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愛犬と一緒に異世界転生したら、うちの子が神獣に⁈いいえ、普通のパピヨンです  作者: kotao


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18/30

第十八話 ロブの苦痛

双角山に調査に出た一行、ロブをも苦しめる装置に繋がれた一頭の魔獣がいた。

 双角山が近づくにつれ、道は道ではなくなっていった。


 草の間に、荷車の車輪が通れるだけの土が見えている。


 やがて草が土を覆い、左右の木から伸びた枝が馬車の屋根を叩き始めた。


「本当に、この道で合ってます?」


 御者をしているマルクに尋ねた。


「地図上では」


 馬車が大きく傾き、私は思わず、窓の縁を掴む。


 ロブは何事もないかのように、毛布の上で丸くなっていた。


 しばらくすると、木々の間から、二つの頂が見えてきた。


 左が高く、右が低い。


 金属板に刻まれていた山と同じ形だ。


 前を行く騎士が手を上げ、馬車が止まる。


「ここから先は歩きます」


 ルークが言った。


「車輪の跡を残したくない。馬車は、ここに置いていく」


 全員でこの調査に必要な荷物を背負った。


 森の中へ入ると、水の音が聞こえた。


 最初は一本だった。


 少し進むと、右から別の音が重なる。


 さらに斜面を下ったところで、左から三つ目の流れが現れた。


 三本の小川は、古い石壁の手前で一つになっている。


 崩れかけた水門と苔に覆われた水路。


 その向こうには、二つの頂を持つ山。


「山の形と、三本の波線」


 私は布に包んだ金属板を取り出し、絵と目の前の景色を並べてみる。


 線の向きまで同じだった。


「場所については、当たりですね」


「そう判断していいでしょう」


 ルークが頷いた。


 推測が一つ、現実と重なった。


 推測が当たってもうれしさはない、むしろ、背筋が寒くなる。


 灰の狩人が、この場所を使っていた可能性が高くなったからだ。


 水路の横には、小さな管理小屋があった。


 屋根の半分は苔で緑色になっている。扉は閉じていたが、錠はかかっていない。


 ルークが騎士を左右へ回し、窓と裏口を確認させる。


「人の動く気配はありません」


「中へ入る」


 盾を持つ騎士が先に扉を開いた。


 薄暗い小屋の中には、机と棚、空のベッドが二つあった。


 誰もいない。


 けれど、長く使われていないというわけでもないらしい。


 机には蝋燭が残り、芯の先が黒い。


 暖炉の灰は乾いているが、指で崩せるほど新しいし、床には泥のついた靴跡がある。


「二日。長くても三日前までは使われていたようです」


 追跡役の騎士が言う。


「我々が旧鉱山へ入ったころと重なります」


 ベッドの下から、細い紐が一本見つかった。


 ところどころ青く染まっている。


 灰の狩人が魔獣を縛るときに使っていた紐と同じだった。


「引き払ったあとですか」


「人は、です」


 ルークは小屋の床を見回した。


「魔獣も運び出したとは限らない」


 ロブは入口のそばで鼻を動かしていた。


 小屋の中ではなく、外を向く。


 水路の上流。双角山の奥へ続く方角だった。


 耳が立ち、尻尾が下がる。


「聞こえる?」


 私は隣へしゃがんだ。


 ロブは答えず、水路へ向かって歩き始めた。


 急いではいない。何度も立ち止まり、鼻先を空へ上げる。


 私には水の音しか聞こえなかった。


 古い水路は、小屋の裏で二つに分かれていた。


 一方は山の斜面に沿って続き、もう一方は石の蓋で覆われている。


 ロブが立ち止まったのは、蓋のあるほうだった。


