第二十五話 名を持たぬ者
セレム原神殿で得た手がかりを元にサレスの行方を追う。
公爵領の不穏な空気を感じながら、風止まりの礼拝所へ向かったエレナたちが見たものとは。
石の向こうで、細い線が動いていた。
内側から扉をなぞるように、右へ、下へ。
そこで止まる。
研究室にいる全員が、声を出さなかった。
私の腕の中で、ロブの体が固く強張っている。
耳は黒い石へ向いたまま。
「下がれ」
ルークの声で、騎士たちが動いた。
扉の前に張った白い紐を越え、私たちを研究室の入口まで下げる。
ロジェ神官もサレスの手紙を持ったまま後ろへ来た。
石に浮かんでいた文字が消える。
――名を持たぬものは通るな。
最後まで残った一文字も、暗い壁に消えた。
「開きませんでしたね」
私が言う。
「開かなくてよかった」
ルークは扉を見たまま答える。
「今の音が、中にいる誰かのものなら?」
「すぐには開けない。向こうに誰がいるかも、何が起きるかもわからない」
正しい。
でも、同じ間隔で三度鳴った音は、偶然には聞こえなかった。
助けを求めているようにも思えた。
サレスの手紙にも、第一標の内から三度、音を聞いたとある。
「扉の向こうは、地下の部屋ではないのかもしれません」
ロジェ神官が言った。
「どういう意味ですか」
「サレス前大神官は、この場所を第一標と呼んでいます。境界路を留める七つの標が、一つの閉じた道を囲んでいるなら」
研究室の地図を外し、机へ広げる。
セレム原神殿。
北東部へ弧を描く、七つの印。
「扉の奥が、残りの標とつながっている?」
壁の前へ、サレスが観測に使った四つの水皿を置いた。
ロブを近づけない。私はロブを抱いたまま様子を見守る。
騎士が水を注ぐ。
サレスのノートどおり、東、西、南、北へ一つずつ。
水面は動かない。
ロジェ神官が小さな鈴を一度鳴らした。
澄んだ音が研究室へ広がる。
東と西の皿には、同じ瞬間に波が立った。
南は少し遅い。
北の皿だけ、鈴が鳴る前から揺れていた。
「北から、何かが伝わっているようですね」
サレスの四年分の記録を重ねる。
水面の波が先に出た方向。
音が戻った場所。
第一標で北の皿だけが揺れた日は、過去にも二度あった。
一度目は、北端の第七標で青い薬品の跡が見つかった日。
二度目は、砕いた魔石の粉が撒かれていた日。
ロジェ神官がサレスのノートをさらに遡った。
第一標の扉について、別の冊子がある。
タイトルは『響路』。
人が歩く道ではなく、七つの標の間で音と魔力だけを渡す道、と書かれていた。
サレスは一度も扉を開けていない。
取っ手がないからではない。
開けようとしてはならないと考えていたからだろう。
――標は門にあらず。
――門が開かぬよう、内側の圧を七方へ分けるものなり。
「内側の圧って、何だろう」
図では、中央の大きな輪から七本の線が伸びていた。
それぞれの先に標がある。
一つの標へ力が偏れば、ほかの標へ逃がす。
七つ全部が閉じていれば、中央の門は動かない。
「双角山の魔法陣と似ている気がします」
四つの区画を同時に止めなければ、残った場所へ魔力が集中したあの魔法陣。
「灰の狩人は、この仕組みを逆に使ったのかもしれない」
ルークが図を見る。
「魔獣の声を一つへ集め、標のどこかへ流す。内から外へ逃がす仕組みに、外から力を押し込む」
そのために第1段階から第5段階まで、魔獣の反応を変えた。
違う声を、同じ方向へ流れる力にした。
「だから、『名を持たぬものは通るな』なんでしょうか」
一頭ずつの声なら、ロブはそれぞれの恐怖を感じた。
けれど束ねられた声は、一頭のものではない。
誰の名でも呼べない、大きな苦しみになる。
サレスのノートにも、似た考えがあった。
