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食堂店員兼勇者  作者: 平民
五章 現実世界

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66.ハヤミの闇

 俺たちは、何事もなかったように席へ戻る。けれど、誰もさっきのことには触れなかった。触れた瞬間、何かが壊れてしまう。全員が、そう分かっているみたいだった。


「……ハヤミ」


 俺は小さく呼んだ。


「なに?」


 返ってきたのは、いつもの声だった。

 いつもの顔、いつもの笑い方。なのに、指先だけがわずかに震えている。

 無理してるなってわかってしまう。


「本当に、大丈夫……なのか」

「大丈夫だって」


 即答で、早すぎる答えだった。


「こんなの、慣れてるし」


 軽い口調が軽すぎて、ヤマトが黙ってハヤミを見ていた。

 何か言いたげで、けれど何も言わない。


「……今日はもう解散しようよ」


 ハヤミが先に言った。


「さすがに疲れたし」

「……ああ。そうだね……」


 誰も反対しなかった。みんなも何か思う所があるようだった。


「明日、また集まろう」


 俺は時計を見ながらそう言った。


「これからのこと、ちゃんと考えないと」

「だね」


 ハヤミが微笑む。


「じゃ、また明日ね」


 それだけ言って、他の仲間も、ハヤミも立ち上がった。彼女の背中はいつも通りに見えた。背筋を伸ばして、誰にも弱みなんて見せないみたいに歩いていく。

 だけど、どこか危うさを感じて不安に思えた。分かっていたのに、俺は止められなかった。


 *


 夜の街を、あたしは一人で歩いていた。

 街灯の明かりが、濡れたアスファルトにぼんやり滲んでいる。人通りはまだある。酔った声も、笑い声も、どこか遠くに聞こえる。


「ねぇねぇ、カワイ子ちゃん」


 軽い声がかかる。男が二人。


「暇?」


 ナンパだった。いつもなら軽くあしらっていた。場合によっては蹴り飛ばして去る。それだけの相手だったのに。


「……触んな」


 声がいつも以上に低く出た。


「え?なに怖い顔してんの」


 男が笑い、そして何気なくあたしの肩に手を置いた。

 手、笑い声、押さえつけられる記憶が流れる。息が止まる。


「あれれ、大丈夫?」


 男が覗き込んでくる。距離が近すぎる。


「……やめろ」


 小さく言った。でも、相手には届かない。


「なに?可愛いじゃん」


 また手が伸びてきて、何かが切れた。


「触んなっつってんだろうがッ!!」


 反社的に手足が動いていた。男の体が木の葉のように吹き飛ぶ。


「っ、な……!?」


 もう一人が反応するより先に、蹴りや拳。また拳。止まらない。


「やめ……っ!」


 声は聞こえていなかった。

 殴り、叩き、壊す。

 記憶の嫌悪感や不快感の衝動のままに、完全に制御が切れてしまった。


「ハヤミ!!」


 近くを歩いていたヤマト《兄貴》が腕を掴むが、あたしはそれを振り払った。


「離せ!!」


 その目はもう、いつもの自分じゃなかったと思う。


「落ち着け」


 兄貴が諭すように低く言う。それでも暴れそうになる自分は止まらない。

 今度はさらに強く押さえ込まれた。


「ハヤミっ!」


 ユラが慌てて声を掛けると、ほんの一瞬で視界がクリアになった。

 そして、視界に倒れている男と血を交互に見ては深い息を吐く。やってしまった。


「……ごめん……。あたし、どうかしてるね……」


 震えながら、そのまま顔を逸らし、暴れていた力が全て抜けた。


「今は……一人にさせて」


 それだけ言って、あたしはまた歩き出した。

 今は一人になりたかった。誰とも関わりたくなかった。



 自宅の扉が閉まると、しんと静寂が広がる。

 あたしはそのままフラフラと風呂場へ向かった。服を脱ぐこともせず、靴下も、スカートも、シャツも、そのままで浴室に入る。


 シャワーをひねると水が落ちる。冷たい水が髪を濡らし、服を重くし、肌に張り付いていく。それでも、ぼうっとして動かなかった。


「……きたない」


 小さく呟いた。


「きたない、きたない、きたない……あらわないと……」


 泡を付けたタオルで、ひたすら腕を擦る。強く、何度も何度も擦り続ける。

 擦る。

 擦る。

 擦る。

 何度もそうしているうちに、肌が赤くなっていく。

 見えない汚れが一向に落ちない気がして止まらない。


「取れない……」


 汚れなんて決して見えるはずないのに、それでも止まらない。


「取れない……っ」


 水音だけがしばらく響く。誰にも届かない場所で延々と、それは終わらない作業のように続く。

 やがて、服のままあたしは壁にもたれていた。シャワーは流れたまま。

 なんだか全身の感覚がなくて、何も感じられない。


「っ…………」


 唐突なフラッシュバックに口元を押さえる。

 暗い部屋で、押さえつける手。笑い声、逃げ場のない空気。

 小さな自分は、何度も助けを求めた。

 でも、助けは誰も来なかった。


「……やめて……」


 誰にも届かない声と、傷つく心に、毎日疲弊していた。

 心も体も、自分自身も、どんどんすり減っていった。


「……助けてって……言ったのに……」


 震える声がこぼれる。


「……誰も……来なかった……」


 頭の中に顔が浮かぶ。

 大和(ヤマト)。自分の実の兄。

 離婚して疎遠になっていても、時々助けてくれた。

 でも――――


「……いなくなった……」


 鑑別所の面会室で、一人になった瞬間を思い出す。


「……やっぱり……誰も信用できない……ユラだって」


 名前を出した瞬間、胸が痛んだ。


「……本当のあたしを知ったら……」


 言葉が続かない。


「……嫌いになる。拒絶される」


 断言したみたいに自分で言ってしまって、震える。

 それが一番怖くて、想像したくない。


「……そんなの……無理だ……」


 胸を押さえる。


「……あたしの居場所なんて……どこにもない……」


 あたしはゆっくりと浴室から出た。

 足元がふらつく。部屋の中は暗くて、電気さえつける気力もわかない。

 ぼんやりとした視界の中で、あるものが目に入る。


 ロープ。


 いつかの自分が、用意したもの。


「……ああ」


 理解してしまう。これが何か、何のためにあるか、それだけはハッキリしていた。

 指が勝手に動き、触れて、掴んでしまう。

 心が追いついていないのに、体だけが動いてしまう。


「……ユラ……」


 大好きな人の顔が脳裏に思い浮かぶ。


「……ごめん……あたし、もう……行くところがない……」


 涙がとめどなく流れて止まらない。

 その場に立ったまま、動きが止まる。

 ほんの一瞬だけ迷いがよぎったが、止まれなかった。



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