第十四話 村の灯り
一旦村へ戻ることに決めた一行。村でのひとときの休息。
何か巨大なものが、一度だけ息を吐いた。
鉄の扉の隙間から流れ出した冷たい空気が、私の頬を撫でる。
ロブは私の腕の中で身を縮めたまま、顔を上げなかった。
「今日はここまで。ひとまず撤退しよう」
ルークが言った。
マルクが扉を振り返った。
「しかし、団長。奥に捕らわれた魔獣がいるかもしれません」
「準備が必要だ。正面入口には罠があり、この扉は開ければ相手へ伝わる。坑道の構造も、内部に何人いるかもわからない」
そして扉の奥には、巨大な魔力の痕跡がある。
「今入れば、助ける側が全員閉じ込められる危険もある」
正しい判断だと思った。
少し前の私ならマルクのように、扉を見て迷っていたと思う。
ロブが苦しみを感じた魔獣がいるかもしれない。今この瞬間にも傷つけられているかもしれない。そう考えれば、一刻でも早く入るべきだと。
けれど今、腕の中には震えるロブがいる。
この子の恐怖を、先へ進むための手がかりとしてだけ扱ってはいけない。
「戻ります」
私は答えた。
ルークがこちらを見る。
「明るいうちに村へ戻って、坑道の記録を調べましょう。応援も必要です。ロブも休ませたいです」
「はい」
ルークは短く頷いた。
その声には私の判断を確かめてから進むときと同じ静かな信頼があった。
騎士たちは魔法陣を壊さないよう周囲へ目印を残し、正面入口と斜面の扉を地図へ書き込んだ。白い毛と灰色の粉は、ミラが別々の瓶へ封じる。
王宮に伝令を送ったので、次に来るときは坑道に詳しい者と、強い魔術の守りを解ける者が来るだろう。
今日は扉を開けられなかったが、全員が無事に戻るために、今は離れるのだ。
「ロブ、帰ろう」
声をかけると、私の胸元で大きな耳が少しだけ動いた。
◇
山の斜面を下りても、ロブは歩こうとしなかった。
私の腕へ体を押しつけ、鉄の扉があったほうを何度も振り返る。
「大丈夫。今日はもう行かないよ」
背中を撫でても、震えはすぐには止まらない。
何が怖いのだろう。
扉の内側にあった白い毛。
地下を流れる巨大な魔力。
あの、得体の知れない息遣い。
どれか一つなのか、全部なのかもわからない。
言葉で伝えられないロブに、私が勝手に答えを出してしまえば、ロブの本当の恐怖を見失ってしまう。
「無理に行かないよ」
私は歩きながら、ロブの耳元へ話した。
ロブの心を読むことはできない。
できるのは、耳が伏せられていること、尻尾が下がっていること、心臓が速く動いていることに気づくことだけだ。
わからないままでいい。わからないからこそ、見続ける。
それが、私がロブと一緒にいるということなのだと思う。
街道へ出るころ、ロブの震えは止まった。
それでも地面へ下ろすと、すぐ私の足へ前足をかける。
「抱っこ?」
「くぅん」
もう一度抱き上げる。
「神獣様は歩けないのですか」
マルクが心配そうに尋ねた。
「歩けるけど、今は歩きたくないみたいです」
「怪我が?」
「足は大丈夫です。怖いことがあった日は、甘えてもいいんです」
マルクは真剣な顔で頷いた。
「承知しました。必要なら、私がお運びします」
「それはロブに聞いてください」
マルクが両手を差し出す。
「神獣様、私の腕はいかがでしょう」
ロブは顔を逸らした。
「断られましたね、はっきりと。エレナ様と俺の抱っこ、何が違うのでしょう」
「全部じゃない?」とディート先生。
少しだけ笑いが起きる。
ロブは私の腕の中から、マルクをちらりと見た。
その目に、さっきまでの強い恐怖はなかった。
◇
リーネ村へ戻ったのは、夕方だった。
村の入口に、バルがいた。
ロブを見つけると、尻尾を大きく振って出迎えてくれた。
私の腕の中にいたロブが顔を上げた。
「下りる?」
返事を待つ間もなく、前足が地面へ向かって動く。
そっと下ろすと、ロブはバルのもとへ走っていった。
二頭は鼻先を合わせる。
そのあと、いきなり走り出した。
「ロブ?」
村の外れを一周し、バルが方向を変える。ロブも負けずについていく。
さっきまで歩くことさえ嫌がっていた犬とは思えない。
「神獣様は、お元気になられたのですね」
マルクが感動したように言う。
「友達を見つけて、怖かったことを少し忘れたんだと思います」
「神獣様にも、そのようなことが」
「ロブも普通の犬です」
ロブとバルは畑の脇で急停止した。
二頭の前には、小さな穴がある。
同時に鼻を入れ、何かを探し始めた。
「今度は何をしてるの?」
二頭は前足で土を掻く。後ろへ土が飛んだ。
「待って。そこ、畑じゃないよね?」
「うちの芋畑だよ」
畑から持ち主のおじさんが現れた。
「ロブ、やめて!」
私たちが駆け寄ったときには、土の中から小さな芋が一つ転がり出ていた。
