第九章 渚の過去
七日目の朝だった。
目が覚めたとき、窓から差し込む夕焼けを見ながら、一週間経ったと思った。
外の世界では一週間が経っているのか、それとも時間が止まっているのか、まだ分からない。でも、この駅での時間は確かに積み重なっていた。朝が来て、食事をして、誰かが来て、また朝が来る。それが七回繰り返された。
起き上がって、窓の外を見た。
いつもと同じ夕焼けだった。でも今朝は、その色を少しだけ違う気持ちで見た。
綺麗だな、と思った。
来た最初の日は、そんなことを考える余裕がなかった。早退して、歩いて、気づいたらここにいた。あのときは夕焼けを見ても、何も感じなかった気がする。それが今は、綺麗だと思える。
何かが、少しずつ変わっているのかもしれなかった。
朝食のとき、夕さんが「今日は誰も来ない気がします」と言った。
「時計が、そう言ってるんですか」
「はっきりとは分かりませんが、静かな日になる気がして」
「静かな日は、珍しいですか」
「そうでもないです。来ない日の方が多いくらいです。でも、来るときはまとめて来ることもあります」
「バランスが取れてるんですね」
「そうかもしれません」
静かな日になる、と言われて、少しだけほっとした。ここ数日、乗客が来るたびにいろんなことを考えて、いろんなものが積み重なっていた。少し、整理する時間が必要な気がしていた。
午前中、夕さんは帳面の整理をしていた。
僕はホームのベンチに座って、ぼんやりしていた。
ターミナルが隣に来て、座った。今日は珍しく、ずっと隣にいた。どこにも行かずに、ただ隣にいた。
「ターミナル、今日、話してもいいですか」
ターミナルは線路の方を向いたまま、耳だけ動かした。
「聞いてくれる感じ、しますよね」
ニャア、と短く鳴いた。
「ありがとう」
線路を見ながら、どこから話せばいいか考えた。
自分のことを話すのが苦手だった。昨日の西村さんみたいに、聞く方が楽だった。でも今日は、誰かに話さないといけない気がした。夕さんでも、ターミナルでも。
言葉にしないと、整理できない気がした。
僕が夢について、初めて真剣に考えたのは、小学五年生のときだった。
先生が「将来の夢を書いて下さい」という作文の課題を出した。クラスのみんなはすらすらと書いていた。サッカー選手、医者、パン屋さん、先生。それぞれ、自分が書くものを持っていた。
僕だけ、何も浮かばなかった。
三十分かけて、結局「警察官」と書いた。本当はなりたくもなかった。でも、それが「普通の夢」っぽかった。先生に変に思われたくなかった。
「そのとき、どう思いましたか」
僕はターミナルに尋ねるように言った。
ターミナルは黙っていた。
「……みんなと同じじゃないと、おかしいのかなって思いました。夢がないことが、恥ずかしかった」
中学に入ってから、それは少しずつ形を変えていった。
夢がないことへの恥ずかしさは、いつの間にか「周りに合わせること」への得意さになっていた。
友達が好きなゲームを「面白いよね」と言えば、僕も「面白いよね」と言った。本当は興味がなくても。好きなバンドの話をすれば、僕もそのバンドを聴くようになった。そうすることで、会話が続いた。関係が続いた。
それは嘘ではなかった。周りに合わせているうちに、本当に好きになることもあった。でも、どれが本当に自分の好きなもので、どれが合わせているうちに好きになったのか、だんだん区別がつかなくなっていった。
「自分が何者か、分からなくなっていきました」
僕はターミナルに言った。
ターミナルはこちらを向かなかった。
「でも、困っていなかったんです。周りとうまくやれていたから。友達もいたし、先生にも可愛がってもらっていたし、目立つトラブルもなかった。だから、自分を見失っていることに気づいていなかった」
気づいたのは、中学三年生のときだった。
進路を決める時期になって、先生に「高校はどこに行きたい?」と聞かれた。
そのとき初めて、自分が何もないことを、正面から見た。
友達は「あの高校に行きたい、なぜならこういう部活があるから」とか「家から近いから」とか、何かしら理由を持っていた。でも僕には理由がなかった。どこでもよかった。
結局、仲のいい友達が行く高校に行くことにした。理由はそれだけだった。
