第十六話 地下の声
旧鉱山で巨大な魔法陣を見つけたエレナたち、地下に捕われたある魔獣を見つけるが……
「今は入らない」
ルークの声は、地下から返ってきた鳴き声を切るように響いた。
ロブが床を掻く。
石の下から、もう一度、細い声がした。
「でも、声を聞いたままにはできません」
私は立ち上がった。
「帰るとは言っていません」
ルークは魔法陣の奥と、私たちが入ってきた通路を見た。
「入口もわからない地下へは入れない」
言い返そうとして、止まった。
入口は見つかっていない。
地下にいる魔獣の大きさも、そこまでの道もわからない。灰の狩人が残っているかもしれず、ついさっき侵入を知らせる術まで動いた。
助けたい気持ちだけで床を壊せば、崩れた石が下にいる魔獣へ落ちるかもしれない。
「安全に助ける方法を探す、ということですか」
「そうです」
ルークは短く頷いた。
「正面入口の隊へ、予定どおり退路を確保させる。応援の半数は外へ戻し、敵が来ていないかを見張らせます。ここには必要な者だけ残る」
「魔法陣は?」
「動きが変われば即座に撤退しましょう」
ミラが床を走る青白い線を見つめた。
「今は侵入の合図を送っただけで、魔力を集める術は眠っています。ですが、一度動いた以上、安全とは言えません」
「下へ行ける時間は、どれくらいありますか」
「わかりません」
ルークが騎士たちへ指示を出す。
通路の角ごとに一人ずつ残し、外まで合図をつなぐ。魔術師は魔法陣の流れを監視し、ディート先生は治療道具を持って待機する。
「地下へ入るのは、俺、マルク、ミラ、ディート先生。それからエレナとロブです」
地下の声は、途切れ途切れ聞こえていた。
ロブは床へ鼻先を近づける。
「まだ感じる?」
白い耳が動いた。
ロブは床の一点を見たあと、急に振り返った。
魔法陣の部屋から、空の檻が並ぶ小部屋へ歩いていく。
「そっち?」
私はリードを短く持ってついていった。
ロブは何度か立ち止まった。
鼻を動かし、右へ一歩、左へ二歩。灰色の粉が残る場所では、くしゃみをして私を見上げた。
まっすぐ入口へ案内しているようには見えない。
地下の苦しみが、どちらから届くのかを探しているだけなのだろう。
「神獣様にも経路まではわからないんですね」
マルクが小声で言った。
「はい。たぶん、声が近くなる方向だけです」
正確な位置も、距離もわからない。
わからないまま、それでも誰かの苦しみから目を逸らさない。
檻の部屋の奥で、ロブが止まった。
壁ではなく、一番大きな檻の横を見ている。
そこには錆びた鉄の輪と、切れた鎖しかない。
ロブが鉄の輪の周囲を嗅いだ。
「ここにいた魔獣の匂い?」
返事はない。
次に、檻と岩壁の間へ鼻先を入れようとする。
5センチほどの隙間へ、ミラが灯りをかざす。
「風が来ています」
小さな炎が、壁と反対の方角へ揺れている。
マルクが檻の側面を掴んだ。
「動かします」
「待て。床を見ろ」
ルークが止める。
檻の脚の周囲だけ、灰が薄くなっていて、何度も引きずった跡がある。
二人でゆっくり檻をずらすと、岩壁に埋め込まれた四角い石が現れた。
周囲の石と同じ色だが、下の縁に爪が入るほどの溝がある。
「扉ですね」
マルクがしゃがみ込む。
「取っ手を隠して、檻で塞いでいた」
扉の横には、黒く汚れた縄が垂れていた。
ルークが触れる前に、ミラが杖を近づける。
「術式はありません。少なくとも、今見える範囲には」
「開けるぞ」
縄を引くと、石の扉が手前へ少し浮いた。
マルクが指をかけ、二人で持ち上げる。
冷たい空気と、湿った獣の匂いが流れ出した。
下には急な石段があった。
階段というより、荷物を滑らせるための斜面へ、歩くための浅い段をつけたような造りだ。
天井は低い。
人一人と、小さな荷車がやっと通れる幅しかなかった。
「搬入口でしょう」
マルクが灯りをかざす。
「鉱石を上げるための道にしては狭すぎますが、檻を下ろすには使える」
斜面の両側に、太い縄が擦れたような跡がある。
床には四本の爪痕が残っていた。
石の段を削るほど強く踏んだ跡と、力無く引きずられたような跡が、交互に下へ続いている。
壁には短い毛が貼りついていた。毛は薄い茶色で、先端だけが黒い。
ロブが毛に鼻を近づけ、低く鳴いた。
