幕間・空色シナモン
※後に本編に関わる回なので読了推奨。時期的に十万魔物来る前。
修行帰りだった。
夕方の下町には、焼きたてのパンの香りが風に混じって流れてくる。
石畳の通りを赤橙色の夕日が長く伸ばし、店じまいを始める露天商たちの威勢のいい声が響いていた。
「わぁ……いいにおい!」
隣を歩くダイゴローが新緑色の瞳を輝かせ、鼻をくんくんと鳴らした。
「今日はパン?」
「うん。親父に頼まれて夕食に出そうと思ってさ」
俺は隣の小さな頭を撫でながら、小さく口元を緩めた。
このところ、毎日のように厳しい鍛錬が続いていた。
魔王軍の幹部だとか、勇者の使命だとか、頭の整理が追いつかない重たい現実ばかりで、心も体も擦り切れそうになっていたけれど、この香りに触れると張り詰めた神経がすっと解けていく。
小さい頃から慣れ親しんだ、甘くて優しいシナモンの香りだ。
香りを辿ってパン屋の前に差し掛かると、店の前の広場で二人の子供が駆け回っていた。
「アオ待てって!」
「やだー!つかまらないもーん!」
小さな男の子が元気いっぱいに笑いながら石畳を蹴る。
それを必死に追いかけているのは、見覚えのある茶髪の少年だった。
俺は思わず足を止め、目を瞬かせる。
「……ソラ?」
その呼びかけに、少年がぴたりと足を止めて振り返った。
俺の姿を認めた瞬間、彼の顔が一気に明るく華やぐ。
「ユラ!」
嬉しそうに駆け寄ってくる足取りは、昔とちっとも変わっていない。
「久しぶりじゃん!」
「久しぶりだな。元気にしてたか?」
目の前に立つソラは、近所のパン屋の看板息子だ。
美人で優しい夫婦が営むこの店は平民街でも評判で、いつも焼きたての香りと客の笑顔で溢れていた。
ソラとは物心ついた頃からの付き合いで、泥だらけになって路地裏を走り回った幼馴染だ。弟のアオも、町のみんなから可愛がられている人気者だった。
「修行帰りか?」
ソラが俺の腰に提げた木刀に目を留めて尋ねてくる。
「うん。手合わせでマジ疲れたよ」
「だよなぁ……勇者だもんな」
ふと、ソラが少しだけ寂しそうに眉尻を下げて呟いた。
「少し前、ユラがオークキング倒した勇者って聞いた時、マジで夢かと思ったもん」
「まあ、夢だと思うよな。何度夢ならよかったかと思ったものだよ」
俺は木刀の柄を指先で撫でながら苦笑いし、茜色に染まる空を見上げた。
「小さい頃、一緒におじさんのおとぎ話を聞いてた俺が、本当に勇者になるなんて今でも信じられんよ」
ソラもつられるように空を見上げ、懐かしそうに目を細めた。
「銀髪の勇者が魔王を倒して、世界を再生させたって伝説のやつだろ?何十回もせがんで聞かせてもらったよな」
「そうそう。あの頃は純粋に格好いいなって憧れてた」
「……俺さ」
ふいにソラが声を落とした。
どこか苦味を含んだ横顔に、俺は視線を戻す。
「勇者って、もっとキラキラしてて、遠い世界の英雄なんだと思ってた。そんなユラが、重大な重荷を一人で背負わされるなんて思わなくてさ」
自嘲気味に口元を歪め、ぎゅっと拳を握りしめる。
「昔は勇者すげー!って無邪気にはしゃいでたけど……今思うと、俺、何も分かってなかったなって」
幼馴染の胸の内にある痛ましさに、俺が何か言葉を返そうとした、その時だった。
「げほっ……ごほっ、げほっ……!」
「ソラ!?大丈夫か!?」
急激に激しく咳き込み、胸元を押さえて膝を折るソラに、俺は慌てて駆け寄って背中をさすった。掌からほんの少しだけ温かい魔力を通わせる。
「だ、大丈夫……ちょっと喉がイガイガしただけだから」
肩で息をしながら、ソラは俺を安心させるように無理に笑顔を作ってみせた。
「今日は調子よかったんだ。久しぶりに平民学校にも顔を出せたし」
「あんまり無理するなよ。喘息持ちなんだから」
心配で眉を寄せる俺たちの様子を、ダイゴローがまん丸な瞳でじっと見つめていた。
ソラが呼吸を整えながら、ダイゴローへと視線を下ろす。
「新しい友達か?アオと同じくらいだな」
「たしか、同じ七歳同士だよな」
「ぼく、ユラの友達のダイゴローだよ!ユラと一緒にお買い物してたの!」
