第十九話 対峙〜灰の向こう側
魔獣たちが捕らわれていた地下空間に、その人物はいた。エレナたちを待っていたかのように。
「この一頭を先に救出する」
ルークの声が、地下の部屋に響いた。
眠り薬の白い煙は、まだ床の近くに薄く残っている。
その向こうで、長い角を持つ魔獣が横たわっていた。
呼吸はある。
皮膚の下を走る赤い光も、弱くなっただけで消えてはいない。
奥の扉の向こうからは、複数の声が聞こえる。
一つ。
少し離れて、もう一つ。
助けを求める声が重なるたび、ロブの体が私の腕の中で震えた。
「ロブ、今はこっちを見よう」
白い顔を胸元へ寄せる。
目の前の一頭を置いたまま奥へ行けば、誰も助けられなくなる。
私たちが今できることを、一つずつ進めるしかない。
「外周の線を切ります」
ミラが床の魔法陣を見た。
「ただし、魔術は使えません。私が魔力を流した瞬間、この魔獣がまた反応するかも」
「眠っていても?」
「体へ刻まれた反応は残っているでしょう。意識がなくても、筋肉だけが動く可能性があります」
魔獣の四本の脚には鎖がつながっている。
鎖は床の円の一部になり、外から送られる魔力を体へ流していた。
先に鎖を外せば、一か所へ魔力が集中するかもしれない。
まずは床下から来る流れを、先に止めなければならない。
「床下へ行く扉は、部屋の奥です」
マルクが眠った魔獣の向こうを見る。
「魔術を使わず、あそこまで行くしかない」
騎士たちは灯りの魔術具を布で覆っているが、剣や鎧にも、ごく弱い魔力が込められていた。刃を強くし、衝撃から身を守るためのものだ。
ミラたち魔術師は、自身が魔力持ちだ。部屋へ入るだけで、足元の円が反応する。
私は、自分の手を見た。
剣は使えないし、魔法も使えない。
この世界に来てから、何の役にも立てないと思っていた。
「私が行きます」
「駄目です」
ルークが即答した。
「まだ何も説明してません」
「説明されても答えは同じです」
「魔力を持たないのは、私だけです」
「だから安全とは限らない」
「でも、あの子の反応を起こさずに奥まで行ける可能性が一番高い」
眠っている魔獣を見る。
長い角は、私の腕より太い。一度頭を振るだけで、人の体くらい簡単に飛ばせるだろう。
怖くないわけではない。
それでも、魔力を持つ人が入れば、あの子自身の意思とは関係なく襲ってくるだろう。
「入口まで行くだけです」
私は続けた。
「床下へ下りて、魔力を送っているものを探す。触る前に、必ずミラへ確認します」
「距離があれば、声は届かないかも」
「縄を使いましょう」
マルクが持ってきた長い縄を出した。
「合図を決めるんです。一回引けば止まる。二回で右。三回で左」
「穴の中で右と左を教えて、何を選ばせるつもりです?」
ミラが真面目に聞いた。
「……二回で戻れ、三回で進め」
「引き続けたら?」
「とても危険なので走って戻る」
合図は、決まった。
ルークはまだ頷かない。
「ロブは、ここで待たせます」
私は先に言った。
ロブが顔を上げる。
「一緒には行けないよ」
神獣であるロブには魔力があるらしい。
あの魔獣へ近づけば、また強い感情を受け取るかもしれない。
「くぅん」
「すぐ戻るから」
ロブのリードをルークへ渡す。
私が戻るまで、ロブを守ってもらうためだ。
ルークはリードと私を見比べた。
「三分です」
「短いです」
「二分」
「減らさないでください」
「なら三分で」
認めてもらえたらしい。
◇
口元を布で覆い、部屋へ入ると、白い煙は薄くなっていたが、薬草の苦い匂いがした。
一歩。
赤い魔法陣の外側へ足を置く。
魔獣の皮膚に変化はない。
二歩。