 水は流れておらず、石の隙間から、冷たい空気だけが漏れている。


「地下へ続いています」


 ミラが石壁へ杖を近づけた。


「水路を利用して、山の中へ通路を作ったようです」


 蓋は何枚も並んでいて、ほとんどは苔で覆われている。


 そのうち一枚だけ、縁の苔が剥がれていた。


 人が動かした痕跡にも見える。


 騎士二人が石を持ち上げると、下に梯子が現れた。


 水路の底より、さらに深い。


 灯りを落とすと、光は途中の壁に当たり、見えなくなった。


「侵入を知らせる術はありますか」


 私はミラへ聞いた。


「今、調べてみます」


 ミラは梯子の周囲、水路の石、蓋の裏を順番に確かめた。


「ありません」


「隠されている可能性は?」


「完全には否定できません。ただ、旧鉱山のものより古い術式の痕跡もありません」


「撤退したから、警報も外した?」


「あるいは最初から必要なかったか」


 ルークが暗い穴を見下ろす。


「人を待ち受ける場所ではなく、処置を行うためだけの場所なら」


 警報がないことは、安全という意味ではない。


 誰も残っていない可能性が高いだけだ。


 ルークは外に騎士を二人残した。


 もし人が戻れば、水路へ小石を落として知らせる。中の魔術具へも合図を送る。


 私たちは順番に入っていく。


 先頭はルークとミラ。


 その後ろに盾を持つ騎士。


 私とロブ。


 マルクたちが最後を守る。


 ディート先生は岩角猪の治療のため残っている。代わりに、王宮から来た治療術の使える魔術師が同行していた。


「治療はできますが、薬の判断は専門外です。眠り薬を追加する場合は、記録どおりの量だけにします」


 入る前、その魔術師は少し不安そうに言った。


 梯子を下りると、細い横穴が続いていた。


 壁には水の流れた跡がある。昔は本当に水路だったのだろう。


 今は床に木の板が敷かれ、荷物を運べるように変えられている。


 板の表面にはまだ新しい傷があった。


 重いものを引きずったような跡、檻かもしれない。


 途中で青い瓶が一つ落ちていた。


 中身は空だった。


 三日月と塔の印がある。


「やはり、ここですね」


 マルクが呟く。


 通路の奥から、音がした。


 低く、短い声。


 双角山へ向かう馬車を止めたとき、山の向こうから聞こえた弱々しい鳴き声かもしれない。


 あのときは、風に混じって一度だけ届いた。


 今は石の壁を通してもわかる。


 この声の主は、確かに地下にいる。


 ロブが足を止める。


「くぅん」


 白い体が震えたが、逃げようとはしない。


 それでも、すぐ前へ走り出すこともなかった。


 私はリードを短く持った。


「一緒に行こう」


 ロブが私の靴へ体を寄せる。


 それから、一歩ずつ暗い通路を進んだ。


     ◇


 通路の先に、鉄の扉があった。


 鍵は開いているようだ。


 扉の下から、淡い赤い光が漏れていた。


 ミラが術式を確認する。


「警報はありません。ただし、中で魔法陣が動いています」


「止められるか」


「構造を見なければわかりません」


 ルークが全員へ下がるよう合図をした。


 盾の陰から、扉を少しだけ開く。


 赤い光が通路へ伸びた。


 その瞬間、扉の向こうで何かが地面を蹴った。


 鉄の鎖が鳴ると同時に、扉に重いものがぶつかった。


 盾を持つ騎士が後ろへ押される。


「閉めろ!」


 ルークとマルクが扉を押し戻した。


 扉の向こう側から、何度も衝撃が来る。


 それは鉄の扉が歪むほどだった。


「何が見えました?」


「角です」


 盾の騎士が息を整える。


「長い角が二本。体は鹿に似ていますが、あれほど大きな鹿は」


 扉の向こうで甲高い声が上がった。


 怒っている?


