第十三話 追う者、追われる者
捕えられた魔獣を探して、エレナたちは旧鉱山へ。その入り口でロブの様子に異変が。
遠吠えが消えたあとも、ロブは北東を見ていた。
白い護符が、夜風に揺れている。
ロブの隣では村の犬、バルも耳を立てていた。けれど、ロブのように遠くを見つめているのではない。聞き慣れない声を警戒し、いつでも飼い主のもとへ戻れるように体を半分だけ村へ向けている。
黒牙狼は立ち上がったまま、動かなかった。
傷ついた後ろ足が小さく震えているが、黒牙狼は北東から目を逸らさない。
あの遠吠えの正体を知っているのだろうか。
ロブには傷ついた魔獣の苦しみと、大まかな方角が伝わる。けれど、今の声が何を意味したのかまでは、わからないかもしれない。
やがて黒牙狼は力尽きたように伏せた。
ディート先生が傷を確かめる。
「やはり、連れて歩ける状態ではないね」
「でも、ここへ置いていって大丈夫でしょうか」
「無理に歩けば、せっかく治りかけた傷がまた開いてしまう」
リーネ村には騎士が残り、村人も水や毛布を用意してくれた。黒牙狼をすぐに追い払わないという約束もしている。
この状況なら、黒牙狼はここで休ませるのがいいのだろう。
それでも、心配だった。
私たちがいなくなったあと、村人がまた恐怖を感じたら?
黒牙狼だって、ロブがいなくなれば、また人を信じられなくなるかもしれない。
灰の狩人一味が戻ってくる可能性だってある。
「一緒に連れていくのも危険です」
ルークが言った。
「我々が向かう先には敵がいる。負傷した黒牙狼を守りながらでは、動きが遅くなります」
「では、どうすれば」
言ったあとで、自分の言葉に引っかかった。
どうすればいいかを、私たちだけで決めようとしている。
黒牙狼を助けたのは私たちだ。だからといって、私たちのものになったわけではない。
「本人に決めてもらいましょうか」
「誰にです」
「黒牙狼に」
ルークは伏せている黒牙狼を見た。
「言葉は通じませんが……」
「でも、選べるようにはできます」
私は黒牙狼の前へしゃがんだ。近づきすぎないよう、ロブ一頭分の距離を空ける。
「私たちは、朝になったら出発するよ」
黒牙狼の片方の耳が動く。
「ここに残って休んでもいい。一緒に来たいなら、止めない。でも、歩くのはきっとつらい」
言葉がわかるとは思っていない。
私は北東を指し、そのあと村の外れに置かれた毛布と水を指した。
ロブにも同じように道の先と野営場所を見せる。
「ロブからも、伝えてくれる?」
「わふ」
ロブは黒牙狼へ近づき、鼻先を触れ合わせた。
それだけだった。
命令するように鳴きもしない。北東へ引っ張ろうともしない。
黒牙狼はしばらくロブを見つめ、それから毛布の上にいる蛍尾リスたちを見た。
今すぐ選ばなくていい。
そう思い、私は立ち上がった。
「出発するときまで待ちましょう」
黒牙狼がどこを自分の居場所にするのかは、黒牙狼自身が決めることだと思った。
◇
夜明け前、調査隊は出発の準備を始めた。
北東の村へは、昨夜のうちに騎士を一人走らせている。黒いローブを着た人物や、不審な荷車を見なかったか確かめてもらうためだ。
残る騎士は村長と見張りの場所を決め、魔獣へ近づかないための縄を張った。
村の女性が、私たちにパンと果物を持たせてくれた。
「神獣様へ」と渡された袋は、私たちの分より大きかった。
「ロブ、また荷物が増えたよ」
「わん」
村を出るころ、東の空が淡く明るくなった。
ロブは一度、黒牙狼のもとへ戻った。
二頭は鼻を触れ合わせる。
黒牙狼が立ち上がった。
「一緒に来るの?」
傷ついた足を引きずり、私たちのほうへ一歩進む。
ディート先生が止めようとしたが、私は首を振った。