――名ある声は、呼ぶ者と呼ばれる者の間を行く。
――名なき声は行き先を持たず、あらゆる隙間へ満ちる。
――ゆえに標は名なきものを拒む。
「扉の言葉は、通る者への命令だけではないんですね」
「標の役目を示している可能性があります」
名を持たないものを境界へ通さない。
それが、閉じた道の仕組み。
なら灰の狩人は、なぜ名前のない声を作るのだろう。
通れないものを、無理に通すほどの力へ変えるためか。
拒まれた力を標へぶつけ、壊すためか。
サレスは余白に、別の危険も書いていた。
――七標の一つでも逆流すれば、響路は警告を三度返す。
「三度の音」
私たちは同時に壁を見た。
誰かが扉の向こうから叩いたのではない。
第七標で逆流が起きたことを、第一標が知らせていたのではないか。
「サレスさんが第七標へ着いたから?」
「あるいは、追っていた者が先に何かを始めた」
どちらにしても、急ぐ理由は同じだった。
「音は、この扉のすぐ向こうからではない」
ルークが地図の一番北へ指を置いた。
「第七標から、閉じた道を通って響いた可能性がある」
「では、サレスさんも第七標へ?」
「置き手紙には、『古い巡礼歌の終わる場所へ』とありました」
ロジェ神官が歌を書き写した束を机へ積む。
三十四編。
どれが古い巡礼歌なのか、タイトルだけではわからない。
土地ごとに歌詞が変わり、同じ歌が違う名前で記録されている。
「全部、読みます」
私は一番上を取った。
「今からか」
「三度目の音がしたんです。明日まで待てません」
ルークは反対しなかった。
騎士二人を扉の前へ残し、残りの全員で歌を調べる。
ロブを床に下ろした。
まだ壁を見ている。
「そこから離れていてね」
「くぅん」
私たちは、歌の書かれた紙を読み始めた。
◇
古い巡礼歌は、道案内でもあった。
泉で手を清める。
白い橋を渡る。
三本の樫の木で東へ曲がる。
星が塔の上へ来るまで歩く。
今はなくなった橋や木も多い。
歌だけを読んでも、どこへ着くのかわからなかった。
ロジェ神官が古い地図と照らし合わせる。
ルークはサレスの観測地点を一つずつ線で結んだ。
私は、歌の中に何度も出てくる言葉を書き出した。
名。
風。
七つの石。
翼ある猫。
「翼猫?」
一枚を読み直す。
――六つの祈りを背に送り、七つ目の石にて名を置く。
――翼ある猫の眠る丘、北風の名を失うところ。
「これじゃないですか?」
ロジェ神官が別の束から同じ歌の古い形を見つけた。
最後の節が少し違う。
――翼ある猫の声を追え。
――声なき塔を巡り、月の閉じるところへ至れ。
「第七標……」
地図の北端には、小さな礼拝所が記されている。
名前は、風止まりの礼拝所。
今は使われていない。
北の尾根と、古い採石場に挟まれた場所だった。
「サレスさんは、ここへ向かった」
「可能性が高い」
ルークがすぐ騎士へ指示を出す。
街の詰所へ使者を送り、礼拝所までの道と、最近通った者を調べる。
王宮へ追加の報告を出し、原神殿には護衛の騎士を残した。
「今夜のうちに出ますか」
「道がわからないまま山へ入れば、こちらが動けなくなる。出発は夜明けだ」
「でも、追われていたら」
「急ぐためにも、道と馬を用意する」
焦って順番を飛ばさない。
双角山でも、そうしたから全員を救えた。と、わかっている。
それでも、研究室の壁を見るたび、三度の音が耳の奥へ戻った。
深夜、街の詰所から最初の報告が来た。
五日前、杖を持った老人が一人、北門を出ている。
背負い袋と水筒。旅の服装ではあったが、馬は使っていない。
特徴はサレスと一致した。
その翌日、黒いローブを着た三人が同じ門を出た。
「追っ手でしょうか」
ロジェ神官の顔から血の気が引いた。
