第二十二話 大神殿の記録〜いにしえの伝承
消えた記録の行方を探るために、大神殿を再び訪れたエレナとロブ。
そこで知る、大神官だけに伝えられていたこととは?
大神殿へ向かう馬車の中、ロブはいつも通り、私の膝の上で寝ていた。
「調査隊が双角山にいるときに、その護符が光った」
向かいに座るアレクシス王子が、私のペンダントを指して言った。
「え?この家宝が?」
「家宝?」
「……この護符が。王宮では、どんなふうに光ったんですか?」
「最初は、机の上に青い線が走った。地図に重ねると、光は北へ進み、旧鉱山を越え、双角山で止まった」
光っていたのは一分にも満たず、危険の程度までは伝わらなかったらしい。
私は護符を両手で包んだ。
「ありがとうございました」
「礼なら、無事に帰ったことで十分だ」
「わん」
私の隣で、ロブが顔を上げた。
「護符へ感謝を伝えられたのではないか」
王子が言う。
「王宮の人たちみたいなことを言わないでください」
「冗談だ」
王子、ときどきわかりにくい。
なぜ石が反応したのかは、宮廷魔術師にもまだわからないということだ。
馬車の窓から、白い荘厳な建物が見えてきた。
高い尖塔と朝の光を七色に返す大窓。
ロブと初めて訪れたときは、祭壇の干し肉に夢中になり、神官たちが感動していた。
今日は、勝手にお供物を食べに行かないように、しっかり抱っこしている。
◇
大神殿の石段には、以前のように大勢の神官は並んでいなかった。
急な面会だったからだろう。
その代わり、一人の神官が階段を下りてきた。
細身で、淡い水色の髪を首の後ろで結んでいる。
「アレクシス殿下、エレナ様と神獣様。お待ちしておりました」
「ロジェ神官。久しぶりだな」
ロジェ神官は、ロブに触れようとした若い神官たちへ、先に手の甲を見せるよう伝えてくれたこともある。
ロブの前へしゃがむと、穏やかに言った。
「覚えておられますか」
手の甲を差し出す。
ロブは匂いを嗅いだ。
そのままロジェ神官の手の下へ頭を入れる。
神官がロブの頭を撫でると、ロブは満足そうに目を細めた。
「フェリアス大神官がお待ちです。まずは記録庫へご案内するよう申しつかっております」
「面会の前に?」
アレクシス王子が尋ねる。
「はい。王宮からの照会に、言葉だけでお答えするより、ご覧いただくほうがよいと」
大神殿の中は、以前と変わらず静かだった。
大広間では人々が祈り、祭壇には果物とパンが並んでいた。
ロブがそちらを見たが、抱っこで通り過ぎる。
大広間を抜け、細い廊下へ入る。
前に見た壁画のある記録の間より、さらに奥へ進み、階段を下りる。
空気がひんやりしている。
厚い木の扉が三つ並び、それぞれに違う鍵がついていた。
日々の祈祷、各地からの報告、儀礼と伝承。性質ごとに分けられたうち、神獣典礼録があった古記録庫の鍵をロジェ神官が開ける。
扉の内側には、天井まで届く棚が並んでいた。
本だけでなく、巻物や木箱へ収められた石板、細い札で束ねられた手紙など。
どこから見ればよいのか、入口に立っただけではわからない。
紙と革、防虫用の薬草の匂いにロブがくしゃみをする。記録係は「古き祈りの重み」と感動したけれど、ロジェ神官だけはすぐに薬草を替えさせると言ってくれた。
部屋の中央には、すでに古い目録が広げられていた。
アレクシス王子が王宮から持ってきた写しと、同じ項目がある。
――神獣典礼録。一巻。王宮記録院へ貸出。
日付は二百八十六年前。
返却を示す欄は空白だった。
「神獣典礼録は、確かに存在しました」
ロジェ神官が言う。
「三百年前に現れた神獣と契約者について、迎えの儀式、各地を巡った経路、神獣が姿を消すまでを記したものです」
「中身を読んだ記録は」
「貸し出し前の要約が残っています」
一枚の紙が出された。
王宮で見たものより古く、触れれば端から崩れそうだった。
文字は薄くなっていたが、いくつかは読めた。
神獣を迎えし年。
契り手。
北の巡行。
大いなる鎮め。
境における最後の典礼。
肝心の部分は、その先だった。
しかし、紙が縦に切り取られている。
「これも……」
「はい。何者かが、要約の右半分だけを抜きました」
「いつです」
ルークが切り口へ目を近づける。
「少なくとも百年以上前です。切り口と残った紙の変色が、ほぼ同じですから」
古い目録も、貸出記録も、要約もある。