「ぼく、ソラの弟のアオ!ねーねーダイゴロー、なにしてあそぶ!?」
アオがダイゴローに寄ってきてぴょんぴょん飛び跳ねる。
「むし!むしかっこいいよ!」
「かっこいい!ぼく、きょうりゅうも大好きなんだー!」
互いに名前を名乗り合った瞬間、二人の小さな世界は完璧に繋がったらしい。あっという間に笑顔を交わして手を取り合っている。
「はやっ。もう友達かよ」
「やっぱり同じくらいの年頃の子供は、打ち解けるのも一瞬だな」
子供たちの無邪気な笑い声が夕暮れの広場に響き渡る中、近所のノリおばちゃんが足を止めて声をかけてきた。
「あら、ソラちゃん!今日は顔色がいいじゃない」
「ど、どうも、ノリおばちゃん」
ソラは少し気まずそうに頬を掻く。このおばちゃんは噂好きで特に恋バナには目がない。
「ユラちゃんと仲良くお喋りかい?うふふ、若いってのはいいわねぇ、青春だねぇ!」
「へ、変な冷やかしはやめてくれよ!」
真っ赤になって抗議するソラを見て、俺は首を傾げた。
「お、おいソラ。なんか顔赤いけど喘息がひどいのか!?すぐに家に帰った方が……」
「ち、違う!これは喘息じゃねえ!大丈夫だ!」
「本当に?」
「ほ、本当だから……ただ日差しが暑いからで……」
「あらまぁ♡きっと照れてるのね。可愛い幼馴染と話せて嬉しいのねー」
ノリおばちゃんは楽しそうにからかいの視線を向けてくる。ソラは耳まで茹でダコのように赤くなり、完全に口籠もってしまった。
「あ、でも最近のユラちゃんは隅に置けないのよねぇ」
「え、俺が?」
唐突に矛先がこちらへ向き、俺は目を丸くした。
「下町屋で新しく働き始めたバイトさんたち、ものすごい美男美女揃いじゃないの。あの超絶イケメンの金髪のお兄さんとか、元気で可愛い金髪の娘さんとか、それに色っぽい大人の美女まで!みーんなユラちゃんに夢中って噂でしょう?うふふふ」
「は!?」
ソラの顔色が弾かれたように変わった。
目を見開き、あからさまに動揺を露わにしたソラを見て、おばちゃんは「あらあら~」とさらにご機嫌に眉を上げる。
「ちょ、ちょっとノリおばさん!変なこと言わねーでくださいよ!夢中だなんて、そんなわけないってば!」
俺は両手をぶんぶんと振って全力で否定した。俺を白馬の王子として崇拝してくるハヤミはともかくさぁ……他の二人は違うと思う。多分。
「あら、そうなの?両手に花どころか選び放題に見えるんだけど」
「違いますから!頼もしい仲間で、大事なバイト仲間です!」
「……超絶イケメンの金髪……」
ソラが低い声で、その単語だけをぽつりと拾い上げた。
「ソラ、本当にただの仲間だからな!」
「……ふぅん……」
納得のいかないような、探るようなジト目を向けられる。
「つーかさ、ユラって昔から変な奴に好かれるっていうか、妙に人を引き寄せるよな」
「は、そうかな」
「なんか放っとけないんだよ、お前は昔から。怪我してても平気な顔して笑ってるし、すぐ無茶するし、自分のことより他人の都合を優先ばっかりしてさ。そういう危なっかしいところがあるから、変な奴らが寄ってくるんだよ」
「変な奴らって……俺が変態ホイホイみたいじゃんか」
自分に大した価値があるとは思えないから、誰かが困っていれば手を差し伸べたいし、頼りにされれば応えたい。それは昔からの染み付いた性分で、今さら変えようと言われてもどうしようもないのだ。
「わかるわぁ。ユラちゃん、昔っから放っておけない危うさがあるものねぇ」
ノリおばちゃんが我が意を得たりと大きく頷く。
「最近なんて特にそうだよ。ユラちゃんを心配して、周りのバイトさんたちが過保護に群がってるじゃない。みーんなユラちゃん中心で世界が回ってるみたいなんだから」
「中心だなんて、そんな大げさ……」
「相変わらず自分のことになると鈍いんだから。あのハヤミちゃんなんて、ほとんど店に住み着いてるようなもんじゃないの」
「あー……そういえば」
ソラが記憶を探るように上を向いた。
「少し前に下町屋に顔を出した時、腹減ったー!って大騒ぎしながら厨房に突っ込んできたのが、そのハヤミって子か?」
「多分そうだな。ハヤミは底なしの食いしん坊だから、いつもご飯のことばかり考えてるんだ」
