50.ハヤミの家出
トウドウ公爵邸の大広間。
入り口の重厚な扉が開いた。その音だけで、周囲の空気がガラスのように張り詰める。
「……帰ってきたのか」
低く、威圧的な声だった。
広間の奥の椅子には、ハヤミの父親が不機嫌と怒りを露わにした顔でふんぞり返っていた。その視線は、いつも以上に鋭く娘を刺していた。
「ずいぶん好き勝手やっているらしいな。平民とつるみ、戦場に出ていると聞いたぞ」
「――――で?」
ハヤミは立ったまま、一礼すら取らない。完全に素の態度だった。
「で、とは何だ」
「用件それだけかって聞いてんだけど」
ハヤミのそっけない態度に、広間の空気が一気に氷点下まで冷え込む。
「貴様……」
「説教ならいらない。結論だけ言えよ」
父親の眉がぴくりと跳ね上がった。
「……王太子の件は聞いている。お前も殿下……いや、あの方と行動を共にするつもりか」
「するよ」
迷いなき即答だった。ハヤミの瞳には一片の揺らぎもない。
「……理由を聞こう」
「そんなの、あっちの方がよっぽど人間らしいから。それ以外になにがあるの」
「……くだらん」
父親は忌々しげに吐き捨てた。
「貴族としての誇りはどうした。責務はどうしたのだ」
「は……?」
ハヤミの細い眉が不快げに歪む。
「魔物が十万も押し寄せてくるって時に、この期に及んで誇り?」
ハヤミは鼻で笑い、さらに目をすぼめる。
「それ、一体誰のための誇りだよ。 平民を見下して、自分たちだけ安全な場所で好き放題してる奴らの誇りか?それを守るのが責務だって言うのかよ」
もうやってられないとばかりに、ハヤミはもう親の前でも容赦ない言葉を吐く。
「笑わせんな。ンなもん守る価値もねぇよ。くそくらえだ」
ハヤミが突き出した親指を、挑発するように真下へ向けた。父親の顔が怒りで引きつる。
「黙れ、ハヤミ!」
「黙らないね。クソ親父が」
もう従うつもりは毛頭なかった。長年、こんな親に対して建前上だけでも大人しく従ってきたことさえ、急激に馬鹿馬鹿しくなってくる。でもそれも今日で終わりだ。今がその時だった。
「っ……そもそも」
父親が苛立ちを隠せない様子で、侮蔑を込めて言い放つ。
「女が戦の前に出ること自体、分を弁えていないのだ。戦場だと?片腹痛い。女は守られる側だ。家に入り、子を産み、家を繋ぐのが役目だろうが。女がはしたなく武器を振るうなど、恥を知れ」
女の価値を一方的に下げる発言。それはハヤミにとって、絶対に踏んではならない最大の地雷だった。
「……おい、テメエ」
ハヤミの声が、ドスの利いた低い地声へと落ちる。
「……今なんつった?女は引っ込んでろ?産むだけの道具だぁ?」
さらに間合いを詰める。
「それがテメエの言う高貴な誇りってやつかよ」
ハヤミの唇が吊り上がるが、あずき色の瞳はまったく笑っていなかった。
「……マジで言ってんのか、テメエ」
「事実だ」
父親は娘の気迫に一瞬怯みつつも、傲慢な態度を崩さない。
「女が前に出て何になる。男に劣る能力しか持たないひ弱な存在など、何の役にも立たん。戦は男の役目だ。貴様は我が家の駒に過ぎん。……それと、その淑女らしからぬ下品なしゃべり方はやめろ」
ブツン。
ハヤミの頭の中で、何かが完全に切れた音がした。
「テメエらってさ、本当に人を見てねぇよな」
呆れと怒りが混じった声で嗤う。
「……貴様」
「性別、身分、血筋。そんなもんだけで全部決めて、その中身を何も見てねぇんだわ。意味のない選民意識とか身分差別ってやつ。それで偉そうに踏んぞり返ってるの、すっげぇ滑稽。ダサすぎて反吐が出るわ」
「もういい!」
父親が激昂して立ち上がる。
「お前には心底失望した!」
「……ああ、そう。ちょうどよかったじゃん」
ハヤミは肩をすくめると、ニヤリと好戦的に笑った。
「じゃあさ、こっちからも言わせてもらうわ。こんな男尊女卑のクソみたいな家、こっちから願い下げだッ!!」
ドガァァァァン。
ハヤミの小さな拳が、容赦なく大広間の頑丈な壁に叩き込まれた。
凄まじい衝撃音と共に石壁が派手に砕け散り、無数のひび割れが一気に天井へと広がっていく。
「なっ……!?」
父親が信じられないものを見るように目を見開いた。
およそ華奢な公爵令嬢のものとは思えない超パワーの塊。周囲に控えていた使用人たちも、悲鳴をあげることすら忘れてその場にへたり込んだ。
「なんでもかんでも貴族の誇りだなんだのと、うっせぇんだよ!クソ親父がッ!!」
ドン。
さらなる踏み込みの一撃が柱を直撃する。深い亀裂が走り、天井がミシミシと悲鳴を上げて軋みだした。
「女はこうしろ、男はこうあるべき? そんな都合のいい型に人間を押し込めて満足してる時点でよ……」
ハヤミはさらに強く拳を握りしめる。爆裂の属性を秘めた彼女の怒りが、周囲の空気を物理的に膨張させていた。
「テメエらはとっくに終わってんだよッ!!」
ドォォォォオオオオン。
凄まじい大音響と破壊に広間は半壊し、激しい粉塵が舞い上がった。
父親も、母親も、あまりの恐ろしさに指一本動かせない。目の前で息を荒くしている娘の、圧倒的な破壊力と暴力的なまでの威圧感に、本能的な恐怖を覚えて完全に怯えきっていた。
「……っ」
母親がガタガタと震えながら一歩後退する。
「ハヤミ……あなた、なんて嘆かわしいこと……」
「よ、よせ……やめろ……」
父親の手がかすかに震え、情けない裏返った声で母親を制した。さっきまでの偉そうな態度や威圧感はどこへやら、完全に蛇に睨まれた蛙のようだった。
ハヤミは冷ややかな視線でゆっくりと親たちを振り返る。
「……なに?」
その瞳には、親に対する遠慮も情も、もう一切残っていなかった。
「今さら怖いわけ?あたしのことが」
言葉を完全に失い、ただガチガチと歯を鳴らす父親。
ハヤミはそれ以上相手にするのも馬鹿らしくなり、潔く背を向けた。その肩には、私物が入った風呂敷包みが雑に担がれている。
「じゃ、出ていく」
「ハヤミ!!」
背後から母親の悲痛な声が響く。
一瞬だけ、ハヤミの足が止まった。
「……悪いね。都合のイイ子、やめるわ」
だが、ハヤミは二度と振り返らなかった。
「最初からあたしには、ドレスだのお人形さんだの、守られるようなか弱い女なんか向いてなかったんだよ。泥水すすってでも逞しく自由に生きるのがあたしだ」
少しだけ間を置いて、最後に冷たく言い放つ。
「その大層な誇りとやら、大事に抱えたまま沈めば? ……あばよ」
ハヤミはそのまま、堂々とした足取りで歩き出した。
その背中は驚くほど軽かった。呪縛のような家を自らの拳で壊し、彼女はもう何も背負っていなかった。




