第二十一話 王宮への帰還
魔獣たちの救出が無事に終わり、エレナたちは王宮へ帰ってきた。
帰る場所があることに、そして王宮での相変わらずの神獣様フィーバーに、なぜかホッとするエレナだが。
王宮の私の部屋に戻って、やっと一息ついた。
「ただいま」
ふと、口から出た一言。
部屋は、旅から帰った時の独特の重い空気がなかった。
私たちが留守にしている間も、部屋は整えられ、空気の入れ替えもしてくれたようだ。
机の上には、青いアイリスの一輪挿し。
窓辺には、ロブが昼寝をするときに使う丸いクッション。
なんかもうすでに懐かしい。
「エレナ様、おかえりなさいませ」
後ろから荷物を持ってきてくれた侍女が言った。
王宮へ来たばかりのころ、この部屋は私には豪華すぎると思った。
高い天井も、大きな窓も、ふかふか過ぎるベッドも、全てが落ち着かなかった。
私は神獣の契約者として招かれてはいるが、すぐに出ていくのだと思っていた。
今も、王宮が私の居場所だと言われれば少し困る。
でも、旅先の宿や野営地で過ごしていると、王宮の部屋を思い出し、このベッドで眠りたいと思っていた。
「わん!」
私の足の間を抜け、ロブが窓際へ走り込む。
迷いはなかった。
窓辺の敷物を一度嗅ぎ、納得したようにクッションの上に横になる。
荷解きしようとしていたら、廊下から慌ただしい足音が聞こえた。
「お戻りになったんですね!」
「神獣様!おかえりなさいませ」
「エレナ様もお疲れ様でした」
順番については考えないことにした。
開いたままの扉の前へ、侍女や従僕が集まってくる。
最初は五人だった。すぐに八人になった。
通りかかった衛兵まで足を止め、廊下の端では大きな銀盆を持った料理人が背伸びをしている。
「神獣様、ご無事で」
一人が胸の前で手を組んだ。
ほかの人も続く。
「わふ」
廊下から、ほっと息を吐く音が重なった。
「今、我々をお慰めくださったのでは」
「おそらく」
「旅の疲れを見せず、なんと慈悲深い」
たぶん、何かを期待しているのだと思うが。
言うべきか迷っていると、銀盆を持った料理人が前へ出た。
「神獣様。お帰りをお待ちしておりました。厨房一同より、ささやかなものを」
銀盆のふたが取られる。
茹でた鶏肉が、花の形に並べられていた。
中央には人参で作った小さな王冠まで載っている。すごいデコレーション!
ロブが座った。
今までで一番速いおすわりだ。
「おお……」
誰かが感動している。
「礼節をもってお受けになられた」
ロブは、おすわりを崩さないまま、ごちそうと私を交互に見た。
尻尾だけが床を掃いている。
「長旅のあとだから、少しずつね」
「くぅん」
まず、小さく切った一つを渡す。
ロブは飲み込むように食べ、すぐ元の姿勢へ戻った。
「自制までなさるとは」
「エレナ様のお言葉を尊重されているのですね」
違います。次の一切れを待っています。
そのとき、盆の中央にあった人参の王冠が転がった。
ロブの鼻先へ当たり、床へ落ちる。
ロブは匂いを嗅ぎ、口へ入れた。
少し噛んで、ぺっと出した。
廊下が静まり返った。
「神獣様は、王冠をお望みではない」
衛兵が低い声で言った。
「なんと慎ましい」
「人参が苦手なだけです」
私は一応言ったが、誰も聞いていなかった。
料理人に至っては、目元を押さえている。
「次は鶏肉だけでお作りします」
ロブは吐き出した人参をもう一度嗅ぎ、前足で私の靴の陰へ隠した。
神獣様らしからぬ行動に、私は笑いを噛み殺していた。
いつものロブが、ただただ愛しかった。
◇
私たちは、王宮に戻るまで、リーネ村にはさらに十日滞在していた。
救出した三十七頭を、一度に野へ返すことはできなかったからだ。
傷が浅く、自分で餌を取れる魔獣から、見つかった場所に近い森へ戻した。
二頭で餌皿の下へ隠れていた蛍尾リスは、籠を開けてもなかなか出なかった。
布を外し、人が離れ、ロブも木の陰へ下がってから、ようやく一頭が鼻を出した。
もう一頭が続く。
光る尾が木漏れ日の中で二度揺れ、そのまま枝の上へ消えた。
まだ飛べない風角鳥や、長距離を歩けない岩角猪は、しばらく村で預かってもらうことにした。
リーネ村の外れに新しい囲いが作られた。
「春までには、もう少し広くするよ」
柵を直していた自警団の村人が言った。