「親には『友達と同じ高校に行きたい』と言いました。親は喜んでくれました。仲のいい友達がいるのはいいことだって。でも本当の理由は、それしかなかったから、というだけでした」
ターミナルが伸びをした。それから、また元の姿勢に戻った。
「聞いてくれてますか」
ニャア。
「ありがとうございます」
高校に入って、状況は変わらなかった。
むしろ悪くなった、と思う。
高校は中学より規模が大きくて、いろんな人がいた。いろんな人がいる分、合わせる対象も増えた。部活、クラス、委員会。それぞれで少し違う自分を演じた。演じている、という感覚はなかったけど、今思えばそうだったと思う。
ただ、一つだけ変わったことがあった。
人の相談に乗ることが、増えた。
友達が悩んでいると、自然と話しかけていた。何があったかを聞いて、一緒に考えた。自分のことは話せなかったけど、相手の話を聞くのは得意だった。
そのことが嬉しかった。自分に何もないと思っていたけど、人の話を聞くことだけは、うまくできた。
「でも、それを『自分の得意なこと』だとは思っていなかったんです。ただの性格だと思っていた。誰でもできることだと思っていた」
二年生になったとき、クラスメートの女子から、相談を受けた。
友達関係のことで、グループ内でのことで、かなり複雑な状況だった。話を聞きながら、整理して、一緒に考えた。一時間以上かかった。
最後に、その子が「話してよかった。なんか、整理できた気がする」と言った。
そのとき感じたものを、まだ覚えている。
嬉しかった。でも、それだけじゃなかった。
何か、達成したような感覚があった。テストで良い点を取ったときとも違う、部活で勝ったときとも違う。人が少し楽になったことに、自分が少し関われた、という感覚だった。
「あのとき初めて、人の話を聞くことが好きかもしれないと思いました」
僕がそう言うと、ターミナルが、こちらを向いた。
「でも、その後、どうすればよかったか、分からなかった。好きかもしれないと思っても、それをどこに向ければいいか、分からなかった」
三年生になって、進路の話が始まった。
クラスのみんなは、少しずつ方向を定め始めていた。大学の資料を集めている人、専門学校を調べている人、就職を考えている人。それぞれが、なんらかの方向に向かっていた。
僕だけが、また止まっていた。
人の話を聞くことが好きかもしれない、という感触はあった。でも、それが何につながるのか、分からなかった。
カウンセラー、という言葉は頭に浮かんだことがある。でも、なるためには大学に行って、資格を取って、そこから何年もかかる。そんな遠い話のように感じて、自分のこととして考えられなかった。
先生になる、という選択肢も浮かんだ。でも、教えることと、話を聞くことは違う気がした。
「どこに行きたいか、分からないまま、時間だけが過ぎていきました。みんなが前に進んでいる中で、僕だけが同じ場所に立っていた。焦っていたけど、焦っても何も出てこなかった」
僕の話を、ターミナルはじっと聞いていたみたいだった。
進路希望調査を渡されたのは、あの日だった。「明日までに出すように」と言われた瞬間、何かがぷつりと切れた気がした。
別に怒ったわけじゃない。泣いたわけでもない。ただ、空気が薄くなった。教室の中の全員が自分の行き先を知っていて、自分だけが知らない。そういう感覚が急に、息苦しくなった。
保健室に行って、早退して、歩いた。
どこに行きたいか分からないから、歩いた。歩いていれば、どこかに行けると思った。
「それで、ここに来ました。どこに行きたいか分からないから、という理由で。今思えば、それは正直な理由でした。取り繕った理由じゃなかった」
ターミナルが一度、ゆっくり瞬きをした。
「ここに来てから、七日経ちました。いろんな人の話を聞きました。夢を諦めそうだった人、帰れなかった子、失恋した人、会社を辞めた人、夢が叶ったのに迷っていた人。みんな、それぞれの行き先があって、それぞれの場所に向かっていきました」
ターミナルは聞いていた。
「聞いていて思ったのは、みんな、ちゃんと何かを持っていた。行き先の候補みたいなものを。ただ、怖かったり、迷ってたり、疲れていたりして、動けなくなっていた。夕さんと話して、整理して、それで動けるようになっていた」
