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食堂店員兼勇者  作者: 平民
五章 現実世界

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73.迂闊な発言

 *


 俺は一人、夜の街をあてもなく歩いていた。

 ネオンのきらびやかな光も、忙しなく行き交う人々の気配も、どこかの居酒屋から漏れ聞こえる楽しげな笑い声も。そのすべてが、今の俺にはひどく遠い世界の出来事のようだった。


「……なんなんだよ、一体」


 ぽつりと呟いた声は、都会の騒がしいざわめきにあっけなく掻き消された。頭の中は、どろどろとした泥をかき混ぜたようにぐちゃぐちゃだった。


 ハヤミ。サクラコさん。そして、ヤマト。


 それぞれの顔が脳裏に浮かんでは消える。彼らが遺していった言葉や、あの重い視線が、棘のように胸の奥深くに刺さって抜けない。


「俺の恋人です……って……」


 さっきのあの修羅場の最中、サクラコさんの同僚の女から彼女を守るために、咄嗟に口にしたセリフ。自分で言った言葉のはずなのに、やけに両肩に重くのしかかってくる。

 深い意味なんてない、ただの方便だったはずだ。なのに――……


「……なんであんなこと、言っちゃったんだよ」


 誰か一人だけを特別に選びたいわけじゃない。かと言って、中途半端な態度で誰かを傷つけたいわけでもない。ただ、俺はみんなと一緒にいたいだけだ。これまでのように仲良くして、誰も欠けることなく、みんなが笑っていてほしい。離れてほしくない。それだけを願うことが、どうしてこんなに難しいんだ。


