第二十四話 セレム原神殿
サレス前大神官に会うためにさサレム原神殿を訪れたエレナたち。
サレスの研究室で何かが起こる。
北東部へ向かう道、途中から建物の石の色が変わった。
王都の街道は明るいハチミツ色だった。
セレム地方へ入ると、道に敷かれた石は黒く、雨に濡れているような光を帯びていた。
両側には低い丘が続き、その向こうに古い塔の先だけが見えた。
「あれがセレムの街です」
同じ馬車に乗るロジェ神官が窓の外を示した。
王宮へ戻ったあと、私たちはすぐに北東部行きの許可を得た。
アレクシス王子は王宮に残り、前大神官サレスの手紙と、セレム地方の記録を調べている。
こちらへ来たのは、私とロブ、ルーク、ロジェ神官。それに騎士六人と、道案内をする神官が一人だった。
サレス前大神官へ先に送った使者から、原神殿に到着はしたが、本人は不在という報告だけが届いた。
だから、私たちは予定を早めた。
「王国最古の祈りの地、でしたよね」
「はい。王国という名ができるより前から、人が集まり、空と大地へ祈っていたと伝わっています」
ロジェ神官が答える。
「当時は、今のような神殿ではなかったのでしょう。大きな石を立て、泉の周りへ輪を作っただけの場所だったとも言われています」
「その場所に、セレム原神殿があるんですか」
「正確には、古い祈りの場所を囲むように、後から神殿が建てられました」
「わふ」
私の膝でロブが身を起こした。
窓へ鼻を近づける。
いつものように外の匂いを嗅いでいるだけかもしれない。
でも、王宮へ帰る馬車で北東を見つめたときより、耳がよく動いていた。
「何か聞こえる?」
答えはない。
ロブはしばらく窓の外を見たあと、私の膝に戻った。
セレムの街へ入った。灰色の石造りの建物の窓は小さく、木の扉には鉄の帯がついている。
新しい家でも、基礎には何百年も前の石が使われているそうだ。
明るい布を広げた露店もあるのに、街全体が古い記録の中へ沈んでいるように見えた。
馬車は街の北端で止まった。
そこから先は、石段だった。
丘の上に、低い石の建物が見える。
セレム原神殿。
王都の大神殿より、ずっと小さく、装飾も少ない。
入口の柱は角が丸くなり、扉にはいくつもの修理跡があるが、古い石造りの建物には、重厚感が漂っていた。
ロブは石段を軽やかに駆け上がる。
途中で三度止まり、石の隙間を嗅いでいた。
「何かありますか」
ロジェ神官が真剣に尋ねる。
「たぶん、ほかの犬の匂いです」
神殿の管理人が犬を飼っていると、案内役から聞いていた。
「神獣様のお導きでは」
「散歩でいつもやることです」
最後の段を上り、扉の前へ着く。
人の気配がなかった。
近くに住む管理人の老神官によると、サレス前大神官は数日前から姿を見せず、研究室にも自室にもいないらしい。
神殿の扉に鍵はかかっており、壊された跡はなかった。
「灰の狩人が、先に来たんでしょうか」
丘を渡る風が冷たい。
「わかりません」
ルークが鍵と扉の周囲を見る。
「争った跡も、無理に入った跡もありませんね。まず中を確かめます」
管理人から預かった鍵を差し込んだ。
重い音を立て、扉が内側へ開く。
◇
神殿の中には、細長い礼拝の間があった。
壁に色ガラスはない、天井も低い。
正面には人の姿をした神像ではなく、大きな立石が置かれていた。
表面は滑らかで、上のほうに浅いくぼみがある。
三日月に似ていた。
「あれは、印と関係がありますか」
ロジェ神官が立石を見上げる。
「この石について残っている記録は、神殿より古いということだけです」
サレスの研究室は、礼拝の間の裏にあった。
扉は閉まっていたが、鍵はかかっていない。
ルークが先に入る。
窓の留め具、机の下、大きな棚の陰。
人が隠れていないことを確認してから、私たちを呼んだ。
研究室は、思っていたより生活の匂いがした。
机には乾いたパン、本やノート。
椅子には毛布がかかり、床と壁際には、本と紙の束が積まれている。
ロブが室内の匂いを嗅ぎながら歩く。
机の脚、毛布、茶の置かれた台。
最後に、部屋の奥の壁で止まった。
「ロブ?」
壁には、大きな紙が何枚も貼られていた。
王国の地図。
古い神殿の位置。
時代ごとの魔獣出現記録。
