70.寂しい
*
夕方、重苦しい勉強会がようやく幕を閉じた後。
ヤマトは、あからさまに意図的な態度でユラから距離を取っていた。
あの一瞬、自分の奥底にある何かが、一線を完全に越えかけた明確な自覚があったからだ。
これ以上、あいつに近づくな。
脳内で、自分を戒めるように何度も小さく呟く。
リビングに戻ってからも、ヤマトは決してユラの隣の席には座ろうとしなかった。交わす会話も必要最低限の事務的なものに留め、その鋭い視線をユラに向けることすら頑なに拒んでいる。
「……ねぇ、なんか今日の兄貴、妙に静かじゃねぇ?」
異変を察知したハヤミが、不審そうに首を傾げた。
「いつも通りだろ。気にするな」
ヤマトは感情を削ぎ落とした声でそっけなく返す。
それ以上は決して間合いを詰めようとはしない。だが、そんな彼の不自然な頑なさに、ユラは誰よりも早く気づいていた。
明確な理由は分からない。
だけど、肌に伝わる空気で確かに分かってしまう。
完全に嫌われて避けられているわけではない。
けれど、これ以上は近づかないように、彼自身が必死に自制しているという事実に、ユラは戸惑っていた。
少しだけ、胸の奥に冷たい何かが引っかかる。
なんだよ、それ。なんで急にそんな風に距離をとられなきゃいけないんだ。
自分に落ち度があったのか、いくら考えても理由が見当たらない。
「……なんか、さみしいな」
誰に届くでもない小さな呟きが、誰もいない空間に虚しく消えた。
夜、静まり返った風呂場の前。
ヤマトは白いタオルを片側の肩にかけたまま、廊下を歩いていた。
いつも通りの無意識の動作で浴室の前にやってくると、脱衣所の扉を静かに開ける。
その瞬間、彼のすべての思考と動きが完全に停止した。
中にいた。他ならぬユラが、そこに佇んでいた。
まさに着替えの最中だったらしく、シャツを脱ぎ捨ててズボンを下ろそうとした体勢のまま、ユラもまた目を見開いて完全に固まっている。
「……」
「……」
重苦しい沈黙が、狭い脱衣所を満たしていく。
必然的に、双方の時間がピタリと止まってしまった。
ヤマトは一歩も動かない。動けない。
その碧い視線だけが、ユラの白い肌へと完全に固定されていた。
「ちょ、待って……!」
ユラが弾かれたように慌てふためく。
今は一応、感情の起伏で男の姿をしているとはいえ、突発的な事態に動揺して完全に冷静さを欠いてしまっていた。
「え、ちょっと、どこ……っ!」
下着もシャツも、思うようにうまく掴み取れない。
余計にパニックを起こして焦った結果、自分の足元がもつれてしまう。
「うわっ」
濡れた床に足を取られ、無様にバランスを崩した。
そのまま、重力に逆らえずに前方へと倒れ込む。
ドンッ、と鈍い衝撃音が響いた。
入り口に突っ立っていたヤマトの胸元にぶつかってしまい、勢い余って彼を床へと押し倒すような形で、二人の肉体が完全に重なり合ってしまった。
「っ……!」
至近距離の中で、お互いの身体が隙間なく密着している。
互いの熱い呼吸がまともに顔にかかる距離。ほんの数センチでも顔が動けば、唇が重なってしまうほどのあまりにも危険な体勢だった。
「……っ」
ユラは息を飲み、彫像のように固まる。
ヤマトもまた、その大きな身体を強硬に硬直させていた。
近い。あまりにも近すぎる。肌が、ユラの柔らかい肉体が、掌のすぐ下で確かに脈打っている。
ヤマトの胸の奥で、心臓が強く鳴り響いた。
欲しい。今すぐこの腕の中にすべてを閉じ込めてしまいたい。
いいだろ、このまま奪ってしまえば。
別の声が、耳元で甘く囁きかける。
「……っ」
ヤマトの大きな手が、ユラの腰元でわずかに愛撫するように動いた。
その指先が、どんどん深く、取り返しのつかない場所へと触れてしまいそうで。
それでも、ここで欲望のままに触れるわけにはいかないという、最後の理性が彼を繋ぎ止める。
「退け」
ヤマトの、必死に我慢する声に、ユラはハッと我に返った。
ばっと弾かれたように身体を離し、這うようにして後ろへと下がる。
「わ、悪い、本当に悪かった!!」
ユラは慌てて散らばった服をかき集めた。
顔を真っ赤に染め上げたまま、視線を激しく泳がせている。
「……後で風呂に入る」
「え?」
ヤマトの冷たい一言に、ユラが再び固まった。
「あ、ちょっと待てよ……!」
背中を向けて歩き出す彼に呼びかけるが、ヤマトは一切足を止めない。
