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食堂店員兼勇者  作者: 平民
五章 現実世界

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70.寂しい

 *


 夕方、重苦しい勉強会がようやく幕を閉じた後。

 ヤマトは、あからさまに意図的な態度でユラから距離を取っていた。

 あの一瞬、自分の奥底にある何かが、一線を完全に越えかけた明確な自覚があったからだ。


 これ以上、あいつに近づくな。


 脳内で、自分を戒めるように何度も小さく呟く。

 リビングに戻ってからも、ヤマトは決してユラの隣の席には座ろうとしなかった。交わす会話も必要最低限の事務的なものに留め、その鋭い視線をユラに向けることすら頑なに拒んでいる。


「……ねぇ、なんか今日の兄貴、妙に静かじゃねぇ?」


 異変を察知したハヤミが、不審そうに首を傾げた。


「いつも通りだろ。気にするな」


 ヤマトは感情を削ぎ落とした声でそっけなく返す。

 それ以上は決して間合いを詰めようとはしない。だが、そんな彼の不自然な頑なさに、ユラは誰よりも早く気づいていた。


 明確な理由は分からない。

 だけど、肌に伝わる空気で確かに分かってしまう。

 完全に嫌われて避けられているわけではない。

 けれど、これ以上は近づかないように、彼自身が必死に自制しているという事実に、ユラは戸惑っていた。


 少しだけ、胸の奥に冷たい何かが引っかかる。

 なんだよ、それ。なんで急にそんな風に距離をとられなきゃいけないんだ。

 自分に落ち度があったのか、いくら考えても理由が見当たらない。


「……なんか、さみしいな」


 誰に届くでもない小さな呟きが、誰もいない空間に虚しく消えた。



 夜、静まり返った風呂場の前。

 ヤマトは白いタオルを片側の肩にかけたまま、廊下を歩いていた。

 いつも通りの無意識の動作で浴室の前にやってくると、脱衣所の扉を静かに開ける。


 その瞬間、彼のすべての思考と動きが完全に停止した。

 中にいた。他ならぬユラが、そこに佇んでいた。

 まさに着替えの最中だったらしく、シャツを脱ぎ捨ててズボンを下ろそうとした体勢のまま、ユラもまた目を見開いて完全に固まっている。


「……」

「……」


 重苦しい沈黙が、狭い脱衣所を満たしていく。

 必然的に、双方の時間がピタリと止まってしまった。

 ヤマトは一歩も動かない。動けない。

 その碧い視線だけが、ユラの白い肌へと完全に固定されていた。


「ちょ、待って……!」


 ユラが弾かれたように慌てふためく。

 今は一応、感情の起伏で男の姿をしているとはいえ、突発的な事態に動揺して完全に冷静さを欠いてしまっていた。


「え、ちょっと、どこ……っ!」


 下着もシャツも、思うようにうまく掴み取れない。

 余計にパニックを起こして焦った結果、自分の足元がもつれてしまう。


「うわっ」


 濡れた床に足を取られ、無様にバランスを崩した。

 そのまま、重力に逆らえずに前方へと倒れ込む。


 ドンッ、と鈍い衝撃音が響いた。

 入り口に突っ立っていたヤマトの胸元にぶつかってしまい、勢い余って彼を床へと押し倒すような形で、二人の肉体が完全に重なり合ってしまった。


「っ……!」


 至近距離の中で、お互いの身体が隙間なく密着している。

 互いの熱い呼吸がまともに顔にかかる距離。ほんの数センチでも顔が動けば、唇が重なってしまうほどのあまりにも危険な体勢だった。


「……っ」


 ユラは息を飲み、彫像のように固まる。

 ヤマトもまた、その大きな身体を強硬に硬直させていた。


 近い。あまりにも近すぎる。肌が、ユラの柔らかい肉体が、掌のすぐ下で確かに脈打っている。


 ヤマトの胸の奥で、心臓が強く鳴り響いた。

 欲しい。今すぐこの腕の中にすべてを閉じ込めてしまいたい。


 いいだろ、このまま奪ってしまえば。

 別の声が、耳元で甘く囁きかける。


「……っ」


 ヤマトの大きな手が、ユラの腰元でわずかに愛撫するように動いた。

 その指先が、どんどん深く、取り返しのつかない場所へと触れてしまいそうで。

 それでも、ここで欲望のままに触れるわけにはいかないという、最後の理性が彼を繋ぎ止める。


「退け」


 ヤマトの、必死に我慢する声に、ユラはハッと我に返った。

 ばっと弾かれたように身体を離し、這うようにして後ろへと下がる。


「わ、悪い、本当に悪かった!!」


 ユラは慌てて散らばった服をかき集めた。

 顔を真っ赤に染め上げたまま、視線を激しく泳がせている。


「……後で風呂に入る」

「え?」


 ヤマトの冷たい一言に、ユラが再び固まった。


「あ、ちょっと待てよ……!」