典礼録が存在したことは間違いない。けれど行方も内容も、必要なところだけ消えていた。
「王宮のものと同じですね」
私が言う。
「残っているのは、なくなったことがわかる記録だけです」
ロジェ神官は頷いた。
「大神殿にある神獣関係の資料も調べ直しました。壁画の制作記録。巡行先から届いた礼状。契約者へ渡した衣服の台帳まで残っています」
ロジェ神官は別の束を示す。
「このように周辺の記録は多い。ところが、神獣が何者なのか、なぜ現れたのか、最後の典礼で何があったのかを記したものだけがありません」
「偶然失われたとは思えないな」
アレクシス王子が言った。
「我々も同じ考えです」
「神殿の者が持ち出した可能性は」
「あります。ただし、二百八十六年前の貸出が正しければ、典礼録そのものは王宮へ渡ったあとです。要約を切った者と、典礼録を返さなかった者が同じかどうかはわかりません」
記録を残した者と、消した者が同じだと思うな。
灰の狩人の言葉が、また胸へ浮かんだ。
あの男は、この欠落を知っていた。
私たちより前に。
「大神官は、何を知っているんですか」
私が聞くと、ロジェ神官は一番奥の扉を見た。
「書かれていないことを」
◇
フェリアス大神官は、壁画のある小さな部屋で待っていた。
三百年前の神獣。
人間と魔獣の間を歩く、小さな犬に似た獣。
その隣にいる契約者。
以前と同じ壁画なのに、今日は色の褪せた部分ばかりが目に入った。
「再びお迎えできたことを嬉しく思います」
フェリアス大神官が礼をする。
ロブも前へ出た。
礼を返すのかと思ったら、衣の裾を嗅いでいる。
「お久しぶりです」
大神官は気にせず、ロブへ手の甲を見せた。
ロブがその手を舐める。
「お元気そうで何よりです」
「おかげさまで」
「三十七もの命を救われたと聞きました」
「ロブだけではありません。村の人も、騎士も、治療師も、みんなで助けました」
「ええ。そのことも聞いています」
大神官は穏やかに頷いた。
「神獣にすべてを負わせなかった。それは大切なことです」
なぜ、そんな言い方をするのだろう。
私は王子と顔を見合わせた。
全員が壁画の前へ座る。
ロジェ神官は扉のそばに立ち、ほかの神官は入ってこなかった。
「神獣典礼録の存在は確認した」
アレクシス王子が切り出す。
「だが原本は王宮になく、大神殿の要約も欠けていた」
「はい」
「何か知っていることがあれば教えてほしい」
大神官はすぐには答えず、壁画を見上げる。
「書かれたものだけが、すべてではありません」
静かな声だった。
「記録は、多くの人へ同じ言葉を残せます。しかし紙は燃える。石は削られる。読む者に都合の悪い一行は、切り取ることもできる」
「他に残す方法があったと?」
「歴代の大神官から、次の大神官へ。就任の夜に一度だけ語り、聞いた者は書き残さない。それが三百年続いています」
「なぜ、そこまでして隠す必要があったんですか」
私が尋ねた。
「隠したのではありません。守ったのです」
「誰から?」
「神獣を、利用しようとする者から」
息が止まりそうになった。
境界の門。
灰の狩人たちは、魔獣の声とロブを使い、その門を開こうとしている。
「では大神官が知っていることを話してくれ」
王子が言う。
「これは王家からの命令ではない。今ここにいる神獣と契約者が知るべきこととして、お願いする」
大神官は私と足元のロブを見る。
ロブは壁画の下へ座り、ふさふさした尻尾を前足の横へ置いていた。
「本来、次の大神官以外へ伝えることは禁じられています」
長い沈黙のあと、大神官は続けた。
「ですが、口伝が守ろうとした方を前にして、守るための言葉を隠すことはできません」
ロジェ神官が扉を閉め、鍵をかけた。
大神官は目を閉じた。
記憶の中にある言葉を、一つずつ確かめるように話し始める。
「声が分かれ、いずれの岸へも届かぬとき。境の彼方より、白き獣は来たる」
低い声が、小さな部屋へ落ちる。
「白きは毛の色にあらず。いずれの岸の色にも染まらぬ者の名なり」
私はロブを見た。
白い毛、茶色い耳。
この世界ではない場所、日本から私と一緒に来た犬。
「彼の獣は王にあらず。源を支配する者にもあらず。声を聞き、二つの岸の間に立つ者なり」
「二つの岸とは、何と何ですか」
ルークが尋ねる。
「口伝では、名を語りません」