 人の気配を感じた瞬間、襲いかかってきた。


「別の入口は?」


「今の通路にはありません」


 ミラが壁を調べる。


「部屋の奥に換気孔はあります。ですが、人は通れない」


 ロブが扉へ近づこうとする。


「待って」


 リードが張った。


 扉の向こうの魔獣が、また突進する。


 ロブが身をすくめた。


「人が来たから怒ったんでしょうか」


 マルクが言う。


「まだわかリません」


 私は扉の隙間から中を見た。


 部屋の中央に、一頭の魔獣がいる。


 体は鹿に似ていた。


 けれど肩は馬より高く、二本の角は枝分かれせず、槍のように前へ伸びている。


 毛は本来なら青灰色なのだろう。


 今はところどころ黒く変色し、皮膚の下を赤い光が走っていた。


 目は大きく開かれ、鼻から白い息が噴き出す。


 前脚で床を蹴りながら、後ろへ下がろうとしている。


 逃げたいのに、逃げる場所がないのか。


 床の鎖が、四本の脚すべてにつながっていた。


 似ている。岩角猪の時と。


「怒りだけじゃない、怖がっているのかも」


 私は言った。


「怒っているように見えるけど、私たちから離れようとしてる。でも近づくものへ、体が勝手に反応しているみたいです」


「体が勝手に?」


 ミラが隙間を覗く。


 魔獣の皮膚に、また赤い光が走った。


 同時に、扉へ向かって突進する。


「魔力へ反応しています」


 ミラが杖を下げた。


 赤い光が少し弱くなる。


「私の探査術を使うたびに、魔法陣から魔力が流れ込んでいるようです」


 騎士の一人が灯りの魔術具を布で覆った。


 部屋の赤い光は残っている。


 それでも、魔獣の動きがわずかに遅くなった。


「人に怒っているんじゃない」


「人が持つ魔力に、過剰に反応しているということ?」


 ミラの顔が青ざめた。


「これが、第4段階じゃないでしょうか」


 岩角猪の足元から見つかった、4種類の術式。


 金属板に刻まれた4。


 恐怖と怒りを強め、外から魔力が与えられると攻撃する。


 目の前にいる魔獣は、普通の魔獣ではなくなりつつあるようだ。


「攻撃性を高めるために?」


「おそらく」


 ミラは答えた。


「剣を向ける者。魔術を使う者。魔力を持つものすべてへ反応するようにすれば、攻撃したい場所へ魔獣を放つだけでいい」


 命令をする必要さえない。


 恐怖を消す必要もない。


 怖がらせ、怒らせ、外から魔力を与えれば、目の前のものを攻撃する魔獣。


「これが最終目的でしょうか」


 マルクが低い声で言った。


「魔獣を集め、攻撃させることが」


「まだ断定はできない」


 ルークが答えた。


「旧鉱山の装置は、魔獣を放つためだけにしては大きすぎる。ロブを最終段階に使う理由も説明できない」


 第4段階が何をしているかは見えてきた。


 でも、その先に何をしようとしているかは、まだ暗闇の中だった。


     ◇


 魔術具をすべて布で覆い、扉の前から魔力を持つ者を下げた。


 魔術を使えない私は、前に残った。


「エレナも下がってください」


「私には魔力がありません」


「牙と角は、魔力の有無を選びません」


「わかっています。でも、あの子の様子を見られる人間が必要です」


 ルークが何か言おうとする。


 私は先に続けた。


「中には入りません。扉の外から見ます。危ないと思ったら、すぐ下がります」


 しばらく沈黙したあと、ルークが頷いた。


「扉には触れないで。ロブのリードは俺が持ちます」


 扉を指一本分だけ開く。


 魔獣は部屋の奥で震えていた。


 赤い光が弱まった今も、息は荒い。


 私が顔を見せると、耳が後ろへ伏せられる。


 突進はしてこなかった。


「大丈夫」


 静かに声をかける。


「捕まえに来たんじゃないよ」


 言葉は通じないが、声の大きさと、動きで、敵ではないと伝えるしかない。


 ロブに話すときと同じだ。


 ロブが私の横へ来た。


 扉の隙間から、鼻先を入れる。


「ロブ」


 ルークがリードを短くする。


 ロブはそれ以上進まず、床へ伏せ、低く鼻を鳴らす。


「くぅん」


 魔獣の耳が動いた。


 皮膚の赤い光が、一度強くなる。


 前脚が床を蹴った。


 けれど、突進の途中で止まった。


 長い角が扉へ届く前に、頭を振る。


 怒りが消えたわけではないだろう。


 ただ一瞬だけ、体と気持ちの間に隙間ができたように見えた。


「ロブを見ています」


 魔獣の大きな目が、白い小さな体を見つめている。


 ロブも見返した。


「わふ」