最初の夜、蒼槍鹿に槍を向けようとした人だった。
「村で飼うわけじゃない。山へ戻れるまでだ」
「はい」
「勘違いするなよ。畑へ入ったら追い出す」
「はい」
岩角猪が柵越しに鼻を鳴らすと、彼は柵から少し離れた。
もちろん魔獣に対する恐怖がなくなったわけではない。
でも、できることをしようとしてくれている気持ちは伝わってくる。
蒼槍鹿を山へ返す日には、村人の多くが遠くから見守った。
長い角には、もう赤い光は走らない。
一度振り返り、森の中へ消えた。
ロブは追わなかった。
道の端へ座り、蒼槍鹿が去っていった森の奥をしばらく眺めていた。
私はその横にしゃがんだ。
「帰れてよかったね」
ロブの耳が一度動く。
それぞれに、帰る場所がある。
蒼槍鹿にも。
ロブにも。
たぶん、私にも。
カルム村から連れ去られた二頭の翼猫は、まだ見つかっていなかった。
双角山で救出した翼猫とは、毛の色も年齢も違うことが村人の証言で確認された。
荷車の跡は北東の街道で一度途切れた。
雨で消えたのか、別の荷車へ移したのか。
追跡隊は調査を続けることになった。
私たちが王都へ帰る日の朝、リーネ村の入口には大勢の人が集まった。
宿の女主人が軽食を持たせてくれた。
村長は救出記録の写しを抱えていた。
「これは村で保管します」
馬車が動き出す。
ロブは窓から顔を出し、村の匂いを嗅いでいた。
「神獣様、また来てください!」
子供たちが手を振る。
「今度はいっぱい遊ぼうね!」
それがいい。
何も起きていない平和な村へ、ただ遊びに来たい。
ロブが一声吠えた。
村が見えなくなると、すぐ座席へ戻る。
旅立ちを惜しんでいたのかと思ったら、荷物の籠からパンの匂いがしていたらしい。
「さっきごはん食べたばっかじゃん、これはあとで食べようね」
「わふ」
ロブは籠から離れ、私の隣で丸くなった。
帰りは、大きな問題は起きなかった。
車輪がぬかるみにはまり、泥だらけになったマルクを笑って怒られた。
宿場でロブが厨房へ入りかけ、料理人三人に拝まれながら外へ運ばれた。
など、些細なハプニングはあったが。
だからこそ、三日目の午後のことが引っかかった。
馬車は王都へ続く街道を南西へ進んでいた。
私の膝に顎を載せ、眠っていたロブが、急に顔を上げた。
耳が立つ。
北東を向いた。
馬車の後ろ、遠ざかっていく山々のさらに向こう。
鼻を動かすでもなく、吠えるでもなく、ただ見つめた。
「ロブ?」
私が呼んでも、すぐには振り返らなかった。
ほんの短い時間だった。
馬車が道の曲がり角を過ぎる前には、ロブはまた私の膝へ顎を戻した。
「何か感じたの?翼猫の声が聞こえた?」
「くぅん」
遠くの魔獣を感じたのかもしれない。
あるいは、馬車が揺れて目を覚ましただけかもしれない。
ロブが何を感じたのか、私にはわからなかった。
でも、カルム村から消えた荷車も北東へ向かっていた。
その一致だけが、細い棘のように残った。
◇
王宮に戻った翌日、調査隊の報告会議が開かれた。
王宮の会議室には、双角山で見つけたものが並べられていた。
4と書かれた金属板。
黒い石の欠片。
三日月の内側に塔がある印の写し。
救出した三十七頭の状態をまとめた記録。
地下施設の見取り図。
こうして白い布の上へ整然と置かれると、あの場所の冷たさや匂いを思い出す。
蒼槍鹿の荒い呼吸や檻を引っかく爪の音も。
記録には必要なことが書かれている。
それでも、記録だけでは残らないものがある。
私はロブの背中へ手を置いた。
今日は会議室まで一緒に入れてもらった。
神獣だから会議に参加する、ということではない。
部屋にロブだけを置いてくると、私が帰るまで扉の前で待ち続けるからだ。
ロブのために、私の椅子の横に丸いクッションまで用意されている。
本人はクッションではなく、私の膝の上で寝ていた。
「それでは、地下施設で確認された術式から」
アレクシス王子の声で会議が始まる。
久しぶりに見た王子は少し疲れて見えたが、やっぱり完璧だった。
「今日も、顔がいい」
じゃない!今はそんなことを考えている場合ではない。
気を引き締めて、真面目に会議に参加する。
ミラが四つに分かれていた魔法陣と、処置段階について説明した。