俺が苦笑いしながら答えると、ソラはさらに思い出したように言葉を継いだ。
「あと、すごく綺麗な青い髪のお姉さんもいたよな?」
「サクラコさんだよ。いつも優しくて、料理も洗濯も完璧なんだ」
「めちゃくちゃ物腰柔らかくて、お淑やかだったよな。あんな美人なら、客も男女問わずメロメロになるだろ」
ソラは納得したように頷いていたが、次の瞬間に表情をすっと険しくした。
「……で、奥の席でやたら冷たい目をして座ってた金髪の男。ノリおばちゃんが言ってた超絶イケメンの金髪って、あいつのことか?」
「ヤマトのことだろうな」
「……なんか、すげぇ怖かった」
「まあ、最初はそう思うよな。目つき悪いし、クールで寡黙だし。でも、根はすごく頼りになる奴だよ」
「いや、普通に話してる時はいいんだけどさ」
ソラは納得いかない様子で眉間に皺を寄せた。
「ユラの名前を出した途端、急に周りの空気が凍りつくっていうか、睨み殺すような雰囲気出してやがった」
「あー……ヤマトは誰に対してもあんな感じだから、気にしなくていいよ。俺にでさえそうだし」
「あらあら、全然わかってないわねーユラちゃん」
ノリおばちゃんが間髪を入れずに割り込んできた。
「この前なんてね、八百屋の若いあんちゃんがユラちゃんと笑顔で会話してただけで、後ろから音もなくすーっと現れたんだから!」
「えっ、そんな事あったっけ」
「あったわよォ。一言も喋らないのに、背中から立ち上る威圧感だけで八百屋のあんちゃんをビビらせてたわ。あれは絶対、近寄る男を片っ端から威嚇する獣の目だったわ」
「ええ……威嚇とか何やってんだよアイツ」
そういえば、八百屋に行った時、急にヤマトが現れてびびった事があったかも。クソ忙しい時に油売ってんなーって思ってた。
「おーい、ユラ!」
夕暮れの通りの向こうから、聞き慣れた元気な声が響いてきた。
紙袋を両腕いっぱいに抱えたハヤミと、新鮮な野菜が詰まった籠を優雅に持つサクラコ。そして、ポケットに両手を突っ込み、悠然とした足取りで歩いてくるヤマトの姿があった。
「三人とも、どうしたんだ?」
「買い出しの帰り道ー!オヤジさんに醤油と油が切れそうだから買ってこいってパシられた!」
ハヤミが快活に片手を上げて笑う。
「今夜は特製のシチューですから、良いお肉もたくさん仕入れてきました」
サクラコが上品に微笑み、ふわりと柔らかな空気を漂わせる。
そしてヤマトは何も言わず、ただ静かにその深い青色の瞳を俺に向けた。相変わらず感情の読めない、底知れない瞳だ。普段、何考えてんのか未だにわからん。
「あ、えっと……」
俺は慌ててソラたちの方へ向き直った。
「こっちはソラ。俺の幼馴染で、パン屋の看板息子なんだ。それと弟のアオ」
「ぼくアオ!ダイゴローとすっごく仲良くなった!」
「アオはね、でゅえりすとだったー!お友達できたー!」
子供たちはすっかり肩を組んで意気投合している。その無邪気さに救われつつ、俺は仲間たちを紹介した。
「こっちがハヤミと、サクラコさん。それで、こっちがヤマトだ」
ソラが少し身構えながら、軽く頭を下げる。
「あ、どうも」
「よろしくねー!この前、店に来てくれてたよね!」
ハヤミが屈託のない笑顔で応じ、サクラコさんも胸元に手を当てて優雅にお辞儀をした。
「よろしくお願いします」
そして最後に、ソラの視線がヤマトへと向けられた。
ヤマトはしばらくの間、無言のまま冷徹な視線でソラを値踏みするように見つめていた。痛いほどの沈黙が落ち、俺は声を掛ける。
「おい、ヤマト」
「……どーも」
数秒の静寂の後、返ってきたのは驚くほど低く、素っ気ない一言だった。
ソラの眉がぴくりと跳ね上がる。
「噂通りの冷たそうな奴だな」
ヤマトは眉一つ動かさず、乾いた声で返した。
「元々がそうだ。気にするな」
淡々とした受け答えだったが、二人の間に流れる空気は明らかに張り詰めていた。
ソラはどこか面白くなさそうに唇を尖らせ、ヤマトもまた、ソラから冷たい視線を外そうとしない。
なんだこれ。なんで空気悪ぃの?キミら、最近会ったばっかだよな?どちて?