 短い声。


 その直後、ロブの体が大きく震えた。


「ロブ?」


 ロブの白い脚から力が抜ける。


 床へ伏せたのではない、倒れたのだ。


 私は急いでロブを抱き上げた。


 呼吸が速い。


 耳を伏せ、目を固く閉じている。


 傷はないが、痛みに何かの耐えるように小さな声を漏らした。


「くぅ……」


「下がれ!」


 ルークが扉を閉める。


 魔獣が再び突進し、鉄の向こうで大きな音がした。


 私はロブをしっかり抱きしめる。


「どこか痛いの?」


 返事はないが、触れても嫌がらない。


 体はずっと震えている。


 治療術を使える魔術師が近づこうとする。


 ロブが突然、低く唸った。


「魔力へ反応しているのかも」


 私は言った。


「術を使わないで。今は近づかないでください」


 魔術師がすぐに杖を下げる。


 数歩離れると、ロブの唸り声が止まった。


「あの子の感情を受けたのかも」


 私は白い背中を撫で続けた。


 ロブは傷ついた魔獣の苦しみを感じる。


 けれど、これほど強く受けたことはなかった。


 第4段階の魔獣は、外から魔力を与えられるたび、恐怖と怒りを膨らませるようだ。


 ロブはその苦しみに近づきすぎたのかもしれない。


 助けようとして、同じ苦しみの一部を受け取ってしまった。


「もう近づかなくていいよ」


 私が言うと、ロブは目を開けた。


 扉を見る。


 また進もうと、私の腕の中で前足を動かす。


「やめて、ロブ」


 強く抱きしめた。


「ロブが全部助けなくていい。できないことまでしなくていい」


 神獣だからといって、そばにいるだけですべてが解決するわけではないのだろう。


 魔獣の怒りを一瞬だけ弱めることはできたが、代わりにロブが苦しむことになるなんて。


「私たちもいるからね」


 ロブの震えが少しずつ弱まる。


 ルークは私たちを見てから、ミラへ向き直った。


「魔法陣を止める方法を探そう」


「はい。神獣様を近づけずに」


 ミラもはっきり答えた。


 魔法陣を調べるには、扉を開けなければならない。


 しかし開ければ魔獣が反応する。


 私たちは一度、通路の角まで戻った。


 壁と床へ残る線を、部屋の外側から調べる。


 魔力を流さず、目で見える部分だけを紙へ写した。


「部屋の魔法陣は、床の下から魔力を受けています」


 ミラが線の向きを指で追う。


「魔獣自身の魔力を作り変えているのではありません」


「違うんですか」


「皮膚の下を赤い光が走っていたので、そう見えます。ですが、あれは外から与えられた魔力です」


 魔獣の足元にある円。


 四本の鎖。


 鎖から脚へ入り、体を巡る赤い光。


「第4段階は、外の魔力に反応させる段階?」


「はい。魔力そのものを別のものへ変えるのではなく、外から力を与えられたとき、決められた反応を起こすようにしていると思われます」


「攻撃するように」


「今見た限りでは」


 魔獣は自分で怒りを選んでいない。


 外から魔力が来る。


 恐怖が膨らむ。


 体が攻撃する。


 それを繰り返せば、本当は何を怖がっていたのかも、どちらへ逃げたかったのかも、わからなくなるかもしれない。


「本来の魔獣ではなくなりつつある、ということですか」


「反応だけを見れば」


 ミラは一度言葉を切った。


「でも、まだあの魔獣自身は残っています。神獣様を見たとき、術式の命令に逆らった」


 あの一瞬。


 突進を途中で止めた。


 ロブを傷つけたくなかったのか、ただ驚いただけなのかはわからない。


 それでも、魔法陣の反応だけで動くものには、まだなっていない。


「なら、助けられます」


「方法を見つければ」


 ミラは紙の端へ、もう一本の線を描いた。


「それから、術式は第4段階で終わっていません」


「最終段階?」


「いいえ」


 通路の壁に、途中で切れた術式があった。


 部屋の中へ続くはずの線が、石の途中で止まっている。


 線の横に、薄く数字が刻まれていた。


 5。


「第5段階」


「この術式は半分も完成していません」


 ミラが灯りを近づける。


「線だけを引き、魔力を固定する石は置かれていない。途中で作業をやめたみたいです」


「私たちが旧鉱山へ入ったから?」


「時期は一致します。人と運べる道具だけを持ち出し、この魔獣と未完成の術式を残した」


 第5段階まで進められなかったことは、安心材料だ。


 でも、第5段階が存在すること自体は、怖い。


「第5段階が、ロブを使う最終段階ですか」


「違います」


 ミラはすぐに答えた。