「第1段階では、外から与えた魔力への反応を強めます。第2段階、第3段階で恐怖と怒りを増幅。第4段階では、異なる魔獣の反応を一つの術式へ接続していました」
「第5段階は」
宮廷魔術師の一人が聞く。
「記述のみです。完成した術式は見つかっていません」
「では、実行できない?」
「双角山にあった設備では、です」
ミラは簡単に安心させなかった。
「別の施設がないとは断定できません。そもそも、あの地下にあった魔法陣も、すべてを最初から作ったものではありません。古い術式の一部を流用しています」
「どれほど古い」
「基礎部分は、少なくとも二百年。石の劣化によっては、それ以上です」
会議室に声が広がった。
二百年前。
灰の狩人が何年活動しているのかはわからない。
でも、私たちが見つけた事件より、ずっと前から何かがあった。
ディート先生が、救出した魔獣について報告する。
「三十七頭のうち、現地ですでに野へ戻したものが二十四頭。治療継続が十一頭。移送中が二頭です。処置による変化は弱まりつつあります。ただし、外から与えられた魔力が完全に抜けるまで、種類によって数週間から数か月かかるでしょう」
「人里への危険は」
「危険がないとは言いません。とはいえ、普通の魔獣にも危険はあります」
先生は机上の記録を指す。
「だから一頭ずつ判断します。処置を受けた魔獣だから一律に討伐する、という判断は不要です」
村の人たちが作った囲い。
餌を運んでくれた手。
檻から出るまで待った時間。
それらが、短い報告の後ろにある。
私は救出までの経緯と、灰の狩人が話した内容を伝えた。
「男は、魔獣の声を集め、ロブに選ばせると言いました」
「選ばせる、か」
アレクシス王子が確認する。
「はい。何を選ばせるのかは答えませんでした。すべての声が一つになれば、神獣は無視できない、と」
ロブの耳が動いた。
自分のことだとわかったのではない。
廊下を通った配膳台の音に反応したらしい。
鼻先が扉へ向いている。
神獣の謎について話している会議で、その神獣だけが昼食の到着を気にしていた。
「境界の門については?」
「専門家の方が読み取れたのは、魔獣の魔力が生まれる源へ通じる可能性がある、というところまでです」
ルークが答える。
「門を開いたあと、灰の狩人が何をするつもりなのかは不明です」
「ロブでなければならない理由もです」
私は付け加えた。
次に、記録官が立った。
「王宮と各地の保管庫を調査した結果をご報告します」
机に三冊の古い記録が置かれた。
どれも表紙の色が変わり、端が欠けている。
「三日月と塔の印が確認できた最古の記録は、百三十二年前。北部の商隊が関所で提出した積荷目録です。しかし、商隊の名と目的地が記されたページは抜き取られていました」
別の一冊が開かれる。
「九十八年前の魔獣被害報告。こちらは本文ではなく、添付された地図がありません。綴じ糸は外され、同じ年代の糸で丁寧に戻されています」
三冊目。
「七十一年前、神殿から王宮へ送られた照会状です。『境界』『呼び声』『白き獣』という語が索引に残っていますが、照会状そのものと回答が欠けています」
白き獣。
私の手が、ロブの背中で止まった。
「ロブのことですか」
「断定できません」
記録官はすぐ答えた。
「当時、神獣が現れたという公的記録はありません。白い魔獣や、儀式上の呼び名を指す可能性もあります」
「三百年前の神獣については」
アレクシス王子が尋ねる。
「王宮に残る記録は、即位記録や災害記録の中に数行ずつです。神獣の姿、契約者の名、何をしたのか。まとまった記録が一冊もないのは不自然です」
「最初からなかった可能性は?」
「あります。ですが、神殿側の古い目録には『神獣典礼録、王宮へ貸出』という記載があるそうです。返却の印はないとか」
「いつ貸し出されたんですか」
「二百八十六年前です」
「そのときの受取人は」
「そこも欠けています」
偶然とは思えなかった。
一冊なら、偶然失われることもあるだろう。
けれど年代も保管場所も違う記録から、似た部分だけが抜かれている。
「誰が閲覧できたのですか」
ルークの声が低くなる。
「現在の制度なら、王族、記録院の上級官、許可を得た宮廷魔術師です。しかし、百年前と二百年前では制度が違います。当時の名簿自体、完全ではありません」
「神殿の記録は、神殿が保管していたのでは?」
