72.迂闊な発言
街は、昼間よりもずっと眩しかった。
きらびやかなネオン、夜でも温かい潮風、どこかの店から流れてくる陽気な音楽。楽しげな観光客たちの笑い声が、夜の通りに賑やかに溶けている。
「うわ、めっちゃいいとこじゃん!」
ハヤミが両手を広げて、南国の夜空に向かって大きく伸びをした。
「マジでテンション上がるわー!兄貴、本当に連れてきてくれてサンキュー!」
「はしゃぎすぎるなと言っただろ。みっともない」
ヤマトがいつも通り、静かで冷めた声で呆れたように言う。
いつもの小競り合い、いつもの空気。
日本に帰ってきてから色々と重いことが続いたけれど、少しずつ、本当に少しずつだけど、みんながいつも通りになってきている。そんな時、
「あらぁ、壇ノ浦さんじゃない?」
不意に、背後から女の声が聞こえた。
どこか鼻にかかった、わざとらしいほど軽い声。
サクラコさんの足が、ピタリと止まる。
全員で視線を向けた先には、一人の派手な女性が立っていた。
いかにも高そうなブランド物の服をまとい、きつく巻いた髪を揺らしている。口元は笑っているのに、サクラコさんを見る目だけが酷く冷たかった。
「……久しぶりね、壇ノ浦さん。こんなところで何してるの?」
その一言で、南国の楽しい空気が一瞬にして凍りついた。
「……」
サクラコさんの表情が、ほんのわずかに強張る。けれど次の瞬間には、いつもの穏やかな笑顔を取り戻していた。
「お久しぶりです、お元気でした?」
「まあ、普通じゃない?しらんけど」
その視線は、サクラコさんの着ている服や隣にいる俺たちを、値踏みするように舐め回していた。ヤマトには一瞬見惚れていたようだが、すぐに表情は戻る。
「それにしても、ずいぶん余裕があるのねぇ」
女はわざとらしく、くすくすと笑う。
「だって、少し前まで警察沙汰になってたじゃない?私たちの店の私物を横領したって」
一瞬で、俺たちの周りの空気が極限まで冷え切った。
女の容赦ない言葉に、俺は思わず眉をひそめる。横にいるハヤミの顔がみるみる険しくなり、ゴランさんもカオルさんも不快そうに目を細めた。
それでも、サクラコさんはまだおっとりと笑っている。
「それは……もう誤解だと証明されました。警察の方でも解決しておりますよ」
静かだけど、どこか震える声だった。
「ふーん、解決ねぇ?」
女は小馬鹿にしたように肩をすくめる。
「でもさぁ、ああいうのって一回泥棒のイメージがついたら終わりじゃない?周りの目だってあるし。よく平気な顔で旅行なんて来られるわよね。横領なんて、普通に引くわ」
これ以上、言わせてたまるか。
サクラコさんの笑顔が、痛々しくて見ていられなかった。俺は考えるより先に、一歩前に出てサクラコさんを背中に隠した。
女は遮られて初めて、俺の方へ視線を向けた。
「なによ、あんた。誰?」
不快そうに、見下すような視線が俺を刺す。
「その人の関係者?悪いこと言わないから関わらない方がいいわよ?」
「関係者だよ」
俺の口から、迷いのない言葉が出た。後ろでサクラコさんが、わずかに息を呑んで目を見開くのが分かった。
「サクラコさんはそんな事をする人じゃない。勝手な憶測で傷つけるのはやめてください」
俺が真っ直ぐに睨みつけると、女は面白くなさそうに眉をぴくりと動かした。
「へぇ……」
女の厚化粧の口元が、意地悪く歪む。
「ずいぶんと必死に庇うじゃない。あんた……」
女は俺の顔をじっと覗き込んできた。
「この人の何なのよ?」
その質問を突きつけられた瞬間、頭の中の時間が止まった。
えーと、何って言えばいいんだ。ただの仲間……いや、でもそれじゃこの執拗な女は納得しない。ここで曖昧に引き下がったら、サクラコさんが傷ついたままだ。
頭の中が真っ白になって、どうしようもなくなった。なのに、口だけが勝手に動いていた。
「……恋人です」
はっきりと言い切った。その瞬間、一同が呆気にとられた。
「……は?」
すぐ横で、ハヤミが一番動揺していた。
ヤマトは何も言わない。ただ、その青い瞳の奥に、言葉にできないほど暗い色が混ざっていく。サクラコさんだけが、驚きに顔を火照らせて、静かに俺の背中を見つめていた。
「……あら、そう」
女はつまらなそうに鼻で笑う。
