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17時47分の終着駅―駅員の少女と、行き先のない僕―  作者: 明石竜


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9/12

第九章 渚の過去

 七日目の朝だった。

 目が覚めたとき、窓から差し込む夕焼けを見ながら、一週間経ったと思った。

 外の世界では一週間が経っているのか、それとも時間が止まっているのか、まだ分からない。でも、この駅での時間は確かに積み重なっていた。朝が来て、食事をして、誰かが来て、また朝が来る。それが七回繰り返された。

 起き上がって、窓の外を見た。

 いつもと同じ夕焼けだった。でも今朝は、その色を少しだけ違う気持ちで見た。

 綺麗だな、と思った。

 来た最初の日は、そんなことを考える余裕がなかった。早退して、歩いて、気づいたらここにいた。あのときは夕焼けを見ても、何も感じなかった気がする。それが今は、綺麗だと思える。

 何かが、少しずつ変わっているのかもしれなかった。


 朝食のとき、夕さんが「今日は誰も来ない気がします」と言った。

「時計が、そう言ってるんですか」

「はっきりとは分かりませんが、静かな日になる気がして」

「静かな日は、珍しいですか」

「そうでもないです。来ない日の方が多いくらいです。でも、来るときはまとめて来ることもあります」

「バランスが取れてるんですね」

「そうかもしれません」

 静かな日になる、と言われて、少しだけほっとした。ここ数日、乗客が来るたびにいろんなことを考えて、いろんなものが積み重なっていた。少し、整理する時間が必要な気がしていた。


 午前中、夕さんは帳面の整理をしていた。

 僕はホームのベンチに座って、ぼんやりしていた。

 ターミナルが隣に来て、座った。今日は珍しく、ずっと隣にいた。どこにも行かずに、ただ隣にいた。

「ターミナル、今日、話してもいいですか」

 ターミナルは線路の方を向いたまま、耳だけ動かした。

「聞いてくれる感じ、しますよね」

 ニャア、と短く鳴いた。

「ありがとう」

 線路を見ながら、どこから話せばいいか考えた。

 自分のことを話すのが苦手だった。昨日の西村さんみたいに、聞く方が楽だった。でも今日は、誰かに話さないといけない気がした。夕さんでも、ターミナルでも。

 言葉にしないと、整理できない気がした。


 僕が夢について、初めて真剣に考えたのは、小学五年生のときだった。

 先生が「将来の夢を書いて下さい」という作文の課題を出した。クラスのみんなはすらすらと書いていた。サッカー選手、医者、パン屋さん、先生。それぞれ、自分が書くものを持っていた。

 僕だけ、何も浮かばなかった。

 三十分かけて、結局「警察官」と書いた。本当はなりたくもなかった。でも、それが「普通の夢」っぽかった。先生に変に思われたくなかった。

「そのとき、どう思いましたか」

僕はターミナルに尋ねるように言った。

 ターミナルは黙っていた。

「……みんなと同じじゃないと、おかしいのかなって思いました。夢がないことが、恥ずかしかった」


 中学に入ってから、それは少しずつ形を変えていった。

 夢がないことへの恥ずかしさは、いつの間にか「周りに合わせること」への得意さになっていた。

 友達が好きなゲームを「面白いよね」と言えば、僕も「面白いよね」と言った。本当は興味がなくても。好きなバンドの話をすれば、僕もそのバンドを聴くようになった。そうすることで、会話が続いた。関係が続いた。

 それは嘘ではなかった。周りに合わせているうちに、本当に好きになることもあった。でも、どれが本当に自分の好きなもので、どれが合わせているうちに好きになったのか、だんだん区別がつかなくなっていった。

「自分が何者か、分からなくなっていきました」

僕はターミナルに言った。

 ターミナルはこちらを向かなかった。

「でも、困っていなかったんです。周りとうまくやれていたから。友達もいたし、先生にも可愛がってもらっていたし、目立つトラブルもなかった。だから、自分を見失っていることに気づいていなかった」


 気づいたのは、中学三年生のときだった。

 進路を決める時期になって、先生に「高校はどこに行きたい?」と聞かれた。

 そのとき初めて、自分が何もないことを、正面から見た。

 友達は「あの高校に行きたい、なぜならこういう部活があるから」とか「家から近いから」とか、何かしら理由を持っていた。でも僕には理由がなかった。どこでもよかった。

 結局、仲のいい友達が行く高校に行くことにした。理由はそれだけだった。

「親には『友達と同じ高校に行きたい』と言いました。親は喜んでくれました。仲のいい友達がいるのはいいことだって。でも本当の理由は、それしかなかったから、というだけでした」

