66.ハヤミの闇
俺たちは、何事もなかったように席へ戻る。けれど、誰もさっきのことには触れなかった。触れた瞬間、何かが壊れてしまう。全員が、そう分かっているみたいだった。
「……ハヤミ」
俺は小さく呼んだ。
「なに?」
返ってきたのは、いつもの声だった。
いつもの顔、いつもの笑い方。なのに、指先だけがわずかに震えている。
無理してるなってわかってしまう。
「本当に、大丈夫……なのか」
「大丈夫だって」
即答で、早すぎる答えだった。
「こんなの、慣れてるし」
軽い口調が軽すぎて、ヤマトが黙ってハヤミを見ていた。
何か言いたげで、けれど何も言わない。
「……今日はもう解散しようよ」
ハヤミが先に言った。
「さすがに疲れたし」
「……ああ。そうだね……」
誰も反対しなかった。みんなも何か思う所があるようだった。
「明日、また集まろう」
俺は時計を見ながらそう言った。
「これからのこと、ちゃんと考えないと」
「だね」
ハヤミが微笑む。
「じゃ、また明日ね」
それだけ言って、他の仲間も、ハヤミも立ち上がった。彼女の背中はいつも通りに見えた。背筋を伸ばして、誰にも弱みなんて見せないみたいに歩いていく。
だけど、どこか危うさを感じて不安に思えた。分かっていたのに、俺は止められなかった。
*
夜の街を、あたしは一人で歩いていた。
街灯の明かりが、濡れたアスファルトにぼんやり滲んでいる。人通りはまだある。酔った声も、笑い声も、どこか遠くに聞こえる。
「ねぇねぇ、カワイ子ちゃん」
軽い声がかかる。男が二人。
「暇?」
ナンパだった。いつもなら軽くあしらっていた。場合によっては蹴り飛ばして去る。それだけの相手だったのに。
「……触んな」
声がいつも以上に低く出た。
「え?なに怖い顔してんの」
男が笑い、そして何気なくあたしの肩に手を置いた。
手、笑い声、押さえつけられる記憶が流れる。息が止まる。
「あれれ、大丈夫?」
男が覗き込んでくる。距離が近すぎる。
「……やめろ」
小さく言った。でも、相手には届かない。
「なに?可愛いじゃん」
また手が伸びてきて、何かが切れた。
「触んなっつってんだろうがッ!!」
反社的に手足が動いていた。男の体が木の葉のように吹き飛ぶ。
「っ、な……!?」
もう一人が反応するより先に、蹴りや拳。また拳。止まらない。
「やめ……っ!」
声は聞こえていなかった。
殴り、叩き、壊す。
記憶の嫌悪感や不快感の衝動のままに、完全に制御が切れてしまった。
「ハヤミ!!」
近くを歩いていたヤマト《兄貴》が腕を掴むが、あたしはそれを振り払った。
「離せ!!」
その目はもう、いつもの自分じゃなかったと思う。
「落ち着け」
兄貴が諭すように低く言う。それでも暴れそうになる自分は止まらない。
今度はさらに強く押さえ込まれた。
「ハヤミっ!」
ユラが慌てて声を掛けると、ほんの一瞬で視界がクリアになった。
そして、視界に倒れている男と血を交互に見ては深い息を吐く。やってしまった。
「……ごめん……。あたし、どうかしてるね……」
震えながら、そのまま顔を逸らし、暴れていた力が全て抜けた。
「今は……一人にさせて」
それだけ言って、あたしはまた歩き出した。
今は一人になりたかった。誰とも関わりたくなかった。
自宅の扉が閉まると、しんと静寂が広がる。
あたしはそのままフラフラと風呂場へ向かった。服を脱ぐこともせず、靴下も、スカートも、シャツも、そのままで浴室に入る。
シャワーをひねると水が落ちる。冷たい水が髪を濡らし、服を重くし、肌に張り付いていく。それでも、ぼうっとして動かなかった。
「……きたない」
小さく呟いた。
「きたない、きたない、きたない……あらわないと……」
泡を付けたタオルで、ひたすら腕を擦る。強く、何度も何度も擦り続ける。
擦る。
擦る。
擦る。
何度もそうしているうちに、肌が赤くなっていく。
見えない汚れが一向に落ちない気がして止まらない。
「取れない……」
汚れなんて決して見えるはずないのに、それでも止まらない。
「取れない……っ」
水音だけがしばらく響く。誰にも届かない場所で延々と、それは終わらない作業のように続く。
やがて、服のままあたしは壁にもたれていた。シャワーは流れたまま。
なんだか全身の感覚がなくて、何も感じられない。
「っ…………」
唐突なフラッシュバックに口元を押さえる。
暗い部屋で、押さえつける手。笑い声、逃げ場のない空気。
小さな自分は、何度も助けを求めた。
でも、助けは誰も来なかった。
「……やめて……」
誰にも届かない声と、傷つく心に、毎日疲弊していた。
心も体も、自分自身も、どんどんすり減っていった。
「……助けてって……言ったのに……」
震える声がこぼれる。
「……誰も……来なかった……」
頭の中に顔が浮かぶ。
大和。自分の実の兄。
離婚して疎遠になっていても、時々助けてくれた。
でも――――
「……いなくなった……」
鑑別所の面会室で、一人になった瞬間を思い出す。
「……やっぱり……誰も信用できない……ユラだって」
名前を出した瞬間、胸が痛んだ。
「……本当のあたしを知ったら……」
言葉が続かない。
「……嫌いになる。拒絶される」
断言したみたいに自分で言ってしまって、震える。
それが一番怖くて、想像したくない。
「……そんなの……無理だ……」
胸を押さえる。
「……あたしの居場所なんて……どこにもない……」
あたしはゆっくりと浴室から出た。
足元がふらつく。部屋の中は暗くて、電気さえつける気力もわかない。
ぼんやりとした視界の中で、あるものが目に入る。
ロープ。
いつかの自分が、用意したもの。
「……ああ」
理解してしまう。これが何か、何のためにあるか、それだけはハッキリしていた。
指が勝手に動き、触れて、掴んでしまう。
心が追いついていないのに、体だけが動いてしまう。
「……ユラ……」
大好きな人の顔が脳裏に思い浮かぶ。
「……ごめん……あたし、もう……行くところがない……」
涙がとめどなく流れて止まらない。
その場に立ったまま、動きが止まる。
ほんの一瞬だけ迷いがよぎったが、止まれなかった。