微妙な空気を打ち破ったのは、やはり子供たちの無邪気な大声だった。
「きょうりゅうのマネできるよ!がおー!」
「わー!つよそう! ぼくもやるー!」
アオとダイゴローが飛び跳ねて笑い合う。
ハヤミが堪えきれずに吹き出した。
「あはは、子供たちは仲良くなるの早すぎじゃん!」
その笑い声でようやく場の緊張が少し緩んだ。子供達ナイスである。
「そういえば、ソラは最近十五歳になったんだよな。背も伸びたし、大きくなったよなぁ」
「……そんな子供扱いするような言い方すんなよ」
ソラが少し拗ねたように唇を尖らせる。
「十五ってもう立派な大人だろ。結婚は十八にならないと法的にできないけどさ、成人扱いされるのは十五なんだから。俺をいつまでもガキ扱いすんなよ」
真っ直ぐに俺を見つめてくるその瞳には、子供の頃にはなかった熱が宿っていた。
「悪い悪い!ソラはもう大人なんだな。俺なんかよりずっとしっかりしてるよ」
「っ……」
素直に返した言葉に、今度はソラの方が言葉を詰まらせた。
見る間に耳の先まで赤く染まっていく。
「……悔しいな」
「え?」
「もっと早く生まれてりゃよかった。そしたら、ユラに子供扱いされずに、最初から対等にいられたのにさ」
零された呟きに、俺は目を丸くした。風に乗って、再び甘いシナモンの香りが鼻腔をくすぐる。
「……まあ、今さら言っても仕方ないけど」
ソラは照れ隠しのように頭をガシガシと掻いて笑った。
俺はその言葉の本当の意味を半分も理解できていなかったけど、目の前にいる幼馴染が、かつての小さな男の子ではなく、一人の『男』になりつつあるのだということを肌で感じた。大きくなったなぁ、ソラ。
「ねーねー、ユラ!」
ダイゴローがきらきらした瞳で俺の服の裾を引いた。
「ソラとすっごく仲良しなんだね!」
「まあ、生まれた時からずっと一緒だったからな」
「……腐れ縁みたいなもんだよ」
ソラが照れくさそうに付け足す。ダイゴローはふむと頷くと、今度はすっとヤマトを見上げた。
「ヤマト、なんでそんなに怖い顔してるの?」
「してない」
ヤマトは表情を微動だにさせず、平然と言い放った。
「いつも通りだ。問題ない」
「ほんとに?さっき、ユラが雑貨屋のお兄さんとお話ししてただけで、売り物の壺を片手で壊しそうになってたよー?」
「うっわ……」
ハヤミが一歩後ずさりながら、引きつった笑いを浮かべる。
「マジかよ兄貴……壺に八つ当たりはダサすぎ草」
「えっ、何やってんだよヤマト。壺壊したのか」
「壊してない」
ヤマトは一切の動揺を見せず、至極真面目な顔で答えた。
「指に少し力が入っただけだ。ヒビは入ったかもしれんが」
「ヒビは入れてんじゃねーか」
「あらあら、素直じゃありませんねー」
サクラコさんがなぜか口元に手を当てて楽しそうだ。
ダイゴローはけらけらと笑い声を上げた。
「ヤマトも子供っぽいところがあるんだねー!」
「……」
ヤマトのこめかみに青筋が微かに浮かんだが、ダイゴローには言い返さず、代わりにその鋭い眼差しを俺へと向けてきた。
「お前が無防備すぎるからだ」
「は、俺?」
「他者との距離が近すぎる。隙だらけだ」
「何が隙だらけだ。普通に世間話をしてただけだろ」
「普通じゃない。密着しすぎだ」
「密着なんてしてねぇし。お前の眼が節穴なんだろ」
「オレの基準ではアウトだ」
「はい、俺基準とか意味不明でーす」
なんなんだ全く。なんでこんな怒ってんのコイツ。そもそも密着とか誤解されるようなこと言うな。女の子相手ならともかく、野郎相手に密着なんてするわけがない。たしかに今の俺の性別は女だけどさぁ、痴女じゃねーんだ俺は。
そんなやり取りを横で見ていたソラが、ふっと皮肉交じりに笑う。
「……随分と仲が良いな」
「そういうんじゃねえっす」
