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食堂店員兼勇者  作者: 平民
五章 現実世界

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65.現実の戦闘

 しばらくして、卓上のコップがかすかに揺れた。

 カタ、と小さな硬い音。

 それは単なる物理的な振動ではなかった。空気の奥底で、目に見えない何かが激しく軋んでいる。

 その異様な違和感を、全員が同時に肌で察した。


 来る――――。


 一瞬で、すべての音が消え去った。

 さっきまで響いていた店内のざわめきが遠のき、世界から無理やり切り離されたような静寂が訪れる。

 現実の輪郭が、ぐにゃりと歪む。


「これ……裏世界?」


 誰かの低い声が聞こえた。

 視界の端、床に落ちた影が生き物のように滲みながら広がっていく。

 底知れない黒が、足元から這い出してくる。


「武器がねぇな」


 ゴランさんが拳にぎゅっと力を入れている。


「問題ない。呼び出せる」


 ヤマトが言いながら右手を伸ばした。すると、右手の先の空間が次元の裂け目のように歪む。ヤマトは一切迷うことなく、その中に腕を突き入れた。

 そして、ぐっと引き抜く。

 その手には、自分の愛銃が携えられていた。

 現実世界の物のはずなのに、異界の魔力を孕んでどこか禍々しい存在感を放っている。


「ブラックマーケット経由だ」

「便利すぎるでしょ、それ」


 ハヤミが呆れたように肩をすくめた。


「お前らもやれ。自分の武器を想像しながらな」


 全員が同時に頷き、深く息を整えた。

 意識を極限まで集中させる。空間の見えない向こう側へ、自分の武器を想像しながら手を伸ばす。


「……来い」


 俺は小さく心の中で念じた。

 空間が歪んで、その先に馴染む感触がした途端、一気に引き抜いた。

 その手には、親父がくれた自らの剣があった。

 まるで最初からそこにあったかのように、一切の違和感がない。


「……よし」


 案外、簡単に取り出せるものだなと拍子抜けした。


「ふーん、そうやるんだね」


 ハヤミもその動きを真似て、空間に手を伸ばす。


「っ……出ろ!!」


 だが、彼女の場合はうまくいかず、空間が拒絶するように不安定に揺れる。それでも力任せに引きずり出すと、愛用のハンマーがやっと現れる。


「ちょっとコツがいるじゃんこれ。失敗すると疲れるんだけど」

「空間から武器を取り出す行為は、精神への負荷がそれなりにあるわね」


 カオルさんがナックルを装着しながら冷静に分析する。ゴランさんやハチベエさんも同じ要領で武器を手に入れ、サクラコさんも魔法のリリアンを取り出していた。ダイゴローはいつもの口の悪い妖精三匹を召喚させていた。妖精って武器なの……?


「キシャアアア」 


 異形の影が動くと、戦闘の火蓋が切って落とされた。

 ハヤミがいち早く鋭く踏み込み、大質量を誇るハンマーを振り上げようとした。

 だが、その初動がほんの一瞬だけ遅れる。

 武器を無理に召喚した際に生じた精神的な負荷。その隙を、影は見逃さなかった。


「っ、……くるな」


 ハヤミの拒絶の声も虚しく、影が彼女の心の最も脆弱な部分を狙い、ハヤミの腰と足に容赦なく絡みついた。


「……っ」


 びくりと身体を強張らせ、ハヤミの動きが完全に停止する。


「いや……」


 まとわりつく影の輪郭が、彼女の忌まわしい過去の記憶を脳内に呼び起こさせたらしい。


「いやああああぁぁあ!!」


 引き裂かれたような悲鳴が裏世界に響き渡る。

 ハヤミの全身は小刻みに震え、ハンマーを握っていた指先から力が抜け、武器が虚しく床に転がる。


「ハヤミ!」

「まずいですじゃ!裏世界の影は、他人の精神に干渉してしまえる存在。今彼女は心の最も弱い部分を影に突かれています」


 ハチベエさんの説明におおよそ見当がついた。

 影は人間の形を模しながらも中は空洞で、醜悪に歪んだ笑みを浮かべている。

 錯乱状態の彼女を救うべく、俺が駆け寄ろうとしたその時だった。


「どけ」


 低く冷徹な声を放ちながら、ヤマトが脱兎のごとき速度で前に躍り出た。

 影に向けて迷いなく銃口を固定し、ひたすら引き金を絞り続ける。


 パン、パン、パン。


 連続する鋭い銃声が鼓膜を叩き、削り取られた影の破片と熱い薬莢が床を激しく跳ねていく。

 だが、無限に湧き出す敵の勢いは止まらない。

 ヤマトは容赦のない冷徹さでさらに一歩踏み込み、声を一段と低く沈ませた。


「消えろ」


 周囲の空気が、圧殺されるように一変する。


「ヤマト……?」


 直感が激しく警鐘を鳴らした。

 これは、いつものヤマトじゃない。


「……死ね」


 極小の囁きと共に放たれた弾丸は、それまでのものとは音がまったく違っていた。

 乾いた銃声などではなく、空間そのものを叩き潰すような黒い衝撃波だった。

 異形の影たちは、むごたらしく消し飛んでいく。その存在の根源ごと消滅させる攻撃そのもの。

 ヤマトの瞳は、完全に理性の糸が切れていた。一瞬だけ、赤く見えた気がした。


「ヤマト!」


 叫ぶ俺の声など、一切耳に入っていない様子だった。

 彼は狂ったように、なおも銃を向け続けている。

 このままだと、敵だけでなくこの空間も、ヤマト自身も、そしてハヤミまでもが完全に壊れてしまう。


「やめろ!!」


 俺は全力で前に飛び出した。

 ヤマトの硬い腕を掴み、その肉体を強く引き止める。


「もういいから!」


 その瞬間、ヤマトの焦点の合わなかった瞳が、人間らしい揺らぎを取り戻した。


「……ユラ……」


 掠れた声が彼の唇から漏れ、構えられていた銃口がゆっくりと床へ下げられる。

 張り詰めていた濃密な殺気がほどけていく。

 周囲を見渡せば、影は一匹残らず完全に消滅していた。


 裏世界の結界が内側から崩壊し、現実の柔らかな光が視界に差し込んでくる。

 気づけば、元の平穏なファミレスに戻っていた。

 周囲には再び日常の喧騒と楽しげなざわめきが戻り、誰も何も気づいていない様子で食事を楽しんでいる。


「……大丈夫か」


 俺はまだ肩を震わせているハヤミにそっと声をかける。


「……うん」


 彼女は乱れた呼吸を必死に整えながら、弱々しく立ち上がった。


「驚かせてごめん。あたしらしくなかったね……」

「ハヤミ……」


 無理に笑おうとするハヤミだったが、その瞳の奥にはまだ恐怖の余震が深く残っている。


 一方、ヤマトに視線を転じると、彼は何も語らずにただ黙って己の手を見つめていた。

 一歩間違えれば全員が破滅していたかもしれないほど、危うい瞬間だった。

 でも、分かっている。


 あれは凶暴で利己的な暴走などではない。

 現実世界で傷つき、離れ離れになってしまった妹を、今度こそこの手で絶対に守り抜くという、兄としての不器用な愛情の証明だったのだ。


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