そして中央には、三日月と塔の印が、一メートルほどの大きさで描かれている。
印から線が何本も伸び、それぞれ別の図や文章へつながっている。
月相を表す図。
塔の断面。
地中を流れる魔力。
三百年前、六百年前、九百年前の日付。
「同じ間隔ですね」
私は日付を指で追った。
「ほぼ三百年」
「神獣が現れた時期と重なります」
ロジェ神官が答える。
机の一番上には、サレス自身がまとめたらしい研究ノートがあった。
表紙に『境界路と白き獣について』と書かれている。
最初のページには、太い線で注意書きがあった。
――本研究は神獣を招くためのものではない。
――境界を人為的に開く試みを、すべて否定する。
その下には、さらに強い筆跡で書き足されていた。
――声を作ってはならない。苦しみを呼び声へ変えてはならない。
「サレス前大神官は、灰の狩人の計画を知っていた?」
「少なくとも、同じ危険を考えていたようです」
ロジェ神官がページをめくる。
サレスは、オルディス大神官が残した覚書と、セレム地方の口承を十二年かけて調べていた。
村ごとに違う歌を集めた。
立石の位置を測った。
古い井戸や地下道に残る魔力を、季節ごとに記録した。
動物や魔獣を使った実験は、一度もしていない。
同じ場所を何年も観察し、自然に起きた変化だけを書いていた。
「純粋に、知ろうとしていたんですね」
「前大神官は、そういう方です」
ロジェ神官の声に迷いはなかった。
「地位にあるころから、わからないものを神の御業という一言で終わらせることを嫌われました。しかし、知るためなら何をしてもよいという考えは、もっと嫌っておられた」
研究ノートにも、それが表れていた。
推測には、必ず推測と書く。
確認できないことは、空欄のまま残す。
口承を語った人の名は、本人の許可がなければ記さない。
神獣を「器」「鍵」「試料」と呼ぶ古文を引用した横には、赤い線が引かれていた。
――命を物の名で呼べば、扱いも物になる。
私はその一文を、二度読んだ。
サレスは、ロブを利用しようとして研究していたのではない。
まだ会ったことのない神獣を、記録の中で守ろうとしているようにも思えた。
「研究の結論は?」
ルークが尋ねる。
最後までまとまった冊子はなかった。
複数のノートへ、少しずつ考えが変わった跡が残っている。
私たちは机を囲み、年代順に読んだ。
最初の仮説。
三日月と塔は、古い宗教集団の印。
三年後、その横に大きく誤りと書かれている。
次の仮説。
三日月は魔力の源。塔はそれを受け取る器。
これも、観測と合わないとして消されていた。
八年目のノートで、言葉が変わる。
――三日月に見えるものは、月ではない。
――一つの道が曲がり、自らの始点へ戻る形である。
「閉じた道」
オルディス大神官の覚書にあった言葉だ。
「では、塔は?」
次のページに図がある。
輪の一部へ、細い杭を打ち込むような形。
――塔は建物にあらず。
――二つの岸が重ならぬよう、境界路を留める標である。
「印ではなく、図だったんですね」
三日月と塔は、灰の狩人が作った紋章ではない。
境界の道を閉じ、動かないよう留めた状態を表す古い図。
灰の狩人は、それを自分たちの印として使っている。
「なぜ、閉じた道の印を使うんでしょう」
「閉じたものを開こうとしているからかもしれない」
ルークが答える。
「あるいは、自分たちこそ道を管理する者だと示したいとか」
サレスの研究では、境界路は一つではなかった。
大きな門につながる細い道が、各地に残っている。
古い神殿。
深い洞窟。
魔力の流れが不自然に途切れる森。
そうした場所には、三つの共通点があった。
長い間、魔獣が近づいていない。
魔術を使うと、力が外ではなく地面へ吸われる。
そして、名を呼ぶ声が違う場所から返ってくることがある。
サレスは、その場所を地図へ一つずつ記していた。
点を線で結ぶと、大きく曲がった形になる。
三日月の外側とよく似ていた。
セレム原神殿は、その一番南にある。
図のそばには「第一標」と書かれている。
「この神殿だけではないんですね」
「そうですね。閉じた道を留める場所が、ほかにも六つあるという仮説です」
「全部、北東部」
私が聞くと、ルークが地図の境界を確かめた。