俺が即座に否定の声を張り上げたが、ヤマトは何も言わず、ただ静かに俺を見下ろしているだけだった。その沈黙の意味に気づいたソラの目が、一層険しく細められる。
「ソラはユラが大好きなんだね!」
ダイゴローが無邪気に両手を広げて言った。
「ぼくもユラがだーいすき!大きくなったらユラと結婚したいなー!」
「「駄目だ!!」」
ヤマトとソラ、二人の声が完璧に重なって夕暮れの通りに響き渡った。
凄まじい気迫に、ダイゴローが目をぱちくりと瞬かせる。
互いに同じ言葉を叫んだことに気づいたヤマトとソラは、同時に忌々しそうに顔を顰め合った。
「兄貴とソラ、息ぴったりじゃん!」
ハヤミがおかしそうに笑う。
「最悪だ。こいつと声が重なるなんて反吐が出る」
「同感だな。小僧と意見が一致するとは心外だ」
「なんでそこでキミら怒るんだよ」
俺が二人を交互に見つめると、
「怒ってなどいない」
「怒るわけないだろ」
またしても声が重なった。
「二人とも、案外気が合うんじゃないの~?」
「「合ってない!」」
最後まで完璧なユニゾンを見せる二人に、俺はただただ溜息を吐くしかなかった。
*
翌日の昼下がり。
からん、と涼やかな音を立てて下町屋の扉が開いた。
「こんにちはー」
ソラが大きなパン籠を抱えて店へと入ってきた。
焼き上がったばかりの芳ばしい小麦と、甘いシナモンロールの香りが店内にふわりと広がる。
「ユラー?頼まれてたパンを持ってきたz……」
威勢よく声を張り上げかけたソラの足が、カウンター席の前でぴたりと止まった。
黒いシャツの袖を捲り、端正な顔立ちを伏せて分厚い政治学の専門書を読んでいる男、ヤマトがそこにいた。
静まり返った店内に、ヤマトが紙をめくる微かな音だけが響いている。
「げ……」
ソラの表情があからさまに歪んだ。
ヤマトはゆっくりと視線を上げ、冷たい青い瞳でソラを捉えた。
「……」
数秒の沈黙。それだけで再び興味を失ったように、視線を本に戻す。
その徹底した無視と冷淡さに、ソラの額にぴきりと青筋が立った。むすっとした足取りでカウンターへと歩み寄る。
「ユラは?」
「買い出しだ」
「……ふぅん」
短くぶっきらぼうな返答に、息が詰まりそうな気まずさが店内に充満する。
厨房の奥から煮込み鍋がことことと鳴る音だけが聞こえていた。
ソラは居心地の悪さを紛らわすように、どんとカウンターにパン籠を置いた。
「これ、頼まれてたパン」
「聞いている。そこに置いておけ」
「……」
「……」
再び沈黙が流れる。
ソラは落ち着かない様子で店内を見回した。
「ハヤミ達は?」
「外の市場だ」
「……全員留守かよ」
ソラが小さく悪態を吐く。
ヤマトはそれ以上何も答えず、ただ静かにページをめくっていく。窓から差し込む陽光に照らされたその横顔は、腹立たしいほどに整っていて絵画のようだった。
ソラはカウンターに両手をつき、挑発するように身を乗り出した。
「……あんた、最近ここに居座ってるよな」
「そう見えるか」
「王子サマってもっと政務で忙しいもんじゃないのかよ」
「忙しい」
「じゃあなんで毎日油売ってんだよ」
ヤマトは視線を本から外さないまま、淡々と応じる。
「公務の合間の休憩だ」
「下町の食堂で休憩かよ」
「ここの飯が美味いからだ」
澱みのない返答に、ソラはじっとヤマトの横顔を睨みつけた。
「……飯じゃなくて、ユラが目当てなんじゃないのか?」
ぴたり、とヤマトの指先が止まった。
ページをめくりかけていた手が、ほんの刹那、完全に静止する。
ヤマトは重々しい視線をソラへと向けた。
「何が言いたい」
「なんとなくそう思っただけだよ」
ソラは肩を竦めてみせたが、その瞳には引かない強さがあった。
「アンタ、ユラとそんなに親しいのか?」