すると地下から、かすかな声が返ってきた。
今度は私にも聞こえた。
近い。
◇
先頭はルーク、その後ろをミラが進んだ。
私はロブを抱いて中央にいる。足元が急だからという理由もあるけれど、爪痕や血の匂いに反応して走り出すのを防ぐためだった。
ロブの前足が私の腕へかかる。
石段は途中で二度曲がった。
曲がり角ごとに、鉄の杭が壁へ打ち込まれている。太い縄を通し、荷物を少しずつ下ろしたのだろう。
二つ目の杭には、縄の切れ端が残っていた。
その下に、乾いた血がついている。
「運ぶ途中で暴れたんですね」
「それだけじゃない」
ディート先生が血の跡へ灯りを向ける。
「この高さなら、魔獣の体がぶつかってついた血だ。かなり乱暴に下ろしている」
私の胸元で震えるロブの背中を撫でる。
「下にいる子も、たぶん怖がってる。でも、私たちは捕まえに行くんじゃないよ」
言葉がわかるとは思っていない。
それでも、私の声で呼吸が少しゆっくりになることはある。
ロブのために言いながら、自分にも同じことを言い聞かせた。
階段の先に、小さな踊り場があった。
右には崩れた坑道。
左には、人の手で補強された通路が続いている。
ロブが左へ顔を向けた。
「あっちだと思います」
「左ですか?」
ルークが確認する。
「はい。絶対ではありませんけど」
ミラが右の坑道へ小さな光を飛ばした。
光は十歩ほど進み、崩れた岩の前で止まる。
人が隠れられる場所はなかった。
私たちは左へ進んだ。
通路の壁には、一定の間隔で青い線が引かれていた。
塗料ではなさそうだ。
青い線が染み込み、石の表面が変色している。
「暗い場所でも、魔術師なら見える薬品です。魔獣を運ぶ道の印としてつけていたのかもしれません」
ミラが答えた。
「魔力を流すと光るようになっています」
数メートル先で、床に砕けた瓶が落ちていた。
青い欠片。中身は残っていないが、鼻を刺す甘い匂いが、湿った空気に混じっている。
ロブが顔を背けた。
「薬を使ったんだ」
ディート先生が欠片を拾う。
「興奮させるものか、眠らせるものかは調べなければわからない。舐めないでね」
「私に言ってます?」
「ロブちゃんと、彼が舐めたものへ触れそうな飼い主さんの両方に」
「舐めませんよ。ロブもです!」
ロブも当然、舐めようとはしなかった。
通路の突き当たりには、半分開いた木の扉があった。
その向こうから、荒い息遣いが聞こえている。
ロブが私の腕の中で身を起こした。
声を出しかけた口を、私はそっと胸へ寄せた。
「まだだよ」
ルークとマルクが扉の左右へ分かれる。
ミラが小さく頷いた。
罠はない。
ルークが剣を抜き、扉を押した。
誰もいない。
そう思ったのは一瞬だけだった。
奥の壁際で、何かが動いた。
低い唸り声が響く。
岩のように太い四本の脚。背中には固い毛が生え、額から短い二本の角が伸びている。
大きくはない。立ち上がっても、背の高さは私の腰ほどだ。
けれど、体格はかなりごつい。
正面から突進されれば、人間は簡単に倒されそうだった。
薄茶色の毛は泥と血で固まり、後ろ脚には金属の輪が食い込んでいる。
鎖の先は、床に打ち込まれた杭へつながっていた。
「岩角猪だ」
ディート先生が小声で言った。
「山地に棲む中型の魔獣。気性は荒いけど、人の集落へ近づくことはほとんどない」
岩角猪が突進するかのように、前脚で床を掻く。
「みんな、下がれ」
ルークが盾を構えた。
私たちは扉の外で見守る。
岩角猪は突進してこなかった。というより、できなかった。
岩角猪が動くと鎖が張り、後ろ脚から新しい血が流れ、短い悲鳴が上がった。
ロブが私の腕から飛び降りようとする。
「待って」
床へ下ろしても、リードは離さない。
ロブは扉の前で伏せた。
岩角猪と目の高さを近づけるように、腹を床へつける。
「わふ」
小さな声だった。
岩角猪が唸る。
ロブは近づかない。尻尾も振らない。ただ、そこにいた。
「神獣様は何をしているんです?」
マルクが囁く。
「わかりません。でも、近づかないでください」
ロブが魔獣へ命令しているわけではないだろう。
言葉を交わしているわけでもない。
岩角猪の息は荒く、鼻から白い息が何度も漏れる。
目は大きく見開かれ、怒っているようにも見える。