「サレス前大神官は、それを知っていたのでしょうか」
「手紙を隠した。行き先を普通の言葉で残さなかった。追う者がいると考えていたはずです」
ルークが答える。
黒いローブだけで、灰の狩人とは決められない。
けれど偶然とするには、重なるものが多すぎた。
さらに、別の知らせが届いた。
カルム村から消えた翼猫を追っていた隊からだった。
荷車の跡は北東街道で消えていたのではない。
グランツ公爵領の関所から先だけ、通行記録が抜かれていた。
別の帳簿に、同じ日の荷が残っていた。
薬草箱、二つ。
生きた小動物、二頭。
送り先は、北部採石場の管理小屋。
荷の提供者は、グランツ公爵家の牧場。
報告には、目撃した人の証言もあった。
北東街道の宿場で、荷車が一度止まっている。
夜中、布をかけた箱の中から鳴き声がした。
猫に似ているが、もっと高い声。
箱が揺れたとき、布の隙間から灰色の羽が見えた。
宿の少年が水をやろうと近づくと、御者に強く追い払われた。
「御者の顔は?」
「公爵家の牧場で働く者だったそうです。名前もわかっています」
「身柄は」
「三日前から行方がわかりません」
御者まで消えていた。
逃げたのか、もしくは口を封じられたのか。
報告書の最後には、荷車を管理していた執務官の名がある。
ダリウス・ベルク。
グランツ公爵家で二十年以上勤めている、輸送の担当者だった。
双角山へ十二台の馬車を送る手配にも、同じ署名があった。
「救出の支援と、翼猫の移送を、同じ人が手配した?」
「署名が本物なら」
ルークは二つの書類を並べた。
確かに筆跡はよく似ているが、専門家でなければ断定できない。
「双角山へ助けを出したのも、灰の狩人だったんでしょうか」
「支援で救われた魔獣がいる。それは事実です」
ルークはすぐ答えた。
「誰が何を考えていたとしても、あの馬車がなければ救出は遅れていました」
善い行いに見えたものを、すべて嘘に変える必要はない。
でも、その支援によって公爵家の者は、救出した魔獣の数も、ロブの反応も、私たちの動きも知ることができた。
助けながら、観察していた可能性はある。
「グランツ公爵は、ダリウスという人を信頼しているんですか」
「重要な輸送を任せていたのは事実です」
「公爵は何も知らず、部下が勝手に?」
「あり得る」
「公爵が命じた可能性も?」
ルークは少し黙った。
「あり得る」
どちらも、まだ可能性だった。
黒幕の顔はまだ見えないが、そのすぐ近くに公爵家の名が浮上した。
「小動物って、翼猫かもしれません」
種類までは書かれていない。
でも、カルム村から二頭が消えた日。
同じ道を進んだ荷車。
青い液体のついた矢。
灰色の粉。
そして生きた小動物が二頭。
「管理小屋は、どこにあるんですか」
ルークが地図を見る。
風止まりの礼拝所から、南へ数キロの場所だった。
「翼猫を礼拝所へ運んだとは限りません。しかし、この採石場は十年前に閉鎖されたことになっています」
「使われていない場所へ、生きた動物を?」
「公爵家へ確認を求める」
「今、知らせるんですか」
思わず聞いた。
グランツ公爵。
大神殿で会ったとき、ロブが唸った人。
双角山の救出では、必要な馬車も餌もいち早く提供してくれた人。
北東部に広い領地を持つ高位貴族。
「確認は必要です。ただし、こちらの目的地は知らせない」
ルークの答えに、公爵を疑っているのが窺えた。
少なくとも、何も考えずに頼れる善意の人物ではなくなっていた。
「公爵本人が関わっているとは限りません」
ルークが続ける。
「領地も広く使用人も多い。公爵家の名を使える誰かが、勝手に動いた可能性もある」
「はい」
「だが、公爵家の中に関係者がいる可能性は高い」
もっと悪い可能性を、ルークは言わなかった。
