61.トラウマ
バスを降り、網膜に焼き付いた見慣れた校門をくぐる。
知っている景色なのに、最後にこれを見たのがいつだったのか、もう思い出せない。
すれ違う生徒たちの視線がやけに肌を刺し、自分の足音がコンクリートにやけに高く響く。
胸の奥で、心臓がドッドッと狂ったように鳴り響いている。
背後、斜め後ろ、横。周囲のあらゆる「気配」に神経が過敏に逆立つ。
来る。いや……違う。
反射的に剣の柄を探して手を動かし、ハッとして止める。
違う。ここは戦場じゃない。
奇襲を仕掛けてくる魔物もいなければ、命を削り合う死線もない。頭では完璧に理解しているのに、身体が過剰反応してしまう。
大丈夫。大丈夫だから、俺。
一歩一歩、自分に言い聞かせるように廊下を進む。
もう、あの頃の弱い俺じゃない。数々の死闘を乗り越えて、俺は強くなったんだ。
この程度の日常、きっと普通に乗り越えられる。
覚悟を決め、教室の扉に手をかけた。
ガラッ。
扉を開けた瞬間、室内の空気が一瞬で凍りついた。
「……あ」
「来たよ、アイツ」
「おーい、孤児ちゃん。生きてたんだ?」
その声を鼓膜が拾った瞬間、心臓が嫌な跳ね方をした。
視界がぐにゃりと一瞬、歪む。
あいつらだ。
何も変わっていない。前と同じ卑劣な顔で、同じ醜い笑い方。
裏の社会にどす黒い繋がりを持ち、数々の悪行に手を染めているという噂のいじめっ子グループ。その背景のせいで、事なかれ主義の教師たちも彼らには一切逆らえない。だからこそ俺は運悪くターゲットに選ばれ、執拗にいじめられ続けていた。
だけど、今の俺の目には、彼らの姿が全く違って見えた。
遅い……。
ニヤニヤと近づいてくる動きが、あくびが出るほどにスローモーションに見える。
吐き出される罵声もひどく軽くて弱い。威圧感など微塵もない。
これが、戦う力を持たない普通の人間の動きなのか。
「おい」
ドン、と粗暴に肩を押される。
「よくのこのこ来れたな、お前」
「昨日、あれだけ恥かかせてイビッてやったのにさぁ。少しは学習しろよ」
近い。不快なニヤニヤ顔と、汚らわしい吐息が肌にかかる。
そのあまりの近距離に、脳内で爆弾が弾けた。
激しいフラッシュバック。
いじめっ子の嘲笑と、異世界での凄惨な死闘。
交わるはずのない二つの記憶が、濁流となって脳裏をごちゃごちゃに駆け巡る。
飛び散る血飛沫、耳を裂く叫び声、転がる魔物の死体。
ズタズタに破かれた教科書、ねっとりとした陰口、床に散乱した弁当、それを見下ろして快哉を叫ぶ顔。
「っ……あ……」
喉の奥が引き攣り、呼吸が一気に乱れる。
ドクンと、胸の奥で早鐘が鳴り響く。
息が浅い。空気が吸えない。急激に体温が奪われ、膝がガタガタと震えだす。
あ、やばい。
「は?なにビビってんの、コイツ」
「ほんとウケるんだけど!」
鋭く高い笑い声が教室に響き渡る。その音さえも、頭の奥で不気味に歪んでいく。
違う……違うんだ。ここは死ぬ場所じゃない……!
