69.元通りではない
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翌朝、リビングにはいつもと変わらない騒がしい空気が戻っていた。
「みんな、昨日は心配かけて本当にごめん!」
ハヤミが、ぱんっと大げさに両手を合わせた。
ハニーブロンドのサイドポニテを揺らし、弾けるような明るい声と、いつも通りの豪快な笑顔を浮かべる。
「あはは!いやー、なんかちょっとセンチになっちゃってさ!完全にらしくなかったよね、あたし!」
頭を掻きながら、ケラケラと軽く笑ってみせる。
その大雑把な仕草も、ぶっきらぼうな言い方も、全部いつも通りそのものだった。
「……ま、無事でよかったじゃねぇかよ」
ゴランさんが大きな身体をソファに沈め、ふぅと安堵の息を吐き出す。
「ええ。本当に良かったです」
サクラコさんも深く頷いた。
張り詰めていたリビングの空気が、目に見えて少しずつ緩んでいく。ここにいる全員が、言葉には出さずとも同じことを思っていた。とりあえず、いつもの日常に戻ってきたのだと。
「でさでさ!」
ハヤミが待ってましたとばかりに、すぐに話題を切り替えた。
「なんか、パァーッと旅行とか行きたくない!?」
あまりにも唐突な提案。だけど、どこか強引なまでに明るい。
「兄貴ぃ、どっか連れてってよ。あたしの快気祝いってことでさ!」
ニヤリとヤマトに視線を送る。
「贅沢言わないから、南の島とかさ!」
「お前な……」
ヤマトが心底呆れたように、低く静かな声で返す。その温度もいつも通りだ。
「金は天から湧いてくるわけじゃねぇ。オレのサイフをあてにするな」
「固いこと言うなよー。あるでしょ?現実でも異世界でもため込んでるくせに」
「お前、兄に向かって平気で物騒なこと言うな」
いつも通りの軽口の応酬。
空気は完全に、何事もなかったかのような日常へと修復されていく。
「まぁ……たまにはいいかもしれない」
「え!?」
ハヤミのあずき色の瞳が、一気に輝いた。
「どういうこと?行ってくれるの?」
「飛行機を使う遠出」
「マジでっ!?」
ハヤミのテンポが跳ね上がった。ソファーから飛び上がらんばかりの勢いだ。
「やったあ!いいじゃんそれ、最高じゃん!」
「次の連休なら、仕事を調整して動ける」
「決まり!決定ね!」
ぱんぱん、とハヤミが嬉しそうに手を叩く。
明るい。眩しいくらいに明るい。
……だけど。俺はハヤミのその横顔を、言葉にできない複雑な気持ちで見つめていた。
絶対、無理してるよな。
昨日、あれほど絶望してボロボロに崩れ落ちた人間が、完全に元通りになるはずがない。ハヤミは、みんなを心配させまいと、一生懸命に『いつも通りのハヤミ』を演じている。
けれど、俺はそれに何も言わなかった。今は、その強がりに付き合ってあげるのが正解だと判断したからだ。
「……素晴らしい提案です」
サクラコさんが上品に微笑む。
「賛成ですじゃ!わたくしも日頃のブラック労働のストレスを癒やしたいですじゃ!」
ハチベエさんが涙目でしみじみと頷く。今日なんとか有休をとって、ここにいるのも奇跡なんだろうな。
「わーい旅行!ぼく、飛行機乗りたーい!」
ダイゴローが元気にリビングを走り回り、その無邪気な声で、場がさらにふにゃりと柔らかくなった。
「……はいはい、盛り上がってるところ悪いんだけど」
そこへ、カオルさんが現実を突きつけてきた。
「あんたたち学生組、来週から『定期テスト』があるわよね?」
一瞬にして、リビングが静まり返った。
「……は?」
ハヤミの動きが、完全にピキッと固まる。
「……あ」
俺も思わず、持っていたコップを落としそうになった。
忘れてた。完全に頭から抜け落ちていた。
「……やばくね?」
「やばいな、ユラ」
ハヤミが青い顔で俺を見て、俺も同じく青い顔で即答した。
全く勉強してねぇ。因数分解ってなんだっけ?
