(15)
窓も開けていない暗い部屋で、ジェローシアは寝台の上で膝をかかえて泣いていた。
「どこに行ったの? どうして帰ってきてくれないの?」
サエウム、ともう何度目になるかわからないつぶやきを、今もまた口にする。
毎日朝食前に部屋の外で待っていた取り巻きたちは、いなくなってしまった。今では時折扉をたたく音がしても、「いないんですかあ? 総母のジェローシアさーん?」「『リンゴの乙女』の投票間近ですよー? 宣伝して歩かないと負けちゃいますよー」とふざけた調子で呼びかけては笑って去っていく足音ばかりだ。
そのとき控えめに扉がたたかれた。うかがうように入ってきたのは半羊族の生徒だ。
「ジェローシア、朝食を持ってきました」
ふわふわした白い髪のフリュールが微笑む。ジェローシアはふいと顔をそむけ、鼻をすすった。
「……何が目的なの? 私の様子を面白おかしく吹聴するため?」
一度は取り巻きから追放したフリュールだけがそばにいるなど、何という皮肉だろう。サエウムは行方不明で、二番手以下は全員離れていったのに。
「あなたが心配なんです」
「嘘ばっかり」
今の自分についていても得なことなどない。むしろ一緒に嘲笑われるだけだ。
「今年は少し油断してしまいましたが、来年の作品展ではもう一度最優秀賞を取ります。あなたを描きたいんです」
「私のどこに輝いている要素があるというの!?」
やっぱり馬鹿にするために来たんじゃないとジェローシアは怒りをぶつけたが、机に朝食の盆を置いたフリュールはふり返って否定した。
「いいえ、あなたは美しいです。僕の腕が未熟でもあなたの魅力は十分に伝わると思っていたけど、思わぬ強敵が現れてしくじりました。二度と同じ過ちは犯しません。今度こそ、ちゃんとあなたのすばらしさを表現させてください」
ブジャルドは彼女に惹かれたみたいですが、僕はあなたが好きなんです、ときっぱり告げるフリュールに、閉じていた心が動いた。
「修了証を手にしたとき、私はきっとサエウムを選ぶわ。それでもいいの?」
「かまいません。サエウム先輩に勝てるとは最初から考えていなかったので。それよりも、僕は芸術科の生徒として、あなたがメソス・スコラを去る日まであなたの姿を目に焼きつけておきたい。僕をそばに置いてくれませんか?」
寝台の前で片膝をついて見上げてくるフリュールに、ジェローシアは涙をぬぐって手をのばした。
「本当に私から離れない?」
「ええ、絶対に」
フリュールがジェローシアの手の甲に口づける。いつも自分に触れるときは許可なしには許さなかったが、今のジェローシアにとって、フリュールの存在そのものがあたたかかった。
自分は一人ではない。まだ崇拝してくれる男子生徒がいる。
いつか浮上する機会は巡ってくるとほんの少し前向きになれ、ジェローシアはフリュールの柔らかい巻き毛をそっとなでた。
フリュールが気持ちよさそうに黒い双眸を細める。
サエウムのようなたくましさはないが、見ているだけで癒される愛らしい顔立ちに、ジェローシアはなぐさめられた。
翌日の放課後、早めの夕食をとってからオストレアは半魚族の練習場の中央に立った。傍らには依頼主のルビーナと、歌い終われば倒れるかもしれないのでタキュスが控えている。また場内の壁際にはカエルラ・マールム、ニグレードー・マールム、ルボル・マールムの班員が並び、固唾をのんで見守っていた。
もし母が半魚族だったら、自分たち宛に泡魂を送ってくれただろうか。目の前の円卓に置かれている半透明の球体を見つめながら、戻らない母について何も語らなくなった父の背中をオストレアは想った。
「始めます」
ルビーナと視線を交え、雑念を払う。一度深く息を吸ってから、オストレアは歌いだした。
慎重に、丁寧に、心を込めて独唱する。まもなくオストレアの呼びかけに泡魂が反応した。内側で明滅する光が燃えるように大きくなり、球いっぱいに広がっていく。
しかし予想どおり、すんなり開きはしなかった。オストレアの代弁を怪しんでいるのだ。
