あの日、あの時から変わらぬ想い
それは彼女にとって憧れであり、そして救いだった。
朝霧綾華は幼い時、【罪】を犯した。
知らなかったこととはいえ、それは許されることではない。
少なくとも、綾華は今でもその一言を悔やみ生きている。
『お母さん。私、弟が欲しいな』
そう、綾華は言った。
言ってしまった。
難産の末、自分の命と娘の命、どちらを優先するかで娘を選んだ救い人に。
その後遺症で、もう二度と子を残せない母に。
母は、笑って謝った。
ごめんねと。
そしてその晩、父と泣いていた。
ふがいないと泣く母と、それを慰める父を、綾華は静かに見ていた。
だからこそ――だからこそ、彼は綾華にとって特別だった。
ある日のこと……。
『この子が、貴女の弟よ』
笑って、ふざけるように母は言った。
そんなわけがない。
よその男性に手を引かれた小さな子は、ただの他人だ。
綾華が首を横に振ると、母は再び笑う。
『私たちは親戚のようなもの。それに……ね?』
相手の男は、微笑みながら頷く。
『ああ。そうだな。俺たちはみんな家族みたいなものだ。だから伊織、挨拶をしなさい』
小さな少年は頷き、舌足らずな声で尋ねた。
「おねぇちゃん?」
そう言われた時、濯がれた気がした。
だからだろう。
涙がこぼれた。
少年の手を握り、ぽたぽたと涙が落ちる。
少年は反対の手で、綾華の頭を撫でた。
「いたいのいたいの、とんでいけ」
その時からだ。
朝霧綾華は、姉となった。
血のつながりなど関係ない。
自分は、この子の姉として生きるため、生まれてきたんだ。
そう、魂が教えてくれた。
その後道場で再会したとき、伊織と名乗った少年はその時のことを忘れていた。
それでも、綾華の答えは変わらない。
呼び方が『おねえちゃん』から『あやねぇ』になって、少しだけ大人びた彼の前でも、綾華は姉だった。
そして例え二度の再会にて、すべてを忘れていたとしても――。
彼女、朝霧綾華は水無川伊織の姉だった。
姉とは、弟のために生きる存在である。
信じがたいことに、それこそが彼女の軸だった。
アラハバキ最強の名を持ち、雲上人の前で舞を踊るような立場になっても、彼女の本質はずっと変わっていない。
会えない弟に恥じぬ姉であること。
再び会った時、落胆されぬ頼れる姉であり続けること。
それこそが、朝霧綾華だった。
そして、何の因果が愛しき弟の願いを断ち切るため、綾華は刀を握っていた。
あの時の少年が、立派な青年になっている。
それだけで、彼女は満足を覚えた。
けれど――。
(足りない。何もかも……)
我武者羅に戦う伊織を見て、綾華はそう感じる。
贔屓目を捨て、正しく見た時、そうとしか表せない。
朝霧綾華の弟子という名を背負うには、伊織は弱すぎた。
これだけの差を見せつけられてなお、未だ折れぬ刀と心。
それは純粋に喜ばしい。
許されるのなら抱き上げ撫でで褒めてあげたいくらいだ。
だが……それだけでは意味がない。
折れぬ刀と意思、その二つを生かす術が、今の伊織にはなかった。
それに何より、圧倒的に経験が足りない。
戦えば、わかってしまう。
記憶喪失は、嘘ではなかった。
彼の中から、共に積み上げてた道場での幼少期の思い出が、すべて消え失せていた。
戦い度に、まるで、別人のように感じ心が痛む。
自分だけが、あの日々を覚えているというその事実が、綾華の中に決して小さくない喪失感を生んでいた。
「はぁっ!」
綾華は霞の構えから突きの一手を放つ。
伊織は怯えから後ろに下がり、突きを受け流した。
彼は怯えていた。刀が折れることを。
きっと良い出会いがあったのだろう。
伊織は、とても刀を大切にしていた。
順序を見失うほどに。
「悪手だ。馬鹿め」
下がってはいけなかった。
そこで耐えるのが、正解だった。
それは技量の問題ではない。
刀を大切にし過ぎた所為だ。
綾華はそのまま踏み込み、流れるような動作で切り上げを放つ。
鈍い剣戟の音と共に、伊織はよろめき、さらに後退し、追い詰められていく。
もう――終わりが見えていた。
(三手。それで終わる)
舐めているわけでも、見下しているわけでもない。
むしろ、すべての私情を捨て、剣士として対等な立場でこの場に臨んでいる。
その結果が、あと三手。
そして――。
「これで、終わりだ!」
三手目、壁に追い詰められた伊織に対し、鋭い斬撃を放つ。
手を抜きたいという気持ちを、必死に押し殺して。
斬撃は、伊織の身体に触れることなく、するりと滑り落ちた。
伊織の構えは、『柳』の崩し。
振るわれた斬撃は刀の筋に合わせ、音もなく受け流される。
そのまま伊織は、まるで別人のような動きで側面に回り込み、突きを放つ。
これまで、一度も放っていない突きを。
「――馬鹿な」
突きを弾きながら、綾華は距離を取った。
この戦いで初めて、綾華は後退させられていた。
伊織はその時、笑っていた。
顔を顰めながら、額に汗をかき、体調が悪そうなのに、楽しそうに。
「本当……すげぇな、あやねぇは」
その呼び方に、ちくりとした喜びを感じるも、綾華は振り切り戦いに集中する。
「何の……話だ?」
「だってさ……積み重ねて強くなったんだろ? あの頃から、ずっと。本当に尊敬するよ。はは……」
伊織は静かに、構える。
先ほどと同じ、柳の構えをベースとしたもの。
綾華と同じもの、すなわち――『天元一刀流古武術』の構え。
伊織の構えは、綾華の覚える幼き頃とまるで同じものだった。
ありがとうございました。