「旅行どころじゃなくね……?」
「言っておくが」
ヤマトが冷たく淡々と言い放つ。
「赤点取った時点で旅行計画は全白紙だ。連帯責任とする」
「はあああっ!?」
「ヤマト、マジで言ってる……!?」
「オレがこの手の話で冗談を言ったことがあるか?」
容赦のないセリフだった。
「というわけで」
カオルさんがパンッと力強く手を叩き、全員を見回した。
「今日から勉強会を開催します!学生は勉強してナンボよ。おっさんたちもサポートに回りなさい!」
「なんで俺たちまで……」
と、ゴランさんが面倒くさそうだ。
「あたし、終わった……」
ハヤミが絶望に顔を歪めて天を仰いだ。
「終わってねぇよ。さっさと机につけ」
ヤマトが間髪入れずにツッコミを入れる。
「うえーん、ユラ助けてぇ!」
「俺の方こそ助けてほしいんだが」
嘆き悲しむハヤミを筆頭に、俺たちの歪で愛おしい日常が積み上がっていくのだった。
「……マジ無理。脳みそが沸騰して死ぬ」
本日は朝から、リビングの特大テーブルを囲んでの合同勉強会。
……が、開始早々、さっそくハヤミが机にダラリと突っ伏していた。机の上には、数学の参考書とノートが新品状態で広がっている。全く使っていないのがよくわかるものだ。
「数式見ただけで強烈な睡魔が襲ってくるんだけど。これ絶対に魔王の精神攻撃だって」
「まだ始めてたったの十分でしょ、あんた」
向かい側に座るカオルさんが、眼鏡をクイッと上げながら淡々と返す。
「10分も机に向かって鉛筆握ってたんだから、まずはそこを褒めてよ!」
「甘すぎるわ。普段、凶悪な魔物と戦ってるくせして数式ごときに負けてどうするのよ」
「うぐぐ……数式の方が魔王より強いってばぁ」
呆れ果てるカオルさんとヤマトの視線に、ハヤミはぐったりと白目を剥く。
「ええと、ここって……公式、これで合ってる?」
俺が自分のノートから少し顔を上げて、ハヤミの白紙に近いノートを覗き込んだ。
「あ、そこは違いますですじゃ、ユラさん」
ハヤミの隣に座るハチベエさんが、指で数式を示した。
「そこはプラスではなくマイナスですじゃ。顧客のニーズを読み違えるのと同じくらい初歩的なミスですじゃ!」
「えー!全然わかんない!なんでプラスがマイナスになるのさ!」
「基礎が完全に抜けてますぞ、ハヤミさん……」
「うわー、ハゲにド正論言われたー!」
「ハゲって言わないでくだされ」
いつもの、賑やかでくだらないやり取りだ。勉強っていうのが嫌だけど。
俺が少しホッとした、その瞬間だった。
ハヤミが、じり……じり……と、椅子ごと不自然に距離を詰めてくる。
「ねぇ、ユラぁ」
甘えるような、少しだけ掠れた声で名前を呼ばれた。
拒絶する間もなく、ハヤミの柔らかな身体が、自然な動作で俺の左肩にコテンと寄りかかってくる。
「ここ教えて~、王子様ぁ」
差し出されたノートを見る。だけど、ハヤミの視線はノートをほとんど見ていない。上目遣いで、じっと俺の横顔を見つめている。
「……あー、でもこれ俺もわかんない。俺の勉強レベルわかってるだろ」
心臓がドクンと跳ねる。ドギマギしてビビりつつも、必死で平静を装ってノートを睨みつける。
「ユラもあたしと同レベルな頭だもんねー!仲間がいて超ウレシい!」
「仲間っていうか、さすがにハヤミよりはマシだからな!?俺は一応、赤点なだけだし」
「何言ってんのさ。赤点な時点であたしと同レベルでしょ」
「ハヤミはどの教科もいつも一桁じゃん!さすがに俺は一桁レベルじゃないし!逆に数学で連続0点を取り続けられるのは、ある種の才能として尊敬できるけどさ」
「だってわかんないんだもーん!足し算と引き算しかできねーもん!ぶっちゃけ、生きてくためには算数だけで十分でしょ!」
ハヤミはぷくーっと頬を膨らませる。そう言いながらも、俺の左腕に完全に全体重を預けて寄りかかってくる。
ただのわがままじゃない。その腕が、かすかに震えていることに俺は気づいていた。
彼女は今、俺の体温を感じることで、必死に昨日の恐怖から心を繋ぎ止めているのだ。
「……ねぇ、ユラ。もうちょい近く来てよ」
「いや、これ以上は物理的に無理だから!狭いって、ハヤミ」
「いいじゃん、減るもんじゃないしー」
ぐい、と服の袖を引っ張られる。
あまりにも遠慮のない距離ゼロ特攻に、俺の心臓は完全にオーバーヒート寸前だった。
「……ハヤミ、本当に近い。みんな見てるから」
「ユラは恥ずかしがり屋だよねー」
ハヤミは悪戯っぽく笑う。けれど、俺の袖を掴む指先には、絶対に離さないという強い力がこもっていた。
「ユラ~!ぼく、ここ分かんない!引き算が合わないよ~!」
すると今度は、反対側の右側からダイゴローがドタドタと突っ込んできた。
俺の右腕にしがみつき、小さな身体でぎゅうぎゅうとくっついてくる。
「おい、ダイゴロー、引っ張るなってば!鉛筆がズレる!」
俺はタジタジになりながら苦笑した。
左からはハヤミ、右からはダイゴロー。完全に左右からがっちりと挟まれ、身動きが取れない形になる。
「あはは!ユラ、超人気者じゃん!」
ハヤミが嬉しそうに声をあげて笑う。
昨日までの影を振り払うようなその笑顔に安心しつつも、隣から放たれる甘い香りと、ダイゴローの全力の甘えっぷりに、激しくドギマギしてしまうのだった。