隣でルビーナは唇を引き結び、緊張の面持ちで泡魂を凝視している。マレットからの伝言をルビーナは知りたがっているので、どうか鍵を開けてほしいと、汗をにじませながらオストレアは粘り強く訴えた。
長い歌も半ばに差しかかった頃、かたく閉じられていた泡魂が不意にカタリと揺れた。ようやく信用したらしい。
ほっとしたとたん、めまいに襲われる。よろめいたオストレアをタキュスがさっと支えた。おかげでオストレアはどうにか途切れさせることなく歌詞をつないだ。
周囲を見る余裕すらない。もはや体力は限界に近かったが、氷のようだった泡魂の表面はじわじわ溶けてきている。ここでやめるわけにはいかなかった。オストレアはこぶしをにぎりしめ、高音の連発となる最後の数節に挑んだ。
大丈夫、絶対に務めを果たしてみせる。タキュスにもたれて立ちながら、途方もないと思える時間を耐え忍んだオストレアの歌は、もうじき終わるというところでついに泡魂の封を完全に解いた。
まばゆい光がほとばしり、一人の男子生徒の幻影がゆらめく。隣にいたルビーナが「マレット……!」と叫ぶのをオストレアは聞いた。
『この泡魂を、ルビーナが無事に開封できると信じて送るよ』
優しい口調だった。送り主の穏やかな性質が感じられる声音。
『ベネウォルスがやられた。僕ももう……ごめん、ルビーナ。君のもとへは戻れそうにない』
ひくりと、ルビーナがのどを鳴らした。
『二年後には弟が入学するはずだから、どうか僕の分も仲良くしてやってほしい。それからコルヴォたちに――』
はっと、コルヴォが身を乗り出した。
『ベネウォルスから伝言だ。“どこにも恥じることのない、強い班を作ってほしい”と』
コルヴォがこぶしを震わせた。うつむき、嗚咽を漏らす。ニグレードー・マールムだけでなく、カエルラやルボルの生徒もすすり泣いた。
『ルビーナ。僕は君が好きだよ。もっと長く、できればずっと、一緒にいたかった』
マレットは影のように黒く揺れているので表情はわからない。でもその恋心と悔しさは痛いほど伝わってきた。
『僕のことは忘れてくれ……とは言いたくないんだ。君を苦しめるかもしれないけど……君に好意を寄せていた男がいたことは覚えていてほしい』
そろそろ閉めないと、とマレットがつぶやく。泡魂の形できちんと封じなければ、送ることさえできなくなってしまうから。
『こんな終わり方になってしまったけど……僕は、ニグレードー・マールムの仲間に会えて――君と同じ班で過ごせてとても幸せだった。だから君と仲間たちに感謝と励ましを――今までありがとう。そして……頑張れ』
思いのたけが存分に詰め込まれた言葉を最後に、幻影はぱちんと弾けた。
その場にくずおれ、ルビーナは手で顔を覆って大泣きした。何度もマレットの名を繰り返すルビーナに、モラが近づいて肩に触れると、ルビーナはモラに抱き着いてさらに泣いた。
好きだったのだ。ルビーナもマレットのことを。
別れるのはつらい。二度と会えなくなってしまったのはあまりにも悲しい。
救援要請に応じなければ死なずにすんだのに。
プルプラ・マールムが彼らを犠牲にして逃げなければ。
でも――残された班員はきっと、後悔したままにしない。どれだけ時間がかかっても乗り越えて、強くなる。班長の遺志を継いで。マレットの深い情愛を大切にかかえて。
すうっと意識が遠のきはじめた。
いつか、自分たちにも危機が訪れるかもしれない。
そのときはカエルラ・マールムの皆を守りたい。
最後まで、タキュスと――。
「入っていいわよ」
モラの許可が下り、タキュスはオストレアを横抱きにしたまま部屋に踏み込んだ。自室でも耳飾りを外していないのか、リンゴの香りがしないことについきょろきょろしてしまう。
なかなか泣きやまないニグレードー・マールムの班員をソンリッサたちに任せ、タキュスはモラとともにオストレアを連れ出した。かなり神経と体力を削られているので、今夜はもう目覚めないかもしれないと言うモラに、後遺症のようなものは出ないのかとタキュスは心配した。
