地の底から見上げる空が、こんなにも美しくて
八つ噛から黒い靄があふれ、メイドの身体に纏わりつく。
メイドは半狂乱で言葉にならない言葉を叫んでいるが、支配されたかのように身体はほとんど動いていなかった。
「大丈夫か!?」
俺は駆け寄り、メイドから八つ噛を引きはがそうとするも、触ることさえできない。
見えない壁のようなものが、メイドの腕に触れようとする俺を遮っていた。
俺は肩を掴み、揺さぶる。
「しっかりしろ! 意識を強く持て!」
「駄目。声が、声が聞こえる。殺せと、憎めと、恨めと……」
俺には聞こえない。
けれど、それが嘘でないことは俺にもわかっている。
彼女の全身にめぐる黒い靄と、淡く爛々と紫に輝く八つ噛がそれを証明していた。
刀に悪意があるわけではない。
操りたいわけでもない。
ただ、憎悪が溢れているだけ。
そういうものなのだと、不思議と理解できた。
「大丈夫! 大丈夫だから……」
なんの信憑性もない励ましだが、それくらいしかできることはなかった。
「私は……私は……」
「頑張れ! いつもの自分を思い出すんだ! 悪意や憎しみではなく、誰かへの奉仕を選んだ。俺と同じで、お前は明日生きる誰かのためを選んだんだろ!?」
ぴくりと、メイドの動きが止まる。
そしてゆっくりと、メイドは俺の顔を見る。
落ち着いた、静かな表情。
けれど、その目はどこまでも、深い虚無が宿っている。
その目から、涙が零れた。
「同じ……。はは……同じ……ですか」
「お、俺たちは、一人じゃ生きられない。だから、誰かのために――」
「同じわけがない!」
空気が、震えた。
それは、明らかに怒声だった。
刀の影響などではない、もっと純粋なメイドの怒り。
メイドが抱えていた、俺への……。
「同じわけないじゃないですか……。ずっと、ずっとずっと今日まで誰かのために生きてきた貴方と、私ごときが」
「お前だって、メイドとして……なんでも出来て、みんな尊敬されて、誰かのために……」
「はは……違う。違う違う違う違う違う! 私は……私はただ……」
メイドの身体が脱力し、腕がぶらんと下がった。
『ただ――死にたかっただけなんですよ』
泣きながら笑うその顔は……絶望的なまでに、折れていた。
メイドの周りに漂う靄はより濃くなり、それに呼応するよう、八つ噛は歓喜しているかのように煌めいた。
「はは……伊織様、大好きでしたよ。だって、私より酷い目に遭った人が、私より頑張ってるんですから。綺麗で、素敵で、憧れて……そして……もう二度と、見たくない。貴方の所為で私は、誰にも八つ当たりが出来なくなってしまいました。はは、どうして私は、こうなれなかったんだろうな……」
ゆらりと、身体が揺れる。
直後、メイドは音もなく跳躍し、家の屋根に着地した。
「ま、待ってくれ!」
意味もないのに手を伸ばす。
後悔するように、乞い願うように。
けれど、メイドは止まらない。
止まるわけがない。
「もし、もしもその時が来れば……どうか私を――殺してください。私が、手を染める、その前に」
メイドの目は、絶望にも苦渋に染まったものでもない。
そこにあるのは、ただ心からの懇願だけ。
増大された憎しみ。
彼女にとってその対象は、己自身であった。
しばらくして、迎えに来た九条についていき、車の中へ。
そこで、俺は隣に座る九条にすべてを語った。
ここで起きた、すべてを――。
不気味なほど静かに、九条は俺の話に耳を傾けていた。
重苦しいと感じるほど、静かに。
「……そうか」
すべてを聞いた九条は、ただそうとだけ口にした。
「メイドは……あいつは助けられるんだよな? あの刀は俺にやるなんてふざけていた程度の物で、何の問題もないんだよな。なあ?」
俺の言葉に、九条はすぐに返事をしない。
考えるような、俺に気を遣うような態度を取ってから、ゆっくりと口を開く。
「俺が何とかなると言ったのは、二つの要因が重なっていたからだ」
「二つの……要因?」
「一つは、場所だ。アラハバキの、それも地下封印区画。あそこでは、八神は悪さをできん」
「や……がみ? 八つ噛じゃあ……」
「どっちでもいい。話を聞け。もう一つは、水無川。貴様だ」
「俺? どうして俺が……」
「貴様程度の憎悪なら、なんとでもなった。だから俺は貴様にあれを預けようとした。だが……」
「ど、どうしてメイドは駄目なんだよ? 俺とそんなに……」
「本気で、変わらないと思っているのか? 貴様程度と、あいつで」
九条の言葉に、俺は声を詰まらせる。
すぐに、否定出来なかった。
俺自身が、そうだと理解出来ていた。
「それはっ……! でも……」
「貴様と篠宮は――違う」
はっきりと、九条は告げる。
そう……それこそが俺の最大の勘違いで過ち。
そして、あいつを追い込んだ、俺の罪。
「……あいつが、MPだったからか?」
九条は眉を顰め、俺を睨んだ。
「それは、篠宮から聞いたのか?」
こくりと、俺は頷く。
「だから、あいつは……あいつの憎しみは俺なんかじゃ……」
九条は俺を見つめ、小さくため息を吐いた。
「はぁ……。そういう問題じゃない。それは貴様の勘違いだ」
「……え?」
「どれほどのものであろうと、個人の持つ憎しみなど、たかが知れている。いいか、よく聞け水無川。たとえどのような理由があろうと、人を殺せば――恨まれる。わかるか?」
言い聞かせるように、九条は言う。
(ああ……そうか。そういうことか……)
そう、メイドの恨みとか個人的感情とか、その程度の問題と思っていた俺は、確かに大きな勘違いをしていた。
最初から、九条が話しているのは、怨念の話。
メイドが仕事で積み重ねてきた業についてであった。
俺は、彼女がどのようなことをして生きてきたか、知らない。
「先生なら……なんとかできるんですよね? あの、“九条”なんですから」
不安そうに尋ねる俺に対しての回答は、沈黙だった。
たったの数秒。
けれど、永劫とも思えるほど長い沈黙だった。
「教師として、担任として、できる限りは尽くす」
そう……九条は答えた。
いつものように尊大に、「九条である」と答えずに、そうとだけ――。
それは、明確な答えだった。
俺が、絶望するに値するほどの。
車が止まり、降りるとそこはもう俺の家の前だった。
「時間も時間だ。きつければ明日は休め。公欠にしてやる」
「……大丈夫です。それより、これからどうなるんですか?」
どうする、と聞けなかったのは、俺の弱さだった。
「……普上町の周辺近隣は避難封鎖となった。最短で二十四時間。最長で三日だ」
「それは……つまり三日で……」
「……極力、殺さずに済ませる予定ではある。いや、余計な希望を持たせるのは良くないな。俺は、今回の対処に腕ごと切り落とすつもりだ」
こぼれ出そうな言葉を抑えるよう、ぎゅっと唇を噛みしめる。
わかっている。
俺がどうこう言ったところでどうしようもないし、精いっぱいの結果がそれだと。
九条がそう言わざるを得ないほど状況は悪く、そして絶望的だと。
それでも、俺は願わずにはいられなかった。
あれは……メイドが心を折ったのは、俺のせいなのだから。
走り去る車の背を、俺は見つめ続けた。
ずっと、ずっと……消え去ってからも、ずっと……。
ありがとうございました。