「……そんなの、やっぱり無理なのかな」


 天を仰ぎ、小さく吐きだした。答えは、最初からどこかで分かっている気がした。でも、どうしても認めたくなかった。

 胸の奥が鉛のように重い。やり場のない苛立ちと焦りが渦を巻き、行き場をなくした感情が溜まっていく。


 その時、肌を刺す空気の密度が、一瞬で変貌した。


「……っ!」


 ガッと力任せに顔を上げる。街灯の薄暗い明かりの下、視界の端で空間の影がぐにゃりと歪んだ。

 裏世界。また現実を侵食しに、現実世界の悪意が生んだ影が這い出てきたのだ。


「……またお前らか」


 喉の奥から、低く地を這うような声音が漏れた。


「あー、もう……っ!空気読め!!」


 地面を爆音で蹴る。刀を抜くよりも早く、身体が弾丸のように前へ出ていた。敵が完全な形を成す前に、一瞬で距離を詰める。

 斬る。夜闇を切り裂くように、烈烈たる白銀の光が走った。


 一撃。二撃。三撃。


 残像すら残さない、神速の居合い。黒い影は悲鳴を上げる暇すらなくズタズタに裂かれ、ぐずぐずの炭となって崩れ落ちていく。


「……は?」


 刀を抜き放った姿勢のまま、俺は思わず動きを止めた。あまりにも手応えがなさすぎた。


「……弱すぎだろ、何なんだよ」


 だが、奇妙な違和感が手のひらに残った。影を斬ったというより、空間そのものを真っ二つに裂いてしまったような、嫌な感触。

 次の瞬間、ぱきんとガラスが爆ぜるような音が響いた。


「……っ」


 俺の斬撃の軌跡が、ひび割れとなって空間に広がっていく。


「……嘘、やばッ!」


 気づいた時には、もう手遅れだった。亀裂が急速に巨大な口を開け、向こう側の見えない虚無の闇が、引力を伴う。


「ちょ、待っ」


 暴力的なまでの吸引力が、俺の足元を容赦なくさらった。


「……って、またこのパターンかよぉお!!」


 必死に踏ん張るが、コンクリートを掴む靴底が完全に浮き上がる。


「ユラッ!!」


 背後から、俺の異変を察知して追いかけてきた仲間達が、猛スピードでこちらへ走ってくるのが見えた。


「何してんだお前!!」

「違う、これは勝手にっ……!」


 言い切る前に、俺の身体はブラックホールのような裂け目へと一気に引きずり込まれる。


「掴めッ!!」


 ヤマトの長い腕が伸ばされる。俺もヤマトの手へと全力で右手を伸ばした。

 しかし、あと数センチのところで、互いの指先は空をきった。

 届かないその数センチが、今の距離感そのもののように思えてならなかった。


「――――っ!」


 視界が強烈な白光に染まる。すべての音が途絶え、身体の感覚が消滅していく。奈落の底へと落ちていくような浮遊感だけが残っていた。


 *


 次に目を開けた時、肺が吸い込んだのは、冷たく乾いた空気だった。

 痛烈な石畳の硬さ。鼻を突く、肉と鉄が焼け焦げた生臭い匂い。視界に飛び込んできたのは、無惨に崩壊した建物の残骸と、あちこちに転がる巨大な魔物の死骸。


 間違いない。カノン王国の王都周辺。

 俺たちは、戻ってきたのだ。


「……戻った、のか。こちらの世界に」


 ゴランさんが低い声を漏らし、どさりと膝をつく。周囲を慌てて見渡せば、日本にいた仲間たちは全員ここに揃っていた。


「あれ……いたた」


 ハヤミが呆然と自分の二の腕をさすった。そこには、生々しい切り傷から赤い血がじわりと滲み出ていた。


「……やはり、そういうことか」


 ヤマトが服についた煤を払いながら、冷徹な声で短く呟く。


「こっちの世界は、時間が完全に停止していたんだろう」


 十万の魔物を死闘の末に討伐した、まさにその直後。俺たちが次元を斬って日本へ強制送還された、あの瞬間のまま時間が凍りついていたのだ。


「……なのに、私たちの感覚では、向こうで一か月近く過ごしたような気がしますね」


 サクラコさんが泥のついたスカートを払いながら息を吐く。

 身体に刻まれた戦傷よりも、日本でのあのごちゃごちゃした精神の疲弊の方が、遥かに重く胸の奥にのしかかっている。


「……とりあえず、手当てをしましょう」


 サクラコさんが即座に聖なる魔力を指先に灯し、後衛としての顔に戻る。俺達もそれぞれ動いた。


「……いっててて!そこ痛いって!」

「我慢しなさい。十万の魔物を相手にして、この程度の傷で済んでよかったんだから」


 カオルさんがハヤミの腕の傷口をテキパキと消毒し、包帯を押さえていく。

 俺は一人、異世界のどんよりとした空を見上げた。大勝利を収めたはずなのに、青い空はどこか澱んで見えていた。


 その時、遠くの瓦礫の向こうから、タッタッタッと複数の激しい蹄の音が迫ってきた。


「……誰か来るわ」


 カオルさんの警戒する声に、全員が一斉に顔を上げる。砂煙を上げて現れたのは、数騎の重装騎兵。指定のあった夜会用の軍服とは程遠い、金糸の刺繍をこれでもかとあしらった大仰な礼服を着た男がいた。カノン王宮の、王の使いの文官だと一目で分かった。


「勇者ユラ殿ーーっ!!」


 使いの男は馬を急停止させるなり、傲慢に胸を張り、これ見よがしに声を張り上げた。


「国王陛下より直々のお言葉である!十万の魔物を討伐したその身に、直々に誉れ高きお礼の言葉を賜るゆえ、ただちに王宮へ参内せよ!」


 戦場の凄惨さを何も知らない上から目線の命令調。その不躾な物言いに、俺が口を開くより早く、横からヤマトが口を出した。


「断っていいぞ、ユラ。そんな無駄足を踏む必要はない」


 金髪の間から覗く青い瞳は、完全に使いの男をゴミを見るような目で見つめている。


「……は?な、何だと……!?」


 使いの男の顔が、驚愕と屈辱で引きつっていく。


「耳まで腐ってんのか?今、そんな下らん事のために無駄足を踏む必要はねぇって言った」


 ヤマトの声はどこまでも静かで、底知れない脅迫の響きを孕んでいた。


「ゆ、勇者殿……っ!これは王命なのだぞ!」


 男はヤマトの威圧感に怯え、慌てて俺の方へと縋るような視線を向けた。俺に彼の暴言を窘め、従うよう判断を委ねてきたのだ。俺は疲れ切った頭で少しだけ考え、それから酷く面倒になって、ガリガリと頭を掻いた。


「あー……えっと、すんません。面会なら今はいいっす。疲れてるんで」


 はっきりと拒絶の意思を告げた瞬間、使いの男の顔色が、怒りで真っ赤に変色した。


「……な、ななな……ッ!!」


 ギリ、と男の目元が怒りで歪み、乗っている馬の鞭を激しく握りしめる。


「この、平民上がりの分際が……っ!!国王陛下の直々の命を断るというのか!不敬であるぞ!身の程を知れッ!」


 使いの男の怒声がキンキンと響き渡る。


「……王命、ねぇ」


 ヤマトが冷えた目で呟く。


「お前ら王宮の人間は、まだそんな時代遅れの特権が通用すると思ってんのか。全てが終わった頃に偉そうにしゃしゃり出てきて、今更王家の威光を振りかざす。ひどくお笑いだな」