 ターミナルが伸びをした。それから、また元の姿勢に戻った。

「聞いてくれてますか」

 ニャア。

「ありがとうございます」


 高校に入って、状況は変わらなかった。

 むしろ悪くなった、と思う。

 高校は中学より規模が大きくて、いろんな人がいた。いろんな人がいる分、合わせる対象も増えた。部活、クラス、委員会。それぞれで少し違う自分を演じた。演じている、という感覚はなかったけど、今思えばそうだったと思う。

 ただ、一つだけ変わったことがあった。

 人の相談に乗ることが、増えた。

 友達が悩んでいると、自然と話しかけていた。何があったかを聞いて、一緒に考えた。自分のことは話せなかったけど、相手の話を聞くのは得意だった。

 そのことが嬉しかった。自分に何もないと思っていたけど、人の話を聞くことだけは、うまくできた。

「でも、それを『自分の得意なこと』だとは思っていなかったんです。ただの性格だと思っていた。誰でもできることだと思っていた」


 二年生になったとき、クラスメートの女子から、相談を受けた。

 友達関係のことで、グループ内でのことで、かなり複雑な状況だった。話を聞きながら、整理して、一緒に考えた。一時間以上かかった。

 最後に、その子が「話してよかった。なんか、整理できた気がする」と言った。

 そのとき感じたものを、まだ覚えている。

 嬉しかった。でも、それだけじゃなかった。

 何か、達成したような感覚があった。テストで良い点を取ったときとも違う、部活で勝ったときとも違う。人が少し楽になったことに、自分が少し関われた、という感覚だった。

「あのとき初めて、人の話を聞くことが好きかもしれないと思いました」

 僕がそう言うと、ターミナルが、こちらを向いた。

「でも、その後、どうすればよかったか、分からなかった。好きかもしれないと思っても、それをどこに向ければいいか、分からなかった」


 三年生になって、進路の話が始まった。

 クラスのみんなは、少しずつ方向を定め始めていた。大学の資料を集めている人、専門学校を調べている人、就職を考えている人。それぞれが、なんらかの方向に向かっていた。

 僕だけが、また止まっていた。

 人の話を聞くことが好きかもしれない、という感触はあった。でも、それが何につながるのか、分からなかった。

 カウンセラー、という言葉は頭に浮かんだことがある。でも、なるためには大学に行って、資格を取って、そこから何年もかかる。そんな遠い話のように感じて、自分のこととして考えられなかった。

 先生になる、という選択肢も浮かんだ。でも、教えることと、話を聞くことは違う気がした。

「どこに行きたいか、分からないまま、時間だけが過ぎていきました。みんなが前に進んでいる中で、僕だけが同じ場所に立っていた。焦っていたけど、焦っても何も出てこなかった」

 僕の話を、ターミナルはじっと聞いていたみたいだった。


 進路希望調査を渡されたのは、あの日だった。「明日までに出すように」と言われた瞬間、何かがぷつりと切れた気がした。

 別に怒ったわけじゃない。泣いたわけでもない。ただ、空気が薄くなった。教室の中の全員が自分の行き先を知っていて、自分だけが知らない。そういう感覚が急に、息苦しくなった。

 保健室に行って、早退して、歩いた。

 どこに行きたいか分からないから、歩いた。歩いていれば、どこかに行けると思った。

「それで、ここに来ました。どこに行きたいか分からないから、という理由で。今思えば、それは正直な理由でした。取り繕った理由じゃなかった」

 ターミナルが一度、ゆっくり瞬きをした。


「ここに来てから、七日経ちました。いろんな人の話を聞きました。夢を諦めそうだった人、帰れなかった子、失恋した人、会社を辞めた人、夢が叶ったのに迷っていた人。みんな、それぞれの行き先があって、それぞれの場所に向かっていきました」

 ターミナルは聞いていた。

「聞いていて思ったのは、みんな、ちゃんと何かを持っていた。行き先の候補みたいなものを。ただ、怖かったり、迷ってたり、疲れていたりして、動けなくなっていた。夕さんと話して、整理して、それで動けるようになっていた」