でも、耳は後ろへ伏せられ、体は壁へ押しつけられている。
脚が痛いのか、立っているだけでもつらそうだ。
岩角猪はこちらへ向かってくるつもりはないのか。
逃げる場所がなくて、近づくものを追い払おうとしているようだ。
「怒っているんじゃなくて、怖がっている?」
私は言った。
「突進しようとしたんじゃなくて、私たちを遠ざけようとしているのかもしれません」
ロブの耳が、岩角猪の呼吸に合わせるように動く。
私にも魔獣の心は読めない。
ロブが感じているものが、そのまま伝わってくるわけでもない。
ただ、ロブが近づかずに伏せたこと。
岩角猪の目と耳と足の向き。
それを見れば、少しだけわかる。
「ルーク、剣を下げてもらえますか」
「完全には下げません」
「では、切っ先を向けないでください」
ルークは一度、岩角猪を見て、剣を体の横へ下げる。
マルクも盾を少し傾けた。
人の姿が低くなると、岩角猪の前脚が床を掻く回数が減った。
「水をあげてみましょうか」
ディート先生が器に水を入れた。
「だれが置きますか」
「私が」
「駄目です」
ルークとディート先生の声が重なった。
「まだ何も言ってません」
「言う前にわかりました」
少し悔しい。
マルクが盾を前へ置き、その陰から長い棒で器を押した。
岩角猪は水を見ても動かない。
ロブが立ち上がった。
一歩だけ、部屋へ入る。
止まる。
また伏せる。
「くぅん」
岩角猪の唸り声が弱くなった。
しばらくして、鼻先が水の方角へ動く。
鎖が届くぎりぎりまで首を伸ばし、器へ口をつけた。
水を飲む音が、静かな部屋に響く。
誰も動かなかった。
飲み終えた岩角猪は、力が抜けたように、その場へ横たわる。
「今なら近づけますか」
「眠っているわけではないから」
ディート先生が言った。
私はロブを見る。
ロブは立ち上がったが、前へ進まない。
まだ待てと言っているようだった。
「もう少し待ってみましょう」
少しすると、息が落ち着いてきた。
「近づかれるのは怖い。たぶん、鎖を触られるのも」
「鎖を外さなければ治療できないよ」
ディート先生は岩角猪を見て、鞄から小さな布包みを出した。
「眠り薬を使おう。青い瓶の薬とは違うから大丈夫」
「どうやって飲ませるんですか?」
「餌に混ぜよう」
「餌?」
「鶏肉ならあるよね」
ロブ用の鞄に騎士さんが入れてくれた鶏肉!荷物になるからと置いてこないでよかった。
ディート先生が薬を塗った鶏肉を器へ入れる。
マルクが先ほどと同じように押し込んだ。
岩角猪はすぐには食べなかった。
ロブが鶏肉を見る。
岩角猪を見る。
もう一度、鶏肉を見る。
やがて岩角猪が鼻を伸ばした。
一切れ。二切れ。
ロブの耳が少しずつ下がる。食べたかったのか。
最後の一切れがなくなった。
「お肉、あの子に譲って偉かったね。帰ったら、多めに食べていいよ」
尻尾が一度だけ床を叩いた。
薬が効くまで、しばらく時間がかかった。
岩角猪の瞼が下がっても、ロブは近づかなかった。
呼吸が深くなり、ディート先生が安全だと判断してから、ようやく前へ進んだ。
鼻先を、岩角猪の鼻へ近づける。
触れる直前で止める。
眠っている魔獣の息が、ロブの白い毛を揺らした。
「もう大丈夫だって言ってるのかな」
口にしてから、首を振った。
ロブに確信めいた答えを期待してはいけない。
「違うね。大丈夫かどうか、確かめてるんだね」
苦しみが少し弱くなったことは感じているのかもしれない。
金属の輪は、皮膚へ深く食い込んでいた。
ディート先生が傷の周囲を洗い、マルクが小さな道具で輪を切る。
私はロブを抱いて、岩角猪の頭側に座った。
「熱がある。脱水もひどいな。あと一日遅ければ、大変なことになっていたかもしれない」
先生が言った。
「歩けますか」
「今すぐは無理だね。運び出そう」
持ってきた布を二本の棒へ通し、簡単な担架を作る。
岩角猪は中型だが、かなり重い。
ここから急な階段を上げるには、外の騎士を呼ばなければならない。
マルクが騎士を呼びに戻る間、私たちは部屋を調べた。
鎖の近くには、空の桶があったが餌を入れた跡はない。
壁際に、灰色の粉が入っていたらしい袋が落ちている。
急いで撤収したとき、この一頭だけを忘れたのだろうか。
