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愛犬と一緒に異世界転生したら、うちの子が神獣に⁈いいえ、普通のパピヨンです  作者: kotao


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16/30

第十六話 地下の声

旧鉱山で巨大な魔法陣を見つけたエレナたち、地下に捕われたある魔獣を見つけるが……

「今は入らない」


 ルークの声は、地下から返ってきた鳴き声を切るように響いた。


 ロブが床を掻く。


 石の下から、もう一度、細い声がした。


「でも、声を聞いたままにはできません」


 私は立ち上がった。


「帰るとは言っていません」


 ルークは魔法陣の奥と、私たちが入ってきた通路を見た。


「入口もわからない地下へは入れない」


 言い返そうとして、止まった。


 入口は見つかっていない。


 地下にいる魔獣の大きさも、そこまでの道もわからない。灰の狩人が残っているかもしれず、ついさっき侵入を知らせる術まで動いた。


 助けたい気持ちだけで床を壊せば、崩れた石が下にいる魔獣へ落ちるかもしれない。


「安全に助ける方法を探す、ということですか」


「そうです」


 ルークは短く頷いた。


「正面入口の隊へ、予定どおり退路を確保させる。応援の半数は外へ戻し、敵が来ていないかを見張らせます。ここには必要な者だけ残る」


「魔法陣は?」


「動きが変われば即座に撤退しましょう」


 ミラが床を走る青白い線を見つめた。


「今は侵入の合図を送っただけで、魔力を集める術は眠っています。ですが、一度動いた以上、安全とは言えません」


「下へ行ける時間は、どれくらいありますか」


「わかりません」


 ルークが騎士たちへ指示を出す。


 通路の角ごとに一人ずつ残し、外まで合図をつなぐ。魔術師は魔法陣の流れを監視し、ディート先生は治療道具を持って待機する。


「地下へ入るのは、俺、マルク、ミラ、ディート先生。それからエレナとロブです」


 地下の声は、途切れ途切れ聞こえていた。


 ロブは床へ鼻先を近づける。


「まだ感じる?」


 白い耳が動いた。


 ロブは床の一点を見たあと、急に振り返った。


 魔法陣の部屋から、空の檻が並ぶ小部屋へ歩いていく。


「そっち?」


 私はリードを短く持ってついていった。


 ロブは何度か立ち止まった。


 鼻を動かし、右へ一歩、左へ二歩。灰色の粉が残る場所では、くしゃみをして私を見上げた。


 まっすぐ入口へ案内しているようには見えない。


 地下の苦しみが、どちらから届くのかを探しているだけなのだろう。


「神獣様にも経路まではわからないんですね」


 マルクが小声で言った。


「はい。たぶん、声が近くなる方向だけです」


 正確な位置も、距離もわからない。


 わからないまま、それでも誰かの苦しみから目を逸らさない。


 檻の部屋の奥で、ロブが止まった。


 壁ではなく、一番大きな檻の横を見ている。


 そこには錆びた鉄の輪と、切れた鎖しかない。


 ロブが鉄の輪の周囲を嗅いだ。


「ここにいた魔獣の匂い?」


 返事はない。


 次に、檻と岩壁の間へ鼻先を入れようとする。


 5センチほどの隙間へ、ミラが灯りをかざす。


「風が来ています」


 小さな炎が、壁と反対の方角へ揺れている。


 マルクが檻の側面を掴んだ。


「動かします」


「待て。床を見ろ」


 ルークが止める。


 檻の脚の周囲だけ、灰が薄くなっていて、何度も引きずった跡がある。


 二人でゆっくり檻をずらすと、岩壁に埋め込まれた四角い石が現れた。


 周囲の石と同じ色だが、下の縁に爪が入るほどの溝がある。


「扉ですね」


 マルクがしゃがみ込む。


「取っ手を隠して、檻で塞いでいた」


 扉の横には、黒く汚れた縄が垂れていた。