大神官は目を開く。
「人と魔獣か。生者と死者か。この世界と、境の彼方か。歴代の大神官も、それぞれに解釈してきました」
「この世界と、別の世界……」
私の声が小さくなる。
「可能性はあります」
「ロブは、境界の向こうから来たから神獣になったんでしょうか」
「わかりません。向こうから来たすべての命が、白き獣になるとは伝わっていません」
私も同じ場所から来た。
でも、私は神獣ではない。
なぜロブだったのかという謎は残る。
それでも、白き獣という言葉が初めてロブの出自に触れたような気がした。
この世界で生まれた白い魔獣ではなく、どちらの岸にも染まっていない者。
「続きがあります」
大神官が言う。
「白き獣、声ある方へ渡らんとす。されど渡りし者は、道なくば帰れず」
その視線が、私へ向く。
「ゆえに契り手、名を呼び、帰る岸に道を結ぶ」
私は何も言えなかった。
契約者は、神獣の言葉を人へ伝える者。
人の恐れを神獣へ伝える者。
以前は、そう聞いた。
でも、それだけではなかった。
「契約者は、ロブを帰すためにいるんですか」
「口伝が示すかぎりでは」
「どこへ?」
「それは、契り手が立つ岸へ」
ロブが私を見上げた。
何もわかっていないような顔だった。
「帰る岸って、ここですか。それとも、私たちが来た場所ですか」
答えはなかった。
王宮の私の部屋は、今はロブの帰る場所になっている。
でも私たちが元いた場所は、日本だ。
契り手が立つ岸。
私は今、どちらに立っているのだろう。
「最後の神獣は、帰れなかったのか?」
アレクシス王子が聞いた。
大神官の表情が曇る。
「口伝の最後は、こうです」
部屋がさらに静かになった。
「声を一つとするなかれ。一つとなりし声は呼び声にあらず、鎖となる。白き獣に、岸を選ばせるなかれ」
腕の中で、ロブが身じろぎした。
ロブを抱く私の力が強くなっていたらしい。
「ごめん」
少し腕をゆるめる。
「岸を選ぶと、どうなるんですか」
「伝わっていません」
「最後の神獣が何を選んだのかも?」
「はい。典礼録には記されていたのかもしれません」
その典礼録は消えており、口伝は答えを教えてはくれなかった。
むしろ、新しい疑問が増えたように感じる。
白き獣は、境の彼方から来る。
二つの岸の間に立ち、声ある方へ渡ろうとする。
契約者は帰る道を結ぶ。
そして、白き獣へ岸を選ばせてはならない。
灰の狩人は、それを知っている。
「あの男は、口伝を知っていたんでしょうか」
私が聞く。
「選ばせる、という言葉が偶然重なったとは考えにくいですね」
ルークが答える。
「大神官以外は知らないはずでは?」
「そのはずです」
大神官の声が重くなる。
そのとき、扉の外で何かが落ちる音がした。
扉を開くと、若い神官が立っていた。
顔色が悪い。
足元には、木札が何枚も散らばっている。
「どうしました」
「申し訳ございません。確認を頼まれた閲覧簿に……」
記録係だというその若い神官は、一冊の閲覧簿を差し出した。
◇
閲覧簿には、一月前の日付があった。
古記録庫、第二棚から第七棚。
目的は、北部神殿に伝わる祈祷文の照合。
閲覧者は、地方神殿から来た老神官の名になっている。
「この方は?」
アレクシス王子が尋ねる。
「……三年前に亡くなっています」
ロジェ神官が答えた。
「署名も本人のものに似ています。だから、確認のときに見逃しました」
「許可は、誰が出した」
「私です」
大神官が言った。
部屋にいた全員がそちらを見る。
「正確には、私の印が使われています」
閲覧簿の横には、大神官の許可印が押されていた。
「本物ですか」
「印影は本物です。しかし、私はこの許可を出していません」
「印章はどこに」
「常に身につけています」
大神官は首から下げた小さな印章を見せた。
欠けも傷も、閲覧簿の印と同じに見える。
「写し取られたか」
ルークが言う。
「閲覧した者の顔を覚えている人は?」
ロジェ神官が記録係を見る。
「案内した者がいます。地方神殿のローブを着た、背の高い男性だったと」
「顔は」
「深くフードをかぶっていたそうです。長旅で目を傷め、光がつらいと」
ローブを着た男。
それだけで同じ男とは言えない。
でも、死んだ神官の名と偽の許可印で古記録庫へ入った者がいた。
「何を見たかわかりますか」