「五つはグランツ公爵領内。残る二つも、北東街道を使わなければ行けない」
北東部は広い。昔の祈りの地と今の領地の境は、同じではない。
それでもルークは、七つの位置を自分の手帳へ写した。
サレスは各地で同じ方法を使っていた。
地面へ四つの水皿を置く。
中央で小さな鈴を一度鳴らす。
水面へ現れる波の方向と、音が返るまでの時間を測る。
使う魔力は、記録用の術具を動かす最小限だけ。
魔獣を連れていったことはない。
野生の動物が近づけば、その日の観測を中止した。
――境界の反応を見るために命を置けば、見えるものは境界ではなく、その命の恐れである。
ノートの余白に、そう書かれていた。
「灰の狩人とは、反対ですね」
私は言った。
彼らは魔獣の恐怖と怒りを大きくし、その声を一つへ束ねようとしている。
サレスは恐怖が混じれば正しい観測にならないと考え、近くに小さな動物がいるだけでもやめた。
同じ境界を調べていても、見ているものが違う。
灰の狩人は、どうすれば開けるかを見ている。
サレスは、なぜ閉じられたのかを見ていた気がする。
「最初の八年間、変化はほとんどありませんね」
ロジェ神官が年ごとの表を追う。
鈴の音は、普通の反響と同じように返った。
水面も、風の向きに揺れるだけ。
地下へ吸われる魔力の量も、季節ごとの差に収まっている。
変化が始まったのは、四年前だった。
冬至の夜、第一標の水皿が、音を鳴らす前に揺れた。
三年前には、七つの標のうち三つで同じ現象が起きた。
二年前は五つ。
昨年は七つすべて。
「誰かが境界へ触れていた?」
「サレス前大神官は、自然な周期の可能性も残していますが」
神獣が現れる時期は、およそ三百年間隔。
閉じた道が自然に緩む時期と重なり、神獣はそのために現れたのかもしれない。
けれど、昨年の記録には別の異常もあった。
北端の第七標で、青い薬品の跡と、砕いた魔石の粉が見つかっている。
サレスは採取した粉を紙へ包み、日付を書いていた。
包みは机の小箱に残っていた。
ミラが双角山で見つけたものと同じか、王宮で調べてもらおう。
「誰かが、サレス前大神官の観測場所を知っていた」
ルークの声が低くなる。
「研究を盗み見たのか、別の方法で同じ場所を見つけたのかはわからないが」
ノートには、その日から記録が増えていた。
朝、昼、日没、夜中の一日に四度、同じ場所を測っている。
サレスは異常を見つけても門を開こうとはしなかった。
標の周囲に新しい石を積み、誰かが触れれば管理人にわかるよう、細い糸と鈴を仕掛けた。
近くの村には、子供や家畜を古い洞窟へ近づけないよう頼んでいる。
研究より先に、人を遠ざけた。
「それでも、一人で調べ続けたんですね」
「大神殿へ知らせれば、記録がまた消えると恐れたのかもしれません」
ロジェ神官は苦しそうに言った。
サレスは神殿を信じていなかったのではないだろう。
でも神殿を訪れる誰かまで、無条件には信じられなかったということか。
死んだ神官の名と、大神官の偽の許可印で記録庫へ入った者がいた。
その警戒は、間違いではなかった。
「違う場所から?」
「谷で呼べば、後ろの岩から返る。地下で呼べば、天井の上から聞こえる。普通の反響とは違う、とあります」
サレスは何度も自分の名を呼び、返る方向を記録していた。
一人で危険なことをしていたようにも見える。
けれど、必ず管理人と縄でつながり、異変があれば引き戻すよう決めていた。
ロブを地下へ近づけず、ほかの方法で魔法陣を止めた私たちと似ている。
安全を守りながら、わかることだけを増やした。
「白き獣については?」
私は先を急いでしまう。
ページをめくる手が速くなる。
九年目のノートに、見出しがあった。
――白き獣は、境界を開く鍵ではない。
――白き獣は、開いた境界を渡っても個であり続ける者である。
「個であり続ける?」
「異界を越えると、名前や記憶を失うという意味でしょうか」
ロジェ神官が別の紙を重ねる。
セレムの古い歌が写されていた。
――名なき風は岸を越え、千の声へほどける。
――名ある獣は呼ぶ者を聞き、一つの足跡を残す。
名があること、そして誰かがその名を呼ぶこと。