黒牙狼はさらに一歩進んだ。
その後ろで、蛍尾リスが細く鳴く。
黒牙狼が振り返った。
毛布の上には、地下から助け出した小さな魔獣たちが集まっている。まだ人を恐れ、ロブか黒牙狼がいなければ水へも近づけない子たちだ。
黒牙狼は長いあいだ、その子たちを見ていた。
やがて私たちへ背を向け、毛布のそばまで戻り、蛍尾リスたちを守るように伏せた。
「残るんだね」
黒牙狼は答えない。
でも、自分で選んだ。
ロブはその場で尻尾を一度振り、私のもとへ戻ってくる。
「行ってくるね」
黒牙狼の片方の耳が、こちらへ向いた。
別れではない。
傷が治り、また自分で行く場所を決める日まで、少し離れるだけだ。
村の犬バルが、黒牙狼から十分な距離を空けて座っていた。
ロブがいなくなっても、黒牙狼はひとりぼっちではない。
そう信じて、私は北東へ続く道を歩き始めた。
◇
焼けた荷車から続く轍は、細い道を北東へ向かっていた。
道の両側には朝露をまとった草が伸び、車輪が通ったところだけ倒れている。
追跡役の騎士が先頭で跡を調べ、その後ろをルークとミラが歩く。
私はロブのリードを持ち、ディート先生、マルクと続いた。
「荷車は二台です」
追跡役の騎士が言った。
「一台は昨日の朝。もう一台は、それより少し新しいようです」
「新しい?」
ルークが足を止めた。
「我々が地下の収容所を調べていたころに、ここを通った可能性があります」
二台とも北東へ向かったとは限らない。
新しい轍は、ところどころ古い轍を踏んでいた。追跡を難しくするため、わざと同じ道を通ったようにも見える。
ルークは地図を広げた。
「北街道へ出たあと、向かえる場所は三つあります。北の交易町、東の農村、そして旧鉱山です」
「人目を避けるなら、旧鉱山でしょうか」
「そう考えるのが自然です。だからこそ、決めつけないほうがいい」
ルークは地図の村を指した。
「灰の狩人は、我々が旧鉱山を疑うと予測しているかもしれない。荷車の跡そのものが、誘導である可能性もあります」
「じゃあ、どこへ行くんですか?」
「先触れの報告と、街道の跡を確認します」
早く旧鉱山へ行きたいと思う自分がいる。
傷ついた魔獣がいるかもしれない。そう考えれば、今すぐ走り出したい。
でも、急いだ結果、罠にかかれば誰も助けられない。
敵がどこへ向かったかを追いながら、敵が私たちをどこへ向かわせたいのかも考えなければならなかった。
ロブが急に立ち止まった。
「どうしたの?」
大きな耳が前へ向く。 北東へ。
昨夜の遠吠えと同じ方角だ。
「何か感じる?」
「くぅん」
黒牙狼を探していたときより、ずっと弱い声だった。
ロブは数歩進み、また止まる。今度は少し東へ鼻を向けた。
「方角が変わった?」
私が右へ動くと、ロブもついてくる。左へ戻っても、嫌がらない。
以前なら、違う方向へ進もうとしたときにはっきり反応していた。
「わからなくなったの?」
ロブが困ったように私を見上げる。
ミラが周囲へ杖を向けると、淡い光が草の上を走り、すぐに消えた。
「微弱ですが、魔術の痕跡があります」
「どんな魔術ですか」
「匂いや音を散らす術に近いものです。ただ、それだけではない。感覚に作用する魔力を、複数の方向へ分けています」
「ロブの力を惑わせている?」
「可能性はあります」
ロブの毛がついた布、食べ物の好みや警戒心を記した文字だけではない。
灰の狩人は、ロブが傷ついた魔獣を感じ取れることまで知っているのか。
「ロブの力がどんなものか、私たちも正確にはわかっていないのに」
「試しているのかもしれません」
ミラの声が低くなる。
「魔獣ごとの反応を比較し、神獣様の毛まで集めていた。何が神獣様へ届き、何なら遮れるのかを調べている者がいるのかも」