 使いの男が息を呑んだ、その時だった。ざわ、と、破壊された街の瓦礫の影から、無数の足音が響き始めた。

 気づけば、おびただしい数の民衆が集まっていた。戦いを遠巻きに見ていた者、目の前で家族や友人を魔物に惨殺された者、なんとか生き残った者たち。その全員の、血走った憎悪に満ちた視線が、一斉に王の使いへと向けられていた。


「……今、なんて言った?」


 最前列にいた、ボロボロの服を着た男が低く呟いた。


「勇者様に……王命?威光……だと?俺たちが魔物に殺されかけている時、兵を全部城の防衛に回して、平民を切り捨てたのはどこのどいつだ……!」

「この国を守ってくれた勇者様に、よくもそんな偉そうな口が利けたもんだな……っ!」


 波紋のように、ざわめきが瞬く間に広がっていく。それは怒りのリレーとなって、はるか後ろの群衆にまで一瞬で伝播した。カノン王国が長年抱えていた王侯貴族の腐敗の歪みが、この瞬間に完全に爆発したのだ。


「お前ら王族は今まで何をしてたんだッ!!」


 一人の男の、血を吐くような叫びが空気を切り裂いた。それが、崩壊への明確な引き金だった。


「勇者様たちは命懸けで戦ってくれたんだぞ!」

「命令だけして、自分たちはぬくぬくと隠れてやがった!!」

「弱腰王とクソ貴族共がぁっ!!」


 凄まじい怒号の濁流が膨れ上がる。大歓声にも似た憎悪の嵐に、王の使いは顔を真っ青にして馬の手綱を引いた。


「ま、待て!貴様ら平民風情が大人しくし、ひぃっ!?」


 もう、誰にも止められなかった。長年溜まりに溜まっていた民衆の怒りと不満が、堰を切ったように一気に溢れ出す。暴徒と化した民衆の波は、使いの兵たちを押し退け、怒りの矛先である王城や、王家派の貴族たちが住む高級住宅街の方へと押し寄せていった。


「止まれ!止まれッ!剣を抜くぞ、大人しく……」


 憲兵たちの叫びも、民衆の圧倒的な数の怒号にかき消される。遠くのあちこちから、ガラスの割れる音と、これまで特権階級にあぐらをかいていた者たちの悲鳴が上がり始めた。


「やめろ!触るな!」

「私は侯爵だぞ!無礼者めッ!」

「きゃああっ!嫌よ、私に関係ないわ!」

「だからなんだよクソ貴族共がぁっ!痛みを思い知りやがれ!」


 豪奢なドレスや一級品のローブをまとった貴族たちが、次々と家から引きずり出されていく。男だろうと女だろうと関係ない。民衆の手によって地面を引きずり回され、容赦のない袋叩きに遭っている。


「勇者ユラ様が!」

「ヤマト様が!」

「命懸けでこの国を守ったんだ!」

「お前らは何もしてねぇ! 」


 彼らの怒りは、本来なら正しいはずだった。国に見捨てられた者たちの、正当な怒り。けれど、目の前で繰り広げられている血みどろの光景は、もう正義なんて綺麗な言葉で呼べるものではなくなっていた。


 鈍い肉打音、衣服が裂ける音、命乞いをする貴族の悲鳴、それを冷酷に嘲笑う民衆の歓声。怒りが新たな怒りを呼び、狂気が狂気を増幅させていく。


「……っ」


 俺は目の前の光景に息を呑んだ。胸の奥が、冷たい嫌悪感で激しくざわつく。


「……おい、ユラ。止めるか?」


 ゴランさんが低い声で俺の顔を覗き込んできた。ヤマトは腕を組んだまま、完全に黙り込んでいる。その瞳には、一筋の同情も哀れみもない。ただ冷徹に、王家の自業自得な滅亡を見つめていた。


「……どうするの、ユラ」


 カオルさんが静かに問いかける。すべての判断は、今や勇者である自分に向けられていた。


「……」


 俺は拳を、爪が手のひらに食い込むほど強く握りしめた。

 確かに王家は間違っていた。貴族たちも腐りきっていた。民衆がこれほどまでに激怒するのも、当然の報いだとも思う。

 でも、これは違う。こんな残虐な暴力は、絶対に何かが違っている。もし、ここで放っておいたら、民衆も、この国も、きっと誰も二度とまともな世界へ戻れなくなる。


「……こんなの、違うだろ」


 胸の底から這い出た言葉を、小さく呟いた。

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