俺はぎゅっと拳を握り締め、爪が手のひらに食い込む痛みで意識を繋ぎ止める。過呼吸になりかける呼吸を、無理やりコントロールしようと試みる。
「はぁ……、っ、はぁ……」
ゆっくり吸って、吐いて。自分を落ち着かせる。
「……近づくな……っ」
かつての震えるような弱音じゃない。低く、明確な意志を持った声。
「……は?」
胸ぐらを掴もうとしていたいじめっ子の手が、一瞬だけピタリと止まる。
「……なんか今日のお前、態度デカくね?」
取り巻きが、引きつった笑みを浮かべる。
「おいおい、調子乗ってんの?」
違う。調子に乗っているんじゃない。
俺はただ、自分の足でここに立っているだけだ。
「……触るな。気安く、触るな」
静寂が、水を打ったように教室を包み込んだ。
「……なんだよ、お前」
いじめっ子のイラついた声。
「そんなキャラじゃなかったはずだけど?」
前の俺はただ怯えて逃げていた。でも、今の俺は数え切れないほどの命のやり取りをくぐり抜けてきたんだ。
「お前らに、ビビる理由が……ない」
一歩、こちらから前に出る。物理的な距離が容赦なく詰まる。
その瞬間、いじめっ子が、ほんの少しだけ後ろに身体を引いた。
それが、明確な答えだった。異世界の怪物たちに比べれば、こいつらなんてただ狭い世界で虚勢を張っているだけの「心の弱い人間」に過ぎない。
「……はぁ?ナメてんじゃねえぞ、コラァ!」
屈辱感に顔を真っ赤にした男の手が、獰猛に伸びてくる。
俺の制服の胸ぐらを掴もうとする動きは遅い。軌道が丸見えだ。完全に止められる。
だが、ここは戦う場所じゃない。
ここで一度でも手を出してしまえば、すべてが終わる。
異世界で手に入れたこの規格外の「力」は、一般人相手の加減が分からない。もし反射的にカウンターでも叩き込めば、相手を再起不能にしてしまう。
ドクン。
胸の奥で、強い鼓動がする。
ドクン、ドクン。
やけに、大きい。
さっきまで聞こえていたクラスメイトたちのざわめきが、一瞬で遥か遠くへ押しやられる。代わりに、耳鳴りが襲いかかってきた。
キィィィン――――……。
「おい、聞いてんのかって言ってんだよ!」
胸ぐらを掴むいじめっ子の声が、不自然に歪んで鼓膜に届く。
世界から光が失われていくように、視界の端が急速に暗くなっていく。
赤色……。
一瞬だけ、視界に鮮血な色が混ざる。
いじめっ子の顔に、魔物の影が重なる。血のイメージがどす黒く変色し、俺の視界のすべてを漆黒で覆い尽くそうとする。
「っ……あ……っ!」
息を吸おうとして、止まった。
酸素が入ってこない。恐怖のあまり、喉の気道が完全に閉じている。肺を動かしているはずなのに、必要な空気がどこにも届かない。
「……は……っ、……ぁ」
短く、浅い過呼吸。
「は、……っ、は……っ、は……っ!」
呼吸がどんどん速く、浅くなっていく。胸が激しく上下するだけで、中身が伴わない。
苦しい。喉が焼けるように熱くて苦しいのに、身体の暴走が止められない。
酸欠のせいで、指先がピリピリと激しく痺れだした。
落ち着け。落ち着けよ。でも、一度恐怖に支配された肉体が、全く言うことを聞かない。
ドクン、ドクン。
「……っ、……ぁ……っ」
声にすらならない。息を吐き出すことさえ上手くできなくなっていく。
焦れば焦るほど、脳が酸素不足を訴えて悲鳴を上げる。
このまま、意識を失って倒れてしまう。
誰か……誰か。
絶望の淵でそう願った、まさにその瞬間。
「ユラ」
声がした。とても冷徹で、だけど酷く優しい声。
真っ暗なノイズを切り裂いて、俺の脳の奥底へと真っ直ぐに届く。
気付けば、ガタガタと震える俺の肩に、大きくて温かい手が置かれていた。
「呼吸しろ」
その声だけが、俺を現実に繋ぎ止める唯一の命綱だった。
「……吸え。ゆっくりだ」
もう片方の手で、俺の手首が優しく、だけど拒絶を許さない強さで掴まれる。
