67.救済のキス
ガタン、と激しく椅子が転がる音が響いた。
首が一気に締め付けられ、気道が塞がる。息が入らない。
視界が急速に明度を失い、どす黒い闇が広がっていく。
音も、空気も、世界のすべてが遠のいていく。
脳が酸素を失い、意識が完全にシャットダウンしようとしたその瞬間。
バンッ!! と、鼓膜を破らんばかりの勢いで扉が蹴破られた。
「ハヤミっ!!」
すぐさまロープを切られた。
宙に浮いていた体が重力に従って崩れ落ちる前に、温かく逞しい腕の中に抱き締められる。
「……っ、げほっ……は、っ……あ、っ……!」
縄が解け、冷たい空気が一気に肺へと流れ込んできた。
激しく咳き込む。喉が焼けるように熱くて苦しい。
でも、生きている。生かされてしまった。
「ハヤミ、大丈夫か!?ハヤミ!」
ユラだ。すぐ近くにいる。近すぎるくらい、耳元で響いている。
自分がその腕の中にすっぽりと収まっているのだと気づいた瞬間、
「いやっ!」
悲鳴のような声を上げ、あたしは狂ったように暴れだした。
必死にユラの体から離れようと手足をバタつかせる。
「いや!離して、離してよおぉっ!!」
「ハヤミ、落ち着け!」
「ユラが汚くなっちゃう……ッ!!」
涙がボロボロと溢れて止まらない。視界がグシャグシャに歪む。
「触っちゃダメ……!あたし、汚いんだよ……!汚れきって、もう居場所なんてどこにもない……!」
必死にユラの胸を押し、腕を振り払おうとする。
けれど、離れない。ユラは絶対にその腕を解かなかった。
壊れかけのあたしを、ただ強く、その身に繋ぎ止めるように抱きしめ続ける。
「ハヤミ」
静かな声で、名前を呼ばれた。
声を荒らげるでもなく、過剰に憐れむでもない。
ただ、どこまでも真っ直ぐで、ブレない声。
「大丈夫だ」
魂に直接響くような、その一言。
「きみは汚れてない」
確信に満ちたトーンで言い切る。
「俺も、きみも、何ひとつ汚れてなんかいない」
そんな事なんで言えるの。
「……よく見て」
ユラがそっと、あたしの顔に自分の顔を近づける。
「俺を見て、ハヤミ」
あたしの怯えた視線を、ユラは真正面から受け止めた。
「俺の目を」
涙で揺れる最悪の視界の中で、ユラの瞳だけが恐ろしいほど鮮明に映る。
とても真っ直ぐな、黒い目。
そこには軽蔑も、同情も、拒絶もない。逸らさないし、絶対に逃げない。
「……ユラ……」
「俺が、汚く見える?」
ユラは静かに問いかけた。
あたしは震えながら、ふるふると小さく首を横に振った。
汚いわけがない。ユラはいつだって清廉な白馬の王子様なのに。
「……でも……あたしは……あたしは、汚いよ……」
消え入りそうなその声が終わるより先に、ユラは深く息を吸った。
そして、迷いなんて最初からなかったように、一気に距離を詰めてきた。
「え……」
柔らかなものが、触れる。
唇と唇が、重なった。
一瞬だけの、優しい接触。
時が止まった。あたしの脳内の、爆発しそうだった思考が完全にフリーズする。
すぐに離れる。時間にして、ほんの一秒にも満たない刹那の出来事。
それなのに、唇に残った確かな熱が、全身を支配していく。
「……っ」
言葉が出ない。顔中がカッと熱くなる。
ユラは何ひとつ表情を崩さないまま、その真っ直ぐな瞳で言った。
「これでも、自分のことを汚いって思う……?」
逃げ場のない、静かで絶対的な問い。
「俺が触れても、きみは汚くなる?」
涙がどっと溢れ出た。けれど、さっきまでの絶望の涙とは違っていた。
「……ちが……っ」
喉を震わせ、掠れた声を絞り出す。
「……ちがう……っ、ちがうよ……っ」
完全に身体の力が抜けた。そのまま、ユラの広い胸の中へと崩れ落ちる。