「閲覧簿どおりなら、北部の祈祷文です。しかし、一月前に戻された木札の順番が乱れていました」
記録係が床へ落とした札を拾う。
書物を棚から出すとき、代わりに場所を示す札を差す。
返却すれば、札を抜く。
そのうち三枚が、違う箱へ入っていた。
「どの記録の札です」
「神獣巡行中の宿泊記録。境の典礼に用いた道具の目録。それから、大神官継承式の古い式次第です」
「口伝そのものは書かれていないはずですよね」
私が言う。
「ええ。しかし、口伝がいつ、どこで伝えられるかは、継承式を調べれば推測できます」
大神官が答える。
「侵入した者は、口伝が存在することを知っていたのかもしれません」
「一月前なら、私たちが双角山へ着くより前です」
王宮で欠けた記録を見つけるよりも前。
相手は先回りしていた。
「記録は盗まれていますか」
ルークが尋ねる。
「今のところ、持ち出されたものは確認できません」
「なら、何をしに来た」
アレクシス王子が閲覧簿を見る。
「情報を得るためか。それとも、何か仕込んだか」
欠けた記録があれば、人は残りの記録から何かを見つけ出そうとする。
誰かが棚の前に立ち、何を残し、何を動かすか選んだのだとしたら。
「棚を全部、確認しましょう」
「すぐに始めます」
ロジェ神官が答える。
「神獣に関係する資料だけではありません。入庫記録と現在の棚を、すべて照合します」
「何冊くらいありますか」
私は聞いた。
「古記録庫だけで、六千四百十二点です」
一日で終わる数ではなかった。
「王宮からも記録官を送る」
アレクシス王子が言う。
「神殿の記録は神殿の者だけで調べる決まりですが」
ロジェ神官が大神官を見る。
「今回は受け入れましょう」
「持ち出しはせず、この場で照合する。写しも双方の立会いで作る」
「承知しました」
隠す場所が二つあれば、確かめる人も二つの側にいればいい。
村長が救出記録の写しを村に残したように。
「私も残ります」
言葉が先に出た。
「エレナ?」
「ロブのことが書かれているかもしれません。私も見たいです。それに、白き獣や境界が別の言葉で書かれていたら、現地で見たものと結びつくかもしれません」
専門的な古文字は読めない。
でも、見れば何かわかるかもしれない。
「今日だけでは終わらないでしょう。よろしければ、客房をご用意します」
大神官が言った。
「お願いします」
「俺も残ります」
ルークが言った。
「記録庫へ偽名で入った者がいる。エレナとロブだけを残せません」
正しい理由だった。
それでも少しだけ、ほっとしている私がいた。
アレクシス王子は閲覧簿を閉じて言った。
「私は王宮へ戻る。記録官を選び、大神殿へ送る手配をしよう。印章が偽造された経路も調べなければならない。ここでわかったことを、口伝の内容を伏せたうえで陛下へ報告する」
「伏せるんですか」
「知る者を増やせば、またどこから漏れたかわからなくなる」
今は私も、知るべき一人として数えられている。
怖いという気持ちもあるが、この信頼に応えたいと強く思った。
◇
日が傾くまで、私たちは記録庫にいた。
順番の乱れていた木札に対応する資料は、どれも残っていた。
神獣巡行中の宿泊記録、目録、大神官継承式の古い式次第。
ただし、目録の一ページは八十年ほど前に差し替えられ、道具を返却したことしか書かれていなかった。
「今日は、ここまでにしましょう」
ロジェ神官が言ったとき、窓の外はすでに暗くなっていた。
「ロブ、お腹空いた?」
「わん」
これは返事だと思う。
私たちは神官たちの食堂へ案内された。
長い木の机。
飾りのない器。
夕食は豆と根菜のスープ、固い黒パン、それから茹でた野菜だった。
ロブの前にも小さな皿が置かれた。
味をつけずに煮た豆と茹でた野菜だった。人参が入っている。
ロブは匂いを嗅いだあと、私を見た。
「食べていいよ」
ロブは座ったまま動かなかった。
「神獣様のお口に合いませんでしたか」
食事を運んだ神官が心配そうに尋ねる。
「肉がないからかも。いつも鶏肉を食べているので」
「本日は清めの日ですので、神殿では肉を控えております」
「そうなんですね……」
ロブが前足で皿の縁へ触れた。
少し押す。
神官が困り切った顔になる。
「お豆も美味しいよ。食べてごらんよ」
豆を一つぶ手に取り、ロブの口元へ近づけた。