「これは、この魔獣へ行う処置の続きです。旧鉱山の記録では、ほかの魔獣の反応を安定させたあとに、基準個体を使う。それを最終段階と呼んでいるのでしょう」


 第4段階。


 完成していない第5段階。


 その先に、まだいくつ段階があるのかわからない。


 そして最後にロブがいる。


「魔獣を何をするつもりだったの」


 答える者はいなかった。


     ◇


 王宮、会議室。


 北部の魔獣被害について報告が続く中、長机の中央に置かれていた魔術具が、突然強い青色を放った。


 騎士団の代表、宮廷魔術師、各地の報告を集める文官たち。


 その場にいる全員が言葉を止め、光を見つめる。


 アレクシス王子は、椅子を倒す勢いで立ち上がった。


 エレナに渡した護符と対になっている魔術具が、居場所を知らせる光だった。


「地図を」


 秘書官が、王国北部の地図を長机へ広げた。


 石から細い光が伸び、王都から北東へ走った。


 リーネ村を越え、旧鉱山も越える。


 二つの頂を持つ山の手前で止まった。


「双角山」


 アレクシス王子が地名を読む。


 護符は一度しか使えない。


 エレナが自分で使ったのか。


 危険へ近づいたことで、自動的に反応したのか。


 渡したときに組み込んだ術には、持ち主の魔力が大きく乱れた場合、対の石へ知らせる仕組みもあった。


 エレナ自身には魔力がない。


 それでも契約を通じて、神獣であるロブの異変を拾った可能性がある。


「北部の騎士団へ連絡を。双角山へ最も近い隊を動かせ」


「殿下、もう一つご報告があります」


 長机の端にいた文官が立ち上がった。


 手には封を切ったばかりの報告書がある。


「北のカルム村から、魔獣が連れ去られたという報告です」


「いつだ」


「三日前です。村の近くに棲みついていた翼猫が二頭。普段はおとなしいので、村人も追い払わずにいたそうですが、夜のうちに姿を消しました」


「痕跡は」


「青い液体のついた矢と、灰色の粉。それから荷車の跡が北東へ」


 アレクシス王子の指が地図を動く。


 カルム村から北東。


 双角山へ直接向かう道ではない。


 山を回り込み、さらに北へ続く道だった。


 旧鉱山から魔獣を移した先が双角山だけとは限らない。


 事件は、一つの山の中へ収まっていないと感じる。


「村の証言を集め、跡を追え。ただし、双角山へ向かう隊とは分ける」


 アレクシスは光の消え始めた石を握った。


「どちらも知らせる。エレナたちへ、今わかっていることをすべて」


「調査隊に、北の村の情報まで共有する必要はないのではありませんか」


 長机の反対側から声が上がった。


 地方行政を預かる年配の官吏だった。


「双角山とは方角が違います。別件であれば、余計な情報は現地の判断を迷わせます」


 会議室に短い沈黙が落ちた。


 もっともらしい意見だった。


 だからこそ、アレクシス王子はすぐには答えなかった。


 三日月と塔の印。


 青い液体。


 灰色の粉。


 荷車で連れ去られた魔獣。


 場所が違っても、重なるものは多い。


「別件かどうかをここで決めるべきではない」


 アレクシス王子は官吏をまっすぐ見た。


「ルークたちは、現地で我々より多くの痕跡を見ている。判断に必要なものを選ぶのは彼らだ」


「しかし、通信に使える魔術具にも限りがございます」


「要点をまとめれば足りる。護符が光ったこと、カルム村から翼猫が連れ去られたこと、荷車が北東へ向かったこと。すべて送れ」


 騎士団の代表が頷いた。


「直ちに」


 年配の官吏は、それ以上何も言わなかった。


     ◇


 ロブの呼吸が落ち着くまで、私たちは入口近くへ戻った。


 水を少し飲む。


 鶏肉には顔を背けた。


「食べないの?」


 ロブが鶏肉を断ることは、ほとんどない。


 鼻先へ近づけても、扉のある方角を見るだけだった。


「じゃ、あとで食べよう」


 包み直そうとすると、ロブが一度だけ鶏肉を舐めた。


 食欲はないけれど、取られるのは嫌なのだ。


 いつものロブを見たようで、ほんのちょっとだけ安心した。


 ミラたちは、魔力を使わずに魔法陣を切る方法を考えていた。


「足元の円へ直接入れません」


 床へ描いた図をルークが見る。


「魔獣が反応するからか」


「それもあります。四本の鎖が円の一部になっています。先に鎖を切れば、流れている魔力が一か所へ集中する可能性があるんです」


「順番が必要?」


 私が聞く。


「はい。床下から来る魔力を止め、円の外側を切り、最後に鎖を外す」


