↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
食堂店員兼勇者  作者: 平民
五章 現実世界

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

69/72

68.四角関係

 *

 

 朝のやわらかな光が、カーテンの隙間から滑り込んでいた。

 部屋の中は、耳が痛くなるほど静か。

 外を通る車の音だけが、遠くでかすかに、現実の生活を告げるように聞こえる。


「……ん」


 小さな掠れた声を漏らし、あたしはゆっくりと目を開けた。

 ぼんやりとした視界に映るのは、見慣れた天井。自宅の部屋だった。

 そこからの記憶が、ドミノ倒しのように脳裏に戻ってくる。

 死にたかった夜。蹴り破られた扉。ユラの腕の温かさ。そして、キス。


「っ、あ……!」


 思い出したら、頭が爆発しそうなくらい恥ずかしくなった。

 恥ずかしさと熱さで一気に身を起こそうとした時、不意に自分の右手の違和感に気づいた。

 きゅっと、微かな体温に握られている。


「……あ」


 視線を落とすと、そこにユラがいた。

 ベッドのすぐ横。椅子に座り、ベッドの縁に突っ伏したまま、深く眠り込んでいる。あたしの右手を包み込みながら。


「……バカじゃん」


 小さく、本当に小さく呟く。

 自分の指をゆっくりと動かし、ユラの指の隙間に滑り込ませた。そっと、握り返すように。

 ユラは起きない。けれど、こちらの指を絡め取ったまま、その手は決して緩まなかった。


「……なんで、いんの」


 答えなんて、聞かなくても分かっている。

 それでも、意地悪く問い詰めたくなる。


「……帰れよ」


 小さく、突き放すような言葉。

 けれど、繋いだ手は離さない。むしろ、少しだけ強く握りしめる。


「……帰んなよ」


 矛盾だらけの感情。強がりと本音がごちゃ混ぜになって、自分でも止められない。


「……なんで、あんな真っ直ぐな目で、あんなこと言えんのさ……」


 ぽつりと漏れた言葉が、朝の空気に溶ける。


「……ずるいじゃん、そんなの」


 あたしはベッドの上で、音を立てないように少しだけ身を乗り出した。

 ほんの少しだけ、迷う。自分の心臓の音がうるさすぎて、ユラが起きてしまうんじゃないかと怖くなる。

 でも、止まらなかった。


 そっと。

 触れるだけの距離まで顔を近づけ、無防備なユラの唇に、自分の唇を落とす。


 やわらかい感触。ほんの一瞬の、掠めるようなキス。

 すぐに飛び退くようにして離れた。それだけなのに、心臓が爆発したかと思うほど大きく跳ね上がる。


「……っ」


 慌てて目を逸らす。けれど、すぐにまた、愛おしそうにその寝顔を見てしまう。


「……大好き……あたしの、王子様……」


 小さく呟いた。

 自分にしか聞こえない、生まれて初めて口にする愛。

 言った瞬間、自分の変化が少しだけ怖くなる。でももう、その手を離す気はさらさらなかった。


「……離れんなよ……一生……」


 その声には、不良の強がりなんて、ひとかけらも残っていなかった。

 ただ一人の男に縋るような、弱くて、切ない願い。

 もう出会った頃には戻れない。この人への想いは。


 その頃、部屋の外の薄暗い廊下で、ヤマトは壁にもたれて立っていた。

 一晩中、ほとんど眠っていない。

 目は完全に覚めているし、頭脳は冷徹に冴え渡っている。

 なのにどこかが、決定的にズレていた。


 *


 ……はっきりした。


 答えは、もう出ている。

 ずっと、心のどこかで分かっていた。ただ、認めれば自分が狂うと知っていたから、認めなかっただけだ。


 昨夜、ユラがハヤミを抱きしめたあの距離。あの唇の重なり。

 そのすべてが、網膜に、網膜の裏の脳細胞にべっとりと焼き付いて離れない。


 ……だから、あの光景が死ぬほど気に入らないのか。


 自嘲気味に、ふっと口元を歪める。

 すべてのパズルが、一瞬で繋がった。

 独占したい。他の誰にも触れられたくない。奪われたくない。


 普通の人間なら、そこでブレーキがかかる。自分の実の妹を救った恩人に対して、なんておぞましい独占欲を抱いているんだと、理性が自制をかける。

 しかし、そんなブレーキなど最初から備わっていなかった。欲しいものを前にして、止まる理由がない。


「あーあ」


 軽く、息を吐き出す。


「終わってんな、オレ」


 自覚はある。完全に、まともじゃない。狂っている。

 けれど、それを否定する気も、矯正する気も毛頭なかった。

 もう、どれだけ足掻いても戻れない場所に来たのだと理解する。


「……はは」


 乾いた笑いが漏れた。

 驚くほど、抵抗感はなかった。むしろ、妙に納得している。


「……オレにはできねぇ綺麗なことを、あいつは平気でやりやがる」


 それは決して、ユラを責めているわけではない。

 むしろ、誰よりもその清廉さを認めている。認め、魅了されているからこそ、この気持ちは大きくなった。


「……ムカつく」


 小さく、毒を吐き出すように言う。

 ユラは正しい。完璧に、光として正しい。

 だから、無理やり奪うことも、壊すこともできない。


「……だが、欲しいもんは欲しい」


 あっさりと、ヤマトは言い切った。欲望に忠実に。


「……奪うか」


 冗談でも何でもない。ただ、まだその手段とタイミングを決めていないだけ。


「……今はまだ、様子見……か」


 *


 ヤマトが佇む廊下から、少し離れた曲がり角。

 サクラコは、壁に背を預けて静かに立っていた。


 二人の会話が聞こえていたわけではない。

 けれど、この家を満たす空気の密度で、すべてが分かった。

 何かが決定的に変わってしまったことくらい、大人の女性として、察せられないはずがない。


「……はぁ」


 小さく溜息を吐き出す。


「そういうこと……か」


 すべてを理解する。

 ハヤミの恋心も、ヤマトの執着も。


 これは、かなりの強敵……。

 自嘲気味な、けれどどこか楽しげな苦笑が漏れる。

 遅かった。完全に、ユラ()の「初めて」を奪うレースには出遅れてしまった。


 ……困りました、本当に。


 誰にでも無自覚に優しい手を伸ばす、あの愛おしい少年(あるいは少女)は、きっと誰か一人のものには収まらない。ハヤミだけでも手強いのに、ヤマトまで本気になってしまったのだから。


 ……それでも。好きになってしまったのですから、もう止まりません……。


 そっと目を閉じる。

 ハヤミに先を越された胸の奥が、ほんの少しだけ、チクリと痛む。

 けれど、サクラコはその痛みを否定しなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。