 背中を向けて歩き出す彼に呼びかけるが、ヤマトは一切足を止めない。

 そのまま脱衣所から立ち去っていく。パタン、と虚しく扉が閉まると、部屋には冷え切った静寂だけが残された。


「……なんだよ、もう。わけわかんねーな!」


 *


 夜、静まり返った廊下は冷たい空気に満ちていた。

 俺は、ヤマトの部屋の扉の前で、じっと立ち尽くしていた。

 ほんの少しだけ迷いが頭をよぎる。

 でも、どうしても昼間からの彼の態度に我慢ができず、意を決して木製の扉をノックした。


 コン、コン。


「……ヤマト、いるんだろ」


 中からの返事はない。

 それでも、俺は拒絶を恐れずにノブを回して扉を開けた。

 ヤマトは普通に部屋の中にいた。ベッドの端に腰掛けたまま、暗闇の中で俯いている。


「……何だ」


 響いた低い声はいつも通り。

 だけど、そこには明らかに俺を突き放すような冷たさが混じっていた。


「……ちょっと話いいか?」


 俺は静かに部屋の中へと足を踏み入れ、背後でパタンと扉を閉めた。

 足音を忍ばせながら、少しずつベッドに近づいて距離を詰めていく。


「なんで俺のこと、そんなに避けてんの」


 小細工なしに、真っ直ぐに本質を訊ねた。

 ヤマトはすぐに答えることなく、微かに視線を伏せる。


「……避けてない」


 感情を押し殺した短い返事。


「嘘つけ」


 俺はすべてを見透かしたように即座に言い返した。


「さっきからずっと、俺とだけ距離を取ってるじゃんか。会話だって最低限だし」


 ヤマトは深い沈黙に沈んだまま、シーツの上に置いた指先をわずかに動かした。


「……お前が気にすることじゃない。さっさと自分の部屋に戻れ」

「いや、気にするだろ普通」


 遮るように即答して、さらに一歩、ヤマトの目の前へと近づく。


「……さみしい」


 その感情の吐露が一撃となり、ヤマトの広い肩がぴくりと明確に揺れた。


「……ヤマトがいつもみたいにしてくれねーと、俺……案外寂しく感じちゃうみたいだ」


 室内の空気が、張り詰めたものへと一変する。

 ヤマトがゆっくりと顔を上げた。

 視線が、真っ正面から激しくぶつかり合う。


「……そんなにも、オレがいないとさみしい?」


 投げかけられた低い問いかけは、俺を試すような、狂おしい響きを含んでいた。


「……え」


 俺は予期せぬ威圧感に、一瞬だけ言葉を詰まらせてしまう。


「……そ、そうだって、言ってんだろ……」


 急激に顔が熱くなっていくのを感じながらも、俺は視線を逸らすまいと必死に堪えた。それでも、自分の本心をすべて言い切ってやった。


「ちゃんと、はっきりオレに聞こえるように言え」

「え……」

「少しも目を逸らさないでだ」


 けっして逃がさないという、強い執着を孕んだ声だった。


「……っ」


 胸がどきりとして、たまらず息を飲む。


「さ……さみしいって、そう言ってるだろ……!」


 小さく、けれど今度ははっきりと、彼の胸元に向かって言い返した。

 その言葉は、ヤマトの理性を粉砕するとどめの一撃となった。


「……じゃあ」


 ヤマトが、さらに深く一歩を踏み込んでくる。もう目と鼻の先だった。


「この後、何されても文句は言えねぇな」


 耳元で、鼓膜を焦がすような低い声が囁かれる。

 距離はもう、完全に消失していた。ヤマトの手がゆっくりと持ち上がり、とんと俺の肩の骨を強く押した。


「……え」


 次の瞬間、どさりと重い音を立てて、俺の身体は柔らかいベッドの上に押し倒されていた。

 あまりの速度に脳の理解が追いつかず、俺はただ固まることしかできない。

 だけど、不思議と逃げ出したいとは思わなかった。逃げることなんて、最初からできなかった。


「全部、オレを煽ったお前が悪いんだからな」


 ヤマトが俺の身体に覆いかぶさるようにして顔を近づけてきて、今まさに重なり合おうとした、その瞬間――――


「……はぁ」


 ヤマトが、魂を吐き出すかのような深い、重いため息を漏らした。

 俺に伸し掛かっていた体を起こし、後ろへと下がる。


「……やめだ。今すぐ部屋へ帰れ」


 それだけをぶっきらぼうに告げると、無情に背中を向けた。


「……今のは、全部忘れろ」


 ベッドの上に横たわったまま、俺は身動き一つできなかった。


「……なんだよ、それ。勝手すぎる野郎だな」


 小さく不満を零した。だが、ヤマトからの返事は戻ってこなかった。

 ヤマトはもう、決してこちらを振り返ろうとはしない。完全に理性の殻に閉じこもり、分厚い壁を作って距離を取っている。


 俺はこの痛いほどの気まずさに耐えきれなくなり、何も言わずに部屋を飛び出した。


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