「オレに呼吸を合わせろ」
強引に、闇の底から引き戻される。
ヤマトの胸の動きを見つめながら、必死にそのテンポに呼吸を合わせる。吸う。
「……っ、ふ……」
肺の奥に、少しだけ新鮮な空気が入り込む。ゆっくりと吐き出す。
また、ヤマトの合図に合わせて吸う。
少しずつ、少しずつ耳鳴りが消え、周囲の音が蘇ってくる。
「……はぁ……っ……ふぅ……」
ようやく、まともな呼吸が繋がった。
身体の芯まで突き刺さっていた震えが、嘘のようにピタリと収まっていく。
「大丈夫、オレがいる」
その安心する言葉に、俺は完全に現実へと帰還することができた。
「……ちょ、何あれ」
一人の女子生徒が、呆然と声を漏らした。
「やばぁ……あの人、誰……?」
「きゃあああ……カッコイイ」
静まり返っていた教室に、一瞬にして黄色い悲鳴が沸き起こる。
クラス中の女子生徒たちの視線が、突如として現れたヤマトに一斉に集中した。それはさっきまでのいじめの陰湿な空気とは180度違う、熱を帯びた熱狂の視線。
その目は、完全にヤマトの美貌に惹きつけられていた。
「超優しい……何あの王子様……!」
「嘘、高身長の超絶イケメンなんだけど!」
「待って、あの制服って……あの超難関校のブレザーじゃない!?」
色めき立った女子の一人が、誘われるようにふらふらとヤマトへ近づいていく。
「あのぉ……っ」
これ以上ないほどの、甘ったるい媚びを含んだ声。
「お名前、なんて言うんですかぁ?連絡先とか……」
その瞬間、ヤマトの切れ長の碧眼が、わずかに動いた。
「……邪魔。目障りだ」
低く、地を這うような一言が返された。
それだけで、調子に乗って擦り寄ろうとしていた女子生徒たちは、蛇に睨まれた蛙のように完全に硬直した。
ヤマトはそれ以上、彼女たちに視線すら向けない。完全に興味がなかった。ヤマトの視界には、最初から俺だけしか映っていないようだった。
だが、その張り詰めた空気を、さらに外側からダイナミックにぶち壊す轟音が響き渡る。
バキィィィィ。
教室の前方の扉が、凄まじい衝撃を伴って内側から粉々に吹き飛んだ。
「「は!?」」
全員が驚愕してそちらへ振り向く。
立ち込める木屑と粉塵の向こうから、一人の小柄な影がゆらりと現れた。
「あたしのユラをいじめてんの、どいつ?」
ハヤミだった。セーラー服を翻して登場した彼女は、完全に獲物を屠る直前の「戦士」の目をしていた。
「他校の生徒か?っていうか可愛いじゃん!めっちゃ俺のタイプなんだけど、名前」
男が言い終わるよりも前に、軽い前蹴り。
男子生徒の身体が人形のように数メートル後方へと吹き飛んだ。
「あぁっ!?」
男は床を無様に転がり、蹴られた腹部を押さえながら悶絶している。
ハヤミはゆっくりと、確実な足取りで歩み寄る。
「テメエ如き三下野郎が気安くナンパしてくんな。死ね」
ハヤミはさらに一歩踏み出し、苛立ちをぶつけるように教室のコンクリート壁を殴りつけた。
ドゴォォォンッ。
激しい衝撃音と共に、頑強なコンクリートの壁面に、蜘蛛の巣状の凄まじいひび割れが刻まれる。
「……ひッ……!?」
いじめっ子も周囲の生徒たちも、もはや声すら出せない。ガタガタと震えることしかできなかった。
「次、少しでもユラをバカにしてみろ。下半身潰すからな」
魔王幹部すら戦慄しそうな脅し文句を吐き捨てると、ハヤミはくるりとこちらを振り返った。
「ユラっ、大丈夫!?」
一瞬にして、声のトーンがいつもの甲高くて可愛いものへと戻る。完全に、いつものハヤミだった。
「……ああ。ありがとう。もう大丈夫」
まだ少し呼吸は乱れているけれど、ハヤミのおかげで完全に自失状態から立ち直ることができた。
「帰るぞ、ユラ」
「え……」
「ほら、行くよ。こんなクソみたいなところにいてもつまんないでしょ」
「え、あ、あー……はい」
流されるように、俺は二人によって学校から連れ出された。