「まあ、好きにすればいいんじゃない?壇ノ浦さんも随分と落ちぶれたものね。そんな芋臭そうなガキが彼氏なんて、ちっとも自慢にならないわよ」
吐き捨てるようにそれだけ言うと、女は踵を返して去っていった。コツコツと鳴るヒールの音が遠ざかる。芋臭そうなガキですんませんね、おばさん。
残された俺たちの間には、形容しがたい妙な沈黙が流れていた。
「……あ、あのですね……」
女の姿が見えなくなって、俺はすぐに弁解。
「いや、今のはその!ああ言わないとあの人が引き下がらないと思ったからで……!」
顔を真っ赤にして、手振りを交えながら必死に弁解する。完全に動揺してパニックになっている俺を見て、サクラコさんはふふと笑った。
「……ありがとうございます、ユラさん」
いつも以上に、とろけるような優しい声だった。
「私のために、そんな風に言って助けてくださって。とっても嬉しかったです」
その笑顔の奥には、明らかにただの感謝ではない感情が混ざっていた。
「……ちょっと」
その時、ハヤミの低く冷え切った声が割って入った。全く笑っていない。
「今の、何?」
ハヤミが一歩、もの凄い威圧感で俺に詰め寄ってくる。
「 恋人って、本気で言ってんの?」
「いや、だからその場の流れというか、話を合わせるためだって!」
「話を合わせるためなら、恋人なんて言葉、普通すぐに出てこないじゃん!」
「だから、サクラコさんを守るために咄嗟に……!」
「ふーん、守るためねぇ?」
ハヤミはじっと俺を見つめて離さない。完全に納得がいっていない猛烈な嫉妬の色が隠せていなかった。
「……ならいいけど。安易に口に出さないでよね」
ハヤミはぷいっと顔を背け、足早に歩き出してしまった。誰が見ても明らかに機嫌が悪くなっている。
その横で、ヤマトだけはずっと無言のままだった。表情ひとつ変えず、ハヤミの後を追うように歩き出していた。
*
喧騒の激しい夜の街を、ヤマトは一人で歩いていた。
きらびやかなネオンの下。行き交う観光客たちの笑い声が、ひどく遠く感じる。
ポケットに両手を突っ込んだまま、目的もなくアスファルトを踏みしめる。
頭の芯から、どうしても離れない。
恋人ですと、言い切ったあの瞬間が。
話を合わせただけだ。そんなことは分かっている。
ユラがサクラコに対して本気で恋愛感情を抱いて言ったわけではない。ただ傷つけられていた仲間を助けるため、正義感から出た方便に過ぎない。
そんなこと、百も承知だ。
なのに、じゃあどうして胸の奥底が、不快にざわつく。
あんな風に、簡単に自分の立場を恋人だと偽れる。その真っ直ぐさが、今の自分にはたまらなく苛立たしかった。
「……クソが」
吐き捨てるように呟き、ヤマトは足を止めた。
視線の先には、けばけばしい照明に照らされた夜の店があった。
「ねぇ、そこの超カッコイイお兄さん。これから私と楽しいことしない?」
鼻にかかった甘い声。少し前までの自分なら、女の身体を道具のように抱いて夜を潰していただろう。何も考えず、何も感じず、冷めきった心のまま、都合のいい玩具として処理する夜はいくらでもあった。
「……」
ヤマトは一歩、女たちの方へ近づく。
声をかけた女が、獲物を仕留めたように嬉しそうに笑みを深くした。腕を伸ばせば、今すぐにでもその細い腰を抱ける距離。
誰でもいいはずだ。この胸の奥の、イライラとする空白が埋まれば。
そう思ったはずだった。
「……」
けれど、違う。
目の前の、安っぽい香水を漂わせる女たちを見つめても、自分の心は何ひとつ動かなかった。触れたいとも、抱きたいとも、これっぽっちも思えない。
脳裏に浮かんで消えないのは、別の、泥臭くてどうしようもないアイツの顔だった。
「……はぁ」
ヤマトの唇から、自嘲気味に冷たい息が漏れる。
「……無理だな、完全に」
ぼそりと、自分に言い聞かせるように呟いた。
「え?」
女が不思議そうに首を傾げる。
「帰る」
ヤマトは背を向けた。
ネオンの光に照らされながら、自分のあまりの変わりように呆れて、笑うしかなかった。
マジで終わっている。いつからこんなにアイツに囚われていた。
「……あいつじゃないと、もう何の意味もない」
ぬるい夜風の中に、誰にも届かない静かな声が溶けていった。