私も口にできなかった。
ロブは敷物の上で丸くなっている。
私たちの疑惑とは全く関係なく、もう眠っていた。
私も横になった。
けれど、全く眠れなかった。
◇
夜明け前、私たちはセレム原神殿を出た。
騎士二人と管理人を残すことになった。
地下の扉には近づかない。
音がしても開けない。
光や振動があれば、時刻と回数だけを記録する。
サレスが守っていた方法を、私たちも使うことにした。
北へ向かう一行には、セレムの騎士が四人加わった。
風止まりの礼拝所まで二日。
途中の村で馬を替えれば、一日半。
街道はグランツ公爵領を通る。
最初の村で、今までと違うことに気づいた。
人が少ない。
朝なのに市場の半分が閉じている。
村の入口には、公爵家の兵が立っていた。
「北部で魔獣被害が増えております」
兵は通行証を確かめながら言った。
「夜間の外出と、森へ入ることを禁じています」
「どの魔獣だ」
ルークが尋ねる。
「種類は確認されておりません」
「被害は」
「家畜が数頭、消えています」
「襲われた跡は?」
「命令により、詳しい報告は領都へ集めております」
何を聞いても、答えは途中で止まった。
村人へ直接話を聞こうとすると、兵の視線がついてくる。
宿の主人は、声を小さくした。
「魔獣なんて、見た者はいません」
「では、なぜ外出を禁じているんですか」
「公爵様のご命令です。北の採石場へ近づくなと告示が来ました」
壁に貼られた紙には、確かに公爵家の紋章が押されていた。
でも、署名は執務官のもので、公爵本人が出したのかは不明だ。
ここでも、決められない。
「黒いローブを着た三人を見ませんでしたか」
主人の顔が固くなる。
「知りません」
「杖を持った老人は」
「知りません」
主人は何も知らないのではなく、何も言わないようにしているように見えた。
握りしめた手が、震えているように見えた。
「わかった」
ルークは追及しなかった。
店を出てから、セレムの騎士が教えた。
「三日前、この村の男が一人、公爵家の兵に連れていかれたそうです。北の道で老人を見たと話したあとに」
不穏な空気は、古い石壁より重かった。
村を出る前、一人の老女がロブに水をくれた。
家の裏にある小さな井戸だった。
公爵家の兵から見えない場所へ、手で私たちを招いた。
「白い犬を連れた人が来たら、渡してほしいと頼まれたよ」
差し出されたのは、細く編んだ草の輪だった。
七か所に、小さな結び目がある。
一番端の結び目だけ、赤い糸が巻かれていた。
「誰に頼まれたんですか」
「杖を持った爺さんさ。三日前の夕方、パンと水を買っていった」
「サレス前大神官でしょう」
ロジェ神官が特徴を確かめる。
「一人でしたか」
「ここではね。でも丘の上に黒っぽいの服の男が二人いた。爺さんは気づいてたよ。だから北へ行くふりをして、一度西の畑へ入った」
追跡を躱そうとしていたのか。
「何か言っていませんでしたか」
「自分を追うな、と。追えば、あいつらを石の場所へ案内することになるって」
「あいつら?」
「名前を聞いたら、爺さんは知らないと言ったよ。向こうも名乗らない。名のない連中だってね」
名を持たぬ者。
扉の文字と、別の意味で同じ言葉が出た。
「この草の輪は、サレスさんが無事だった証拠ですね」
「三日前までは」
ルークが赤い糸を見る。
「それに、行き先を知らせる印だ。第七標へ向かったのは間違いない」
老女は、もう一つ教えてくれた。
黒いローブの男が村に戻り、サレスについて尋ねた。
答えた男が連れていかれた。
宿の主人が怯えていた理由だった。
「連れていかれた人は、どこへ?」
「北の古い役所さ。公爵家の兵が使ってる」
助けに行きたい。
でも今、私たちが役所へ向かえば、サレスと翼猫は遠ざかってしまう。