ヤマトは数秒の沈黙の後、冷ややかな声を落とした。
「お前こそ、随分と馴れ馴れしいな」
「幼馴染だから当然だろ。文句あんの?」
「別に」
「俺たちは昔からずっと一緒だったし、ユラのことはアンタより何倍も知ってる。……子供の頃は、同じベッドで一緒に寝たことだってあるし」
ソラは勝ち誇ったように口角を上げた。
その瞬間、ヤマトの青い瞳がすっと細まり、周囲の空気が凍りつくような圧倒的な威圧感が店内に満ちた。
ソラは背筋に冷たい汗が伝うのを感じたが、それでも決して視線を逸らさず、顎を引いて睨み返した。
その一触即発の空気を切り裂くように、
「ただいまー!」
勢いよく店の扉が開き、買い出しの紙袋を抱えたユラが飛び込んできた。
*
「お、ソラ!来てくれたのか!」
俺の顔を見るなり、ソラが柔らかな笑顔へと戻った。なんかすごい顔してた気がするんだけど、なんかあったんだろうか。
「約束通り届けてやったぞ」
「ありがとう!わ、焼きたてのシナモンロールだ。すっげぇいい匂い!」
俺が嬉しそうにパン籠を覗き込むと、ソラが得意げに笑う。
「好きだろ?焼きたてを一番に持ってきてやったんだ」
「最高だよ、サンキュー!」
俺が満面の笑みを浮かべると、カウンターの奥でヤマトが静かに顔を背け、微かに不機嫌そうに息を吐いたのが見えた。
「ん?ユラ、服のボタンが取れかけてるぞ」
ソラがふと俺の胸元を指差した。
「え?あ、本当だ」
見れば、胸元のボタンがほつれてぶら下がっている。
「どっかで引っ掛けちゃったかな……」
「脱げよ。俺が縫ってやるから」
「えっ、悪いよ。自分で適当に直すからいいって」
「いいから貸せよ。こういう細かい作業、俺の方が得意なんだからさ」
ソラは懐から携帯用の裁縫道具を取り出し、少し得意げに笑ってみせた。
その様子を背後から見つめるヤマトの瞳に、静かな炎が燃えがっているのを俺は知らない。
「母さんが仕込みや配達で忙しい時、アオの面倒を見ながら家のことをやってたしな。このくらい朝飯前だよ」
「……そっか。ありがとう、ソラ。じゃあ、これよろしく頼む」
俺は少し照れくささに上着のボタンを外して脱ぎ、薄手のインナーシャツ姿になった。
その瞬間、針に糸を通そうとしていたソラの動きがぴたりと止まった。
「……っ」
別にはだけているわけでもないし、肌を大きく露出させたわけでもない。ただの一枚布を挟んでいるだけだ。
それでも、ソラは息を呑んだように硬直している。
「ソラ、どうした?あ、もしかして見苦しい肌見せちゃって固まってる?悪いなー色気なくて」
「色気とかお前なー。結構胸があr……いや、なんでもない。さっさと上着よこせよ!」
ソラは耳まで赤く染め上げ、慌てて視線を逸らしながら俺の手から上着を引ったくった。動揺を隠すように針穴へ糸を通そうとしているが、指先が微かに震えていてなかなかうまくいかないようだ。俺の肌見て動揺せんでくれよ。こっちが変に気を使っちゃうじゃんか。
一方、カウンター席では、分厚い専門書を読んでいたはずのヤマトが、完全にページをめくる手を止めていた。
鋭い碧眼がじっとこちらを射抜いている。
「……おい」
低く、押し殺したような声がヤマトの口から出る。
「針を刺すなよ」
「刺すわけねぇだろ!」
ソラが即座に噛みついた。
「昔からやってんだよ!」
「ならいい」
ヤマトは感情を削ぎ落とした声で短く返し、再び視線を本へと落とした。
しかし、その空気は全く穏やかではない。ソラも負けじと唇を尖らせ、敵対心を剥き出しにして睨み返す。
「……なんだよ、文句あんのか」
「何もない」
「絶対なんか言いたそうな顔してるな」
「気のせいだ」
二人の間にバチバチと見えない火花が散っている。
俺は上着を預けたまま、腕を組んで首を傾げるしかなかった。