長い角の先を通り過ぎようとすると、眠った魔獣が息を吐いた。
私は止まった。
背後で縄が一度引かれる。
止まれ、の合図だ。
魔獣の瞼は閉じたままで、赤い光も強くならない。
ルークが縄を三回引いた。
進め。
ゆっくり歩く。
魔法陣の線を踏まないように、床の何も描かれていない場所だけを選ぶ。
途中で、魔獣の前脚が動き、蹄が石を擦る。
私は息を止めた。
突進はしてこない。
眠りながら、逃げようとしただけのように見えた。
「怖いよね。もう少しだけ待ってて」
心の中で話しかけた。
部屋の奥にある扉に着く。
取っ手は木でできていた。魔力を通しやすい金属を避けたのだろうか。
扉を開くと、下へ続く三段の階段があった。
その先は、人がしゃがんで通れるほどの空間しかない。
床下から、低い振動が伝わってくる。
縄を腰へ結び直し、階段を下りた。
石の間を、赤い線が走っている。
中央には、拳ほどの黒い石がある。旧鉱山の魔法陣の中心にあったものより小さい。
黒い石から四本の金属棒が伸び、上の鎖へつながっていた。
その手前に、白い板が四枚並んでいる。
一枚目には1本線。
二枚目には2本。
三枚目には3本。
四枚目には、4本…。
第4段階まで行った処置を、順番に通すためのものかもしれない。
「見つけました!」
声を上げる。
「黒い石と、白い板が四枚あります!」
返事は聞こえない。
代わりに縄が一度引かれた。
止まる。
私は何にも触れず、板の周囲を見る。
白い板は溝へ差し込まれていて、端には布を結ぶための小さな穴があった。
直接触れずに板を抜いていたのかもしれない。
持ってきた魔力を通さない布を手へ巻く。
「四枚の板を抜けると思います!」
縄が一回。
まだ待て。
遠くから、ミラの声がかすかに聞こえた。
「順番があります! 4から抜いてください!」
最後に加えた処置から、一つずつ外す仕組みか。
薬を重ねた順番と反対に戻すように。
縄が三回引かれる。
進め。
4の板へ布を通した。
息を吸い、ゆっくり引くと、途中で板が止まった。
力を入れた瞬間、黒い石の光が強くなる。
頭上で魔獣が暴れた。
鎖が鳴り、石の粉が落ちる。
縄が強く、何度も引かれた。
危険。走って戻れ。
でも、板は半分抜けている。
ここで戻せば、また同じ魔力が流れるかもしれない。
「抜きます!」
返事を待たず、両手で引いた。
板が外れた。
赤い線が一本消え、頭上の音が止まった。
私は白い板を床へ置いた。
三枚目。
二枚目。
一枚目。
順番に抜くたび、黒い石へ集まる光が弱くなる。
最後の板を抜くと、四本の金属棒から赤い色が消えた。
頭上で、重いものが床へ伏せる音がした。
「止まりました!」
今度は声が返る。
「戻ってください!」
ルークだった。
階段を上がり部屋へ戻ると、魔獣は横たわったままだった。
皮膚の下の赤い光は消えている。
黒く変色していた毛の根元から、本来の青灰色が見えた。
扉の向こうでロブが鳴く。
「わん!」
「戻ったよ」
急いで部屋を出る。
ロブは私の足へ前足をかけ、何度も匂いを嗅いだ。
「怪我してないよ」
顔を舐められる。
「でも、ちょっと煙くさいかも」
もう一度舐められた。
ミラが弱い探査術を使った。
部屋の魔法陣は反応しない。
魔獣の体も動かなかった。
「外からの流れは切れています」
「元に戻ったんですか」
「処置の影響がすべて消えたとは言えません。でも、魔力に触れただけで攻撃する反応は止まりました」
「中に入っても?」
「まず少量の魔力で試します。全員が一度に入るのは避けましょう」
ミラが杖の先へ、指先ほどの光を作った。
扉の隙間から部屋へ入れる。
光は魔獣の鼻先を通り、壁へ当たった。