 ルークが触れる前に、ミラが杖を近づける。


「術式はありません。少なくとも、今見える範囲には」


「開けるぞ」


 縄を引くと、石の扉が手前へ少し浮いた。


 マルクが指をかけ、二人で持ち上げる。


 冷たい空気と、湿った獣の匂いが流れ出した。


 下には急な石段があった。


 階段というより、荷物を滑らせるための斜面へ、歩くための浅い段をつけたような造りだ。


 天井は低い。


 人一人と、小さな荷車がやっと通れる幅しかなかった。


「搬入口でしょう」


 マルクが灯りをかざす。


「鉱石を上げるための道にしては狭すぎますが、檻を下ろすには使える」


 斜面の両側に、太い縄が擦れたような跡がある。


 床には四本の爪痕が残っていた。


 石の段を削るほど強く踏んだ跡と、力無く引きずられたような跡が、交互に下へ続いている。


 壁には短い毛が貼りついていた。毛は薄い茶色で、先端だけが黒い。


 ロブが毛に鼻を近づけ、低く鳴いた。


 すると地下から、かすかな声が返ってきた。


 今度は私にも聞こえた。


 近い。


     ◇


 先頭はルーク、その後ろをミラが進んだ。


 私はロブを抱いて中央にいる。足元が急だからという理由もあるけれど、爪痕や血の匂いに反応して走り出すのを防ぐためだった。


 ロブの前足が私の腕へかかる。


 石段は途中で二度曲がった。


 曲がり角ごとに、鉄の杭が壁へ打ち込まれている。太い縄を通し、荷物を少しずつ下ろしたのだろう。


 二つ目の杭には、縄の切れ端が残っていた。


 その下に、乾いた血がついている。


「運ぶ途中で暴れたんですね」


「それだけじゃない」


 ディート先生が血の跡へ灯りを向ける。


「この高さなら、魔獣の体がぶつかってついた血だ。かなり乱暴に下ろしている」


 私の胸元で震えるロブの背中を撫でる。


「下にいる子も、たぶん怖がってる。でも、私たちは捕まえに行くんじゃないよ」


 言葉がわかるとは思っていない。


 それでも、私の声で呼吸が少しゆっくりになることはある。


 ロブのために言いながら、自分にも同じことを言い聞かせた。


 階段の先に、小さな踊り場があった。


 右には崩れた坑道。


 左には、人の手で補強された通路が続いている。


 ロブが左へ顔を向けた。


「あっちだと思います」


「左ですか?」


 ルークが確認する。


「はい。絶対ではありませんけど」


 ミラが右の坑道へ小さな光を飛ばした。


 光は十歩ほど進み、崩れた岩の前で止まる。


 人が隠れられる場所はなかった。


 私たちは左へ進んだ。


 通路の壁には、一定の間隔で青い線が引かれていた。


 塗料ではなさそうだ。


 青い線が染み込み、石の表面が変色している。


「暗い場所でも、魔術師なら見える薬品です。魔獣を運ぶ道の印としてつけていたのかもしれません」


 ミラが答えた。


「魔力を流すと光るようになっています」


 数メートル先で、床に砕けた瓶が落ちていた。


 青い欠片。中身は残っていないが、鼻を刺す甘い匂いが、湿った空気に混じっている。


 ロブが顔を背けた。


「薬を使ったんだ」


 ディート先生が欠片を拾う。


「興奮させるものか、眠らせるものかは調べなければわからない。舐めないでね」


「私に言ってます?」


「ロブちゃんと、彼が舐めたものへ触れそうな飼い主さんの両方に」


「舐めませんよ。ロブもです!」


 ロブも当然、舐めようとはしなかった。


 通路の突き当たりには、半分開いた木の扉があった。


 その向こうから、荒い息遣いが聞こえている。


 ロブが私の腕の中で身を起こした。


 声を出しかけた口を、私はそっと胸へ寄せた。


「まだだよ」


 ルークとマルクが扉の左右へ分かれる。


 ミラが小さく頷いた。


 罠はない。


 ルークが剣を抜き、扉を押した。


 誰もいない。


