71.ハイジャック
数日後、返却されたテストの答案用紙をそれぞれが複雑な面持ちで見つめていた。
「……ギリギリだった……ッ」
俺は思わず喉の奥から絞り出すような声を上げた。
赤点一歩手前。あと一問でも間違えていれば補習で旅行は白紙だった。
本当に助かったと、俺は安堵のあまり机に深く突っ伏した。
そのすぐ隣の席では、ハヤミが抜け殻のようになっていた。
「……終わった。あたし終了のお知らせ」
完全に光を失った死んだ目で呆然と呟いている。
「いや、無理でしょあんなの!数学の関数とかナントカ定理とか、マジでわけわかんない!」
「そのおかげで、ハヤミさんは見事な0点ですじゃ」
「いつもの事でしょ!!」
ハチベエさんの容赦ないツッコミに、ハヤミは盛大に机を叩いて抗議した。
だが、すぐにエネルギーが切れたようにぐったりと項垂れる。
「……旅行、行けないじゃんこれ……」
「数学は相変わらず酷い出来だが、他の教科の暗記でカバーしてるな。数学以外はギリギリで赤点を回避している」
ヤマトがハヤミの答案を呆れたように見て、ため息を吐いた。
いつも一桁の点数が定位置のハヤミにしては、これでも死に物狂いで頑張った方なのだろう。
「今回の旅行は、ギリOKって事にしといてやる」
「……ほんと!?行けるならもうなんだっていい!」
都合のいい言葉に即座に大復活を遂げるハヤミ。
キミ、そのうち本当に留年するぞ。
そして迎えた旅行当日。
新幹線に揺られてから空港に到着した俺たちは、圧倒されるような熱気に包まれていた。
空港特有のざわめき、行き交う人々の流れ、そしてどこか非日常を予感させる独特の匂い。
どれもが新鮮で、胸の奥がなんだかわくわくとした高鳴りを刻んでいた。
「うわ、テンション上がるぅ!」
ハヤミがきょろきょろと周囲を見渡す。
「飛行機に乗るなんて、めちゃくちゃ久々だわ」
「飛んでる最中に、興奮して壁をぶっ壊すなよ」
「するか!」
そんな軽口を叩きながら、俺はふと、少し離れた場所に立つヤマトに視線を向けた。
俺たちの間には、やっぱりほんの少しだけ目に見えない距離がある。
けっして避けられているわけではない。だけど、自ら近づいてこようともしない。
じっと見つめていると、視線に気づいたのか、ヤマトはふいと気まずそうに目を逸らした。
ちくん、と胸の奥に冷たい痛みが走る。
言葉にすればいい。理由を聞けばいい。
頭では分かっていても、どうしても言葉が喉に引っかかって出てこない。
もし拒絶されたら、もし嫌われていたら。そう考えた瞬間に思考がすくんで身動きが取れなくなる。
彼が今何を考えているのかが、俺にはまったく分からなかった。
くそう、ヤマトの奴……何考えてんだか……。
機体が、重々しい音を立ててゆっくりと滑走路を走り出した。
頭上で静かに点灯するシートベルトのサイン。
窓の外を、ものすごい速度で流れていく滑走路の景色。
全身の骨に響くようなエンジンの低い唸り。
「わあ~動いた!」
ダイゴローがマッシュヘアを揺らし、新緑の瞳を輝かせて座席から身を乗り出した。
「静かにしろって」
ゴランさんが呆れたように笑いながら、ダイゴローの頭を大きな手で撫でる。
やがて機体が一気に加速した。
ぐん、と強い重力がかかり、背中が座席のシートに深く押しつけられる。
ふわり。
大地を離れ、身体が宙に浮くような独特の感覚に、ダイゴローがまた歓声を上げる。
「飛んだ!飛んだよユラ!」
「分かったから、ちょっと落ち着けって」
俺が苦笑交じりに宥めようとした、まさにその時だった。
突如として、周囲の空気が張り詰めたものに変わった。
機内の温度が、すっと数度下がったかのような強烈な肌寒さを覚える。
「……っ」
ヤマトが鋭く顔を上げた。
俺も、ほぼ同時にその異変に身体を反応させていた。
「……来る」
ヤマトが低く呟いた直後だった。