赤い魔法陣は動かない。
魔獣の脚も、跳ねなかった。
次に、盾を持つ騎士が一人だけ部屋へ入る。
鎧に込められた魔力へ反応はない。
「大丈夫そうです」
騎士が言った直後、魔獣の目が開き、長い角が持ち上がる。
魔獣は騎士を見た。
鼻を鳴らし、逃げようと前脚を動かす。
鎖が鳴ると、体を固くしたが、突進はしなかった。
「今の反応は、術式ではないでしょう」
私は言った。
「目の前に知らない人がいて、怖いだけだと思います」
怖がる。逃げようとする。
それは傷つけられる前から持っていた、魔獣自身の反応だ。
すべてを消して、おとなしくさせることが救出ではない。
元の性質へ戻すことも救出なのだ。
「一度、全員下がれ」
騎士が部屋を出る。
魔獣の呼吸が落ち着くのを待ち、今度は私が水の器を持って入った。
魔力のない木の器を、魔法陣の線を踏まない場所へ置く。
「もう、無理に向かってこなくていいよ」
魔獣は顔を上げない。
けれど、水の匂いを嗅ぐように鼻先が動いた。
それだけで十分だった。
魔獣が目を開けた。
騎士たちが盾を構える。
長い角が持ち上がる。しかし突進はしなかった。
目の前にいる人間を見て、荒い息を吐く。
「怖がっています。でも、さっきとは違います」
私は扉の外から様子を見る。
「逃げたいと思ってる。体が勝手に動く感じでもありません」
ロブが私の横へ立つ。
魔獣の耳が、白い姿へ向いた。
ロブは近づかない。
低く鼻を鳴らすだけだった。
魔獣の頭が少し下がる。
「蒼槍鹿です」
魔術師が言った。
「青灰色の毛と、槍のような二本の角を持つ魔獣。高い山の草地に棲み、人の気配があれば先に逃げる、おとなしい種です」
「おとなしい……」
鉄の扉を歪ませた姿を思い出す。
「本来は、です」
灰の狩人は、蒼槍鹿の力だけではなく、本来の性質まで壊そうとした。
「鎖を外します」
騎士が一本ずつ金具を切る。
最後の鎖が外れても、蒼槍鹿は動かなかった。
ロブと私たちを見ながら、立ち上がれるほど力が戻るのを待っている。
「安全に運び出せますか」
「眠り薬が完全に抜ける前なら、担架を使えます」
治療魔術師が答えた。
奥の扉から、また細い声がした。
蒼槍鹿の耳も、その方角へ向く。
まだ残る仲間の声を聞くように。
◇
蒼槍鹿のそばへ二人の騎士を残し、私たちは奥の扉を開けた。
さらに下へ続く階段を降りると、先ほどより広い空間に出た。
壁には、一定の間隔で灯りが置かれている。
火はついていないが、油は新しく、芯も使える状態だった。
「撤退した場所には見えません」
マルクが言った。
「少なくとも、すべてを捨てたわけではない」
ルークが剣を抜く。
人の気配はない。そう思っていた。
階段を下りるほど、空気が変わった。
魔獣の匂い、薬の甘い匂い、それに混じって、煙の匂いがする。
誰かが、ついさっきまで火を使っていたのか。
「人がいます」
ルークが小声で言い、全員を止めた。
ロブは私の足元で、階段の下を見ている。
背中の毛が立っていた。
魔獣へ反応するときとは違う。
低い唸り声が喉から漏れる。
「どうしたの?」
ロブは前へ出た。
そして私の前に立った。
リードを引いても、下がらない。
「誰か知ってるの?」
問いに答えるように、暗闇から声がした。
「やはり、先に気づくのは神獣か」
男の声だった。
階段の下で、灯りが一つ点き、長い地下室が現れた。
両側には鉄の檻が並んでいる。
翼猫。
翼蛇。
角鹿。
見たことのない、魔獣もいた。
どの檻にも一頭か二頭が閉じ込められ、床へ伏せていた。
十頭どころではない。
二十頭?もっといる。
地下から聞こえた複数の声は、この魔獣たちのものだったのだろう。