ルークは同行するセレムの騎士へ命じた。
「後続へ伝えろ。王宮の名で役所を調べ、拘束されている者を確認する。ただし、こちらの行き先は話すな」
一人が馬で戻った。
残る人数は減る。
それでも、連れていかれた人を置いて進むことにならずホッとした。
道を進むほど、監視が増える。
橋や分かれ道、使われていない倉庫の前。
どこにも公爵家の兵がいた。
私たちの通行証は正式なもので、止められる理由はない。
それでも、行き先を何度も聞かれた。
「北部神殿の巡察だ」
ルークは風止まりの礼拝所という名を出さなかった。
兵たちは通した。
そのあと、一人が馬で南へ走っていく。
「知らせに行ってるんでしょうか」
「おそらく」
滞在した村では馬を替えられなかった。
公爵家から、軍務以外へ馬を貸すなという命令が出ていたのだ。
王族の許可証はあったが、ルークは無理に馬を出させなかった。
今いる馬を休ませ、夜明けに出発した。
時間はロスしたが、村人に被害を出すわけにはいかない。
その夜、ロブは宿の窓辺で北を見ていた。
長い時間ではない。
一度、耳を動かし、私のベッドへ戻ってくる。
「翼猫の声がする?」
問いかけても、答えはない。
私は白い背中を撫でた。
◇
二日目の昼、北部採石場へ続く道が見えた。
入口には鎖が張られ、十年前に閉鎖したという看板が出ていた。
けれど地面には新しい車輪の跡がある。
大きな荷車が、何度も往復しているようだ。
道端には、干し草が落ちていた。
グランツ公爵家が双角山へ送ったものと同じ、青い紐で束ねられている。
「公爵家の牧場で使う印です」
騎士の一人が言った。
鎖の向こうから、人の声はしない。
ロブが鼻を上げた。
採石場の道ではなく、その先の尾根を見る。
「風止まりの礼拝所は、あちらです」
案内役が言う。
ここで採石場を調べれば、半日はかかってしまう。
翼猫がいるかもしれない。
サレスはさらに北にいるかもしれない。
二手に分かれることになった。
セレムの騎士二人が採石場を見張り、後続へ知らせる。
私たちは礼拝所へ急ぐことにした。
道は途中で消えている。
古い巡礼歌を頼りに進む。
三本の樫は、一本しか残っていない。
白い橋は崩れ、川へ石の柱だけが立っていた。
七つ目の石。
北風の名を失うところ。
尾根を一つ越えた瞬間、本当に風が止まった。
木の枝は揺れ、雲も動いてのに、私たちのいる谷だけ、音がなかった。
鳥も鳴かない。
ロブの足が止まり、尻尾が下がった。
「抱っこする?」
私を見る。
けれど抱き上げようとすると、一歩前へ出た。
行きたくない。
それでも、向こうに何かがあるから行く。
そう見えた。
「ロブだけでは行かせないよ」
リードを短く持つ。
ルークを先頭に進む。
谷の奥に、崩れかけた石壁が見えた。
風止まりの礼拝所だ。
第七の標。
入口の扉は外され、石段には新しい泥がついている。
人が何度も出入りした跡。
礼拝所の横には、消したばかりの焚き火があった。
灰の下に赤い火が残っている。
固いパンがひとつ、布の上に置かれたままだった。
「さっきまで人がいた」
ルークが地面へ触れる。
足跡は少なくとも四人分。
一つは杖を使った跡がある。
礼拝所の裏へ続く跡は、途中で三つに分かれていた。
私たちを見て逃げたのか。
「周囲にまだいる可能性がある。二人ずつで警戒しろ」
騎士たちが木立へ目を向ける。
ロブは足跡ではなく、焚き火のそばに落ちた布を嗅いだ。
その布の端に、青い粉がついている。
「ロブ、触らないで」
ロブを引き寄せる。
眠り薬か、魔力を増幅する薬品かもしれない。慎重に証拠袋へ入れる。
その時、礼拝所から引っかく音が続いた。
中にいるものは、私たちが来たことに気づいている。