「動くな!!」
前方から、静寂を切り裂くような男の怒号が響き渡った。
立ち上がった数人の男たちの手には、不気味に鈍く光る刃物が握られている。
彼らは大声でこの飛行機を完全に占拠したと宣言した。
一瞬の静寂の後、悲鳴が次々と上がり、狭い機内に濃密な恐怖が伝染していく。
ハイジャック。
普通の人間であれば、絶望してパニックに陥る場面だった。
しかし、俺たちの座席の一角だけは、驚くほど冷徹な静寂が保たれていた。
「……雑魚だな」
ヤマトが、感情の消えた声でぽつりと呟く。
「裏世界の異形に比べたら、欠片ほどの脅威も感じないわね」
カオルさんが、まるで夕食の献立でも考えるかのような冷静さで同意した。
「なら、一瞬で終わらせるぞ」
ゴランさんが、獰猛な笑みを浮かべて静かに席を立った。
もはや合図など不要だった。
言葉よりも先に、俺たちの身体が神速で動く。
周囲の乗客たちが何が起きたのかを理解するよりも早く、刃物を持っていた男たちは、一人残らず転がっていた。
「……はい、終わり」
ハヤミが軽く肩を回しながら、呆気ない幕切れに息を吐く。
「準備運動にもならねぇな、まったく」
完全制圧。誰もがそう確信した、はずだった。
「いや」
ヤマトの低い声が、冷たく落とされる。
「まだ終わってねぇ」
彼の金髪の隙間から覗く碧眼は、まっすぐに前方の操縦席の扉へと向けられていた。
ヤマトが迷いなく扉を開け放ち、俺もすぐその後に続いた。
目に飛び込んできた光景は、機長と副操縦士が血の海の中で倒れ伏している。辛うじて息はあるものの、一目で重傷だと分かる状態だった。
サクラコさんがすかさず手をかざし、周囲に不審に思われない程度の光で、最低限の回復魔法を素早く唱える。
だが、問題はそれだけではなかった。無数の計器が忙しなく赤く点滅し、機体が不自然に斜めへと傾き始めている。
「このままじゃ」
「墜ちる」
ヤマトが短く即答した。
だが、ヤマトの思考は一秒たりとも停止していなかった。
ブラックマーケット。
彼の専用スキルが発動する。
航空機操縦、スキル購入。
その瞬間、ヤマトの碧い瞳が鋭く細まった。
膨大な情報と経験の奔流が、彼の脳細胞へと直接流れ込んでいく。
複雑極まる計器の配置。
航空力学に基づく操縦理論。
現在の正確な風速と揚力の計算。
最適な降下角と着陸手順。
それらすべての知識が、一瞬にして彼自身の血肉へと変わっていく。
ヤマトは一切の躊躇なく、血に染まった操縦席へと滑り込むように腰を下ろした。
「……そういう構造か」
軽く呟く。
直後、操縦席にけたたましい警告音が鳴り響いた。
ストール・ウォーニング。失速警告だった。
機体がガタガタと大きく揺れ始め、客室の向こうから、絶望的な悲鳴が響いてきた。
「うるせぇな」
ヤマトは冷徹に言い放ち、スロットルレバーを力強く押し込んだ。
エンジンの出力が爆発的に跳ね上がる。
それと同時に、彼は操縦桿を押し、機首をわずかに下げた。
「速度を戻す」
誰に説明するでもなく淡々と告げ、フラップを精密に調整して機体を風に適合させていく。
数秒の後、あれほど激しかった機体の揺れが、嘘のように少しずつ収まっていった。
「……立て直した……」
俺は固唾を呑み、思わずその場に立ち尽くした。
サクラコさんの魔法でかろうじて意識を取り戻した副操縦士が、虚ろな目を開ける。
「ま、待て……お前、一体何者だ……」
「黙ってろ。死にたくなきゃな」
ヤマトは前方を睨み据えたまま、冷たく一蹴して無線通信を繋いだ。
「こちら●●機。ハイジャック犯はすべて制圧済みだ」
『こちら管制。機体識別を……』
「識別は後だ」
遮るように、ヤマトの声が鋭く刺さる。
「即座に着陸の指示を出せ」
通信の向こう側で、ヤマトのあまりの威圧感に一瞬だけ沈黙する。