「でも、僕は、行き先の候補すら、なかった。出発点に立てていなかった」

 自分で言って、ずっと感じていたことが言葉になった気がした。

「みんなには行き先があった。僕にはなかった。それが、ここに来た理由です。行き先を探すために、来ました」


 少し黙って、線路を見た。

 線路はまっすぐ伸びていた。どこまでも続いているように見えた。

「でも、七日いて、少し変わりました」

 ターミナルが耳を動かした。

「人の話を聞くことが、何かに繋がる気がしてきました。夕さんがやっていることを見て、来た人たちの話を聞いて、少しずつ、もやが晴れてきている気がします。まだ完全には見えないけど、輪郭は見えてきた。輪郭は、どんな形ですか」

僕はターミナルに尋ねるように言った。

 ターミナルは答えなかった。

「人の話を聞いて、一緒に考えて、行き先を探す。そういうことをしたい、という気持ちが、あると思います。漠然としてるけど、あると思います」

 言いながら、自分で驚いた。

 声に出したのは、初めてだった。


 しばらく黙っていた。

 ターミナルが僕の膝に前足を乗せてきた。乗るかな、と思ったけど、前足だけ乗せて、そのままにしていた。

「ターミナルって、僕が話すのを聞いてましたよね。急かさないし、否定しないし、ただ聞いていた」

 ターミナルは前足を膝に乗せたまま、こちらを見た。

「夕さんと、同じですね。話を聞く、ということにかけては」

 ターミナルが鼻をひくひくさせた。

「それって、僕が目指しているものに、近い気がします。ただ聞くだけでいい、というわけじゃないけど。でも、聞くことが大事だという、その姿勢は」

 前足が、少し僕の膝を押してきた。

「……分かった、という感じですか」

 ターミナルは目を細めた。


 昼過ぎ、駅舎に戻ると、夕さんが台所でお茶を入れていた。

「どうでしたか」

夕さんは、僕が外に出ていたことには触れなかった。

「ターミナルと話していました」

「ターミナルと」

「話を聞いてもらいました。自分のことを」

 夕さんは湯呑みを二つ持って、テーブルに来た。

「珍しいですね、渚さんが自分のことを話すのは」

「そうですね。あんまり得意じゃないんですが、今日は話さないといけない気がして」

「どうして」

「言葉にしないと、整理できないことがあると思って。夕さんが言ってましたよね、聞いてもらうと言葉になる、って」

「言いましたね」と夕さんは言った。少し目を細めた。


「話してもいいですか。夕さんにも」

「はい」

夕さんはすぐに答えた。

 僕はお茶を一口飲んでから、話し始めた。

 小学生のときから話した。夢がなかったこと、周りに合わせてきたこと、人の相談に乗ることだけはうまくできたこと、でもそれを活かすことを考えてこなかったこと。ターミナルに話したのと同じことを、夕さんにも話した。

 夕さんは急かさなかった。口を挟まなかった。ただ、静かに聞いていた。

 湯呑みを持ちながら、目を伏せたり、窓の外を見たりしながら、聞いていた。

 全部話し終えたとき、胸が少し軽かった。


「ありがとうございます。話してくれて」

「聞いてくれてよかったです」

「一つ、聞いていいですか」

「はい」

「周りに合わせてきた、と言っていましたが……それは、嫌いなことをしてきた、ということとは違いますか」

 僕は少し考えた。

「違います。合わせているうちに、本当に好きになったことも、たくさんありました。嫌いなことを我慢してきたわけじゃない」

「では、自分を偽ってきた、ということとも違いますか」

「……違うと思います。偽る、というより……自分のものさしがなかった、という感じです。好き嫌いのものさし、ではなくて、自分がどこに向かいたいか、というものさしが」

「ものさしがなかった」

夕さんは繰り返した。

「はい。そのものさしを、ずっと探してきた気がします。でも見つけられなくて、ここに来ました」

「今、そのものさしは」

「少し、見えてきた気がします。人の話を聞くことを、仕事にしたいかもしれない、という気持ちが、出てきています」

 夕さんはしばらく黙っていた。

「それは、ここに来てから出てきた気持ちですか」

「ここに来てから、はっきりしてきた気持ちです。でも、元々あった気持ちだと思います。中学のとき、友達の相談に乗って嬉しかったとき、すでにあった気持ちだと思います。ただ、それが何なのか、どこに向けばいいのか、分からなかった」