ロブとバルが同時にくわえようとする。
「だめ!」
二頭の動きが止まった。
ロブは芋を見て、私を見る。そしてまた芋を見る。
「ロブ!」
ロブは聞こえなかったように鼻を動かしたが、芋からは離れた。
ロブとバルが掘ってしまった穴をマルクが埋めてくれ、私は畑の持ち主へ何度も謝った。
持ち主のおじさんは、泥だらけの二頭を見て笑った。
「神獣様も芋を掘るのか」
「たぶん、バルが掘るから一緒に」
「バルは、神獣様が掘るから一緒にやったんじゃないかい?」
どちらが始めたのかはわからない。
二頭とも、自分は何もしていないような顔をしていた。
ロブの鼻には土がついている。
「証拠が残ってるよ」
布で鼻を拭くと、ロブは嫌がって顔を振った。
鉄の扉の前で震えていたロブも、芋畑で叱られるロブも、どちらも同じロブだ。
いつものロブに戻ったようでホッとした。
今は、普通の時間を過ごしてほしい。
◇
村の広場には、夕食のための長いテーブルが並べられていた。
調査隊が旧鉱山から無事に戻ったと知り、村の人たちが温かい食事を用意してくれたのだ。
大鍋には豆と根菜の煮込み、焼いたパンと、薄く切った燻製肉が並んでいる。
「今夜は芋もあるぞ」
畑の持ち主のおじさんが言った。
私の足元で、ロブがおじさんを見上げて尻尾をブンブン振っている。
バルも隣で期待に目を輝かせている。
さっき一緒に叱られたせいか、妙な仲間意識が生まれたらしい。
「ホックホクのお芋だよ」
おじさんが持ってくてくれた、ゆでた芋を二頭は夢中で食べている。
村の外れでは、黒牙狼と小さな魔獣たちにも食べ物が用意されていた。
昨日まで、魔獣へ食べ物を運ぶのはトーマさんと数人だけだった。
今夜は違う。
パン屋の女性が木の実を持ち、子供たちは野菜の切れ端を籠へ集めていた。誰も黒牙狼へ近づきすぎず、手前へ置いて戻ってくる。
黒牙狼も人のそばへは来ない。
人が離れたあとで立ち上がり、水を飲む。
少し離れた場所で、蛍尾リスが木の実を抱えた。
同じテーブルを囲むことはない。
でも、村の灯りが届く場所で、魔獣たちも食事をしている。
昨日より、ほんの少しだけ距離が近い。
「あのリス、名前はあるの?」
子供が聞いた。
「蛍尾リスっていう種類だよ」
「そうじゃなくて、この子の名前」
聞かれて、私は答えられなかった。
助けた魔獣を種類で呼んでいたけれど、名は知らない。人がつけた名前を勝手に与えていいのかもわからない。
「う〜ん、名前あるのかな」
「神獣様なら聞けないの?」
「ロブにも、わからないと思うな」
ロブは魔獣と自由に話せるのか、私にもわからないが。
子供は少し考え、木の実を一つ地面へ置いた。
「じゃあ、好きなものから知ればいいね」
蛍尾リスは私たちが離れてから、木の実へ近づいた。
殻の匂いを嗅ぎ、両手で抱える。
「あれは好きみたい」
子供が嬉しそうに言う。
名前も、言葉もわからない。それでも好きなものを一つ知れば、昨日までの「怖い魔獣」とは少し違って見える。
「神獣様の好きなものは?」
「鶏肉、干し肉、林檎。さっき食べたお芋も好きみたい」
「神獣様って、食いしん坊なんだね」
「うん、間違いないね」
ロブが自分の話だと気づいたように顔を上げた。
「あの黒い狼、他の魔獣たちを守ってるんだな」
村人の一人が言った。
蛍尾リスが水へ近づくと、黒牙狼は体を起こし、周囲を見ている。
「最初から、怖いだけの魔獣じゃなかったのかもしれない」
「だからといって近づくなよ」
トーマさんが注意する。
「わかってる。見るだけだ」
その会話を聞きながら、私はスープを口へ運んだ。
あったかくて優しい味がする。
野営した森で食べた保存食より、ずっとおいしかった。
ロブが私の膝へ顎を乗せる。
「自分のごはん、食べたよね?」
「わふ」
「今、食べてないって顔したよね」
器はきれいに空になっている。
バルまで真似をして、飼い主の膝へ顎を乗せた。
「悪いことばかり教えるねえ、神獣様は」
「そこは、どちらが先かわかりません」
二頭は人間同士の責任の押しつけ合いで、もう何ももらえないと思ったのか、テーブルの下で丸くなった。
そのうち、ロブの後ろ足が伸びてバルの背中へ乗った。
バルは気にしない。
ロブも起きない。
はじめて村に訪れた時、魔獣を見ただけで棒を持った人たちがいた。
今は、その人たちの笑い声の下で、二頭の犬が眠っている。
大きな変化ではない。
それでも、守りたいと思える普通の時間だった。
◇
食事が終わると、ルークは旧鉱山の記録を調べ始めた。
村に残る古い地図、閉山したころの税の記録、鉱山で働いていた人たちの名前。
私も手伝おうとしたが、古い文字はところどころ読めない。
「この名前、何て読むんですか」