檻の列の一番奥に、その人物はいた。
黒いローブ。そのフードは深く、顔の上半分が影に隠れている。
黒い手袋をしている手には、杖も剣も持っていない。
「灰の狩人」
ルークの声が低くなる。
騎士たちが前へ出たが、男は逃げない。
檻の間に立ち、私たちを待っていたようにも見える。
「ローブを脱ぎ、両手を見せろ」
ルークが言う。
「君たちに危害を加えるつもりはない」
「ここで何をしている」
「見に来た」
男の顔が、わずかに私へ向く。
「異界の女が、どこまで神獣を人の側へ縛れるのか」
ロブの唸り声が強くなった。
普段は警戒心ゼロで、知らない人にも近づこうとし、唸ることなどないはずのロブが。
唸りながら、私の前から動かない。
「ロブを知っているの?」
「記録した」
男は答えた。
「雄。小型。警戒心は低い。食物への反応は強い。契約者への執着は予想以上」
地下で見つけた紙と同じ言葉だった。
ロブの毛がついた布。
王宮での行動を記した記録。
「あれを書いたのは、あなた?」
「私だけではない」
「王宮に仲間がいるってこと?」
男は答えなかった。
「魔獣たちに何をした」
ルークが一歩進む。
「第4段階。第5段階。その先に何がある」
「お前たちは、一つずつ戻すことしか考えない」
「質問に答えろ」
「戻した先に何がある?」
男が檻を見た。
「森へ返す。山へ返す。人と魔獣の境界を引き直す。それで同じことが何百年続いた」
「だから攻撃させるの?」
私は聞いた。
「違う」
初めて、男の声に強い感情が混じった。
「それは途中の形にすぎない」
「途中?」
「そうしなければ、開かない」
「何が」
答えはなかった。
旧鉱山の巨大な魔法陣。
複数の魔獣から集められた魔力。
何かを反応させ、注意を向けさせる術。
全てが向かっているその先には。
「扉?」
私は言った。
男の肩が、ほんの少し動いた。
「扉を開けようとしているの?」
「まだ、開かない」
男はロブを見た。
「声が足りない」
集められた声。
傷つけられた魔獣の苦しみ。
それを魔力へ変え、一点へ集めるということか。
「神獣は最後だ。その前に必要な一頭がいる」
檻の列へ一度視線を向けた。
ここにいる魔獣では足りない、別の種類?
あるいは、別の段階まで進んだ一頭?
「北の村から連れ去った魔獣か」
ルークが問う。
「何の話だ」
男の返事は短かった。
本当に知らないのか、知らないふりをしたのかわからない。
灰の狩人は一人ではない。
「あなたの名前は?」
私は聞いた。
フードの奥で、男が笑ったように見えた。
「名を知れば、止められると思うのか」
「少なくとも、呼び止められる」
「なら、灰の狩人でいい」
「それは名前じゃない」
「神獣も、名ではないな」
男の視線がロブへ落ちる。
「それをロブと呼び、犬として扱う。だから反応が安定しない」
「ロブはロブなの」
「お前がそうしているだけだ」
「何が悪いの」
「悪いとは言っていない」
「では、何」
「惜しい、と言っている」
男の声は静かだった。
「三百年、神獣は現れなかった。王も神殿も、理由を知らない」
「あなたは理由を知っている?」
「知ろうとしている」
「そのために魔獣を傷つけた?」
「人は、聞こえない声を傷と呼ぶ。神獣は違う」
ロブの耳が伏せられる。
「魔獣の苦しみを感じる力」
男は、それを知っていた。
どこまで知っているのか。
ロブにも正確な場所や言葉まではわからないことまで、知っているのか。
「ロブに何をさせる気?」
「させるのではない……選ばせるのだ」
「何を」
「すべての声が一つになれば、神獣は無視できない」
「ロブの優しさを利用しないで」