私が聞く。
「はい。神獣に関する儀礼と契約の記録は、本来、大神殿が原本を持ち、王宮が写しを持つ決まりでした」
「本来?」
「三百年前の神獣典礼録だけ、原本を王宮へ貸し出したとされています」
灰の狩人の声が蘇る。
王宮へ戻って聞け。
記録を守っているつもりの者たちに。
男の言葉を全て信じるつもりはない。
私たちを迷わせるため、わざと王宮を疑わせた可能性もある。
それでも、記録が消えていることは事実だった。
「大神官は、このことをご存知なのですか」
私が尋ねると、アレクシス王子が記録官を見る。
「照会は出しました。しかし、返答はまだです」
「大神官本人へ届いたかは?」
「神殿の書記を通しています」
アレクシス王子は少し考えた。
「こちらから会いに行こう」
静かな言葉だった。
けれど、会議室の空気が変わった。
「大神官に面会を求める。エレナとロブにも同席してもらいたい」
「私たちも?」
「神獣に関する記録だ。契約者を外す理由はない。それに、文書を何度往復させても、途中が増えるだけだ」
途中で誰かが止めるかもしれない。
そうは言わなかった。
しかし、会議室にいる全員が同じことを考えた気がした。
「わかりました」
私が答えると、ロブが立ち上がった。
ちょうど扉が開き、昼食の載った配膳台が入ってくる。
「神獣様もご賛同ですな」
年配の文官が言った。
「たぶん、昼食にです」
張りつめていた空気が少しゆるんだ。
ロブはすました顔で、自分の皿の前へ座った。
◇
王都の北側にある屋敷では、同じころ、一通の報告が読み上げられていた。
厚いカーテンが閉じられ、執務室には昼でも灯りが必要だった。
机の向こうに座る男の顔は暗がりに沈んでいる。
見えるのは、書類を押さえる手だけだった。
「双角山の施設は閉鎖されました」
報告する男が言う。
「魔法陣は停止。残されていた資料と器具は、王宮の管理下に置かれています」
「魔獣は」
「すべて救出されたそうです」
机の向こうの男は、しばらく何も言わなかった。
怒りも、驚きも見せない。
指先で書類の角を一度揃える。
「そうか。では、予定を変更しなければならないな」
「北東の件を進めますか」
「まだだ」
「しかし、あちらも長くは――」
「急げば、同じものを失う」
低い声が遮る。
「この件で得たものもある。神獣が声を聞く距離。契約者が選ぶ行動。王子が動かせる人数。村人が恐怖より先に何を見たか」
失敗した計画について話しているようには聞こえなかった。
「救出させたことまで、予定のうちだったと?」
「そうは言っていない」
男は書類を一枚めくる。
「失ったものを数えるだけなら、記録は要らない」
紙の下端に、小さな印があった。
三日月。その内側に立つ、細い塔。
男の指が印を隠す。
「王宮は古い記録へ辿り着くでしょう」
「辿り着かせろ」
「よろしいのですか」
「欠けた記録を見れば、人は残った言葉を真実だと思う」
燭台の火が揺れた。
「大神殿の様子を見ておけ。ただし、手は出すな」
「承知しました」
報告する男が一礼し、部屋を出る。
扉が閉じる直前、執務机の脇に置かれた何通もの封書が見えた。
どれも宛名を下にして重ねられ、持ち主の名を示すものはなかった。
◇
会議が終わっても、私はまっすぐ部屋へ戻れなかった。
王宮の廊下は静かだった。
磨かれた床や決まった間隔で置かれた花。
危険なものは何もないのに。
天井から灰色の粉が落ちてくることも、壁の向こうで魔獣が檻を引っかくこともない。
それなのに、落ち着かなかった。
王宮は私の帰る場所になり始めている。
だからこそ、王宮から記録が消えたことが怖かった。
外から来た敵なら、扉を閉めればいい。
けれど、何十年も前に誰かが書庫へ入り、必要なページだけを抜き取った。
その人が誰だったのか。
なぜ消したのか。
守るためだったのか。
隠すためだったのか。
今も同じことをする人がいるのか。
王宮内ですれ違う人たちの顔を疑いたくはなかったが、不安は拭えない。
「エレナ」
呼ばれて振り返る。
ルークが会議室から追ってきた。
「部屋へ戻るのでは?」
「戻るつもりでした」
「逆の方向を歩いていますよ」
窓の外を見る。
確かに、私の部屋がある棟とは逆だった。
「考え事をしていて」
「少し歩きましょうか」