ロブは顔を背けた。これは絶対食べないやつだ…。
ルークがポケットから布袋を取り出した。
ロブの鼻が動いた。
「あ、干し肉?」
「ええ、前に来たとき、祭壇の干し肉を食べてましたよね」
ルークが干し肉を小さくちぎり、豆と野菜の上へ載せる。
「ありがとうございます。用意がいいですね」
肉だけ選ばないように、全体を混ぜてから、皿をロブの前に戻した。
ロブは一度、ルークを見る。
それから食べ始めた。
豆も野菜もしっかり食べた。人参は残したけど。
食べ終えたロブは、さっきまでの不満がなかったようにルークの足元へ座った。
尻尾が一度、靴へ当たる。
「お礼を言ってるのかも」
「どういたしまして」
ルークがロブの頭を撫でた。
食堂にいた神官たちが、その様子を静かに見守っている。
「神獣様と守護の騎士……」
誰かが小さく呟いた。
◇
客房は、記録庫に近い棟にあった。
小さなベッド、机と椅子。
簡素だが、清潔感のある部屋だった。
ルークの部屋は廊下の向かいにある。
扉の外には、神殿の護衛騎士が二人立った。
安全なはずの場所だが、護衛の数は多い気がした。
大神殿の記録庫へ、誰かが偽名で入っていたからだろう。
ロブは部屋を一周した。
ベッドの下、机の脚など一通りチェックすると、用意されていた毛布の上で丸くなる。
私は机に座り、今日聞いた口伝を書こうとした。
けれど、手が止まる。
書き残さないから守られてきた言葉だ。
私が書き残したら、誰かに奪われるかもしれない。
だから、事実だけを別の言葉で記した。
――ロブは、この世界の魔力に属していない可能性がある。
――神獣は、魔獣の力の源を支配する存在ではない。
――声を聞き、境界の二つの側に関わる。
――契約者には、神獣の帰る道を守る役目があるかもしれない。
最後は、書けなかった。
白き獣に、岸を選ばせるなかれ。
灰の狩人は、ロブへ選ばせると言った。
何を。
どちらの岸を。
もし一方を選べば、もう一方へ戻れないのか。
それとも、もっと違う意味なのか。
「くぅん」
顔を上げると、ロブが毛布の上から私を見ていた。
考えすぎて、怖い顔になっていたのかもしれない。
「ごめん。もう寝ようか」
灯りを消し、ベッドへ入る。
ロブは毛布の上で丸くなったままだった。
いつもなら、ベッドへ上げてほしいと来るのに。
今日は来ない。
私が落ち着かないことを感じているのか。
単にごはんを食べて満足し、眠いだけかもしれないが。
しばらくしてから、廊下で足音がした。
一歩、止まる、そしてまた一歩。
ロブが顔を上げた。耳が扉へ向く。
扉が小さく叩かれる。
「エレナ、起きていますか」
ルークの声だった。
扉を開けると、ルークは灯りを持ち、もう片方の手に小さな木札を持っていた。
「記録庫で見つかりました」
「何が?」
「偽名の閲覧者が見た三冊とは別に、もう一冊、場所を示す札が抜かれていた」
「どの記録ですか」
「七十一年前、大神殿から王宮へ送った照会状の控えでした」
王宮の索引にだけ残っていた言葉。
境界。
呼び声。
白き獣。
「控えは?」
「棚にはありません」
「一ヶ月前に来た人が持ち出したんですか」
「わからない。貸出記録にはありません。しかし札だけが別の箱の底から見つかりました」
持ち出された時期も、誰の仕業かもわからない。
ただ、私たちが辿り着く前に、誰かが『白き獣』を探していた。答えの一部がある場所へ、相手の手はすでに伸びていた。
足元でロブが低く鼻を鳴らす。
廊下の暗がりを見る。
何かを感じているのか。
私たちの緊張に反応しただけなのか。
ルークが木札を握り直した。
「扉は開けないでください。俺が来ても、合言葉を確かめてください」
「合言葉は?」
ルークは少し考えた。
「人参の王冠」
「もっと格好いいものはないんですか」
「ここにいる人間は誰も知らないし、忘れにくい」
確かにそうだった。
ロブが自分の名前を呼ばれたように、私たちを見る。
「ロブは王冠を食べない」
「それを返事にしましょう」
扉を閉め、内側から鍵をかける。
私はベッドの横へ座り、ロブを抱き上げた。
白き獣。
どちらの岸にも染まらず、二つの間に立つ者。
「選ばなくていいようにするからね」
ロブは私の顔を舐めた。
明日は、六千四百十二の記録を調べる。
残された言葉だけを、真実にしないために。
――第二十二話おわり




