悪夢
目の前に、誰かがいる。
なのに、何故かそれが誰なのかわからない。
いつもこうだ。
こいつの『夢』を見るときは、何故かこいつの正体が見えない。
顔も見えない。
体格さえも認識出来ない。
それが男なのか、女のか、若いのか、年老いているのか。
それなのに、なぜか目の前にそいつがいると確信出来る。
お前は誰なんだ。
何が目的なんだ。
何を聞いても、答えは返ってこない。
まるでかかしのように、ただ目の前に立ち続けるだけ。
ズキリと、頭が痛む。
失った記憶がよぎるときと、良く似た痛み。
寒気が走った。
風邪をひいたときの悪寒に近いが、それよりもはるかに強烈な感覚。
まるで、吹雪の雪山に置いて行かれたような、そんな寒さと不安。
体が、震える。
ただ、怖かった。
何が怖いのかさえわからないのに、怖いという気持ちだけが理解出来る。
熱と共に、自分の中から何かが消えていく。
自分が――自分という存在が薄まっていく。
痛みに合わせて俺という存在が希釈され、このまま雪のように解けて消えてしまいそう――。
それは、まごうことなき死の感覚だった。
頭痛と共に全身が引き裂かれたような痛みが走り、自分という存在が消えかけた蝋燭となったように感じたその瞬間――。
目の前の『何か』との、距離が消えた。
それは、そいつは、俺を喰らって――。
「うああああああああああああ!」
絶叫と共に、俺は夢から逃げ出した。
息が切れる。
心臓が激しく鼓動している。
まるで着衣水泳でもしたかのように、全身は汗びっしょりとなっていた。
「ああ……くそっ。最近見なくて済んでたのに……」
俺は自分の顔に手を当てる。
その手は、痙攣していると思うほど震えていた。
がたんごとんと、電車の旅。
いつもと違い、のどかな景色が広がっていた。
「こっち側は全然変わらないねー」
隣のぴよこは、景色を楽しみながらそう言った。
「……ああ、そうだな」
「どうしたの? やっぱりしんどい? 横になる? 人いないから今ならいいと思うよ?」
ぴよこは自分の膝をぽんぽんと叩いた。
「いや、大丈夫だ。……というか、よかったのか? 学校を休んでついてきて」
「んー。よくはないんだけどね……正直に言っていい?」
「ああ」
「今のいーくんが信じられない」
「――本当に正直だな」
「だって、今いーくんとても楽しんでて、そしてとても大切な時じゃん。休んだって口だけ言って、裏で訓練とかしそうな感じ」
「あはははは。……否定できん」
正直言えば、耳が痛かった。
人間相手の実戦経験が少ない。
そう、南雲は昨日、俺に指摘し、それを補うために今日は実戦経験を重ねる予定だった。
だからぴよこの言う通り、休んだフリをして修行に勤しんだ可能性は、正直否定できない。
電車に乗ってアラハバキから離れた今でさえ、早く学校に行って訓練をしたいと思っていた。
「でしょ? というわけで、黙ってデートしましょ」
「デートねぇ……」
「いーくんは私じゃ不満かい?」
「もう少し色気のある場所に行きたいかな」
「ほほー。例えば?」
「……ファミレスとか?」
「それ、色気ある?」
「色気ある場所が思いつかなかったんだよ。察しろ」
「いーくんはいーくんだねぇ。帰りに寄ってく?」
「いや、それより本屋寄りたいから付き合ってくれ」
「はーい」
そして一旦会話を打ち切り、電車の旅を俺たちは満喫する。
今だけは、修行のことも弟子入りのことも、全部忘れるために。
気持ちを、切り替え明日からまた頑張るために。
俺とぴよこは長い付き合いだから、気兼ねがないというか遠慮そのものがない。
そのせいでお互い嘘をつくこともよくあるし、それを互いに気にもしていない。
けれど、たった一つだけ、絶対に破らないと誓った『約束』があった。
それは、今回のような状態になったらすぐに休み、馴染みのカウンセラーを受診すること。
この状態の俺は、自分の体感以上にヤバい外見となっているらしく、中学時最初にこれを見たぴよこは、真っ青な顔で泣き出した。