ルークは私に何も聞かなかった。
王宮の北庭へ出ると、ロブは先に階段を駆け下りた。
会議の間ずっと静かにしていた反動なのか、芝生へ着くなり走り出す。
風で逃げた落ち葉を追う。捕まえたと思ったら、前足の間からまた飛んでいく。
ロブが落ち葉に夢中になっていると、庭師のガレドさんがやってきた。
「やあ、エレナ様、無事に戻って良かったよ。おかえり」
「ガレドさん、お久しぶりです!」
ロブはガレドさんの持つ箒へ狙いを変えた。
「ロブ、おかえり!元気そうじゃないか。落ち葉散らかすなよ」
ガレドさんが箒で掃くたびに、落ち葉が動くのが面白いらしい。
前足を伸ばすと、箒が止まる。
ロブも止まる。
箒が動くと、ロブが飛びつく。
「ロブは元気だな、ホッとしたよ。おやつ食べるか」
おやつという単語に反応したロブ、ガレドさんの持つ布袋からおやつが出てくるのを待っている。
「王宮へ戻った感じがする」
私が言うと、ルークが笑った。
「今ので?」
「はい」
王宮の人たちは、ロブが水を飲めば天候へのお告げだと思い、昼寝をすれば平和の象徴だと思う。
私のツッコミも追いつかない。
けれど、ロブを檻へ入れようとする人はいない。
私を神獣を連れた珍しい客としてではなく、困ったときに声をかける相手として見てくれる人も増えた。
だから、ホッとするのかもしれない。
庭の奥へ歩く。
池には午後の空が映り、水鳥が二羽浮かんでいた。
「会議のことを考えていたんですか?」
ルークが聞く。
「はい。ここにいても、安心できなくて」
「王宮から記録が消えたからですか」
「それもあります」
私は足を止めた。
「灰の狩人は、ロブに『選ばせる』と言いました」
あのときの声は、今もはっきり覚えている。
すべての声が一つになれば、神獣は無視できない。
ロブは苦しんでいる魔獣を放っておけない。
自分が倒れそうになっても、声のする方に行こうとした。
「一体、何を選ばせるんでしょう」
「門を開くかどうか、かもしれない」
「でも、声を無視できないようにしてから選ばせるなら、それは選ぶことになりますか」
助けるためには門を開くしかない。
そう思わせるほど多くの魔獣を苦しめる。
選択の形をしていても、ほかの道がなければ命令と同じだ。
「なら、ほかの道を作る」
ルークが言った。
「ロブが一頭で選ばなくていいように」
地下で、私たちはそうした。
ロブをすべての檻へ近づけなかった。
ミラが術式を読み、先生が治療の順番を決め、騎士と村人が魔獣を運んだ。
ロブだけに背負わせなかったから、三十七頭を助けられた。
「何を選ばされるかわからなくても?」
「わからないなら、わかることを増やせばいい。大神官に会う。記録を探す。北東へ向かった翼猫を追う」
「ロブが馬車で北東を見たことも、報告したほうがいいでしょうか」
「ええ。ただし、何かを感じたと決めつけずに」
ルークの答えに、私は頷いた。
それならできる。
わからないことを、わからないまま伝える。
前からロブが走ってきた。
口に長い枝をくわえている。
おやつに満足したら、また遊ぶつもりらしい。
私たちの前へ枝を置くと、私たちを見上げ、尻尾を振る。
「投げてほしいの?」
「わん」
返事に聞こえた。
枝を拾おうとすると、ロブも同時にくわえる。
「投げるなら離して」
取ろうとしてもロブは離さない。
「ゔぅ」
唸っているけれど、尻尾は動いている。遊びで興奮している時のロブだ。
「それじゃ投げられないよ」
離さない。
ルークが枝の反対側を持つ。
「二人なら勝てるか?」
私たちは二人で枝を引いた。
ロブは四本の足を踏ん張ると枝が折れた。
私とルークは後ろへよろけたが、ロブは何もなかったように、残った枝を私の前へ置く。
「もう一回?」
「わん!」
今度は、すぐに離した。
私は枝を投げる。
ロブが駆けていく。
ふわふわの白い背中が午後の光の中を弾む。
何を選ばせるのか。
境界の向こうに何があるのか。
王宮の記録を誰が消したのか。
答えのない問いは、まだいくつも残っている。
王宮へ帰ってきても、謎は残ったまま。
でもわからないことがあっても、一緒に考えてくれる人がいる。
帰ってこられる部屋がある。
そして、どれほど深刻な話のあとでも、枝を持ってくるロブがいる。
――第二十一話おわり