 そう思ったのは一瞬だけだった。


 奥の壁際で、何かが動いた。


 低い唸り声が響く。


 岩のように太い四本の脚。背中には固い毛が生え、額から短い二本の角が伸びている。


 大きくはない。立ち上がっても、背の高さは私の腰ほどだ。


 けれど、体格はかなりごつい。


 正面から突進されれば、人間は簡単に倒されそうだった。


 薄茶色の毛は泥と血で固まり、後ろ脚には金属の輪が食い込んでいる。


 鎖の先は、床に打ち込まれた杭へつながっていた。


「岩角猪だ」


 ディート先生が小声で言った。


「山地に棲む中型の魔獣。気性は荒いけど、人の集落へ近づくことはほとんどない」


 岩角猪が突進するかのように、前脚で床を掻く。


「みんな、下がれ」


 ルークが盾を構えた。


 私たちは扉の外で見守る。


 岩角猪は突進してこなかった。というより、できなかった。


 岩角猪が動くと鎖が張り、後ろ脚から新しい血が流れ、短い悲鳴が上がった。


 ロブが私の腕から飛び降りようとする。


「待って」


 床へ下ろしても、リードは離さない。


 ロブは扉の前で伏せた。


 岩角猪と目の高さを近づけるように、腹を床へつける。


「わふ」


 小さな声だった。


 岩角猪が唸る。


 ロブは近づかない。尻尾も振らない。ただ、そこにいた。


「神獣様は何をしているんです?」


 マルクが囁く。


「わかりません。でも、近づかないでください」


 ロブが魔獣へ命令しているわけではないだろう。


 言葉を交わしているわけでもない。


 岩角猪の息は荒く、鼻から白い息が何度も漏れる。


 目は大きく見開かれ、怒っているようにも見える。


 でも、耳は後ろへ伏せられ、体は壁へ押しつけられている。


 脚が痛いのか、立っているだけでもつらそうだ。


 岩角猪はこちらへ向かってくるつもりはないのか。


 逃げる場所がなくて、近づくものを追い払おうとしているようだ。


「怒っているんじゃなくて、怖がっている?」


 私は言った。


「突進しようとしたんじゃなくて、私たちを遠ざけようとしているのかもしれません」


 ロブの耳が、岩角猪の呼吸に合わせるように動く。


 私にも魔獣の心は読めない。


 ロブが感じているものが、そのまま伝わってくるわけでもない。


 ただ、ロブが近づかずに伏せたこと。


 岩角猪の目と耳と足の向き。


 それを見れば、少しだけわかる。


「ルーク、剣を下げてもらえますか」


「完全には下げません」


「では、切っ先を向けないでください」


 ルークは一度、岩角猪を見て、剣を体の横へ下げる。


 マルクも盾を少し傾けた。


 人の姿が低くなると、岩角猪の前脚が床を掻く回数が減った。


「水をあげてみましょうか」


 ディート先生が器に水を入れた。


「だれが置きますか」


「私が」


「駄目です」


 ルークとディート先生の声が重なった。


「まだ何も言ってません」


「言う前にわかりました」


 少し悔しい。


 マルクが盾を前へ置き、その陰から長い棒で器を押した。


 岩角猪は水を見ても動かない。


 ロブが立ち上がった。


 一歩だけ、部屋へ入る。


 止まる。


 また伏せる。


「くぅん」


 岩角猪の唸り声が弱くなった。


 しばらくして、鼻先が水の方角へ動く。


 鎖が届くぎりぎりまで首を伸ばし、器へ口をつけた。


 水を飲む音が、静かな部屋に響く。


 誰も動かなかった。


 飲み終えた岩角猪は、力が抜けたように、その場へ横たわる。


「今なら近づけますか」


「眠っているわけではないから」


 ディート先生が言った。


 私はロブを見る。


 ロブは立ち上がったが、前へ進まない。


 まだ待てと言っているようだった。


「もう少し待ってみましょう」


 少しすると、息が落ち着いてきた。


「近づかれるのは怖い。たぶん、鎖を触られるのも」