それとも、弱って運べないから残したのか。
命を一つ置いていく理由を考えているだけで、胸が苦しくなる。
「こちらへ来てください」
ミラが部屋の隅で呼んだ。
木箱の下に、薄い金属板が挟まっている。
手のひらほどの大きさで、表には三日月と塔の印が刻まれていた。
裏には、細かな文字が並んでいる。
「記録書ですか」
「違います。通行証のようです」
ミラが表面の魔力を確かめる。
「持ち主の魔力を一度だけ記録する術があります。誰かが使ったあとです」
「名前は?」
「ありません。ただ、受け入れ場所を示す記号があります」
金属板の下部に、山の形と、その向こうへ三本の波線が刻まれている。
その隣に、小さな数字があった。
”4”。
「4番目の場所、という意味でしょうか」
「可能性はあります」
ミラが布へ包もうとしたとき、ロブが金属板を見た。
怯えた様子はない。
けれど鼻を近づけたあと、急に顔を背けた。
「灰色の粉?」
私が聞くと、ディート先生が端を布で拭った。
白い布に、ごく薄い紫色がついた。
「粉とは別だ」
先生の目が細くなる。
「青い薬が乾くと、この色になるんだ。ただし、これまで見つけた瓶より匂いが弱い」
「別の薬ですか」
「同じ材料を薄めたものかもしれない。人間が触れるために」
魔獣へ使う薬と、人間が持つ通行証。
同じ匂い。
「断定はできないけど、これを持っていれば、薬で興奮した魔獣に襲われなくなるんじゃないかな」
新しい手がかりだった。
三日月と塔の印は、一つの集団、場所だけを示すものではないのかもしれない。
ここは4番目なのか。
山の向こうにあるのは川なのか。
そして、この板を使った人間はどこへ行ったのか。
わかることが一つ増えると、わからないことが三つ増えた。
それでも、何もないよりはいい。
「床にも何かあります」
ルークが鎖の杭を抜いた跡を見ていた。
杭の下には細い術式が刻まれている。
上の大部屋にあった十二本の柱と似た線だ。
「岩角猪も、魔法陣につながれていた?」
「おそらく」
ミラが杖を近づける。
「ですが線は切れています。輪を外したからではありません。上の装置とつなぐ部分だけ、意図的に焼き切られている」
「なぜ?」
「反応が弱く、不要になった。あるいは、死にかけた個体が混じると術式が不安定になるのかも」
この一頭を、私たちは助けることができた。
ロブが声を感じたとき、まだ生きていたから。
あの声が届くのがもう少し遅かったら、この子はここで一人で命を落としていた。
間に合ってよかった。
でも魔獣を助けられたのは嬉しいことなのに、素直に喜べない自分もいた。
上には十一の空の接続枠がある。
運び出された魔獣たちは、今もどこかにいる。
この一頭を救っても、まだ事件は解決していない。
そのとき、頭上から低い振動が伝わってきた。
石の天井から、細かな砂が落ちる。
ロブが立ち上がった。
ミラの腰につけた魔術具が、赤く明滅する。
「上の魔法陣が動いています」
◇
青白い光が、通路の壁を一度だけ走った。
さっきまで眠っていた青い印が、地下へ向かう道を照らしている。
「誰かが外から起動したんですか」
「わかりません。ですが、魔力を集める線も動き始めています」
ミラが魔術具へ触れる。
「最初の侵入通知とは違います」
床の下から、重い音がした。
ごう、と空気が押し出される。
昨日、鉄の扉の向こうで聞いた音と同じだった。
ただの風かもしれない。
地下にある何かが動いた音かもしれない。
「もう十分だ。戻ろう」
ルークが言った。
もっと奥を調べたい。
青い線の先を見たい。
魔法陣の下に何があるのか知りたい。
でも、その時間は……ない。
ここで立ち止まれば、救った一頭をまた危険へ置くことになる。
「はい。戻りましょう」
私は答えた。
マルクと、応援に来た騎士が担架を持ち上げる。
岩角猪の体が揺れ、低い唸り声が漏れた。
「薬が切れかけているから急いで、でも慎重に」
ディート先生が頭を支える。
ロブは担架の横を歩いた。先へ行こうとしない。
岩角猪が声を出すたびに立ち止まり、耳を向ける。
「大丈夫。ちゃんと運ぶよ」
私が言うと、また歩き出す。
石段の上では、さらに二人の騎士が待っていた。
縄を担架へ結び、一段ずつ引き上げる。