ロブはもう一度、北東を見た。
何も感じないわけではないようだ。
遠くに、かすかな苦しみがある。
けれど、それがどこにあるのかは掴めない。
最初から万能な力ではなかった。正確な場所も、魔獣の言葉もわからない。
今はさらに、誰かの魔術で弱められている。
「無理に探さなくていいよ」
私はロブの前へしゃがんだ。
「わからないのは、ロブのせいじゃないから」
ロブは私の手を嗅ぎ、少しだけ尻尾を振った。
ロブの力だけに頼ってはいけない。
痕跡を探し、魔術を分析し、調査を続ける。
調査隊、皆の目を合わせて、見えない道を探せばいい。
北街道へ出る手前で、先触れに出た騎士と合流した。
「東の村に荷車は入っていません。北の交易町へ向かったという証言もありませんでした」
「脇道へ入ったか」
「はい。街道脇の草に、新しい轍がありました。旧鉱山へ続く道です」
灰の狩人一味は、やはり旧鉱山へ向かったように見える。
その道へ入って間もなく、空から甲高い鳴き声が聞こえた。
小さな影が木の枝へぶつかり、道の脇へ落ちる。
「ロブ、待って!」
ロブが駆け寄ろうとするのを止め、私たちは周囲を確かめた。
罠は見えない。
落ちたのは、青灰色の羽を持つ鳥の魔獣だった。鳩より少し大きく、頭には細い角が一本ある。
「風角鳥だ」
ディート先生が言った。
「本来は高い場所から下りてこない魔獣なんだけど」
風角鳥は、片方の翼が不自然に曲がっている。
ディート先生が布を広げ、その上へ鳥を移した。
「骨は折れていないね。何かに強くぶつかったのかな」
風角鳥はディート先生の手から逃れようとしたが、体に力が入らないようだった。
ロブが少し離れた場所へ伏せると、暴れるのをやめた。
「羽に何か付いている」
見ると、翼の根元に、灰色の粉がこびりついていた。
土や燃えた木の灰とは違う。細かく、光へかざすと銀色の粒が混じっている。
ディート先生が粉を小瓶へ移した。
「薬品か、鉱物を砕いたものだ。みんな、粉を吸い込まないで」
ミラが杖を近づけると、粉が淡く光った。
「魔力を含んでいますね。この鳥の魔力とは違うものです」
「さっき、ロブの感覚を散らしていたという魔術と同じですか」
「似ています。ただ、粉そのものが術を作るのではなく、何か大きな術の一部を付着させたような……」
ディート先生は風角鳥の目と呼吸を調べた。
「毒ではなさそうだな。方向感覚を失ったのか」
魔獣を捕らえるためなら、眠らせる薬や罠のほうが確実だ。
感覚を狂わせる粉を森へ撒けば、広範囲にわたって傷つく魔獣が増える。
「どうして、そこまでして魔獣を傷つけるんでしょう」
私は小瓶の灰色の粉を見た。
「集めて売るためでも、材料にするためでもない。何かへの反応を比べていた。だったら、集めること自体が目的じゃないのかもしれないね」
ディート先生が答えた。
旧鉱山には、捕らえた魔獣を隠す以上の何かがある。
灰色の粉は、そこから風角鳥が逃げてきたことを示しているのかもしれない。
「この粉は、鉱山で採れるものですか」
私が尋ねると、ミラは瓶を光へかざした。
「銀色の粒は鉄ではありません。魔力を蓄えやすい鉱石に似ています。旧鉱山で何が採れたのか、記録を調べる必要があります」
「鉄の鉱山だったのでは?」
「表向きは、です」
ルークが地図の端に書かれた古い印を示した。
「閉山前の数年間、産出量の記録が王都へ届いていない。坑道の崩落が理由とされていますが、管理者も作業員も、ほぼ同じ時期に土地を離れています」
魔獣を隠すだけなら、地下の収容所でもできた。
灰の狩人は捕らえた魔獣を、わざわざ旧鉱山へ運んでいる。
ここでしかできないことがある。
