結ぶと言った。
こちらの岸。
私は、それをこの世界全体だと思っていた。
でも公爵が見ていたのは、ずっと北東部だけだった。
三十年前に枯れた井戸。
消えた魔獣。
冬を越せなかった子供たち。
王宮へ報告しても救われなかった領地。
「この土地を残す」
公爵の言葉を口にする。
「残す、ではない」
サレスが七つの線を指でなぞった。
「渡すつもりだ」
誰も動かなかった。
「何をですか」
聞かなくても、答えは見え始めていた。
「グランツ公爵領そのものを、境界の向こうへ渡す」
◇
「そんなこと、できるんですか」
「できるとは言っておらん」
サレスの答えは変わらない。
「だが公爵が、できると考えている可能性は高い」
七つの標は、本来、中央の門を閉じるためにある。
内側から来る力を七方へ分ける。
公爵はその向きを変えた。
七標を、門を開く鍵にしただけではない。
広い範囲を囲む杭として使おうとしている。
三日月状に並ぶ七標。
その内側には、グランツ公爵領の北部と中央部がほとんど収まる。
残る南側の境は、大きな川が閉じていた。
公爵が水路を直し、古い河道へ小さな流れを戻した記録が見つかった。
三年前。
理由は洪水対策。
効果はほとんどなかったそうだ。
でも境界の線として見れば、七標と川で一つの輪ができる。
「三日月ではなく、閉じた道」
オルディス大神官の覚書。
月に見えたものは、自らの始点へ戻る道だった。
「公爵は領地を囲みました」
ミラが言った。
「七標と川と、自分の名で」
「白き獣は、境界を渡っても個であり続ける者」
ロジェ神官が続ける。
「公爵領を一つのものとして名づけ、神獣様にその名をつなぎ止めさせるつもりなら」
「土地まで、名前と形を失わずに渡せると考えている」
人だけではない、一頭の魔獣でもない、村も森も川も全て。
そこに暮らす者全てが、何も知らないまま、境界を越えさせられる。
「向こうには何があるんですか」
「わからぬ」
サレスが言う。
「魔力の源かもしれん。別の世界かもしれん。名も時間もない場所かもしれん」
「公爵は、源があると信じている」
「信じるだけの記録を持っているのだろう。だが、帰ってきた土地の記録は一つもない」
成功した例がない。
失敗した例も、残る人がいなければ記録できない。
「領民を救うためではなかったんですか」
マルクが、珍しく小さな声で尋ねた。
「本人は、救うつもりなのだと思います」
私は答えた。
ここにいれば、土地の魔力が減り、人が死ぬ。
なら土地ごと、魔力のある岸へ渡ればいい。
公爵の中では、つながっているのだろう。
「でも、誰にも選ばせていません」
領民にも、騎士にも、もちろん魔獣にも。
全員を守るという理由で、全員の帰る場所を奪おうとしている。
「七つの標を止めれば」
ルークが尋ねる。
「一つずつ壊すのは危険です」
ミラがすぐ答えた。
「第七標だけが逆流したとき、第一標へ警告が届きました。今は七つが九つの間隔でつながっている。一つを急に止めれば、残る六つへ力が偏ります」
「同時に止める必要がある」
「はい。ただし、まだ第一標の仕掛けが見つかっていません」
セレム原神殿。
私たちが最初に見つけた標。
石の扉は光り、三度の警告も返した。
でも、公爵が加えた銀線や杭は見つかっていない。
「公爵は原神殿へ入れなかった?」
「それなら、七つは完成していない」
少しだけ希望が見えた。
そのとき、研究室の奥でロブが立ち上がった。
眠っていたはずだった。
壁の石扉へ向く。
耳が立っている。
「ロブ?」
私はすぐ近くへ行く。
石へは触れさせない。
扉の文字が、薄く浮かんでいた。
――名を持たぬものは通るな。
その下へ、別の線が現れる。
一つ、二つと光り、七本すべてが青白く光った。
「離れて!」
ミラが水皿を置く。
鈴は鳴らしていない。
四つの水面が、同時に揺れた。
九つ数える。
また揺れる。
「第一標も、もうつながっています」
「仕掛けはどこに」
騎士たちが研究室を調べる。
壁、床、机の下も何もない。
サレスは、正面の礼拝の間へ目を向けた。
「立石だ」
神殿より古い大きな石。
上のほうに、三日月に似たくぼみがある。