そして、外へ出ようとしているようだ。
「止まれ」
ルークが手を上げる。
礼拝所の中から、かすかな音がした。
かり。
かり、かり。
爪が木を引っかく音。
ロブが走り出そうとする。
「待って!」
リードを両手で持つ。
「くぅん!」
今までより強い声だった。
「翼猫です、きっと」
私は言った。
断定はできない。
でも、巡礼歌。
連れ去られた二頭。
生きた小動物という記録。
中にいる可能性は高いだろう。
騎士が左右へ分かれ、礼拝所へ入る。
人はいない様子。
祭壇の裏に、二つの籠があった。
灰色の翼に白い足、二頭の翼猫が、同じ籠の中で身を寄せていた。
「生きています」
片方が格子を引っかいている。
もう片方は伏せたまま、目だけを動かした。
見たところ傷はないようだ。
でも首に細い金属の輪がつけられている。
輪から、礼拝所の床へ銀色の鎖が伸びていた。
「鎖を触らないでください」
双角山の魔法陣に似ている。
ただし、もっと細く、石の下へ深く続いていた。
祭壇を回り込む。
そこで、私たちは第七の標を見た。
礼拝所の床が、丸ごと掘り返されている。
地下から現れた黒い石の輪。
輪は途中で閉じず、大きな三日月の形をしていた。
内側には、塔のような細い石柱が立っている。
図と同じ、三日月と塔。
石柱の周囲には、七本の溝が集まっている。
その一本が、青白く光っていた。
南へ。
セレム原神殿の第一標へ続く方向。
三度の音は、きっとここから伝わったのだ。
石柱の根元に、サレスの杖が落ちていた。
折れてはいない。血もついていない。
その隣に、黒いローブが三枚、きれいに畳まれていた。
「脱いでいった?」
「追跡を逃れるためかもしれない」
ルークがローブを剣の鞘で動かすと、下から書類が出てきた。
公爵家の倉庫から持ち出された魔石。
薬品。
荷馬車。
日付と数量が並んでいる。
受取人の欄に、名前はなかった。
第1。
第2。
第3。
数字だけ。
「名を持たぬ者」
ロジェ神官が呟いた。
灰の狩人たちは、互いを名で呼ばないのかもしれない。
書類の一番下には、命令を出した者を示す封蝋があった。
割れていて、紋章の全体は見えない。
それでも、深い青の蝋なのはわかった。
端に、翼の先のような線が残っている。
「グランツ公爵家の封蝋と、同じ色です。これだけでは、本人の命令とは言えないが」
ルークは低い声で言った。
「だが、公爵家の物資が偶然ここへ集まったとも言えない」
誰も反論しなかった。
公爵の領地。
公爵家の兵が閉じた道。
公爵家の牧場から運ばれた翼猫。
公爵家の倉庫から出た魔石と薬品。
疑惑が、同じ場所へ集まり始めていた。
翼猫の片方が、弱く鳴いた。
ロブが籠へ近づこうとした瞬間、黒い石柱の奥で何かが動いた。
人影だった。
「誰だ!」
ルークが剣を抜く。
騎士たちが石柱を囲む。
返事はない。
影がゆっくり立ち上がる。
古びたマントに白い髪、片手に、砕けた鈴を握っている。
「サレス前大神官?」
ロジェ神官が一歩出た。
老人が顔を上げる。
疲れ切っている様子だが、意識はある。
「白き獣を……」
かすれた声だった。
「連れてくるなと、書いたはずだ」
ロブが私の足元で低く鳴く。
サレスはロブではなく、その後ろを見ていた。
自分が追われていたことより、扉が反応したことを恐れている顔に見えた。
黒い石の三日月。
塔の根元。
そこへ、影のようなものが滲み出している。
「名を呼ぶな」
サレスが言った。
「ここでは、呼ばれたものが返事をする」
石柱の内側から、声がした。
――ロブ。
私の声だった。私は呼んでいない。
それなのに、境界の向こうで、私の声でロブの名を呼んでいる。
――第二十五話おわり




