『呪い』
彼女の身に降りかかった不幸なんてのは、この世界ではどこでも起きている"ありふれたもの"に過ぎなかった。
けれど、一つだけ異なる点も。
その結末だけは、"ありふれたもの"などとは決して言えないだろう。
そしてそれこそが、彼女にとって何よりの悲劇であった。
彼女――篠宮有栖は生まれながらに幸福が約束されていた。
裕福かつ恵まれた家庭。
優秀で優しくも人格者である両親。
惜しみない愛を注がれることなんてのは、彼女にとって当たり前の日常に過ぎない。
これが幸せなのだという自覚さえもなく、彼女は無垢のまま、笑っていた。
――その時までは。
壊れるのは、一瞬だった。
ある日のこと。
妖異が玄関を破壊し侵入してきた。
近隣には被害が出ておらず、影圏も発生していない。
本当に、それは瞬間移動したかのように現れた。
なぜこんな事件が発生したのか、いまだに解明されていない。
けれど、確かにそれは、彼女の家に侵入した。
彼女の父は、家族を守るため化物に立ち向かった。
彼は、カムイを所有するに相応しき優れた剣士であった。
大手企業の警備主任に任命され、多額の給金を受け取り、エリート街道をまっすぐ歩む理想のマイホームパパ。
けれど――その程度でしかなかった。
剣士全体で見れば上位三割程度。
もしくは『上の下』。
カムイをギリギリ扱えるというのが、彼の評価となる。
優れていることに間違いはない。
並の妖異ならば苦戦することさえなかっただろう。
並であったなら。
――相手はイレギュラーだった。
その色は影と同じく黒。
おそらく、影からの変異体。
その姿は人であり、獣。
何の獣か特定できないくらい曖昧だが、全身毛むくじゃらの二足歩行。
まるでホラー映画の狼男のような外見であった。
そして極めつけはそのサイズ。
三メートル近い巨体は、ただ通るだけで家を破壊する。
それが自分がいつも相手にする妖異と同程度と思った彼は、家族の安全のために、一撃で鎮めることをねつらう。
そして抜刀から駆け寄り――喰われた。
腕を食われ、腹を齧られ、内臓をすすられ、足を手羽先のように味わわれ。
とうの昔にこと切れていたであろうその頭蓋は、絶望の表情のまま異形の口に呑み込まれていった。
次に動いたのは、母親だった。
娘を護ろうとした飛び掛かって……そして吸い殺された。
吸血鬼のように首元を噛まれ、一筋の涙を除きすべてを吸われ尽くし、干物となった。
一瞬のことだった。
二人の人間が、一瞬で壊された。
彼女は何もできなかった。
状況が理解できず、涙さえ流すことなく、ただその場で腰を抜かし震えるだけ。
化物はそんな彼女に近づいた。
そこでようやく、彼女は両親の死を理解して涙を流し、同時に自分の死に恐怖した。
自分も死ぬのだと怯えた。
けれど――違った。
怪物は、彼女に舌を這いずらせた。
味わうように、息を荒く。
状況、雰囲気、怪物の状態。
彼女に類似するような経験はない。
けれどそれがどういうものなのかを知識的には理解しており、そして自分がどのような感情をぶつけられているのかを把握出来ていた。
つまるところ、発情。
怪物は、彼女に対し嗜虐的な劣情を向けていた。
それは、死よりも恐ろしいこと。
それは、拷問に等しき地獄。
ただ殺すではない。
怖し、壊し、殺す。
その悪辣さこそがその化物の特性だった。
彼女は、自らの末路に顔を青ざめさせた。
だが……。
結論から言えば、彼女が壊されることはなかった。
彼女、篠宮有栖は襲われるその直前……化物に飛び掛かった。
怯え竦むのではなく、敢えて飛び掛かり……フェイントを交えて化物の隙間をすり抜け、その食い残しに手を伸ばした。
父の喰い残しとなった、血まみれのカムイを。
抜刀一閃。
神宿りとしか言えぬほど鋭い一刀の元、彼女は怪物を討伐してみせた。
本来、カムイとは資質に溢れた存在がその才能を開花することで初めて起動を許される。
さらに言うなら、他人のカムイは他人に合わせたもののため、起動の難易度は跳ね上がる。
それでも、彼女は起動してみせた。
刀さえ持ったことのなかった幼女が。
生まれながら剣に愛されし者。
努力なく人の上に立つ器。
愛されていたからこそ発揮されなかった、尋常ならざる才覚。
怪物同様、いや怪物以上に、彼女もまたイレギュラーであった。
彼女はこの場にて、ただ一人の勝者となる。
そして、幼いながらに理解してしまった。
自分が、どれほど醜い存在であるかを。
お父さんが殺されて、驚いた。
お母さんが殺されて、悲しかった。
私が殺されそうになって、怖かった。
けれど自分が汚されそうになった瞬間、本気になった。
何もかもを費やし、抗う覚悟を決めた。
そう――本気になったらよかったのだ。
最初から本気になっていたら、なんとかなっていた。
家族を護ることだって出来た。
けれど、いざそう決断したのは、自分の身に危機が訪れてから。
あれだけ愛してもらっておいて、あれだけ家族を愛しておいて……現実ではこの薄情さ。
愛する者を護ることに、本気にさえなれなかった。
汚らわしい。
憎たらしい。
醜い、醜い、醜い、醜い!