「優しさ」
男が初めて、その言葉を確かめるように繰り返した。
「お前はそう呼ぶのか」
「少なくとも、反応とは呼ばない」
魔獣の苦しみを増やす。
複数の声を一つに集める。
ロブが放っておけないほど、大きな声にする。
そして、何かを選ばせる。
「旧鉱山の魔法陣は、ロブに声を届けるためのもの?」
「それだけなら、あれほどの器は要らない」
「では、ロブの先に何がある」
「神獣が向く先だ」
意味はわからなかった。
答えているようで、肝心なことは隠している。
「百年以上前にも、同じ印を使っていたな」
ルークが言うと、男の顔が、わずかに動いた。
「記録が欠けていることも、お前たちの仕業か」
「記録を残した者と、消した者が同じだと思うな」
「どういう意味だ」
「王宮へ戻って聞け」
「誰に」
「記録を守っているつもりの者たちに」
王宮の中に協力者がいるという意味なのか。
昔、灰の狩人とは別の誰かが記録を消したという意味なのか。
男の言葉だけでは決められない。
「王宮にいたことがあるのか」
「お前たちに、私を見ている余裕があるのか?」
男が檻へ目を向けた。
何頭もの魔獣が、浅い呼吸を繰り返している。
「ここにいるものを助けたいのだろう」
「お前を捕らえて、魔獣も全て助ける」
マルクが言った。
「試せばいい」
男は一歩、こちらへ進んだ。
ロブが吠えた。
「わん!」
小さな体で私の前を塞ぐ。
男の足が止まった。
「興味深い」
「近づかないで」
私はロブのリードを握った。
ロブが飛び出せば、今度は私が止める。
「あなたはロブを記録した。でも、何も見ていない」
「何を見落とした?」
私は答えない。怖くても、私の前へ出るロブの勇気をこの男に教えてやる必要はない。
男の顔は見えない。
それでも、こちらを見ていることはわかった。
「警戒心が低いとか、私へ執着しているとか、勝手なこと言って。でもロブは、記録どおりの個体なんかじゃない」
蒼槍鹿も同じだ。
第4段階の術式どおりに突進しながら、一瞬だけ止まった。
魔獣を反応としてしか見ない人には、その一瞬が見えない。
「だから、あなたたちは失敗する」
男の声から、笑いが消えた。
「失敗かどうかは、扉が答える」
右手が上がり、男の手袋から、灰色の粉が広がった。
「伏せろ!」
ルークが叫ぶ。
◇
目と喉が痛い。
私はロブを抱き、床へ伏せた。
騎士たちの盾が前へ並ぶ。
魔獣が反応させないために、ミラは魔術を使えない。
灰色の粉の向こうで、金属の音がした。
「奥です!男が逃げます!」
マルクが叫ぶ。
ルークたちが進もうとした瞬間、左右の檻が一斉に光った。
赤。
青。
黄色。
魔獣ごとに違う色の魔力が、鎖から体へ流れ込む。
翼猫が甲高く鳴いた。
翼蛇が檻の鉄棒へ体を打ちつける。
奥の大きな檻から、岩を砕くような音が響いた。
「追うな!」
ルークが命じた。
「魔法陣を止めろ。檻から離れろ!」
男を追えば捕まえられるかもしれない。
でも、魔術を使えば魔獣たちが苦しむ。
狭い檻の中で暴れ続ければ、自分の体を傷つけてしまう。
ロブが私の腕の中で暴れた。
「行きたいの?」
灰の狩人が消えた奥ではなく、光り始めた檻の列を見ている。
「くぅん!」
苦しむ声が増える。
一体何頭いるんだろう。
私たちが旧鉱山で見た檻の数より、ここにいる魔獣のほうが多かった。
「ロブ、全部受け止めないで!」
ロブの耳を塞ぐように抱きしめる。
ロブが感じる魔獣の苦しみは、耳を塞いでも目を閉じても消えないだろう。
それでも、ロブを一人で声の中へ立たせたくなかった。
ミラが床を見た。
「魔法陣がすべてつながっています!」
「一つずつ切れるか」