なんでこの二人は険悪な雰囲気になるんだろうか。最初から悪いとは思っていたが、今日は一段と悪いな。
「はい、できたぞ。ほら」
しばらくして、ソラが器用に糸を切り、上着を差し出してくれた。
俺は嬉しくなって受け取り、胸元のボタンを確認する。
「お、すごく綺麗に直ってる!縫い目も全然目立たない。ありがとな、ソラ!」
「へへ、これくらいお安い御用だって――――っ、けほっ、ごほっ、げほっ……!」
得意げに鼻を擦った直後、ソラが急に胸元を押さえて激しく咳き込んだ。
「ソラ!?大丈夫か!?」
俺は慌ててソラの背中に手を当て、ゆっくりと撫で下ろした。
「だ、大丈夫……ちょっと喉がイガイガしただけだから。いつもの発作だって知ってるだろ」
苦しそうに肩を上下させながらも、ソラは俺を心配させまいと無理に口元を持ち上げてみせる。
「無理すんなよ。喘息って言っても重傷化したらやべーんだから」
「心配性だな、ユラは」
苦笑しながら視線を逸らし、カウンターの男へ挑発的な笑みを向ける。
「ま、どっかの誰かさんの目つきの悪さよりは、俺の体調の方がずっと安全だから」
「……」
ヤマトの眉間が、かすかにピクリと跳ね上がった。
「え、なんだって」
「や、なんでもない」
ソラがすまし顔をする。
「おい、小僧」
底冷えのする低い声が、静まり返った店内に響く。
「喘息持ちなら、無駄口を叩かずにさっさと帰れ」
「うっぜ。なんでアンタに指図されなきゃならねーんだ」
「店内で倒れられたら迷惑だと言っている」
「素直に心配してますって言えねーの?可愛げねえ王子サマだこと」
「お前の心配などしていない」
「うっわ、性格わっる!」
再び激突する二人に、俺は呆れて割って入る。
「おいおい。二人ともケンカすんなってばよ」
マジでなんでこんな仲悪いんだこいつら。相性が悪いってレベルじゃねーだろコレ。
「あら、ソラちゃん来てたのね」
その時、買い物籠を持ったカオルさんが店に入ってきた。
「あんたのところのパン、ちょうど食べたかったのよ」
「どーも。どんどん食べてってくだせぇ」
ソラがぱっと表情を明るくして頭を下げる。
続いて店の奥から、どっしりとした足取りでゴランさんも姿を見せた。
「おお、パン屋の坊主か!焼きたての香りがたまらねえなぁ。ここのパンは酒のつまみにも最高なんだよ」
「パンで酒飲むのかよ」
俺が突っ込むと、ハチベエさんもやってきた。
「わたくしは、あの納豆クリームステーキパンが案外癖になりますな」
「それ、メニューとして攻めすぎじゃん!誰が買うのそれ!」
奥のテーブルからハヤミが身を乗り出してケラケラと笑う。
「ちゃんと売れてるんだよ、一部のマニアには好評みたいで」
ソラが困ったように苦笑いを浮かべた。
「親父がすぐ変な新商品を作りたがるんだよな。先週なんてバナナの干物パンとか試作してたし」
店内に和やかな笑いが広がる。
その温かい空気の中、俺は籠の中に並んだシナモンロールを一つ手に取った。
「でも、俺はこのシナモンロールが一番好きだな」
包み紙を開けると、ふわりと甘くスパイシーな香りが鼻腔をくすぐる。
「なんだか、すごくソラって感じがするんだよな」
「え……」
ソラの動きがぴたりと止まった。
目を丸くして固まる幼馴染に、俺は至極素直な気持ちのまま言葉を続けた。
「小さい頃からずっと嗅いできた匂いだし、シナモンの香りを嗅ぐと、ソラの顔が一番に浮かぶんだ」
「……ユラ……っ」
ソラは一瞬で首筋まで真っ赤になり、口をパクパクと金魚のように開閉させた。
「おい、ほんとに大丈夫か?喘息ひどくなった?」
「だ、ダイジョブ!なんでもないから近づくなって」
俺がきょとんとしていると、ソラは後ずさった。
一方、背後のカウンター席からは、ミシと硬い音が響いた。ヤマトがテーブルを掴んでいる音のようだ。