「でも、僕は、行き先の候補すら、なかった。出発点に立てていなかった」
自分で言って、ずっと感じていたことが言葉になった気がした。
「みんなには行き先があった。僕にはなかった。それが、ここに来た理由です。行き先を探すために、来ました」
少し黙って、線路を見た。
線路はまっすぐ伸びていた。どこまでも続いているように見えた。
「でも、七日いて、少し変わりました」
ターミナルが耳を動かした。
「人の話を聞くことが、何かに繋がる気がしてきました。夕さんがやっていることを見て、来た人たちの話を聞いて、少しずつ、もやが晴れてきている気がします。まだ完全には見えないけど、輪郭は見えてきた。輪郭は、どんな形ですか」
僕はターミナルに尋ねるように言った。
ターミナルは答えなかった。
「人の話を聞いて、一緒に考えて、行き先を探す。そういうことをしたい、という気持ちが、あると思います。漠然としてるけど、あると思います」
言いながら、自分で驚いた。
声に出したのは、初めてだった。
しばらく黙っていた。
ターミナルが僕の膝に前足を乗せてきた。乗るかな、と思ったけど、前足だけ乗せて、そのままにしていた。
「ターミナルって、僕が話すのを聞いてましたよね。急かさないし、否定しないし、ただ聞いていた」
ターミナルは前足を膝に乗せたまま、こちらを見た。
「夕さんと、同じですね。話を聞く、ということにかけては」
ターミナルが鼻をひくひくさせた。
「それって、僕が目指しているものに、近い気がします。ただ聞くだけでいい、というわけじゃないけど。でも、聞くことが大事だという、その姿勢は」
前足が、少し僕の膝を押してきた。
「……分かった、という感じですか」
ターミナルは目を細めた。
昼過ぎ、駅舎に戻ると、夕さんが台所でお茶を入れていた。
「どうでしたか」
夕さんは、僕が外に出ていたことには触れなかった。
「ターミナルと話していました」
「ターミナルと」
「話を聞いてもらいました。自分のことを」
夕さんは湯呑みを二つ持って、テーブルに来た。
「珍しいですね、渚さんが自分のことを話すのは」
「そうですね。あんまり得意じゃないんですが、今日は話さないといけない気がして」
「どうして」
「言葉にしないと、整理できないことがあると思って。夕さんが言ってましたよね、聞いてもらうと言葉になる、って」
「言いましたね」と夕さんは言った。少し目を細めた。
「話してもいいですか。夕さんにも」
「はい」
夕さんはすぐに答えた。
僕はお茶を一口飲んでから、話し始めた。
小学生のときから話した。夢がなかったこと、周りに合わせてきたこと、人の相談に乗ることだけはうまくできたこと、でもそれを活かすことを考えてこなかったこと。ターミナルに話したのと同じことを、夕さんにも話した。
夕さんは急かさなかった。口を挟まなかった。ただ、静かに聞いていた。
湯呑みを持ちながら、目を伏せたり、窓の外を見たりしながら、聞いていた。
全部話し終えたとき、胸が少し軽かった。
「ありがとうございます。話してくれて」
「聞いてくれてよかったです」
「一つ、聞いていいですか」
「はい」
「周りに合わせてきた、と言っていましたが……それは、嫌いなことをしてきた、ということとは違いますか」
僕は少し考えた。
「違います。合わせているうちに、本当に好きになったことも、たくさんありました。嫌いなことを我慢してきたわけじゃない」
「では、自分を偽ってきた、ということとも違いますか」
「……違うと思います。偽る、というより……自分のものさしがなかった、という感じです。好き嫌いのものさし、ではなくて、自分がどこに向かいたいか、というものさしが」
「ものさしがなかった」
夕さんは繰り返した。
「はい。そのものさしを、ずっと探してきた気がします。でも見つけられなくて、ここに来ました」
「今、そのものさしは」
「少し、見えてきた気がします。人の話を聞くことを、仕事にしたいかもしれない、という気持ちが、出てきています」
夕さんはしばらく黙っていた。
「それは、ここに来てから出てきた気持ちですか」
「ここに来てから、はっきりしてきた気持ちです。でも、元々あった気持ちだと思います。中学のとき、友達の相談に乗って嬉しかったとき、すでにあった気持ちだと思います。ただ、それが何なのか、どこに向けばいいのか、分からなかった」
