68.四角関係
*
朝のやわらかな光が、カーテンの隙間から滑り込んでいた。
部屋の中は、耳が痛くなるほど静か。
外を通る車の音だけが、遠くでかすかに、現実の生活を告げるように聞こえる。
「……ん」
小さな掠れた声を漏らし、あたしはゆっくりと目を開けた。
ぼんやりとした視界に映るのは、見慣れた天井。自宅の部屋だった。
そこからの記憶が、ドミノ倒しのように脳裏に戻ってくる。
死にたかった夜。蹴り破られた扉。ユラの腕の温かさ。そして、キス。
「っ、あ……!」
思い出したら、頭が爆発しそうなくらい恥ずかしくなった。
恥ずかしさと熱さで一気に身を起こそうとした時、不意に自分の右手の違和感に気づいた。
きゅっと、微かな体温に握られている。
「……あ」
視線を落とすと、そこにユラがいた。
ベッドのすぐ横。椅子に座り、ベッドの縁に突っ伏したまま、深く眠り込んでいる。あたしの右手を包み込みながら。
「……バカじゃん」
小さく、本当に小さく呟く。
自分の指をゆっくりと動かし、ユラの指の隙間に滑り込ませた。そっと、握り返すように。
ユラは起きない。けれど、こちらの指を絡め取ったまま、その手は決して緩まなかった。
「……なんで、いんの」
答えなんて、聞かなくても分かっている。
それでも、意地悪く問い詰めたくなる。
「……帰れよ」
小さく、突き放すような言葉。
けれど、繋いだ手は離さない。むしろ、少しだけ強く握りしめる。
「……帰んなよ」
矛盾だらけの感情。強がりと本音がごちゃ混ぜになって、自分でも止められない。
「……なんで、あんな真っ直ぐな目で、あんなこと言えんのさ……」
ぽつりと漏れた言葉が、朝の空気に溶ける。
「……ずるいじゃん、そんなの」
あたしはベッドの上で、音を立てないように少しだけ身を乗り出した。
ほんの少しだけ、迷う。自分の心臓の音がうるさすぎて、ユラが起きてしまうんじゃないかと怖くなる。
でも、止まらなかった。
そっと。
触れるだけの距離まで顔を近づけ、無防備なユラの唇に、自分の唇を落とす。
やわらかい感触。ほんの一瞬の、掠めるようなキス。
すぐに飛び退くようにして離れた。それだけなのに、心臓が爆発したかと思うほど大きく跳ね上がる。
「……っ」
慌てて目を逸らす。けれど、すぐにまた、愛おしそうにその寝顔を見てしまう。
「……大好き……あたしの、王子様……」
小さく呟いた。
自分にしか聞こえない、生まれて初めて口にする愛。
言った瞬間、自分の変化が少しだけ怖くなる。でももう、その手を離す気はさらさらなかった。
「……離れんなよ……一生……」
その声には、不良の強がりなんて、ひとかけらも残っていなかった。
ただ一人の男に縋るような、弱くて、切ない願い。
もう出会った頃には戻れない。この人への想いは。
その頃、部屋の外の薄暗い廊下で、ヤマトは壁にもたれて立っていた。
一晩中、ほとんど眠っていない。
目は完全に覚めているし、頭脳は冷徹に冴え渡っている。
なのにどこかが、決定的にズレていた。
*
……はっきりした。
答えは、もう出ている。
ずっと、心のどこかで分かっていた。ただ、認めれば自分が狂うと知っていたから、認めなかっただけだ。
昨夜、ユラがハヤミを抱きしめたあの距離。あの唇の重なり。
そのすべてが、網膜に、網膜の裏の脳細胞にべっとりと焼き付いて離れない。
……だから、あの光景が死ぬほど気に入らないのか。
自嘲気味に、ふっと口元を歪める。
すべてのパズルが、一瞬で繋がった。
独占したい。他の誰にも触れられたくない。奪われたくない。
普通の人間なら、そこでブレーキがかかる。自分の実の妹を救った恩人に対して、なんておぞましい独占欲を抱いているんだと、理性が自制をかける。
しかし、そんなブレーキなど最初から備わっていなかった。欲しいものを前にして、止まる理由がない。
「あーあ」
軽く、息を吐き出す。
「終わってんな、オレ」
自覚はある。完全に、まともじゃない。狂っている。
けれど、それを否定する気も、矯正する気も毛頭なかった。
もう、どれだけ足掻いても戻れない場所に来たのだと理解する。
「……はは」
乾いた笑いが漏れた。
驚くほど、抵抗感はなかった。むしろ、妙に納得している。
「……オレにはできねぇ綺麗なことを、あいつは平気でやりやがる」
それは決して、ユラを責めているわけではない。
むしろ、誰よりもその清廉さを認めている。認め、魅了されているからこそ、この気持ちは大きくなった。
「……ムカつく」
小さく、毒を吐き出すように言う。
ユラは正しい。完璧に、光として正しい。
だから、無理やり奪うことも、壊すこともできない。
「……だが、欲しいもんは欲しい」
あっさりと、ヤマトは言い切った。欲望に忠実に。
「……奪うか」
冗談でも何でもない。ただ、まだその手段とタイミングを決めていないだけ。
「……今はまだ、様子見……か」
*
ヤマトが佇む廊下から、少し離れた曲がり角。
サクラコは、壁に背を預けて静かに立っていた。
二人の会話が聞こえていたわけではない。
けれど、この家を満たす空気の密度で、すべてが分かった。
何かが決定的に変わってしまったことくらい、大人の女性として、察せられないはずがない。
「……はぁ」
小さく溜息を吐き出す。
「そういうこと……か」
すべてを理解する。
ハヤミの恋心も、ヤマトの執着も。
これは、かなりの強敵……。
自嘲気味な、けれどどこか楽しげな苦笑が漏れる。
遅かった。完全に、ユラの「初めて」を奪うレースには出遅れてしまった。
……困りました、本当に。
誰にでも無自覚に優しい手を伸ばす、あの愛おしい少年(あるいは少女)は、きっと誰か一人のものには収まらない。ハヤミだけでも手強いのに、ヤマトまで本気になってしまったのだから。
……それでも。好きになってしまったのですから、もう止まりません……。
そっと目を閉じる。
ハヤミに先を越された胸の奥が、ほんの少しだけ、チクリと痛む。
けれど、サクラコはその痛みを否定しなかった。