「……なんで……なんで、そんなことできんの……」
まだ震えている。でも、もう暴れてはいない。ユラという絶対的な光に、その身を預ける。
「……俺がそう思ってないから。それだけだよ」
迷いのない眩しい回答だった。
「キミは、汚れてない。だから大丈夫。俺が保証する」
あたしは声を殺して泣いた。ユラの胸に顔を埋め、子供のように、現実世界で一度も泣けなかった分を取り戻すように、ただ激しく咽び泣いた。
「……っ、あ……う、ぅ……っ」
ユラはそんなあたしの背中を、何度も、何度も優しく撫で続けた。
ここにいていいんだと、その存在を全肯定するように。
少し離れた扉の前に、ヤマトが立っていた。
何も言わなかった。
*
オレは扉の前で、一歩も動けなくなった。
中の光景が、網膜に、脳裏に、心臓の奥深くに直接焼き付いて離れない。
ユラが、ハヤミを抱いている。
その腕の中で、現実世界ですべてに絶望していたあのハヤミが、無防備に崩れている。
泣いて震えて、ユラの手によって、完全に救われている。
そして、二人の唇が重なった。
ほんの一瞬だ。本当に、瞬きをするほどの短い出来事。
だが、自分の目にはスローモーションのように克明に見えた。
触れた。奪われた。通じ合った。
ドクン。
心臓がひどく嫌な音を立てて跳ね上がる。胸の奥を、泥のようなどす黒い感情が侵食していく。
遅れて襲ってきたのは、吐き気がするほどの冷徹な理解だった。
あれが正解だ。
あの極限の場で、あそこまで迷いなく、命を、心を救う選択ができるのは、世界中でユラだけだ。
分かっている。全部、頭では分かっている。
すべてを打算と裏切りの中で処理してきた自分には、到底あんな真似はできない。ハヤミを助けたいという気持ちに嘘はなかった。だが、自分があの場にいても、ハヤミを呪縛から解き放つことはできなかっただろう。
なのに、脳裏に猛烈な漆黒の衝動が走る。
『オレ以外の奴に、触れるな』
それは妹に対してのものではなかった。
ハヤミを救った、あの光そのものの存在に対してだった。
『ユラはオレのもの……』
心臓が引き裂かれそうなほどの独占欲。そのドス黒い本音に、自分自身で激しい戦慄を覚えた。
違う。オレは、そんなつもりでユラを見ていたわけじゃない。
そんなおぞましい独占欲を、執着を、抱くはずがない。
だけど、一度気づいてしまった歪みは、二度と消えない。
胸の最深部で、ドロドロと黒いマグマが流れている気がした。
「……」
ここで声を出せば、何かが決定的に終わる気がした。
祝福することも、責めることも、その綺麗な光景の間に割って入ることも、自分には許されない。
ただ視線を逸らせばいい。自分にとっては残酷すぎて、見ていられないはずの光景だ。
それなのに、磁石に吸い寄せられるように、視線が二人の距離感へと戻ってしまう。
あの近さ。あの二人だけの、誰も入れない空気。
オレの手じゃ……届かない……。
「……は」
一度、深く息を吐き出した。
自分を限界まで冷まし、落ち着かせるために。
すべての感情を、心の底の檻へと押し殺す。
これは決して、表に出してはいけない。
もしこの感情を少しでも漏らせば、この不安定な仲間としての関係も、自分の理性も、何もかもが壊れてしまう。
「……よかったな」
誰にも聞こえないほどの、静かな声で呟いた。
本心のはずだった。ハヤミが救われてよかったと。そうであってほしかった。
けれど、胸の奥底に沈んだ黒い根は、消えなかった。
今はまだ。まだ、出してはいけない。
そう自制した時点で、もう手遅れなのだということを、この時の自分はまだ知る由もなかった。