「できます。でも時間が必要です。順番を誤れば、ほかの檻へ魔力が流れる」
「出口は!」
マルクが奥へ灯りを向ける。
灰の狩人が立っていた場所の後ろに、細い水路があった。
流れは速い。
人が身を屈めれば通れる幅だ。
黒いローブ姿は、もう見えない。
水の音だけが遠ざかる。
「外の隊へ知らせます」
騎士が連絡用の魔術具を手にした。
「待て。ここで起動すれば、檻が反応する」
ルークが止める。
連絡するには階段を上がり、蒼槍鹿の部屋を抜け、水路の入口まで戻らなければならない。
その間に、灰の狩人は山の外へ出るだろう。
「追えません」
マルクが悔しそうに言った。
「今は」
ルークは檻を見た。
「追わない」
選ばなければならなかった。
逃げる一人を捕まえるか。
ここに残された何十もの命を守るか。
答えは決まっていた。
灰の狩人は、そう決断するとわかっていたのだろう。
「最初から、逃げる時間を作るために話してたんですね」
私の声は、もうあの男には聞こえない。
残ったのは、いくつかの答えと、それ以上の疑問だった。
灰の狩人は、魔獣をただ攻撃する道具にしたいわけではない。
恐怖と怒りから生まれる力を集め、何かへ届けようとしている。
その先には、まだ開かない扉がある。
扉を開く前に、あと一頭が必要。
そして最後に、ロブを使う。
あの男は首領なのか。
王宮の中に、本当に協力者がいるのか。
「エレナ」
ルークが呼ぶ。
「蒼槍鹿のときと同じ方法が使えるか、見てください。ただし、檻へ近づきすぎないで」
「はい」
わからないことを追うのは、あとだ。
今は、見えるものを見る。
一番近い檻には、二頭の翼猫がいた。
体を寄せ合い、背中の小さな翼を震わせている。
赤い光が流れるたび、一頭が檻へ飛びかかる。
もう一頭は隅へ逃げようとする。
「反応が違いますね」
私は言った。
「同じ魔力を受けても、一頭は攻撃して、もう一頭は逃げようとしてる」
「処置の段階が違う?」
「それもあるかもしれません。でも、同じに見えても、この子たちは一頭ずつ違いますから」
魔獣にも個性がある。全てが同じ反応をするとは限らない。
そこを灰の狩人が見落としているとしたら。
そこに、救う方法があるかもしれない。
ミラが床の線を紙へ写す。
「全部で二十四の檻があります」
「魔獣の数は」
「見える範囲で三十一頭。奥に、まだ部屋があります」
これまで助けた数よりはるかに多い。
必要な薬も、人手も、担架も足りない。
魔法陣を止めても、衰弱した魔獣を地上へ運ぶだけで何日かかるかわからない。
かなり大がかりな救出になりそうだ。ここにいる人数だけでは到底足りない。
「応援を呼びます」
ルークが言った。
「北部の騎士団、王宮の魔術師、治療師。運搬用の馬車と餌も必要だ。村へも協力を求める」
「人間を怖がる魔獣もいます」
「だからエレナとロブが必要です」
ロブはまだ震えている。
それでも私の腕から下り、檻の列へ向かって立った。
一頭ずつを見るように、右から左へ顔を動かす。
「ロブだけじゃありません」
私は言った。
「魔獣を大切な命として見る人が、たくさん必要です」
「もちろんです」
ルークは迷わず答えた。
檻の奥で、また別の魔獣が鳴いた。
弱い声、怒った声、怯えた声。
灰の狩人にとっては、目的を果たすための道具にすぎないのかもしれない。
でも私たちにとっては違う。助けを待つ声のひとつひとつを大切にしなければいけない。
今、逃げた男を追うことはできない。
地下には、まだ複数の魔獣がいる。
私たちは灰の向こうへ消えた背中ではなく、目の前の檻へ向き直った。
魔獣たちの救出が始まる。
――第十九話おわり