それが、境界を越えても一つの命でいられる条件だと、サレスは考えていたらしい。
「だから、契約者が名前を呼ぶ」
大神殿で聞いた口伝。
契り手、名を呼び、帰る岸に道を結ぶ。
「エレナ様は、境界を越えるときもロブ様の名を呼んだのですか」
「たぶん」
事故の瞬間、私はロブを抱いた。
強い光の中で、何度も名前を呼んだ気がするが、はっきりとは思い出せない。
でも、この世界で目を覚ましたときも、最初に呼んだのはロブだった。
「私が呼んだから、ロブはロブのまま来た?」
「では、エレナはなぜ記憶も名前も失わなかったのでしょうか」
ルークが聞く。
答えは次の紙にあった。
――名を結ぶことは、一方より一方へ施す術にあらず。
――呼ぶ者もまた、呼ばれる者の記憶に留められる。
ロブも、私を覚えていた。
言葉で名前を呼べなくても。
匂いや声、抱き上げる手の温もり。
私が誰なのかを、ロブは知っていた。
「お互いに、つなぎ止めたんでしょうか」
「共渡りとは、その状態を指すのかもしれません」
私はロブを見る。
研究室の隅で、毛布を前足で掘っている。
一度回り、丸くなった。
白き獣の本質に近づいた気がしたのに、本人は昼寝の場所を整えていた。
「ロブは、境界を渡れる力があったから神獣になったんですか」
神獣だから境界を越えられたのか。
境界を越えても名を失わなかったから、神獣になったのか。
あるいは、声を聞いて放っておけないロブの性質を、境界が白き獣として選んだのか。
結論の横は空白だった。
わからないことを、わからないまま残した跡。
サレスが悪意ではなく、純粋に答えを探していたことが、その空白からもわかった。
サレスに会えたなら、最初に何を聞こう。
ロブが神獣になった理由か。
私たちがこの世界へ来た理由か。
けれど、確かめたいことは一つだった。
研究の続きを聞く前に、サレスが無事なのか知りたい。
◇
午後になっても、サレスの行き先は見つからなかった。
研究ノートには、セレム地方の村や洞窟が何十も書かれている。
どこへ向かったのかを示すものはない。
騎士たちは神殿の外と麓の道を調べた。
争った跡はなく、馬車を使った記録もない。
管理人によれば、サレスは長く歩くときも杖一本で出かける人だった。
「一人でどこまで行くつもりだったんでしょう」
「七十を越えていますが、若い者より山道に強い方です」
ロジェ神官はため息をついた。
「大神官だったころも、護衛を置いて先へ行ってしまうことがありました」
「純粋な研究者ですね」
「周囲を困らせる研究者です」
少しだけ、サレスという人の姿が見えた気がした。
私は壁の地図を調べ直した。
ロブも昼寝から起き、部屋の中を歩いている。
何度目かに奥の壁へ行き、三日月と塔の大きな図の下を嗅いだ。
鼻先で石を押す。
「そこに何かある?」
壁は神殿と同じ黒い石でできていた。
一枚だけ、表面が滑らかな石がある。
ロブが前足で触れた。
かり、と爪が鳴る。
石の内側から、小さな音が返った。
空洞がある。
「離れて」
ルークが壁を調べる。
紙を外すと、石の周囲に細い切れ目が見えた。
扉だった。
取っ手も鍵穴もない、表面にあるのは、小さなくぼみだけ。
ロブの鼻が近づく。
くぼみの中で、淡い光が点いた。
「ロブ、下がって」
抱き上げようとした瞬間、石全体へ細い線が走った。
三日月。
その内側に立つ塔。
壁へ描かれたものと同じ図が、青白く浮かび上がる。
ロブが低く鳴いた。
「くぅん」
苦しそうではない。
でも、耳を立てたまま動かない。
「開くんですか」
「触るな」
ルークが私とロブを後ろへ下げる。
ロジェ神官が、石の文字を探した。
「ここに何か刻まれています」
光の下へ、古い文字が浮かんでいた。
――名を持たぬものは通るな。
「名を持たないもの?」
魔獣の声を一つへ束ねる術を思い出す。
一頭ずつの恐怖も怒りも、同じ大きな声に変える。
名前のない、集められた声。
「この扉は、境界へ続くんでしょうか」
「可能性はありますね」
ルークが答える。
「サレス前大神官は、閉じた道が原神殿にあると考えていた」
研究ノートの最後に、神殿の見取り図があった。
礼拝の間。
研究室。
宿泊部屋。
それらの下に、点線で小さな空間が描かれている。