そのまま脱衣所から立ち去っていく。パタン、と虚しく扉が閉まると、部屋には冷え切った静寂だけが残された。
「……なんだよ、もう。わけわかんねーな!」
*
夜、静まり返った廊下は冷たい空気に満ちていた。
俺は、ヤマトの部屋の扉の前で、じっと立ち尽くしていた。
ほんの少しだけ迷いが頭をよぎる。
でも、どうしても昼間からの彼の態度に我慢ができず、意を決して木製の扉をノックした。
コン、コン。
「……ヤマト、いるんだろ」
中からの返事はない。
それでも、俺は拒絶を恐れずにノブを回して扉を開けた。
ヤマトは普通に部屋の中にいた。ベッドの端に腰掛けたまま、暗闇の中で俯いている。
「……何だ」
響いた低い声はいつも通り。
だけど、そこには明らかに俺を突き放すような冷たさが混じっていた。
「……ちょっと話いいか?」
俺は静かに部屋の中へと足を踏み入れ、背後でパタンと扉を閉めた。
足音を忍ばせながら、少しずつベッドに近づいて距離を詰めていく。
「なんで俺のこと、そんなに避けてんの」
小細工なしに、真っ直ぐに本質を訊ねた。
ヤマトはすぐに答えることなく、微かに視線を伏せる。
「……避けてない」
感情を押し殺した短い返事。
「嘘つけ」
俺はすべてを見透かしたように即座に言い返した。
「さっきからずっと、俺とだけ距離を取ってるじゃんか。会話だって最低限だし」
ヤマトは深い沈黙に沈んだまま、シーツの上に置いた指先をわずかに動かした。
「……お前が気にすることじゃない。さっさと自分の部屋に戻れ」
「いや、気にするだろ普通」
遮るように即答して、さらに一歩、ヤマトの目の前へと近づく。
「……さみしい」
その感情の吐露が一撃となり、ヤマトの広い肩がぴくりと明確に揺れた。
「……ヤマトがいつもみたいにしてくれねーと、俺……案外寂しく感じちゃうみたいだ」
室内の空気が、張り詰めたものへと一変する。
ヤマトがゆっくりと顔を上げた。
視線が、真っ正面から激しくぶつかり合う。
「……そんなにも、オレがいないとさみしい?」
投げかけられた低い問いかけは、俺を試すような、狂おしい響きを含んでいた。
「……え」
俺は予期せぬ威圧感に、一瞬だけ言葉を詰まらせてしまう。
「……そ、そうだって、言ってんだろ……」
急激に顔が熱くなっていくのを感じながらも、俺は視線を逸らすまいと必死に堪えた。それでも、自分の本心をすべて言い切ってやった。
「ちゃんと、はっきりオレに聞こえるように言え」
「え……」
「少しも目を逸らさないでだ」
けっして逃がさないという、強い執着を孕んだ声だった。
「……っ」
胸がどきりとして、たまらず息を飲む。
「さ……さみしいって、そう言ってるだろ……!」
小さく、けれど今度ははっきりと、彼の胸元に向かって言い返した。
その言葉は、ヤマトの理性を粉砕するとどめの一撃となった。
「……じゃあ」
ヤマトが、さらに深く一歩を踏み込んでくる。もう目と鼻の先だった。
「この後、何されても文句は言えねぇな」
耳元で、鼓膜を焦がすような低い声が囁かれる。
距離はもう、完全に消失していた。ヤマトの手がゆっくりと持ち上がり、とんと俺の肩の骨を強く押した。
「……え」
次の瞬間、どさりと重い音を立てて、俺の身体は柔らかいベッドの上に押し倒されていた。
あまりの速度に脳の理解が追いつかず、俺はただ固まることしかできない。
だけど、不思議と逃げ出したいとは思わなかった。逃げることなんて、最初からできなかった。
「全部、オレを煽ったお前が悪いんだからな」
ヤマトが俺の身体に覆いかぶさるようにして顔を近づけてきて、今まさに重なり合おうとした、その瞬間――――
「……はぁ」
ヤマトが、魂を吐き出すかのような深い、重いため息を漏らした。
俺に伸し掛かっていた体を起こし、後ろへと下がる。
「……やめだ。今すぐ部屋へ帰れ」
それだけをぶっきらぼうに告げると、無情に背中を向けた。
「……今のは、全部忘れろ」
ベッドの上に横たわったまま、俺は身動き一つできなかった。
「……なんだよ、それ。勝手すぎる野郎だな」
小さく不満を零した。だが、ヤマトからの返事は戻ってこなかった。
ヤマトはもう、決してこちらを振り返ろうとはしない。完全に理性の殻に閉じこもり、分厚い壁を作って距離を取っている。
俺はこの痛いほどの気まずさに耐えきれなくなり、何も言わずに部屋を飛び出した。




