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食堂店員兼勇者  作者: 平民
四章 十万魔物

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55.眠れない夜

 その晩、俺は眠れなかった。

 布団に入っても、目を閉じても、頭の中に地図が浮かぶ。

 魔物の群れ、逃げる人々、倒れる仲間、間に合わない自分。

 嫌な想像ばかりが、勝手に膨らんでいく。


「……だめだ。寝れん」


 小さく呟き、そっと部屋を出た。

 階段を上り、屋根の上へ出る。夜風が頬を撫でた。

 空には、満点の星が広がっていた。


 日本にいた頃も、こんなふうに星を見たことがあった。

 施設の窓から、学校帰りの道端から、剣道場の帰り道から。


 でも、あの頃は星を綺麗だと思う余裕なんてなかった。

 ただ遠いものと思っていた。自分とは関係のない場所で光っているものだって。


「……十万、か」


 自分は強くなったと思う。クソ雑魚だった初期の頃よりかは。

 あんな辛い修行だって耐えた。ガリオにも届いた。

 それでも、十万という数の前では、何もかも足りない気がした。


「……怖いな」


 誰にも聞こえないと思って呟く。


「守りたいのに……怖い」


 みんなの前では、ちゃんとしていたいのに。そんな時……


「まだ起きてたんですね」


 やわらかな声がした。

 振り向くと、サクラコさんがいた。

 夜着の上に薄い羽織をかけている。

 月明かりに照らされた姿は、いつもより静かで大人びて見えた。


「サクラコさん……」

「お隣、よろしいですか?」

「……あ、ああ」


 サクラコさんは隣に座った。

 近すぎず遠すぎず。いつものように、ちょうどいい距離でいてくれる。


「眠れなくてさ」

「はい」


 サクラコさんは驚かなかった。


「そうだと思いました」

「顔に出てた?」

「少しだけ。ユラさんは、隠すのがあまりお上手ではありませんから」

「……あー……うまくはないな」

「ええ」


 それきり、しばらく会話はなかった。

 二人で星を見る。


 風が通る。遠くで、見張りの兵士の声がした。

 どこかの家で戸が閉まる音、犬の鳴き声。

 まだ、世界は普通に動いている。


「……俺さ」


 なんとなくぽつりと口を開く。


「明日、ちゃんとできるかな」


 サクラコさんは何も言わずに聞いている。


「みんなの前ではやるって言ったけど」


 膝を抱える手に力が入る。


「怖いんだ」


 声が震える。


「十万なんて、どう考えてもおかしいだろ。倒しても倒しても終わらないかもしれないし、どこかで誰かが死ぬかもしれない」


 言葉が止まらない。


「俺が指示を間違えたら、誰かが死ぬかもしれない。俺が遅れたら、守れないかもしれない」


 視線が下がっていく。


「……それが、怖い」


 サクラコさんは静かに聞いていた。

 否定しない。励ましを急がない。ただ、隣にいる。

 その沈黙が不思議と心地が良かった。


「ユラさん」


 やがて、サクラコさんが口を開く。


「怖くて当然です。守りたいものがあるから怖いのです。失いたくないものがあるから震えるのです」


 サクラコさんはゆっくりこちらを見る。


「怖くない人が強いのではありません」


 月明かりの中、その瞳はとても真剣だった。


「怖くても、それでも立とうとする人が強いのだと思います」


 俺の胸に、その言葉が静かに響く。


「……俺、立てるかな」

「立てます」


 即答する。


「どうしてそんなに言い切れる?」

「見てきたからです」


 サクラコさんは微笑む。


「あなたが何度倒れても立ち上がるところを」

「……」

「自分より誰かを優先してしまうところも」

「それは悪い癖って言われるけど」

「ええ。少し困った癖です」


 サクラコさんは一瞬だけ目を伏せる。


「でも、私はその優しさに救われました。私だけではありません。きっと、みんなも同じ……みんな、あなたに救われていますよ」


 彼女は慈愛に満ちたような表情だった。


「……俺は……そんな事……」

「そんなこと、あります」


 少しだけ強い声だった。


「ユラさんは、ご自分を軽く見すぎです」


 その言葉に、俺は何も返せない。

 しばらくして、サクラコさんがそっと動いた。

 俺の手に自分の手を重ねる。

 温かい。柔らかい。包み込むような手にドキッとした。


「大丈夫です」


 サクラコさんは言う。


「私たちがフォローします」

「……サクラコさん」

「あなた一人に、背負わせません」


 重なった手に、少しだけ力が入る。


「あなたが前を見てくれるなら、私は後ろから支えます」


 その言葉があまりに優しくて、あまりに温かくて。

 俺は、どうしていいか分からなくなった。


「あ……ありがとう」


 それだけ言うのが精一杯だった。

 その時、サクラコさんがそっと身を寄せた。


「……失礼します」

「え?」


 次の瞬間、俺は抱きしめられていた。


「……っ」


 驚きすぎて体が固まる。

 サクラコさんの腕が背中に回る。

 強すぎず、でも離さない力。胸元に包まれて甘い香りがした。

 心臓がまた変な音を立てる。

 む、胸があたってるぅううう。


「さ、サクラコさんっ」

「少しだけ」


 耳元で、サクラコさんの声がする。


「このままでいさせてください」

「っ……」


 俺は何も言えなかった。離れようとも思わなかった。むしろ、その温かさに少しだけ力が抜ける。


 ああ、安心する。

 自分は今、支えられている。


「……今は」


 サクラコさんが小さく呟く。


「この時間は……」


 腕に、ほんの少しだけ力がこもる。


「誰にも譲れません」

「……え、そ、それって……」

「ふふ……私、あなたが思っている以上に、あなたを想っているんですよ」


 サクラコさんは少しだけ恥ずかしそうに言った。


「明日は、きっと怖いです」

「うん」

「でも、あなたが前を向くなら、私は必ずついていきます。どこまでも」


 夜風が二人の間を通り過ぎる。

 星は静かに瞬いている。

 明日、世界がどうなるかなんて分からない。

 でも、この一瞬だけは、不安な気持ちを忘れられた。




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