「ここに来て、分かってきた」

「分かってきました。まだ完全には分からないけど」

 夕さんはお茶を一口飲んだ。

「渚さんは、来た人の話を聞きながら、何を感じていましたか」

「みんな、ちゃんと何かを持っていると思いました。怖かったり迷っていたりして見えにくくなっていたけど、ちゃんと持っていた。それを一緒に探すことが、面白いと思いました」

「面白い、ですか」

「はい。楽しい、とは少し違う。面白い、です。なんか、宝探しみたいな感覚で」


「宝探し」

夕さんの声に、温かいものが混じっていた。

「変ですか」

「変ではないと思います。むしろ――」

夕さんは言いかけて、止まった。

「むしろ、何ですか」

「私も、そう思っています。来てくださる方が、自分の行き先を見つけるとき、宝を見つけたときのような顔をします。それを見るのが好きです」

「夕さんも、同じように感じてるんですね」

「そうかもしれません」

 二人でしばらく、黙っていた。

 悪くない沈黙だった。


「一つだけ、聞いていいですか」

「はい」

「夕さんは、僕の行き先が、なんとなく見えていますか。時計で」

 夕さんは少し間を置いた。

「少し、見えてきている気がします。でも、渚さん自身が気づくことが大切なので、言わない方がいいと思っています」

「言わない方がいい」

「自分で気づいたことじゃないと、本当の行き先にはなりません。誰かに教えてもらった行き先は、誰かの行き先です」

 それは、正しいと思った。

「じゃあ、自分で気づきます」

「はい。もうすぐだと思います」

 もうすぐ。

 その言葉は、プレッシャーではなかった。背中を軽く押されたような感触だった。


 午後、夕さんが帳面に何かを書いていた。

 僕はホームに出て、ベンチに座って、空を見た。夕焼けの空。いつも同じ空。

 でも今日は、その空が少し広く見えた。

 人の話を聞いて、一緒に考えて、行き先を探す。

 それが自分のやりたいことかもしれない、という気持ちが、今日は初めてはっきりした。ターミナルに話して、夕さんに話して、声に出したことで、輪郭が固まった気がした。

 でも、具体的に何をすればいいか、はまだ分からなかった。大学に行くのか、専門学校に行くのか、どんな仕事があるのか。

 それはまだ霧の中にあった。

 でも、方向は見えてきた。

 方向が見えてきた、というだけで、こんなに違うとは思わなかった。

 胸の中に、小さな何かが灯り始めていた。


 夕食のとき、夕さんが珍しく少し多くしゃべった。

 今日来た人はいなかったけど、今日のことを少し話してくれた。

「渚さんが外でターミナルと話していたとき、私は帳面を読んでいました。昔来た方の記録を」

「昔の記録を?」

「たまに読み返します。どんな方が来たか、どんな話をしたか、どこに行ったか」

「どうして読み返すんですか」

「忘れないためでもありますが……今の自分に必要なことが、過去の記録にあることがあるので」

「今日は何かありましたか」

 夕さんは少し考えた。

「以前来た方の記録に、こんなことが書いてありました。『自分のことを話せない人が、人の話を聞けるようになったとき、初めて本当の対話ができる』と」

「それって……」

「私が書いた言葉です。その方と話しながら、気づいたこととして書いた」

「その言葉、今日の僕に関係ありますか?」

「そうかもしれません。渚さんは今日、自分のことを話しました。ターミナルに、私に。それは、渚さんにとって小さくないことだと思います」


 眠る前に、今日を振り返った。

 自分のことを話した。声に出した。

 それで、何かが変わった気がした。具体的に何が変わったかは分からない。でも、昨日より少し、自分のことが見えてきた気がした。

 人の話を聞きたい、という気持ちが、本物だと分かった。

 もやの中の輪郭が、今日ははっきりした形を持ち始めていた。

 まだ名前はなかった。でも、形はあった。

 ターミナルが足元に来て、丸くなった。

「今日、話を聞いてくれてありがとう」

 僕がそう言うと、ターミナルはごろごろと鳴いた。

 夕焼けは続いていた。時計は17時47分のままだった。

 でも、明日は何かが変わる気がした。

 根拠はなかったけど、そういう気がした。そして、根拠のない気がするのも、悪くないと思った。


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