――第一標、未開。
「第一標」
「境界路を留める標の一つ、という意味かもしれません」
神殿の地下に、閉じた道がある。
灰の狩人が探している境界の門そのものではなくても、そこへつながる細い道かもしれない。
「どうすれば開くんですか」
扉に継ぎ目はある。
でも押しても引いても動かない。
魔力を流すことは危険だった。
ロブへ近づかせることもしたくない。
「開ける方法より、まず開けずに調べる方法を探そう」
ルークが言う。
私は頷いた。
開かなければ、すぐ開く必要はない。
扉の前へ白い紐を張り、騎士を二人置いた。
ロブは私に抱かれたまま、石を見ていた。
光はゆっくり薄れた。
最後に塔の線だけが残り、それも消える。
「何があったの?」
問いかけても、ロブは答えない。
私の腕へ顎を載せる。
遠い声を聞いたのか。
石の中の魔力へ反応したのか。
わからなかった。
◇
日が落ちる前、研究室をもう一度調べた。
今夜は原神殿へ泊まり、明日の朝から地下を調べることになった。
王宮と大神殿へは、発見した扉とサレス不在の報告を送った。
机の引き出しだけでなく、本の間やベッドの下も探したが、行き先を書いたものは見つからなかった。
「自分の意思で出たなら、置き手紙くらい残しそうですが」
私が言う。
「サレス前大神官は、調査へ出るときに必ず日付と目的地を記していました」
ロジェ神官の心配は深くなっていくようだ。
「では、やはり連れ去られた?」
「争った形跡はありません」
ルークが同じ答えを繰り返す。
何か見落としているのか。
ロブは研究室の毛布で丸くなっていた。
前足で毛布を掻くと、端がめくれた。
その下に、細い板があった。
「待って」
毛布を持ち上げる。
椅子へ掛けられていた毛布だと思っていたが、もともとは机を覆う布だったらしい。
裏側に、小さな紙が縫いつけられている。
日付は、サレスが姿を消した日。
ロジェ神官が読み上げる。
「この手紙を読む者が、神殿の者であることを願う」
急いで書いたようだったが、震えた文字ではなく、線はまっすぐだ。
「第一標の内より、三度、音を聞いた。閉じた道の向こうで、何者かが名を探している」
私は壁を見た。
「王都に白き獣が現れたとの報せを得た。私の研究が正しければ、彼の獣は標を起こす。ゆえに、白き獣を連れてきてはならない」
私たちはロブを連れてきている。
そして石の扉は光った。
「私は、音の出所を外側から探す。標を開くためではない。開かせぬために」
ロジェ神官が少し安堵した様子で、手紙の続きを読んだ。
サレスは連れ去られたのではない。
この手紙を見る限り、少なくとも自分の意思で原神殿を離れたのだろう。
「行き先は書いてありますか」
「いいえ。『名を記せば、向こうへ道を示す。私を捜すなら、古い巡礼歌の終わる場所へ』と」
古い巡礼歌。
研究室には、何十もの歌が記録されている。
その中から一つを探さなければならない。
手紙の最後には、短い一文があった。
――私は神獣を知りたい。だが、知るために神獣を危険へ置くことは、知識ではなく欲である。
会ったことはないが、この人らしい言葉だと思った。
研究ノートを記した彼の人間性が現れていたから。
「サレス前大神官は、ロブを守ろうとしている」
「はい」
ロジェ神官が手紙を大切そうに畳んだ。
「そして、一人で危険を確かめに行った」
ルークの顔は厳しい。
「急いで巡礼歌を調べる。だが今夜、エレナとロブを神殿から離したほうがいい」
「街へ戻るんですか」
「そのほうが安全です」
そのとき。
研究室の壁の奥から、音がした。
こつ。
全員が動きを止める。
ロブが立ち上がった。
耳を壁へ向ける。
騎士が剣へ手をかけた。
もう一度。
こつ。
石の向こう。
閉じた扉のさらに奥から聞こえる。
水滴ではない。
同じ間隔だった。
三度目。
こつ。
サレスの手紙にあったとおり、三度。
ロブの背中の毛が立つ。
私はロブを強く抱き締め、壁から離れる。
音は止まった。
静かになった壁へ、古い文字だけが再び淡く浮かぶ。
――名を持たぬものは通るな。
その下で、今までなかった細い線が光っていた。
内側から、何かが扉をなぞっているように。
――第二十四話おわり