『……了解した。緊急着陸用として滑走路を確保する。ただし現在、東から非常に強い横風が吹いている。注意せよ』
「問題ない」
ヤマトの視線が、目まぐるしく変わる計器の数値を正確に捉えていく。
突如、機体が再び激しく揺れた。乱気流だ。ドン、と腹の底に響くような衝撃が機体を襲う。
「うわああっ!」
後方で再び恐怖の声が上がる。
「騒ぐな」
彼はまったく動じることなく、操縦桿をほんのわずかにミリ単位で切った。
襲い来る揺れを、力任せに押さえつけようとはしない。
大自然の流れに逆らわず、むしろその獰猛な風を味方につけて機体を乗せる。
傾いていた機体の姿勢が、滑らかに元の水平へと戻っていく。
「……見えた」
分厚い雲を突き抜けた窓の向こうに、一本の直線。滑走路の光が見えてきた。
ヤマトが迷いなくレバーを引き絞る。
「ギアダウン」
腹底から重々しい金属音が響き、着陸装置が展開された。
『高度が低すぎる!上げろ!』
無線の向こうから管制官の悲鳴のような声が飛ぶ。
「見えてる」
ヤマトは逆に、さらにわずかに高度を落とした。
横で見ていた副操縦士が恐怖に顔を歪めて叫ぶ。
「バカかお前は!?沈みすぎだ、激突するぞ!」
「うるせぇ」
ヤマトの声は、どこまでも氷のように冷ややかだった。
「風に乗せるんだよ」
機首を斜めに向け、風を絶妙にいなしながら、まるで氷上を滑るように機体を進入させていく。
横風によってずれていた軌道が、接地する最後の一瞬で見事に修正された。
滑走路の中心線へ、寸分の狂いもなくぴたりと重なる。
ドンッ。
凄まじい衝撃と共に、機体が地面を叩いた。
白煙を上げ、タイヤが猛烈な摩擦で滑走路のコンクリートを掴む。
ゴゴゴゴゴ、と鼓膜を破壊せんばかりの爆音が機内を満たした。
「ブレーキ最大」
ヤマトが容赦なくペダルを踏み込む。
凄まじい逆噴射の衝撃。機体全体が激しく震えながら、猛烈な速度が急速に減速していく。確実に機体は静止へと向かっていた。
やがて、機体は完全にその動きを止めた。
数秒の間、誰も声を発することができなかった。
そして次の瞬間、客室から地鳴りのような歓声が爆発した。
声を上げて泣き出す人、全力で拍手を送る人、神に祈るように顔を覆う人。
その狂乱の中で、俺だけはただその場に立ち尽くしていた。操縦席で、静かに息を吐くヤマトの背中を、ただ見つめていた。
さっきまで、あれほど俺と距離を取っていた男。頑なに目を逸らしていた男。
そんな彼が今、この飛行機に乗るすべての命を救ったのだ。
「……ヤマト」
喉の奥から、小さくその名前を呼んだ。
ヤマトが、ゆっくりとこちらを振り返る。
視線がまっすぐに交わった。今度は、すぐには逸らされなかった。
「……なんだ」
返ってきたのは、いつも通りのぶっきらぼうな声。
けれど、そこには俺を拒絶するような冷たさは、もう微塵も含まれていなかった。
「……すごいなって見てた」
心の底からの本音を、素直に言葉にして伝えた。
ヤマトは、金髪の隙間から覗く目をわずかに細める。
「大したことじゃない」
相変わらずの短い返事。
でも、俺を突き放すような響きはどこにもなかった。
俺は迷わず、その背中へと一歩近づいた。
今度は、ヤマトが身を引くことはなかった。
「それでも、ありがとう。助かった」
「礼はいらない。当然のことをしただけだ」
俺に向ける声のトーンは、少しだけ柔らかい。
「……さっき」
俺は言いかけて、咄嗟に言葉を飲み込んだ。
あの裏世界での夜のこと。日本へ帰ってきてからの、この微妙な距離のこと。
ヤマトが俺を避けるようにしている、その本当の理由。
聞きたいことは山ほどあった。
でも、今ここで無理に訊くべきじゃない。
「いや、なんでもない」
ヤマトもそれ以上は追及してこなかった。
「……行くぞ」
ヤマトが先に立ち、操縦席から歩き出す。
俺は、その頼もしい後ろ姿をすぐ後ろから追いかけた。




