36.帰る場所
下町の夜の空気は、あの息苦しい王城とはまるで違っていた。
雑多に行き交う人々の足音、飾り気のない素朴な話し声、どこか安っぽい油と煙の匂いが漂う。
決して整ってはいないし、洗練もされていない。
だけど、あちらの空間に比べたら、こっちの方が何倍もマシだった。
自然と足が進む。
古びた木製の扉を開けると、安っぽい鈴の音が店内に響いた。
「いらっしゃいまs……あ」
ユラだった。
一瞬だけまっすぐに目が合う。
それだけで、胸の奥に澱んでいた泥のようなものが、綺麗に消えていくような気がした。
「ヤマト!」
ユラの顔がぱっと明るくなる。
「……来てたのか」
いつもの冷淡な調子を装って言う。
だが、さっきまで吸っていた息が詰まる空気とは、明らかに呼吸のしやすさが違っていた。
「来てたのかって、いるに決まってるじゃん。ここ俺の家。マイホーム」
「兄貴、最近掃除サボりすぎ。あとで店の床磨いてよね。ついでに便所掃除も」
ハヤミが横から遠慮なしに割り込んできた。
いつの間にか、当然のようにこの店の掃除係に任命されてしまっている。もしこれが城の貴族共だったら、そんな下働きの汚い仕事を王族にやらせるつもりかと、烈火のごとく反発するだろう。
「サボってない。仕事だ」
だが、あいつらの相手をするくらいなら、床磨きや便所掃除の方が一千倍はマシ……だなんて、さすがに口には出さない。
「はいはい、おーじサマは大変だね~」
ハヤミが軽口を叩く。妹は遠慮というものがない。
だが、その雑な扱いが、今のヤマトにはたまらなく心地よかった。肩の荷が下りていた。
「おかえりなさい」
サクラコが厨房の奥から微笑みかけてくれた。
絶妙な距離感。深くは踏み込んでこない。だが、そこに確実な温かさを持って佇んでいる。
「……ただいま」
思わず、その言葉を口にしていた。
こんな安っぽい食堂で、自分がその言葉を使うことになるとは、これまでの人生を考えれば到底思いもしなかった。自分でもその変化に驚く。
「ヤマトー!」
ダイゴローがタタタッと小さな足音を響かせて駆け寄ってくる。
「見て見て!ぼく、ちゃんとお皿を運べるようになったんだよ!」
「……そうか」
その小さな頭に手を置く。
髪を軽く撫でてやると、ダイゴローはそれだけで心底満足そうに破顔した。
「えへへー!」
単純な子供だ。だが、その純粋さが今は酷く愛おしい。
「んで?」
ハヤミがニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながら近づいてくる。
「今日はあの綺麗な婚約者サマとデートだったわけ?」
「……仕事だ」
「はい出ました、お決まりの仕事」
「実際、業務だ。県内の出張みたいなものだろう」
「けっ、つまんねー回答」
バッサリと容赦なく切り捨てられる。
でも、そうやってはっきりと言ってくれる方が、ヤマトにとってはよほどすっきりした。妹の数少ない美点は、そういう裏表のない実直なところだ。
「ユラ、ちょっとこっち」
ハヤミが、ユラの袖をぐいっと引っ張って何事か囁いた。
「え、なに?」
「兄貴に構ってやりなよ」
「え、なんで俺が?」
「なんか疲れてる顔してるし」
「してない」
ヤマトは即座に否定の言葉を投げた。
「……いえ、していますね」
サクラコが、さらりと背後から追撃を入れてくる。
「無意識に肩の位置が落ちておりますよ」
「……」
指摘されて、初めて自覚する。
「とりあえず座りなよ。すぐ何か作るからさ」
「ユラ……」
ありえない言葉が、ここでは当たり前のように差し出される。
「……じゃあ、頼む」
余計なことを計算する前に、自然と声が漏れていた。
使い古された安物の椅子に腰を下ろす。不思議なほど身体に馴染んで落ち着くのは、この場所がやはりあっているからだ。
「はい、お待たせ!どうぞ!」
目の前に威勢よく料理が差し出された。
この店の看板メニューである【チーズ牛丼の特盛温玉付き】だ。見た目は雑で、盛り付けも洗練さとは程遠いのに、不思議なほど猛烈に食欲をそそられる。
ヤマトは箸を割り、一口それを口へと運んだ。
しばしの沈黙。
「……普通だな」
「普通!?」
ユラの即座のツッコミが飛んできた。
「そこはせめて美味しいとか言えよ」
「普通に食える」
「それ、全然褒めてねえ!」
口では素直に認めないが、やっぱり美味かった。ユラの作る料理は、誰の作るものよりも温かくて、冷え切った身体の芯にまでじわじわと染み渡っていく。
食べるだけで身体が軽くなったり、力が湧いてきたり、何かしらのバフ効果があると巷の冒険者の間では有名らしいが、勇者の恩得だとかそんな理屈はどうでもいい。ただ、とても安心する。
ふと、視線が自然とユラの方へと向く。
常連の客たちに囲まれながら、嬉しそうに笑っている。普段なら気にも留めないはずの、ただの些細な仕草に、どうしても目が吸い寄せられてしまう。何も考えていないような間抜けた顔で、今日も誰かのために必死に動き回っている。
時々ドジをしては、厨房の奥で店主に怒られている。それを見て、不覚にも少し可愛いと思ってしまっている自分自身が、酷く面倒だった。
「……」
これ以上歪む前に、ヤマトは視線を外した。
こんな奇妙な感覚、これまでの人生で一度だって味わったことがない。
どうかしているな……。
ただ、ここにいれば、余計なことなんて何も考えなくていい。
ずっと、この場所に、コイツの隣にいればいい。