「鎖を外さなければ治療できないよ」


 ディート先生は岩角猪を見て、鞄から小さな布包みを出した。


「眠り薬を使おう。青い瓶の薬とは違うから大丈夫」


「どうやって飲ませるんですか?」


「餌に混ぜよう」


「餌?」


「鶏肉ならあるよね」


 ロブ用の鞄に騎士さんが入れてくれた鶏肉!荷物になるからと置いてこないでよかった。


 ディート先生が薬を塗った鶏肉を器へ入れる。


 マルクが先ほどと同じように押し込んだ。


 岩角猪はすぐには食べなかった。


 ロブが鶏肉を見る。


 岩角猪を見る。


 もう一度、鶏肉を見る。


 やがて岩角猪が鼻を伸ばした。


 一切れ。二切れ。


 ロブの耳が少しずつ下がる。食べたかったのか。


 最後の一切れがなくなった。


「お肉、あの子に譲って偉かったね。帰ったら、多めに食べていいよ」


 尻尾が一度だけ床を叩いた。


 薬が効くまで、しばらく時間がかかった。


 岩角猪の瞼が下がっても、ロブは近づかなかった。


 呼吸が深くなり、ディート先生が安全だと判断してから、ようやく前へ進んだ。


 鼻先を、岩角猪の鼻へ近づける。


 触れる直前で止める。


 眠っている魔獣の息が、ロブの白い毛を揺らした。


「もう大丈夫だって言ってるのかな」


 口にしてから、首を振った。


 ロブに確信めいた答えを期待してはいけない。


「違うね。大丈夫かどうか、確かめてるんだね」


 苦しみが少し弱くなったことは感じているのかもしれない。


 金属の輪は、皮膚へ深く食い込んでいた。


 ディート先生が傷の周囲を洗い、マルクが小さな道具で輪を切る。


 私はロブを抱いて、岩角猪の頭側に座った。


「熱がある。脱水もひどいな。あと一日遅ければ、大変なことになっていたかもしれない」


 先生が言った。


「歩けますか」


「今すぐは無理だね。運び出そう」


 持ってきた布を二本の棒へ通し、簡単な担架を作る。


 岩角猪は中型だが、かなり重い。


 ここから急な階段を上げるには、外の騎士を呼ばなければならない。


 マルクが騎士を呼びに戻る間、私たちは部屋を調べた。


 鎖の近くには、空の桶があったが餌を入れた跡はない。


 壁際に、灰色の粉が入っていたらしい袋が落ちている。


 急いで撤収したとき、この一頭だけを忘れたのだろうか。


 それとも、弱って運べないから残したのか。


 命を一つ置いていく理由を考えているだけで、胸が苦しくなる。


「こちらへ来てください」


 ミラが部屋の隅で呼んだ。


 木箱の下に、薄い金属板が挟まっている。


 手のひらほどの大きさで、表には三日月と塔の印が刻まれていた。


 裏には、細かな文字が並んでいる。


「記録書ですか」


「違います。通行証のようです」


 ミラが表面の魔力を確かめる。


「持ち主の魔力を一度だけ記録する術があります。誰かが使ったあとです」


「名前は?」


「ありません。ただ、受け入れ場所を示す記号があります」


 金属板の下部に、山の形と、その向こうへ三本の波線が刻まれている。


 その隣に、小さな数字があった。


 ”4”。


「4番目の場所、という意味でしょうか」


「可能性はあります」


 ミラが布へ包もうとしたとき、ロブが金属板を見た。


 怯えた様子はない。


 けれど鼻を近づけたあと、急に顔を背けた。


「灰色の粉?」


 私が聞くと、ディート先生が端を布で拭った。


 白い布に、ごく薄い紫色がついた。


「粉とは別だ」


 先生の目が細くなる。


「青い薬が乾くと、この色になるんだ。ただし、これまで見つけた瓶より匂いが弱い」


「別の薬ですか」


「同じ材料を薄めたものかもしれない。人間が触れるために」


 魔獣へ使う薬と、人間が持つ通行証。


 同じ匂い。


「断定はできないけど、これを持っていれば、薬で興奮した魔獣に襲われなくなるんじゃないかな」