鉱石なのか、古い坑道なのか、それとも地の底に残された何かなのか。
風角鳥が苦しそうに瞬きをした。
この小さな魔獣は、答えを知らない。ただ、何かの近くを飛び、感覚を狂わされ、落ちてきた。
灰色の粉は、警告のように羽へ残っていた。
先生は翼を固定し、風角鳥を布張りの籠へ入れた。動けるようになるまで、交代で運ぶことにする。
ロブは籠のそばを離れなかった。
もう方角を示そうとはしない。
灰色の粉が、その小さな感覚まで覆っているようだった。
◇
昼を過ぎるころ、木々の向こうに岩山が見えた。
植物の少ない灰色の斜面が、森の上へ突き出している。
旧鉱山は、三十年ほど前まで鉄を掘っていた場所だという。
坑道の一部が崩れ、採れる鉱石も減ったため、地図上では廃坑となっている。今は管理する村もなく、街道から外れた道には草が伸びていた。
けれど、鉱山の入口だけは違った。
五メートルはある木の支柱に、黒い坑道が奥へ続く。
その前の地面には、新しい車輪の跡が何本も残っていた。
「ここです」
マルクが剣の柄へ手をかけた。
「中へ入りましょう」
「待て」
ルークが腕を出して止める。
「敵が入った跡があります。捕らえた魔獣も中にいるかもしれません」
ルークは入口を見た。
扉はなく、見張りもいない。
荷車の轍は、隠そうともせず暗い坑道へ続いている。
「あからさま過ぎやしないか」
私も、ようやく不自然さに気づいた。
追跡されることを知り、川へ入り、足跡を消してきた相手だ。
地下の収容所では入口を蔓で隠し、記録を持ち出し、荷車まで燃やした。
その一味が、ここだけ入り口を隠しもしないとは。
「入ってほしいみたいです」
「ええ」
ミラが杖を地面へ向けた。
「入口の内側に魔術があります。入らなければ、詳しい仕組みまではわかりません」
すぐに助けたい。
でも、私は一度息を吸った。
「急いでいるからこそ、急ぎすぎないほうがいい」
以前、森で黒牙狼の毛を見つけたとき、私たちは焦って罠へ入りかけた。
助けたいという気持ちは、相手にも読まれている。
「ほかに入口があるか探しませんか。荷車が入る道だけが、坑道の全部とは限りません」
ルークが頷く。
「二人一組で周辺を調べる。入口から見える範囲へは入るな」
騎士たちが左右へ分かれた。
ロブは正面入り口の坑道ではなく、山の斜面へ鼻を向け、じっと立っている。
「入口は、あっちじゃないの?」
ロブは、低い木が生えた山の斜面へ向かって歩き出す。
傷ついた魔獣の方角を感じているときの歩き方とは違った。
地面へ鼻を近づけ、一歩進んでは戻り、岩の匂いを確かめている。
「何かの匂いを追っています」
私はロブの動きをルークへ伝えた。
斜面は急で、土が滑りやすい。
「ロブ、ゆっくり」
四本足のロブは軽々と登る。私は木の根を掴み、マルクに腕を支えてもらった。
「神獣様は山にもお強い」
少し上ったところで、ロブが岩壁の前へ止まった。
一見すると、何もない。灰色の岩と、乾いた苔があるだけだ。
けれどロブは、岩の隙間へ鼻を押しつけた。
ミラが杖を近づける。
「皆さん、下がってください」
杖の先から淡い光が広がる。
岩壁の表面に、細い線が浮かび上がった。
手のひらほどの小さな魔法陣だ。
「隠蔽の術です」
ミラが円の外側へ指を沿わせる。
「岩に見せているだけで、実物ではありません」
術を一部止めると、岩の景色が水面のように揺れた。
その向こうから、錆びた鉄の扉が現れる。
人一人が通れるほどの大きさだった。 荷車は通れない。
鉱山で働く人が避難や換気のために使った、古い通路なのかもしれない。
「こちらが本当の入口でしょうか」
「少なくとも、正面とは違い、ここは隠されていました」