途中で魔法陣の音が大きくなった。
金属を擦るような高い音。低く脈打つ振動。
ロブが振り返る。
私も振り返りたかった。奥に、まだ声があるような気がしたから。
でも私はロブを抱き上げた。
「ロブ、行こう」
白い体は地下を見たままだったが、抵抗しなかった。
檻の部屋まで戻ると、大部屋から青白い光が差していた。
十二本の柱のうち、三本が強く光っている。
受け皿に残る羽と鱗が、風もないのに震えていた。
「何も触れるな!」
ルークが叫ぶ。
全員が壁際の狭い通路へ向かう。
中央の黒い石から、音がした。
こつん。
石の内側を、何かが叩いたような音だった。
一度だけ。
ミラが足を止めかける。
「行くぞ」
ルークの声で、また走る。
正体を確かめる者は誰もいなかった。
今はこの場を離れることが最善だ。
そう思っても、背中へ音がついてくる気がした。
鉄の扉を抜け、最後の騎士が外へ出る。
扉を閉める直前、鉱山の奥で光が強くなった。
ミラが隠蔽の術ではなく、封鎖の術を扉へ重ねる。
「長くは保ちません」
「十分だ。全員、山を離れるぞ」
岩角猪を乗せた担架が斜面を下り始める。
その後ろで、鉄の扉が小さく震えた。
私たちを追ってくる者はいなかった。
◇
山を離れ、森の手前まで戻ってから、ようやく足を止めた。
ディート先生は、すぐに岩角猪の治療を始めた。
傷に残った金属の欠片を取り除き、薬を塗り、厚い布を巻く。熱を下げる薬も飲ませる。
岩角猪は眠っていた。
時々、脚を動かして苦しそうに息を吐く。
ロブは少し離れたところに座っていた。
「そばに行かないの?」
私が話しかけても動かない。
治療を邪魔しないようにしているのか、まだ怖がらせると感じているのかはわからない。
先生が包帯を巻き終え、後ろへ下がる。
「今夜を越えれば、助かるだろう」
「歩けるようになりますか」
「傷口の腫れが引かなければ断言できない。骨には達していないので、僕は楽観しているよ」
先生の楽観は、普通の人の慎重な希望くらいに聞こえた。
「助かったんですね」
「まだ治療中」
「でも、地下からは出せた」
「それは確か」
ホッとすると同時に、空の檻を思い出す。
十一の接続枠。
運び出された羽と鱗。
山の向こうと三本の波線が刻まれた、4と書かれた通行証。
助けられていない命の数は、まだわからない。
「喜んでいいのかな」
私が呟くと、ルークが隣へ立った。
「喜ぶことと、忘れることは別です」
「この子を助けたことを喜んでも、ほかの魔獣を諦めたことにはならない?」
「なりません」
「でも、灰の狩人は逃げたままです。装置も止められなかった」
「だから次があります」
シンプルな言葉だったが、今はそれがありがたかった。
少し離れたところで、岩角猪が目を開いた。
騎士たちが身構える。
ロブは立ち上がり、ゆっくりと近づいた。
一歩進んで、止まる。
岩角猪の耳が動く。
ロブは地面へ伏せた。
地下で最初にしたのと同じだった。
岩角猪は今度は唸らなかった。
鼻先を地面へつけたまま、ロブを見る。
ロブも見返す。
しばらくして、岩角猪が大きく息を吐いた。
ロブの耳が、その息でわずかに揺れた。
今度は鼻先が触れた。
ほんの一瞬だけ。
岩角猪はまた目を閉じる。
ロブはその場に座った。
尻尾を一度、地面へ打ちつける。
「何て言ったんでしょう」
マルクが小声で聞いた。
「わかりません」
私は答えた。
「でも、ひとりぼっちじゃないってことは、伝わったと思います」
太陽が山の向こうへ傾き始めていた。
旧鉱山の入口は、ここからは見えない。
あの中では今も、魔法陣が動いているかもしれない。
黒い石の内側から聞こえた音も、三日月と塔の印も、運び出された魔獣の行方もわからないままだ。
今日、私たちが救えたのは、たまたま残されていた一頭だけだった。
それでも、その一頭は今、息をしている。
岩角猪のそばで伏せる、ロブの白い背中を撫でた。
「ここで終わりじゃないよ」
ロブが顔を上げる。
「わん」
返事かどうかは、わからない。
けれど立ち上がったロブは、もう鉱山ではなく、私たちが戻る道を見ていた。
救うことができた一頭を連れて帰る道。
そして、まだ救えていない声を追うために、もう一度進む道を。
――第十六話おわり