「一晩眠れば大丈夫じゃないかと思うけど、念のため夜中と明日の朝にでも、様子を見に来るわ」
魂読みの歌をあんなに見事に歌いこなすのがどれだけ大変か、他の種族にはわからないでしょうねと、モラが苦笑する。
確かに真の意味で慮ることは不可能だ。自分たちはただ聞き惚れていただけだったから。
人払いをしていたにもかかわらず、夕闇に響くオストレアの歌に引き寄せられ、練習場の外にまで人が集まっていた。
美しかったのだ。声も、姿も。視覚と聴覚の両方を刺激され、これで嗅覚まで加われば魅了どころの騒ぎではなくなっていただろう。
「起きたときに飲み物があったほうがいいわね。ちょっと取ってくるから、オストレアを見てて」
言い置いてモラが食堂へ向かう。残されたタキュスはオストレアをそっと寝台に寝かせた。
「まったく、全力でやり過ぎだ」
明日にはいよいよ『リンゴの乙女』の投票がおこなわれる。わざわざ前日を狙って泡魂の開封にのぞんだわけではないし、そもそも勝負はもう見えているが、漏れ聞こえた歌に酔いしれた者たちが賛美して歩くのは必至だ。むだに周辺をうろつく輩がますます増えると思うだけで腹立たしくなり、オストレアの鼻をタキュスはつまんだ。
「――ンゴッ」
鼻が鳴ったことについ吹き出す。先ほどまで聴く者を虜にしていた魅惑の歌い手とは思えない。
後で教えれば真っ赤になって怒るだろう。その様子が目に浮かび、タキュスは瞳を細めた。
程よい弾力と厚みを主張しているオストレアの唇は今、歌い疲れたかのように乾いている。一度気になると視線をそらすことができなくなり、タキュスは身をかがめた。
枕辺に手をつき、顔を近づける。ついばむように触れたとき、強い視線を感じてタキュスは目を上げた。窓外でさっと引っ込んだ頭を見逃さず、オストレアから離れて勢いよく窓を開ける。暗がりの中でかすかな物音はとらえたものの、姿までは視認できなかった。
ついにここまで来たのか。葉音はしなかったので、すぐそばの木に隠れたわけではなさそうだ。痕跡がないか注意深くあたりを観察したタキュスは、壁際の地面にあいた穴を発見し、眉をひそめた。
「タキュス? どうかしたの?」
飲み物を手に戻ってきたモラが首をかしげる。
「……いや、別に。気のせいだったようだ」とわざとはっきり答え、タキュスは窓を閉めた。
あれ以来、寮に引きこもっていると聞いていたが――こらえきれずに訪ねてきたか。
オストレアは知っているのか。まさか、夜に会っている?
タキュスは小さく舌打ちした。
気がかりなことがあるとカシェが相談してきたのはニ日前だ。サエウムにはめられてから、カシェはどんなささいな違和感もないがしろにしないよう注意を払っているというのに、当のオストレアがろくに警戒もせず受け入れていたのだとしたら、あまりにものんきすぎる。
総母の特性なのか、オストレアがそういう気質なだけなのか。どちらにしても傍迷惑な話だ。
「そんなだから半避役族にけつまずくんだ」
くたびれたからぐっすり寝たいの、と言わんばかりに爆睡しているオストレアの額を指ではじくと、「ちょっと、タキュス」とモラに叱られた。
タキュスは自分のベストを脱ぐとオストレアにかけ、右の耳飾りを外した。漂いはじめた濃厚なリンゴの香りに理性をもっていかれそうになり、歯がみする。
「リサと話してくる。いいかげん匂いがついたら耳飾りを戻しておいてくれ」
文句を続けようとしたモラが口をつぐむ。
「オストレアを囮にするの?」
「もしかしたら同時に引っかかるかもしれん」
当然こちらも万全の態勢でのぞむとタキュスが言うと、モラは少し迷いをのぞかせてから承知した。
自分の懸念どおりなら早急に対処しておきたい。
心の傷が深くなる前に――最後にオストレアへ視線を投げ、タキュスは部屋を後にした。
16話は9月上旬に投稿予定です。




