65.現実の戦闘
しばらくして、卓上のコップがかすかに揺れた。
カタ、と小さな硬い音。
それは単なる物理的な振動ではなかった。空気の奥底で、目に見えない何かが激しく軋んでいる。
その異様な違和感を、全員が同時に肌で察した。
来る――――。
一瞬で、すべての音が消え去った。
さっきまで響いていた店内のざわめきが遠のき、世界から無理やり切り離されたような静寂が訪れる。
現実の輪郭が、ぐにゃりと歪む。
「これ……裏世界?」
誰かの低い声が聞こえた。
視界の端、床に落ちた影が生き物のように滲みながら広がっていく。
底知れない黒が、足元から這い出してくる。
「武器がねぇな」
ゴランさんが拳にぎゅっと力を入れている。
「問題ない。呼び出せる」
ヤマトが言いながら右手を伸ばした。すると、右手の先の空間が次元の裂け目のように歪む。ヤマトは一切迷うことなく、その中に腕を突き入れた。
そして、ぐっと引き抜く。
その手には、自分の愛銃が携えられていた。
現実世界の物のはずなのに、異界の魔力を孕んでどこか禍々しい存在感を放っている。
「ブラックマーケット経由だ」
「便利すぎるでしょ、それ」
ハヤミが呆れたように肩をすくめた。
「お前らもやれ。自分の武器を想像しながらな」
全員が同時に頷き、深く息を整えた。
意識を極限まで集中させる。空間の見えない向こう側へ、自分の武器を想像しながら手を伸ばす。
「……来い」
俺は小さく心の中で念じた。
空間が歪んで、その先に馴染む感触がした途端、一気に引き抜いた。
その手には、親父がくれた自らの剣があった。
まるで最初からそこにあったかのように、一切の違和感がない。
「……よし」
案外、簡単に取り出せるものだなと拍子抜けした。
「ふーん、そうやるんだね」
ハヤミもその動きを真似て、空間に手を伸ばす。
「っ……出ろ!!」
だが、彼女の場合はうまくいかず、空間が拒絶するように不安定に揺れる。それでも力任せに引きずり出すと、愛用のハンマーがやっと現れる。
「ちょっとコツがいるじゃんこれ。失敗すると疲れるんだけど」
「空間から武器を取り出す行為は、精神への負荷がそれなりにあるわね」
カオルさんがナックルを装着しながら冷静に分析する。ゴランさんやハチベエさんも同じ要領で武器を手に入れ、サクラコさんも魔法のリリアンを取り出していた。ダイゴローはいつもの口の悪い妖精三匹を召喚させていた。妖精って武器なの……?
「キシャアアア」
異形の影が動くと、戦闘の火蓋が切って落とされた。
ハヤミがいち早く鋭く踏み込み、大質量を誇るハンマーを振り上げようとした。
だが、その初動がほんの一瞬だけ遅れる。
武器を無理に召喚した際に生じた精神的な負荷。その隙を、影は見逃さなかった。
「っ、……くるな」
ハヤミの拒絶の声も虚しく、影が彼女の心の最も脆弱な部分を狙い、ハヤミの腰と足に容赦なく絡みついた。
「……っ」
びくりと身体を強張らせ、ハヤミの動きが完全に停止する。
「いや……」
まとわりつく影の輪郭が、彼女の忌まわしい過去の記憶を脳内に呼び起こさせたらしい。
「いやああああぁぁあ!!」
引き裂かれたような悲鳴が裏世界に響き渡る。
ハヤミの全身は小刻みに震え、ハンマーを握っていた指先から力が抜け、武器が虚しく床に転がる。
「ハヤミ!」
「まずいですじゃ!裏世界の影は、他人の精神に干渉してしまえる存在。今彼女は心の最も弱い部分を影に突かれています」
ハチベエさんの説明におおよそ見当がついた。
影は人間の形を模しながらも中は空洞で、醜悪に歪んだ笑みを浮かべている。
錯乱状態の彼女を救うべく、俺が駆け寄ろうとしたその時だった。
「どけ」
低く冷徹な声を放ちながら、ヤマトが脱兎のごとき速度で前に躍り出た。
影に向けて迷いなく銃口を固定し、ひたすら引き金を絞り続ける。
パン、パン、パン。
連続する鋭い銃声が鼓膜を叩き、削り取られた影の破片と熱い薬莢が床を激しく跳ねていく。
だが、無限に湧き出す敵の勢いは止まらない。
ヤマトは容赦のない冷徹さでさらに一歩踏み込み、声を一段と低く沈ませた。
「消えろ」
周囲の空気が、圧殺されるように一変する。
「ヤマト……?」
直感が激しく警鐘を鳴らした。
これは、いつものヤマトじゃない。
「……死ね」
極小の囁きと共に放たれた弾丸は、それまでのものとは音がまったく違っていた。
乾いた銃声などではなく、空間そのものを叩き潰すような黒い衝撃波だった。
異形の影たちは、むごたらしく消し飛んでいく。その存在の根源ごと消滅させる攻撃そのもの。
ヤマトの瞳は、完全に理性の糸が切れていた。一瞬だけ、赤く見えた気がした。
「ヤマト!」
叫ぶ俺の声など、一切耳に入っていない様子だった。
彼は狂ったように、なおも銃を向け続けている。
このままだと、敵だけでなくこの空間も、ヤマト自身も、そしてハヤミまでもが完全に壊れてしまう。
「やめろ!!」
俺は全力で前に飛び出した。
ヤマトの硬い腕を掴み、その肉体を強く引き止める。
「もういいから!」
その瞬間、ヤマトの焦点の合わなかった瞳が、人間らしい揺らぎを取り戻した。
「……ユラ……」
掠れた声が彼の唇から漏れ、構えられていた銃口がゆっくりと床へ下げられる。
張り詰めていた濃密な殺気がほどけていく。
周囲を見渡せば、影は一匹残らず完全に消滅していた。
裏世界の結界が内側から崩壊し、現実の柔らかな光が視界に差し込んでくる。
気づけば、元の平穏なファミレスに戻っていた。
周囲には再び日常の喧騒と楽しげなざわめきが戻り、誰も何も気づいていない様子で食事を楽しんでいる。
「……大丈夫か」
俺はまだ肩を震わせているハヤミにそっと声をかける。
「……うん」
彼女は乱れた呼吸を必死に整えながら、弱々しく立ち上がった。
「驚かせてごめん。あたしらしくなかったね……」
「ハヤミ……」
無理に笑おうとするハヤミだったが、その瞳の奥にはまだ恐怖の余震が深く残っている。
一方、ヤマトに視線を転じると、彼は何も語らずにただ黙って己の手を見つめていた。
一歩間違えれば全員が破滅していたかもしれないほど、危うい瞬間だった。
でも、分かっている。
あれは凶暴で利己的な暴走などではない。
現実世界で傷つき、離れ離れになってしまった妹を、今度こそこの手で絶対に守り抜くという、兄としての不器用な愛情の証明だったのだ。