ただ夢見が悪かっただけ、なんて言い訳が通用しないくらいに。
(でもなぁ……)
ちらっと、ぴよこの方を見る。
心配して、こうして付いてきてくれているぴよこには悪いが、正直、治る見込みがあまりなかった。
というか、治るという表現さえおそらく適切ではないだろう。
なにしろ、俺には一切の異常が見られない。
大病院で検査入院まで受け、カウンセリングを掛け持ちした結果出た答えだから、間違いはないだろう。
俺にとっては、これが正常な状態であった。
(一応、時間が解決してくれるなんて気休めは受けたけど……)
久しぶりだったからか、今日のはやけに重かった。
俺はぴよこに見えられないよう、震える右手をそっと隠した。
「じゃ、私はそこで待ってるから」
病院の正面にある喫茶店に向かいながら、ぴよこは言った。
「ああ。すまんな」
「いいのいいの。久しぶりにゆっくり本でも読むよ」
そう言って手を振るぴよこに手を振り返し、背を向ける。
目の前に見えるのは、小さな個人病院。
いや、それじゃ言葉がまるで足りない。
小さい上に廃屋にしか見えないほどオンボロで、看板が一つも出ていない、病院らしからぬ精神科クリニック。
これならまあ、ある程度適切な表現と言えるんじゃないだろうか。
「……相変わらずひでぇ見た目」
それでも、地元の俺のクリニックが通院することに納得する程度にはその腕は確からしい。
俺は鉄さびが香りそうな入口の戸を、力一杯込め開く。
埃っぽさの中に、消毒液の香りが申し訳程度に広がっていた。
こんな外見だから、当然他の客なんていない。
誰もいない受付を進み、さっさと先生の待つ診察室に向かう。
そこに、若い白衣の女性が座っていた。
「お前か。……めんどくさいな。一体何の用だ? どこか壊れたのか?」
けだるそうな表情のまま、彼女は言ってきた。
あらゆる意味で信じられない態度だが、これが彼女のデフォである。
自分以外のすべてを有象無象程度に思い、なんなら患者である俺のことさえ道具程度にしか思っていない。
そんなだからオンボロクリニックと思うべきか、こんなのでも倒産していない凄腕と思うべきか、正直判断に困る。
「お久しぶりです。久しぶりに夢を見たので……」
俺の言葉に、彼女の表情が少し真剣なものになった。
「なら、少し見てやる。隣の部屋に来い」
立ち上がり、彼女は汚い部屋の物を押しのけ、隣の部屋までの道を作った。
レントゲン、CT、脳波測定。
およそ精神科に相応しくない診断を幾つか受け、軽い問答を。
『昨日は何があったか』とか『何か嫌なことはあるか』とか『昔の夢を見るか』とか。
答えは基本的にノー。
俺は、今の自分が不幸だと一ミリも思っていない。
むしろやりたいことが見つかり、そのために頑張れている今はとても楽しい。
だから、結果はいつも通りだった。
「脳波に乱れはない。問題なく稼働しているが……まあ、一応は薬を出しておこう。何か不安なことはあるか?」
「いえ、特には」
「そうか。ならばとっとと帰れ」
そう言っていつもの睡眠薬を乱雑に放り投げてきた。
「定期メンテは……来月か。めんどうだがまあいい。その時また来い」
「わかりました。ありがとうございます」
俺は頭を下げ、そっと立ち上がる。
必要最低限だけの交渉とすること。
それがこの先生との上手な付き合い方だと、俺はこの数年で学んでいた。
「ああ、その前に、それは……『クロガネ』か?」
先生は俺の刀を見てそう尋ねた。
「いえ、アマツです」
「アラハバキか。お前のような低スペック個体がよく合格したな。一応謝辞は述べておこう」
「ありがとうございます」
今度こそ、俺は立ち止まらずクリニックを後にした。
この先生についてあまり深く考えると、それこそ精神に異常をきたしてしまう。
気持ちを切り替え、喫茶店にいるぴよこの方を見る。
本を読むと言っていたのに、手にしているのは機械工学の技術書だった。
ありがとうございました。