ルークが扉の周りを調べる。
取っ手に付いた擦れた跡は最近のもののようだ。
何度も開け閉めされていることがわかる。
扉の下の隙間には、白いものが挟まっているのが見えた。
「ロブ、待って」
私は手袋を借り、白いものをつまんだ。
毛だった。柔らかな白い毛が、一房。
ロブの背中の毛とよく似ている。
「ロブの毛ですか」
ルークが尋ねた。
「見ただけでは、わかりません。でも……」
地下で見つけた布には、ロブの毛がついていた。
同じ毛を使い、私たちをここへ誘導しているのかもしれない。
私はロブへ毛を近づけようとした。
その瞬間、ロブが後ろへ飛び退いた。
「ロブ?」
リードが強く張る。
ロブは尻尾を腹の下へ巻き、耳を伏せていた。
白い毛ではなく、鉄の扉を見ている。
「どうしたの?」
呼んでも動かない。
私の後ろへ隠れようとしながら、扉から目を逸らせずにいる。
この世界へ来た直後、ドラゴンの前でも震えていた。
けれど、今とは違う。
あのときは見たことのない大きな生き物に驚いていた。今は、まだ何も見えていない扉の向こうを、知っているもののように怖がっている。
「大丈夫。入らなくていいよ」
抱き上げると、ロブは私の胸へ鼻先を押しつけた。
心臓の鼓動が速い。
「神獣様が、ここまで怯えるとは」
マルクが扉を見る。
「何がいるのでしょう」
わからない。
過去に似たものを見たのか。
扉の向こうから何かを感じるのか。
それとも、白い毛についた匂いを恐れているのか。
私はロブの背を撫でながら言った。
「怖がっていることだけは確かです。でも、理由はまだわかりません」
ミラが扉から数歩離れ、杖を両手で構えた。
「魔力を調べます。全員、触れないでください」
淡い光が小さな魔法陣へ流れ込む。
円の線が一つずつ明るくなり、扉の縁へ光が走った。
その瞬間、地面の下で、何かが脈打った。
光ではない、音でもない。
けれど、足元から体の奥へ重いものが押し寄せた。
ミラが息を呑み、術を止める。
「どうしました」
「扉の奥に、巨大な魔力の痕跡があります」
「魔獣が集められているからでは?」
「違います」
ミラの顔から血の気が引いていた。
「一頭ずつの魔力ではない。いくつもの魔力を集められた痕跡があります」
地下の収容所にあった魔法陣。
種類の違う魔獣から採られた毛や羽。
反応あり。反応なし。
あれは、ここで使う何かを選ぶための実験だったのだろうか。
「これは……魔獣を閉じ込めるためのものではない」
ミラが呟いた。
では、何のためのものなのか。
鉄の扉は何も答えない。
ロブは私の腕の中で、まだ震えていた。
◇
私たちはすぐには扉を開けなかった。
正面入口の罠を調べ、斜面の扉の仕組みを確かめ、退路を作る。
先に王宮へ知らせるべきかも話し合った。
アレクシス王子からもらった護符を使えば、私が生きてここにいることは伝えられる。けれど、旧鉱山の位置まで正確に知らせられるとは限らない。
伝令を一人、リーネ村へ戻すことになった。
村から王宮へ早馬を出し、旧鉱山のことを伝える。
「相手に時間を与えることになりますが」
マルクが言った。
「だがここへ全員で入って戻れなくなれば、何も伝えることが出来ない」
ルークは鉄の扉を見た。
「どちらの扉も安全とはいえない。準備が整うまで開けない」
扉の向こうに捕らわれた魔獣がいると思えば、待つことは苦しかった。
ロブも同じだと思う。
けれど今は、低く鼻を鳴らし、扉へ行こうとしない。
「ロブが嫌がるなら、入らないほうがいいのでしょうか」
私は誰へともなく尋ねた。
「神獣様の警告を無視するべきではありません」
ルークが答える。
「ですが、何を恐れているのかわからない以上、それだけで決めることもできない」
