34.ヤマトの憂鬱(前編)
カノンの王城の、静まり返った執務室。
耳障りなほどに静まり返った空間に、ただ紙をめくる音だけが規則正しく響いていた。
さらり、と次。さらり、と次。
傍らで控える側近が息を呑むほど、ヤマトの書類を処理する速度は異常だった。
視線を一瞬走らせるだけで、複雑な財政報告も、裏に隠された横領の意図も、すべてが瞬時に頭に入る。考えるまでもなく、最適な答えが導き出されていく。
「次を持って来い」
感情の起伏を一切排した、静かな声。
ヤマトは淡々と万年筆を走らせ、処理済みの書類を積み上げていく。机の上に山を築いていたはずのそれは、すでに半分以下に減っていた。
「……殿下」
控えていた伯爵令息が、かすかに引きつった声で進言する。
「少し休まれては。これほどの量を一息に処理されるなど、体に障ります」
「必要ない」
即答する。
視線すら上げず、次の書類を引き寄せる。
「溜めていた分を処理しているだけだ。……気にするな」
それは事実だった。
ここ最近、ヤマトが王城に顔を出す頻度は著しく減っていた。学園の講義が終われば、一目散にあの方角へと足を向けていたからだ。あの、安物の木材と美味そうな出汁の匂いが漂う、雑然とした下町の食堂へ。
その分の仕事が溜まるのは必然だったが、この程度の雑務など、ヤマトにとっては指先を動かすだけの退屈な作業に過ぎない。余計な会議や、腹の探り合いだけが目的の茶会に時間を奪われるよりは、よほどマシだった。
早く行きたい。あの場所へ。
ただそれだけの動機が、ヤマトの指先を動かしていた。
こんな事務作業、さっさと終わらせるだけだ。
それにしても、この城の人間たちの書類は無駄が多すぎる。
ヤマトは眉一つ動かさず、冷徹に思考を巡らせる。冗長な報告、回りくどい敬語表現、いざという時の責任の所在を曖昧にするためだけに書かれた無意味な文面。極道の世界なら、こんな報告書を出した時点で指を詰められても文句は言えない。
無言で赤線を引く。
ヤマトの手によって、書類が仕分けられていく。
「……次に、平民地区の件ですが」
伯爵令息が口を開く。
「今回の予算は、大幅に削減する方向でよろしいかと。元々あの区域は、国の税収に対する貢献度が低く、これ以上の投資は無駄で」
「維持する」
顔も上げないまま、静かに遮る。
「……ですが、あそこは犯罪率も高く、平民ばかr」
「維持すると言った。……聞こえなかったか」
声音の高さは変わらない。しかし、その一言に宿った「圧」が室内の空気を凍らせる。
「……はっ。失礼いたしました」
王派の伯爵令息は、それ以上口を開かなかった。だが、その表情にはあからさまな不納得が浮かんでいる。
ヤマトはゆっくりとペンを置き、顔を上げた。冷徹な碧眼が、真っ直ぐに令息を射抜く。
「お前は」
静かに問いかける。
「何を基準に削減を提案した。効率か。それとも、ただの利益か」
「……当然、国家運営の、長期的な観点からでございます」
「ならば、なぜその計算の中に人間を入れていない」
「……っ」
側近が息を詰まらせる。ヤマトは淡々と、しかし逃げ場を与えないトーンで言葉を重ねた。
「平民はただの数字か。それとも家畜か」
「……殿下。失礼を承知で申し上げますが、彼らはいくらでも替えが利く存在です。貴族とは違います」
その一言を聞いた瞬間、ヤマトの胸の奥が冷え切っていく。
怒鳴る気にもなれない。表情を変える価値すらない。ただ、この温室育ちの若造に、これ以上言葉を費やすのが極限まで面倒になった。
「……そうか」
ヤマトは静かに頷き、再びペンを握った。
「ならば、お前も替えが利かない人間になれ。……でなければ、いつか誰かに消されるだけだ」
「……っ、は、はい……」
側近の顔から血の気が引いていく。
会話はそれで終わりだった。ヤマトは再び書類に視線を落とし、周囲を完璧に無視して作業を再開した。
くだらん。
内心で冷たく吐き捨てる。それを仮面の下に隠すことなど、ヤマトにとっては造作もないことだった。こんな連中に、自分の本音を曝け出す価値など、最初から寸分も存在しない。
しばらくして、謁見の間に呼び出された。
高い天井に、豪奢な装飾。その中央で、王が尊大に玉座へ腰掛けていた。
「よく来たな、ヤマト」
カノン王の威厳ある声が響く。
「……呼ばれましたので」
ヤマトは片膝を突き、頭を垂れた。
一応は公の場だ。王太子としての建前と、完璧な礼儀作法は守っておく。中身空っぽの人形を演じるのはもう慣れ切っていた。
「最近、城に顔を見せぬと思えば、例の勇者とやらに付き添っているらしいな」
「……ええ。お守りとしての役目を果たしております」
「ふむ。まあよい」
王は満足そうに顎を引いた。