 新しい手がかりだった。


 三日月と塔の印は、一つの集団、場所だけを示すものではないのかもしれない。


 ここは4番目なのか。


 山の向こうにあるのは川なのか。


 そして、この板を使った人間はどこへ行ったのか。


 わかることが一つ増えると、わからないことが三つ増えた。


 それでも、何もないよりはいい。


「床にも何かあります」


 ルークが鎖の杭を抜いた跡を見ていた。


 杭の下には細い術式が刻まれている。


 上の大部屋にあった十二本の柱と似た線だ。


「岩角猪も、魔法陣につながれていた?」


「おそらく」


 ミラが杖を近づける。


「ですが線は切れています。輪を外したからではありません。上の装置とつなぐ部分だけ、意図的に焼き切られている」


「なぜ?」


「反応が弱く、不要になった。あるいは、死にかけた個体が混じると術式が不安定になるのかも」


 この一頭を、私たちは助けることができた。


 ロブが声を感じたとき、まだ生きていたから。


 あの声が届くのがもう少し遅かったら、この子はここで一人で命を落としていた。


 間に合ってよかった。


 でも魔獣を助けられたのは嬉しいことなのに、素直に喜べない自分もいた。


 上には十一の空の接続枠がある。


 運び出された魔獣たちは、今もどこかにいる。


 この一頭を救っても、まだ事件は解決していない。


 そのとき、頭上から低い振動が伝わってきた。


 石の天井から、細かな砂が落ちる。


 ロブが立ち上がった。


 ミラの腰につけた魔術具が、赤く明滅する。


「上の魔法陣が動いています」


     ◇


 青白い光が、通路の壁を一度だけ走った。


 さっきまで眠っていた青い印が、地下へ向かう道を照らしている。


「誰かが外から起動したんですか」


「わかりません。ですが、魔力を集める線も動き始めています」


 ミラが魔術具へ触れる。


「最初の侵入通知とは違います」


 床の下から、重い音がした。


 ごう、と空気が押し出される。


 昨日、鉄の扉の向こうで聞いた音と同じだった。


 ただの風かもしれない。


 地下にある何かが動いた音かもしれない。


「もう十分だ。戻ろう」


 ルークが言った。


 もっと奥を調べたい。


 青い線の先を見たい。


 魔法陣の下に何があるのか知りたい。


 でも、その時間は……ない。


 ここで立ち止まれば、救った一頭をまた危険へ置くことになる。


「はい。戻りましょう」


 私は答えた。


 マルクと、応援に来た騎士が担架を持ち上げる。


 岩角猪の体が揺れ、低い唸り声が漏れた。


「薬が切れかけているから急いで、でも慎重に」


 ディート先生が頭を支える。


 ロブは担架の横を歩いた。先へ行こうとしない。


 岩角猪が声を出すたびに立ち止まり、耳を向ける。


「大丈夫。ちゃんと運ぶよ」


 私が言うと、また歩き出す。


 石段の上では、さらに二人の騎士が待っていた。


 縄を担架へ結び、一段ずつ引き上げる。


 途中で魔法陣の音が大きくなった。


 金属を擦るような高い音。低く脈打つ振動。


 ロブが振り返る。


 私も振り返りたかった。奥に、まだ声があるような気がしたから。


 でも私はロブを抱き上げた。


「ロブ、行こう」


 白い体は地下を見たままだったが、抵抗しなかった。


 檻の部屋まで戻ると、大部屋から青白い光が差していた。


 十二本の柱のうち、三本が強く光っている。


 受け皿に残る羽と鱗が、風もないのに震えていた。


「何も触れるな!」


 ルークが叫ぶ。


 全員が壁際の狭い通路へ向かう。


 中央の黒い石から、音がした。


 こつん。


 石の内側を、何かが叩いたような音だった。


 一度だけ。


 ミラが足を止めかける。


「行くぞ」


 ルークの声で、また走る。


 正体を確かめる者は誰もいなかった。