「ここに来て、分かってきた」
「分かってきました。まだ完全には分からないけど」
夕さんはお茶を一口飲んだ。
「渚さんは、来た人の話を聞きながら、何を感じていましたか」
「みんな、ちゃんと何かを持っていると思いました。怖かったり迷っていたりして見えにくくなっていたけど、ちゃんと持っていた。それを一緒に探すことが、面白いと思いました」
「面白い、ですか」
「はい。楽しい、とは少し違う。面白い、です。なんか、宝探しみたいな感覚で」
「宝探し」
夕さんの声に、温かいものが混じっていた。
「変ですか」
「変ではないと思います。むしろ――」
夕さんは言いかけて、止まった。
「むしろ、何ですか」
「私も、そう思っています。来てくださる方が、自分の行き先を見つけるとき、宝を見つけたときのような顔をします。それを見るのが好きです」
「夕さんも、同じように感じてるんですね」
「そうかもしれません」
二人でしばらく、黙っていた。
悪くない沈黙だった。
「一つだけ、聞いていいですか」
「はい」
「夕さんは、僕の行き先が、なんとなく見えていますか。時計で」
夕さんは少し間を置いた。
「少し、見えてきている気がします。でも、渚さん自身が気づくことが大切なので、言わない方がいいと思っています」
「言わない方がいい」
「自分で気づいたことじゃないと、本当の行き先にはなりません。誰かに教えてもらった行き先は、誰かの行き先です」
それは、正しいと思った。
「じゃあ、自分で気づきます」
「はい。もうすぐだと思います」
もうすぐ。
その言葉は、プレッシャーではなかった。背中を軽く押されたような感触だった。
午後、夕さんが帳面に何かを書いていた。
僕はホームに出て、ベンチに座って、空を見た。夕焼けの空。いつも同じ空。
でも今日は、その空が少し広く見えた。
人の話を聞いて、一緒に考えて、行き先を探す。
それが自分のやりたいことかもしれない、という気持ちが、今日は初めてはっきりした。ターミナルに話して、夕さんに話して、声に出したことで、輪郭が固まった気がした。
でも、具体的に何をすればいいか、はまだ分からなかった。大学に行くのか、専門学校に行くのか、どんな仕事があるのか。
それはまだ霧の中にあった。
でも、方向は見えてきた。
方向が見えてきた、というだけで、こんなに違うとは思わなかった。
胸の中に、小さな何かが灯り始めていた。
夕食のとき、夕さんが珍しく少し多くしゃべった。
今日来た人はいなかったけど、今日のことを少し話してくれた。
「渚さんが外でターミナルと話していたとき、私は帳面を読んでいました。昔来た方の記録を」
「昔の記録を?」
「たまに読み返します。どんな方が来たか、どんな話をしたか、どこに行ったか」
「どうして読み返すんですか」
「忘れないためでもありますが……今の自分に必要なことが、過去の記録にあることがあるので」
「今日は何かありましたか」
夕さんは少し考えた。
「以前来た方の記録に、こんなことが書いてありました。『自分のことを話せない人が、人の話を聞けるようになったとき、初めて本当の対話ができる』と」
「それって……」
「私が書いた言葉です。その方と話しながら、気づいたこととして書いた」
「その言葉、今日の僕に関係ありますか?」
「そうかもしれません。渚さんは今日、自分のことを話しました。ターミナルに、私に。それは、渚さんにとって小さくないことだと思います」
眠る前に、今日を振り返った。
自分のことを話した。声に出した。
それで、何かが変わった気がした。具体的に何が変わったかは分からない。でも、昨日より少し、自分のことが見えてきた気がした。
人の話を聞きたい、という気持ちが、本物だと分かった。
もやの中の輪郭が、今日ははっきりした形を持ち始めていた。
まだ名前はなかった。でも、形はあった。
ターミナルが足元に来て、丸くなった。
「今日、話を聞いてくれてありがとう」
僕がそう言うと、ターミナルはごろごろと鳴いた。
夕焼けは続いていた。時計は17時47分のままだった。
でも、明日は何かが変わる気がした。
根拠はなかったけど、そういう気がした。そして、根拠のない気がするのも、悪くないと思った。