「勇者など、都合の良い道具だ。魔王討伐のような厄介事は、ああいう命の安い平民に任せておけばよい。我らはこのカノン国を玉座の上から守る。それが高貴なる者の役目だ」
「……」
道具だと……。
あの不器用で、お人好しで、自分に自信のないユラを、この無能な男はそう呼んだ。
胸の奥で不快感がわく。だが、ヤマトは冷徹な仮面をそのままにする。
「……承知しております」
建前だけの言葉を返す。今はそれでいい。
「ところで、平民の扱いについてだが。最近、お前の平民に対する態度が甘すぎるのではないか、という声が一部の貴族から上がっている。保護だの、支援だの……あのような者たちに過剰な情をかける必要はない。彼らは、下に這いつくばっているからこそ、我々を支える礎としての意味があるのだ」
王はさも高尚な真理を語るかのように、気取った仕草で断言した。
やってられるか。
引き金を引く指の感触が、無意識に右手に蘇りそうになる。それでも、自身の感情を極限の自制心で完璧に抑え込んだ。
「……貴重なご意見として、胸に刻んでおきます」
それだけを返し、静かに一礼をして謁見の間を出た。
重厚な扉が閉まり、廊下の静寂に包まれた瞬間、誰にも聞こえないほどの息を吐いた。
上から目線の無能なクソジイ。
血が繋がっているというだけの、ただの赤の他人だ。
あれを親と呼ぶ気には、到底なれなかった。
できる事なら脳天をぶち抜きたいが、後始末が大変だからと暗殺はやめておく。
こうして何度、あのジジイを殺してやろうと思った事だろう。無能すぎて嫌になる。
「ヤマト」
不意に、背後から華美な香水の匂いと共に、甲高い女の声がした。
心の中で舌打ちをしながら、完璧な王太子の微笑みを顔に貼り付けて振り返る。
「母上」
形式的な呼びかけだ。感情など一切ない。
目の前に立つスイーツ王妃は、扇で口元を隠しながら、満面の笑みを浮かべていた。
「聞いたわよ、あなた。あの勇者様と、随分と懇意にされているのですって?」
「……ええ。良き友人として、親しくさせていただいております」
「まあ、素晴らしいわ!」
スイーツ王妃の目が、ギラギラとした欲深さで輝く。
「さすがは私の息子ね。そんな貴重な存在をすでに手懐けているなんて。ねえ、どのような方なの? やはり、お高くて素晴らしい方なのでしょう?」
ヤマトの脳裏に、あの食堂での、エプロン姿のユラが浮かぶ。
いつもオロオロとしていて、それでも誰かが困っていれば、怯えながらも助けようとする。あまりにも無防備で、あまりにも愛おしい。世界で唯一の光。
「……ええ」
ヤマトの声がわずかに低くなる。
「とても……真っ直ぐな人です」
「でしょうね!さすがは私の自慢の息子だわ。本当に誇らしいこと」
気持ち悪い。何がすでに手懐けている、だ。勇者すらも駒扱いするところが無能なジジイとよく似ていてお似合いだな。
そもそも貴様のためにやっているわけじゃない。その着飾った細腕を、今すぐ根元から折ってやろうか。この箱入りケバ女。香水と化粧臭くてかなわん。
目の前の母親という生き物は、ヤマトのことも、勇者のことも、自分の虚栄心を満たすための『高級なアクセサリー』としか見ていない。中身など、最初からどうでもいいのだ。
カノン王も、貴族も、このケバ女も。
全員、中身のすっからかんな能面が喋っているようにしか思えなかった。
「今度、ぜひ私のお茶会にもお連れして」
「必要ありません」
お茶会とか馬鹿かこの女。そんなくだらん仲良しこよしアピールに出るわけがないだろうが。ドレス自慢と宝石自慢しか能のないバカ女共が、扇片手に平民勇者を笑いものにするだけなのが想像に容易い。誰が出させるか。殺すぞ。
「……あの方は、そのような場所を好まない。私の判断で、お断りさせていただきます」
「……え? そう……残念だわ」
スイーツ王妃は微笑みを崩さなかったが、その瞳の奥には、思い通りにならない息子に対する不満と、勇者という利権を利用できないことへの焦燥が透けて見えていた。
……くそが。マジで細腕折ってやりたい。
ヤマトは踵を返し、足早に廊下を歩き出す。
窓の外を見据えれば、眼下に城下町が広がっている。
あの勇者のいる、あの食堂がある方角を。
あそこには、くだらない、けれど温かい会話がある。
城にいれば息が詰まる。価値観も、義務も、立場も、すべてを押し付けられ、息をすることすら許されない。
だが、あの場所は、不思議と深く息を吸うことができた。
本来なら、王族としては関わるべきではない場所。
だが、それがどうした。
信用に値しない無能王や、馬鹿貴族どもが語る正しさなど、ヤマトにとっては泥水以下の価値しかない。自分がどちらを選ぶべきかなど、最初から考えるまでもない。
ヤマトは王城の出口へと、まっすぐに歩みを進める。
あの愛しい場所へと向かう前に、まだ一つ、片付けなければならないやるべき仕事が残っていた。