部屋の温度がさらに数度下がったような気配に、ハヤミがニヤニヤしながらヤマトの背中を小突いた。
「兄貴、わかりやす」
「……うるせぇ」
ヤマトは短く吐き捨て、視線を窓の外へと背けた。
「ソラの家のパンはみんな大好きだよな」
俺が嬉しそうに籠を掲げると、仲間たちが次々に声を上げる。
「わたくし、あの濃厚なチョココロネが大好きです」
「あたしは断然カレーパン!肉がゴロゴロ入ってて最高!」
「俺はウォッカを染み込ませた特製パンだな!」
「そんなアルコール度数高すぎるパン、うちには売ってねぇよ!」
*
パンの配達を終えた帰り道。
ソラは茜色に染まる下町の石畳を、一人でゆっくりと歩いていた。
夕暮れの風が通りを吹き抜け、あちこちの民家から夕飯の支度の匂いが漂ってくる。
不思議な光景だった。
最近の下町屋は、いつ行っても驚くほど賑やかで、活気に満ちている。
元公爵令嬢だというのに気取ったところがなく、豪快に笑う金髪のハヤミ。
上品で色っぽく、誰に対しても分け隔てなく優しいサクラコ。
不愛想で威圧感の塊のような元王太子のヤマト。
厳しいけれど温かく全体を見守っている美魔女のカオル。
豪快に酒を煽って笑い飛ばす大男のゴランに、飄々とした魔法使いのハチベエ。
そして、無邪気で人懐っこいダイゴロー。
身分も年齢も育ちも全く違う。普通なら絶対に交わるはずのない連中が、あの小さな大衆食堂に集まり、まるで一つの大きな家族のように笑い合っている。
ハヤミはパンを見つけるなり目を輝かせて飛びついてくるし、サクラコはいつも穏やかに話を聞いてくれる。ゴランやハチベエは父親や祖父のような安心感があり、カオルは危なっかしい若者たちをさりげなく支えている。
ダイゴローに至っては、アオと一緒になって恐竜や虫の話で大騒ぎし、あっという間に弟のような存在になっていた。空気を読んでいるのかいないのか、時に大人顔負けの鋭い一言を放つのもアオとそっくり。ヤマトを子供扱いして怒らせかけていた場面を思い出し、ソラは思わず吹き出した。
「……あれは傑作だったな」
あの近寄りがたい男が、小さな子供の無邪気さに調子を狂わされている姿は、どこか滑稽ですらあった。
そして何より、あの賑やかな輪の真ん中で、ユラが心から楽しそうに笑っていた。
それが幼馴染として嬉しくもあり、同時に胸の奥がチリチリと焼けるように痛む。
「……ライバルが多すぎるだろ、マジで」
下町屋にいる連中が、どれだけユラを大切に思い、惹かれているかなど、見れば嫌でも分かってしまう。
全員がユラを中心に世界を回している。
そして、あの男も間違いなくその一人だ。
「……冷血男」
元王太子で、眉目秀麗で、圧倒的な強さと冷徹さを持つ男。
ユラが他の男と少し親しげに話しただけで、周囲を凍りつかせるほどの独占欲を滲ませる危険人物。
正直なところ、対峙しているだけで背筋が凍るような威圧感があり、平民の子供なら竦み上がって逃げ出すレベルの迫力がある。
住む世界が違いすぎる。本来なら一生関わることのない雲の上の存在だ。
それなのに、あの男はユラの前では、不器用ながらも確実に感情を揺らしている。
そしてユラもまた、恐れることなく自然体であの男の隣に立っている。
ソラは小さく溜息を吐き出し、夕空を見上げた。
「……だけど」
絶対に負けたくない。
物心がついた頃から、ずっと隣にいたのは自分だ。
泣き虫だった頃のユラも、いじめられて膝を抱えていたユラも、傷だらけになって笑っていたユラも、全部知っている。
勇者と呼ばれるようになるずっと前から、共に時間を積み重ねてきた自負がある。
「あんなスカした性悪男に、ユラを渡してたまるかよ」
最初から、引く気なんてこれっぽっちもなかった。
終