「鉱山主の名です。三十年前に王都を離れ、その後の記録はありません」
「こっちの印は?」
「坑道の深さです」
「数字に見えませんね」
「古い鉱山で使われた記号です」
役に立てている気がしなかった。
机の下では、ロブが寝ている。バルと走り回ったせいで疲れたらしく、前足を伸ばし、完全に横向きになっていた。
「私は、ロブの監視をしたほうがいいでしょうか」
「眠っている神獣様へ監視は必要ですか」
「起きたら何か食べようとします」
「では、重要な役目です」
ルークは真面目な顔で答えた。
「追い出そうとしてません?」
「エレナが文字を一つ尋ねるたび、調査が止まります」
「やっぱり邪魔でしたね」
席を立とうとすると、ルークが小さく笑った。
「冗談です」
「ルークも冗談を言うんですね」
「俺を何だと思っていたのです」
「仕事しか考えてない人」
「否定しにくい評価です」
机には古い紙が積まれ、ランプの光が揺れていた。
ほかの騎士とミラは別の部屋で休んでいる。ディート先生は風角鳥と黒牙狼の治療へ行った。
気づけば、この部屋には私とルークと、眠っているロブしかいなかった。
「今日は、ありがとうございました」
ルークが地図から顔を上げる。
「何がです?」
「撤退を決めてくれたことです」
「当然の判断です」
「私はちょっと前なら、素直に戻れなかったと思います」
ルークはしばらく私を見た。
「前話したことを覚えていたのですか」
「止める必要がないところでは、隣を歩くって言ってくれたこと?」
「はい」
「覚えています」
手を取って岩の段差を下りたときの温かさも、まだ覚えている。
「だから、止められたときは信じようと思いました」
「俺が間違う可能性もあります」
「そのときは、私が止めます」
答えると、ルークは目を瞬いた。
「止められるでしょうか」
「ロブを追いかける私よりは、止めやすいと思います」
「それはそうかも」
二人で笑った。
王宮にいたころのルークは、ロブを守る騎士団長だった。
ルークが守ってくれることは、今も変わらない。
でも旅へ出てからは、私の見たものを聞き、一緒に進む道を考えてくれるようになった。
私も、守られるだけでいたくはなかった。
ルークが間違いそうなら止める。疲れていれば休むよう言う。そのくらい近い場所を歩きたかった。
「ルークも、今日は休んでくださいね」
「この地図を確認したら」
「それ、休まない人の言い方です」
「あと少しです」
机の上には、まだ何十枚も紙がある。
「少し?」
「比較的」
「誰と比べてですか」
「私の普段の仕事量と」
やっぱり仕事しか考えていない。
私は地図の上へ手を置いた。
「今夜はここまでです、団長」
ルークが私の手を見る。
彼は紙を取り返さず、椅子の背へ体を預けた。
「止められましたね」
「はい」
「では、従います」
今度は私が笑った。
机の下で寝ていたロブが寝返りを打つ。
私たちはしばらく、ロブの静かな寝息を聞いていた。
部屋を出ると、廊下に村長がいた。
「何か見つかりましたか」
ルークが尋ねる。
「いや、記録のことではないんですが」
村長は迷うように頭を掻いた。
「騎士様たちが鉱山を調べていると聞いて、思い出したことがありまして」
「何です?」
「昨夜、鉱山の方から変な光が見えたんです」
眠りかけていた頭が、一瞬で覚めた。
「どんな光ですか」
「白っぽいような、青いような。空へ上がったんじゃない。山の内側が、一度だけ光ったように見えました」
「時刻は?」
「遠吠えを聞く少し前です」
昨夜。灰の狩人が荷車で北東へ向かったあとか。
旧鉱山の内側で、何かが動いていた。
扉の奥に残る巨大な魔力。
ロブが怯えた、まだ見えない何か。
そして山の内側から漏れた、白とも青ともつかない光。
「明日、光が見えた場所を詳しく聞かせてください」
ルークが言った。
「今夜は見張りを増やします。山が光っても、村から出ないよう全員へ伝えてください」
部屋に戻り、私は窓から北東を見た。
夜の山は黒い影になり、何の光も見えない。
足元へ来たロブも、同じ方角を見る。
けれど今度は震えていなかった。
私の足へ体を寄せ、少し見上げる。
「今日はもう寝よう」
「わふ」
ロブは返事をすると、用意された寝床ではなく、私のベッドの上へ向かった。
「ロブの毛布、隣にあるよ」
聞こえないふりをして、ベッドの真ん中で丸くなる。
さっきまで、旧鉱山の扉をあんなに怖がっていたのに。
今は私のベッドを占領し、もう目を閉じている。
「じゃ、一緒に寝ようか」
ロブの体を少しだけ端へ寄せる。
「わふ」
明日になれば、また調査がはじまる。
今夜はただ、この温かい犬の隣で眠ろう。
窓の向こうでは、村の灯りが静かに揺れていた。
――第十四話おわり