「床下へは、どこから入るんですか」


 ミラが通路の奥を指した。


「部屋の向こうに、別の扉が見えました。あそこから下へ回れるんじゃないでしょうか」


「魔獣のそばを通らなければならないな」


「今のままでは」


 方法は一つではない。


 壁を壊し、別の通路を作る。


 魔力を持たない私が中へ入り、扉を開ける。


 眠り薬を使う。


 どれも危険があった。


「薬を使いましょう」


 治療魔術師が言った。


「扉の隙間から、矢で布包みを投げ入れる。薬草の煙で眠らせます」


「外から魔力を与えられている状態でも効きますか」


「わかりません。ただ、飲ませるより量は調整しやすい」


「呼吸は?」


「近くで確認できなければ危険です」


 ディート先生がいれば、もっと正確に判断できただろう。


「まず少ない量で試します」


 ルークが決めた。


「効かなければ追加する。倒れても、すぐには中へ入らない。呼吸と魔法陣の反応を確認する」


 ロブが立ち上がった。


 足はまだ少し震えている。


 それでも、私たちが扉へ戻ろうとするとついてくる。


「ここで待ってて」


「くぅん」


「今はロブの仕事じゃないよ」


 私は毛布を敷き、水の器を置いた。


 ロブは座らない。


 抱き上げて、入口を守る騎士へ預けようとする。


 前足が私の服を掴んだ。


「離れたくない?」


 白い顔が胸へ押しつけられる。


 魔獣の苦しみをもう一度受けるのが怖いのか。


 私が見えなくなるのが嫌なのか。


 両方かもしれない。


「一緒にいよう。でも、扉には近づかないよ」


 私はルークを見た。


「俺も後ろにいます。必ず、後ろに」


「はい」


 ロブを抱いたまま通路の角で待つ。


 治療魔術師が薬草を包んだ布を、細い矢の先へ結んだ。


 魔力を使わない、小さな弓だ。


 扉を少し開ける。


 赤い光が見える、魔獣の蹄が床を打つ。


 矢を飛ばし、布包みが床へ落ちると、白い煙が吐き出された。


 すぐに扉を閉める。


 内側から、激しい衝撃が一度。


 二度。


 三度目は少し弱かった。


 やがて、蹄の音が途切れる。


「眠った?」


「まだです」


 ミラが魔術を使わず、扉の下へ鏡を差し込んで様子を確認する。


 魔獣は立っていたが、頭は下がり、脚が震えている。


 もう一度、薬草の布包みを矢で放つ。


 今度は突進がなかった。


 長い角が床へ触れる音がすると、大きな体が、ゆっくり横たわる。


「呼吸はあるようです」


「赤い光は?」


「弱い。でも、消えていません」


 ルークが盾を持つ。


「救出を始める」


 扉を開くと、白い煙が通路へ流れてきた。


 布で口元を覆い、一人ずつ中へ入る。


 私は約束どおり、ロブと通路で待った。


 ロブは腕の中から部屋を見ている。


 ミラが床の魔法陣へ近づく。


「外周を確認します。誰も鎖に触れないでください」


 騎士たちが壁沿いに進む。


 部屋の奥にある小さな扉に、マルクが手をかけた。


 そのとき、ロブが私の腕から顔を上げた。


 魔獣ではなく、奥の扉を見ている。


「何?」


 ロブの耳が、さらに前へ向く。


 部屋の中で、ミラも顔を上げた。


「待ってください」


 赤い光が消えかけたことで、それまで隠れていたものが見えた。


 魔法陣の線は、眠った魔獣の足元だけで終わっていない。


 床を通り、奥の扉の下へ続いている。


「別の魔力があります」


 ミラの声が震えた。


「一つではありません」


 暗い扉の向こうから、細い声がした。


 先ほどの魔獣とは違う声。


 弱く、途切れ、すぐに消える。


 そのあと、別の方角からもう一つ。


 さらに奥から、もう一つ。


 鳴き声が重なっているのではない。


 離れた場所にいる何頭もの魔獣が、息を漏らしている。


 ロブの体が、また小さく震え出した。


 今度は一頭の苦しみではない。


 暗闇の奥から、複数の魔力が同時にロブへ触れようとしてるかのようだ。


「ロブ、見なくていい」


 私は白い顔を胸へ抱き寄せた。


 でも、ロブの耳は奥へ向いたままだった。


 ルークが眠った魔獣と、奥の扉を見比べる。


「この一頭を先に救出する」


 低く、はっきり言った。


「奥へは、それからだ」


 誰も異議を唱えなかった。


 救出は、まだ始まったばかりだった。


 奥の扉の向こうには、一頭ではない声が待っている。


 ――第十八話おわり

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