「はい」
ロブの気持ちを大切にすることと、ロブへすべての判断を任せることは違う。
この子が怯えている事実を見て、私たちが考えなければならない。
「以前のエレナなら、もう扉へ駆け寄っていたのでは?」
隣に立ったルークが言った。
「そうかな?」
「ええ。止める俺を困った顔で見るところは変わりませんが」
「ルークなら止めるべき時には、止めてくれると思ってるからです」
口にしてから、少し恥ずかしくなった。
ルークは驚いたように私を見る。それから、ほんの少し表情をやわらげた。
「では、止める必要がないところでは、俺も隣を歩きます」
「はい。お願いします」
差し出された手を借り、岩の段差を下りる。手はすぐ離れたのに、その温かさだけがしばらく残っていた。
風角鳥の籠から、小さな鳴き声がした。
ロブがそちらを見る。
恐怖の中にいても、傷ついた魔獣を助けたい気持ちがなくなることはない。
「中へ入るなら、私も行きます」
「エレナ」
「勝手には入りません。決めた手順を守ります。でも、ロブだけを連れていくことも、ここへ置いていくこともできません」
ルークはすぐには答えなかった。
やがて、諦めたように息を吐く。
「まず扉の前までです。内部の安全を確認するまで、先へは進まないでください」
「約束します」
「今度は、間がありませんでしたね」
「成長しました」
マルクが少し笑った。
「では、神獣様も約束を」
「わん」
ロブは私たちが何を約束したのかわからないまま、元気よく返事をした。
その声で、ほんの少しだけ緊張が緩んだ。
ミラが小さな魔法陣を解除する準備を始める。
騎士たちは盾を前へ出し、ディート先生は風角鳥の籠と治療道具を安全な岩陰へ置いた。
私はロブを抱いたまま、鉄の扉から距離を取る。
ミラの杖から細い光が伸び、魔法陣の一部をなぞった。
かちり。
扉の奥で、金具が外れる音がした。
同時に、正面入口の方からも小さな金属音が響く。
「つながっています」
ミラが言った。
「こちらを開ければ、正面の仕掛けにも伝わる。侵入を知らせるための術です」
「相手に気づかれますか」
「術を見張っている者がいれば」
私たちは、灰の狩人が北東へ逃げたと思い、追ってきた。
けれど、逃げた跡にしては手がかりが多すぎた。
焼けた荷車には印のついた金具が残り、轍は旧鉱山へ続き、山の斜面にはロブが反応する白い毛がある。
一つひとつは、急いで消し損ねた痕跡に見えた。
重ねてみれば、私たちをここまで導く道標にも見える。
「いつからでしょう」
「何がです」
「私たちが追う側じゃなくなったのは」
ルークは答えず、正面入口の方角を見た。
ロブの感覚を惑わせる粉が街道へ残され、正面入口はわざと開かれ、隠された扉には侵入を知らせる術がある。
逃げているだけの者が、ここまで私たちの動きを読んでいるだろうか。
「向こうも、私たちを見ている」
口にした瞬間、意味がはっきりした。
私たちが灰の狩人を追っているだけではない。
灰の狩人も、ロブが何を感じ、私がどう動き、調査隊がどの入口を選ぶのかを追っている。
白い毛は、ただ落ちていたのではない。
ロブの反応を見るため、ここへ置かれた可能性がある。
「扉から離れて!」
ルークの声が飛んだ。
その直後。
どん。
暗い坑道の奥で、何かが動いた。
岩山全体が低く震え、扉の表面から細かな錆が落ちる。
ロブが私の腕の中で身を縮めた。
もう一度、音が来ると思った。
けれど、森は静かなまま、人の足音も魔獣の鳴き声もしない。
突然、扉の隙間から冷たい空気が流れ出した。
長く、深く。
そして、何か巨大なものが、一度だけ息を吐いた。
――第十三話おわり