 今はこの場を離れることが最善だ。


 そう思っても、背中へ音がついてくる気がした。


 鉄の扉を抜け、最後の騎士が外へ出る。


 扉を閉める直前、鉱山の奥で光が強くなった。


 ミラが隠蔽の術ではなく、封鎖の術を扉へ重ねる。


「長くは保ちません」


「十分だ。全員、山を離れるぞ」


 岩角猪を乗せた担架が斜面を下り始める。


 その後ろで、鉄の扉が小さく震えた。


 私たちを追ってくる者はいなかった。


     ◇


 山を離れ、森の手前まで戻ってから、ようやく足を止めた。


 ディート先生は、すぐに岩角猪の治療を始めた。


 傷に残った金属の欠片を取り除き、薬を塗り、厚い布を巻く。熱を下げる薬も飲ませる。


 岩角猪は眠っていた。


 時々、脚を動かして苦しそうに息を吐く。


 ロブは少し離れたところに座っていた。


「そばに行かないの?」


 私が話しかけても動かない。


 治療を邪魔しないようにしているのか、まだ怖がらせると感じているのかはわからない。


 先生が包帯を巻き終え、後ろへ下がる。


「今夜を越えれば、助かるだろう」


「歩けるようになりますか」


「傷口の腫れが引かなければ断言できない。骨には達していないので、僕は楽観しているよ」


 先生の楽観は、普通の人の慎重な希望くらいに聞こえた。


「助かったんですね」


「まだ治療中」


「でも、地下からは出せた」


「それは確か」


 ホッとすると同時に、空の檻を思い出す。


 十一の接続枠。


 運び出された羽と鱗。


 山の向こうと三本の波線が刻まれた、4と書かれた通行証。


 助けられていない命の数は、まだわからない。


「喜んでいいのかな」


 私が呟くと、ルークが隣へ立った。


「喜ぶことと、忘れることは別です」


「この子を助けたことを喜んでも、ほかの魔獣を諦めたことにはならない?」


「なりません」


「でも、灰の狩人は逃げたままです。装置も止められなかった」


「だから次があります」


 シンプルな言葉だったが、今はそれがありがたかった。


 少し離れたところで、岩角猪が目を開いた。


 騎士たちが身構える。


 ロブは立ち上がり、ゆっくりと近づいた。


 一歩進んで、止まる。


 岩角猪の耳が動く。


 ロブは地面へ伏せた。


 地下で最初にしたのと同じだった。


 岩角猪は今度は唸らなかった。


 鼻先を地面へつけたまま、ロブを見る。


 ロブも見返す。


 しばらくして、岩角猪が大きく息を吐いた。


 ロブの耳が、その息でわずかに揺れた。


 今度は鼻先が触れた。


 ほんの一瞬だけ。


 岩角猪はまた目を閉じる。


 ロブはその場に座った。


 尻尾を一度、地面へ打ちつける。


「何て言ったんでしょう」


 マルクが小声で聞いた。


「わかりません」


 私は答えた。


「でも、ひとりぼっちじゃないってことは、伝わったと思います」


 太陽が山の向こうへ傾き始めていた。


 旧鉱山の入口は、ここからは見えない。


 あの中では今も、魔法陣が動いているかもしれない。


 黒い石の内側から聞こえた音も、三日月と塔の印も、運び出された魔獣の行方もわからないままだ。


 今日、私たちが救えたのは、たまたま残されていた一頭だけだった。


 それでも、その一頭は今、息をしている。


 岩角猪のそばで伏せる、ロブの白い背中を撫でた。


「ここで終わりじゃないよ」


 ロブが顔を上げる。


「わん」


 返事かどうかは、わからない。


 けれど立ち上がったロブは、もう鉱山ではなく、私たちが戻る道を見ていた。


 救うことができた一頭を連れて帰る道。


 そして、まだ救えていない声を追うために、もう一度進む道を。


 ――第十六話おわり

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