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食堂店員兼勇者  作者: 平民
三章 平民と貴族の腐敗

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36/65

36.帰る場所

 下町の夜の空気は、あの息苦しい王城とはまるで違っていた。

 雑多に行き交う人々の足音、飾り気のない素朴な話し声、どこか安っぽい油と煙の匂いが漂う。

 決して整ってはいないし、洗練もされていない。

 だけど、()()()の空間に比べたら、こっちの方が何倍もマシだった。


 自然と足が進む。

 古びた木製の扉を開けると、安っぽい鈴の音が店内に響いた。


「いらっしゃいまs……あ」


 ユラだった。

 一瞬だけまっすぐに目が合う。

 それだけで、胸の奥に澱んでいた泥のようなものが、綺麗に消えていくような気がした。


「ヤマト!」


 ユラの顔がぱっと明るくなる。


「……来てたのか」


 いつもの冷淡な調子を装って言う。

 だが、さっきまで吸っていた息が詰まる空気とは、明らかに呼吸のしやすさが違っていた。


「来てたのかって、いるに決まってるじゃん。ここ俺の家。マイホーム」

「兄貴、最近掃除サボりすぎ。あとで店の床磨いてよね。ついでに便所掃除も」


 ハヤミが横から遠慮なしに割り込んできた。

 いつの間にか、当然のようにこの店の掃除係に任命されてしまっている。もしこれが城の貴族共だったら、そんな下働きの汚い仕事を王族にやらせるつもりかと、烈火のごとく反発するだろう。


「サボってない。仕事だ」


 だが、あいつらの相手をするくらいなら、床磨きや便所掃除の方が一千倍はマシ……だなんて、さすがに口には出さない。


「はいはい、おーじサマは大変だね~」


 ハヤミが軽口を叩く。妹は遠慮というものがない。

 だが、その雑な扱いが、今のヤマトにはたまらなく心地よかった。肩の荷が下りていた。


「おかえりなさい」


 サクラコが厨房の奥から微笑みかけてくれた。

 絶妙な距離感。深くは踏み込んでこない。だが、そこに確実な温かさを持って佇んでいる。


「……ただいま」


 思わず、その言葉を口にしていた。

 こんな安っぽい食堂で、自分がその言葉を使うことになるとは、これまでの人生を考えれば到底思いもしなかった。自分でもその変化に驚く。


「ヤマトー!」


 ダイゴローがタタタッと小さな足音を響かせて駆け寄ってくる。


「見て見て!ぼく、ちゃんとお皿を運べるようになったんだよ!」

「……そうか」


 その小さな頭に手を置く。

 髪を軽く撫でてやると、ダイゴローはそれだけで心底満足そうに破顔した。


「えへへー!」


 単純な子供だ。だが、その純粋さが今は酷く愛おしい。


「んで?」


 ハヤミがニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながら近づいてくる。


「今日はあの綺麗な婚約者サマとデートだったわけ?」

「……仕事だ」

「はい出ました、お決まりの仕事」

「実際、業務だ。県内の出張みたいなものだろう」

「けっ、つまんねー回答」


 バッサリと容赦なく切り捨てられる。

 でも、そうやってはっきりと言ってくれる方が、ヤマトにとってはよほどすっきりした。妹の数少ない美点は、そういう裏表のない実直なところだ。


「ユラ、ちょっとこっち」


 ハヤミが、ユラの袖をぐいっと引っ張って何事か囁いた。


「え、なに?」

「兄貴に構ってやりなよ」

「え、なんで俺が?」

「なんか疲れてる顔してるし」

「してない」


 ヤマトは即座に否定の言葉を投げた。


「……いえ、していますね」


 サクラコが、さらりと背後から追撃を入れてくる。


「無意識に肩の位置が落ちておりますよ」

「……」


 指摘されて、初めて自覚する。


「とりあえず座りなよ。すぐ何か作るからさ」

「ユラ……」


 ありえない言葉が、ここでは当たり前のように差し出される。


「……じゃあ、頼む」


 余計なことを計算する前に、自然と声が漏れていた。

 使い古された安物の椅子に腰を下ろす。不思議なほど身体に馴染んで落ち着くのは、この場所がやはりあっているからだ。


「はい、お待たせ!どうぞ!」


 目の前に威勢よく料理が差し出された。

 この店の看板メニューである【チーズ牛丼の特盛温玉付き】だ。見た目は雑で、盛り付けも洗練さとは程遠いのに、不思議なほど猛烈に食欲をそそられる。


 ヤマトは箸を割り、一口それを口へと運んだ。

 しばしの沈黙。


「……普通だな」

「普通!?」


 ユラの即座のツッコミが飛んできた。


「そこはせめて美味しいとか言えよ」

「普通に食える」

「それ、全然褒めてねえ!」


 口では素直に認めないが、やっぱり美味かった。ユラの作る料理は、誰の作るものよりも温かくて、冷え切った身体の芯にまでじわじわと染み渡っていく。

 食べるだけで身体が軽くなったり、力が湧いてきたり、何かしらのバフ効果があると巷の冒険者の間では有名らしいが、勇者の恩得だとかそんな理屈はどうでもいい。ただ、とても安心する。


 ふと、視線が自然とユラの方へと向く。

 常連の客たちに囲まれながら、嬉しそうに笑っている。普段なら気にも留めないはずの、ただの些細な仕草に、どうしても目が吸い寄せられてしまう。何も考えていないような間抜けた顔で、今日も誰かのために必死に動き回っている。


 時々ドジをしては、厨房の奥で店主(ゲンジロー)に怒られている。それを見て、不覚にも少し可愛いと思ってしまっている自分自身が、酷く面倒だった。


「……」


 これ以上歪む前に、ヤマトは視線を外した。

 こんな奇妙な感覚、これまでの人生で一度だって味わったことがない。


 どうかしているな……。


 ただ、ここにいれば、余計なことなんて何も考えなくていい。

 ずっと、この場所に、コイツの隣にいればいい。



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