実力があったからこそ、篠宮有栖は己の醜さから目を反らすことを許されなかった。
そしてこの瞬間にて、誰からも羨ましがられる『才能』が、彼女を一生涯解き放てない『呪い』と昇華された。
誰かのためでないと生きていけない。
それは確かに正しい。
だが、彼と違う部分が一つあった。
水無川伊織と違い、篠宮有栖は他者の救済に喜びを感じえない。
彼女にとってそれは贖罪であり、義務であり、労役。
やらないといけないことで、やって当然のことで、そして、自分が満足など感じることさえ烏滸がましいこと。
彼女は決して、自分を許すことはない。
だからやっぱり彼女は、自分の生存に常日頃から疑問を抱いていた。
『死んでも許されないから、せめて誰かのために死にたい』
それだけのために、彼女は生きていた。
普上町北白浜地区にある、老人のハイキングにちょうどいいくらいの、小さく軽い山の頂上。
そこには、地元の人くらいしか知らないさびれた神社があった。
『巳鏡神社』
時間はおよそ四時ほどだろう。
長い石階段の下にある赤い鳥居を日の出が映し出す。
その鳥居の下に、彼女はいた。
八つ噛と、カムイの二刀を持ち、待ち構えるように。
彼女がここにいたのは、幸運だった。
俺たちは、可能性が"低そうな場所"から、しらみつぶしに探していたのだから。
可能性が高い場所や、被害が大きくなるような場所は、まず間違いなく誰かが探している。
その場所に後から行ったところで間に合うわけもない。
だから、一般的に可能性が低いとされる場所にいることを願って、そこに当たるくらいしか俺たちにできることはなかった。
そして、その大博打を俺たちは引き当てた。
すんなり見つかったわけではなく、走りすぎて靴はもうボロボロになっているが。
「伊織様、アセリア様……」
メイドは苦しそうな表情で、こちらを見る。
そこに驚きはない。
彼女は、俺が来ることが当然と思っていたようだ。
「さっそくで申し訳ないのですが、どうか私を殺してください。私が、抑えているうちに……」
そう言ってメイドは、刀を持ったまま、両手を広げてみせる。
「悪いが、そのつもりはないよ」
「ならばなぜ、ここに?」
睨むような鋭い目で、メイドは問う。
今にも、刃を向けそうな目だった。
「それは助けに――」
「何を言っても無駄だよ、いーくん」
ぴよこは唐突に、そんなことを口にした。
その表情には、怒気がはらんでいた。
「ぴよこ?」
「……色々考えてたけど、やっぱりそうだね。うん。私、ちょっと怒ってる」
そう言ってぴよこは一歩前に出た。
「あのね、有栖ちゃん。あ、今だけは有栖ちゃんって呼ぶね。今の貴女にメイドって名乗る資格ないから」
鋭すぎる嫌味に、俺はつい声を漏らしてしまいそうになった。
知らなかった。
あのぴよこが、こんな嫌味が言えるなんて。
いつもほんわかして、誰かにからかわれて愛されて。
そういうものだと思っていたが……よくよく考えたら別に不思議なことはない。
そう思わせた方が得だから、ぴよこはそう思わせていただけ。
亜人という人と違う属性を持ちながら、人に溶け込むほどのコミュニケーション能力と危機察知能力を持ってこれまで生きてきたのだ。
ただの能天気なわけがない。
「アセリア様……」
「貴女はいーくんを勘違いしてる。それは別にいいよ。でも、勘違いを押し付けていーくんを追い詰めるのはやめて」
「別に、そんなつもりは……」
「殺してくれなんて追い詰める以外でどんな意味があるの? それも、見知らぬ誰かのためをモットーとするいーくんに。貴女ならわかるでしょ? そうとしか生きられない苦しさは」
「なら……アセリア様でも構いません。どうか私を……終わらせ――」
「ふざけるな! 死にたいなら勝手に死ね!」
ビリビリと、空気が震える。
ふーふーと、息を荒げるぴよこの様子は、まるで毛を逆立てた猫のようだった。
「何が死にたいだ! 本当に死にたい奴がそんなこと言うわけあるか!?」
「あっ……貴女に、貴女に何がわかるというんですか!?」
怒鳴り声と共に、ゾクリとした恐怖が走る。
メイドの周りに見えるもやが大きく広がる。
衝動を抑えきれなくなったのか、憎しみがこちらに伝わるほど強大となった。
「ごめん。やっちった」
ぴよこはそう俺に言う。
ただし、悪びれもしない表情で。
「構わん。やることは一緒だ」
俺は刀を手に取り、抜刀覚醒状態に移行した。
ありがとうございました。