全員で礼拝の間へ移る。
立石の前には、毎朝、水が供えられていた。
管理人の老神官が欠かさず続けてきた祈り。
器を下ろすと、底に、深い青の蝋がついていた。
「いつから、この器を?」
ロジェ神官が管理人に尋ねる。
「三年前です。古い器にひびが入り、公爵様が修復の折に新しいものを寄進してくださいました」
器の外側には神殿の祈りが刻まれている。
内側。
水に隠れる場所へ、公爵家の紋章があった。
毎朝、立石へ供えられた水が、公爵の名を通り、第一標へ落ちていた。
「七つとも、完成していた」
ルークの声が低くなる。
その直後、地面が揺れた。
小さな振動だった。
棚の本が一冊落ちる。
礼拝の間の立石から、低い音が出た。
鐘でもない。
人の声でもない。
遠くで大きな扉が動くような音。
ロブが吠えた。
「わん!」
石の中から、七つの音が返った。
第二標。
第三標。
第四標。
第五標。
第六標。
第七標。
そして、足元の第一標。
地図の上で、七つの印が同時に青く光る。
「どうして、今」
マルクが言った。
ミラが砂時計を見る。
九つ。
また光る。
「合図を待っていたんじゃありません」
ミラの顔色が変わる。
「これは時刻を合わせる術式です。七つを同じ速さで動かすための」
「いつ、動き始める」
「もう始まっています」
外から、馬の音がした。
第四標に残した見張りからの使者だった。
馬を止めきれず、石段の下で転ぶ。
マルクが駆け寄った。
「何があった!」
「ストーンサークルが……光っています」
使者は息を切らしている。
「森の外まで線が伸びた。南西へ。公爵城の方角です」
続けて、第二標から青い伝令光が上がる。
三度。
第六標の方角からも。
一つではない。
七標すべてで、同じことが起きている。
「各隊へ伝令」
ルークが命じる。
「仕掛けへ触れるな。状態を記録し、住民を標から離せ。七隊すべてと連絡を保て」
「公爵城へも部隊を」
ルークが地図を取る。
「あそこが名を集める場所なら、公爵もいるだろう」
「中央の門ではないんですよね」
私は聞いた。
「門の場所は、まだわからない」
サレスが答える。
「だが、七標が囲んだ土地を一つの名で呼ぶなら、呼び手は公爵城にいる」
呼び手。
公爵はロブを攫えなかった。
共渡りである私も、ここにいる。
なら、まだ計画は完成しないはずだった。
「白き獣なしで、土地を渡せるんですか」
「渡せぬはずだ」
サレスがロブを見る。
「名と記憶を保つ者がいなければ、境を越えたものはほどける」
「では、公爵は何を始めたんですか」
返事の代わりに、石扉の奥から声がした。
私の声ではない。
グランツ公爵の声だった。
――白き獣は、すでに我が領内にいる。
石の扉に、公爵の姿はない。
それでも声は、七つの標を通って届いた。
――一度結ばれた名は、距離では切れぬ。
ロブの首元で、何かが青く光った。
毛を分けてみるが、皮膚に傷はない。
光っていたのは、毛の間に絡んだ一本の糸だった。
灰色の煙の中で、男がかけようとした布は、ロブを奪うための眠り薬だと思っていた。
その端から、糸だけが残っていた。
深い青。
公爵家の封蝋と同じ色。
ミラが触れずに顔を近づける。
「印です」
「外して」
「待ってください。七標全部とつながっています。急に切れば、神獣様へ力が戻るかもしれません」
私は手を止めた。
公爵は、ロブを攫うことに失敗したのではなかった。
触れるだけでよかった。
自分の名を結んだ土地の中に、白き獣がいると標へ覚えさせるために。
グランツ公爵の声が、もう一度響く。
――領地を守るため、私は領地をこの岸から切り離す。
立石に、縦の亀裂が走った。
向こう側から、青白い光が漏れる。
床が大きく揺れた。
ロブを抱き上げる。
胸へ触れる体は温かい。
でも、その鼓動と同じ間隔で、七つの標が光っていた。
九つ数える時間は、もう必要なかった。
公爵領のどこかで、鐘が鳴り始める。
一つ。
二つ。
数え切れないほど多く。
村の鐘。
見張り塔の鐘。
水車の下の鐘。
名を与えられた土地が、名を呼び始めていた。
公爵はもう、七つすべてを使っていた。
――第二十七話おわり




