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17時47分の終着駅―駅員の少女と、行き先のない僕―  作者: 明石竜


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第十章 駅に来た理由

 八日目の朝だった。

 目が覚めた瞬間から、今日は何かを聞こうと決めていた。

 昨日、自分のことを話した。ターミナルに、夕さんに。声に出したことで、輪郭が固まった。方向が見えてきた。

 だから今日は、聞く番だと思った。

 夕さんのことを。

 どうしてここにいるのか、と。

 ずっと聞きたかった。でも、聞けなかった。夕さんが話せる準備ができたとき、と決めていた。

 今日がそのときだと思った。根拠はなかった。でも、そういう気がした。


 朝食のとき、夕さんはいつも通りだった。

 お茶を入れて、卵焼きを作って、テーブルに並べた。ターミナルが台所の入り口に座って、匂いを嗅いでいた。

 食べながら、どう聞くか考えていた。

 直接聞くのが一番いいと思った。でも、タイミングがある。食事中に聞くのは、少し違う気がした。

 食事が終わって、片付けをして、お茶を飲んでいるとき、夕さんが先に口を開いた。

「今日は、渚さんに聞いてほしいことがあります」

 思わず顔を上げた。

「聞いてほしいこと、ですか」

「はい。昨日、渚さんが自分のことを話してくれました。だから今日は、私が少し話そうと思います」


 夕さんが話す、と言った。

 昨日眠れなかった理由の一つは、夕さんに聞こうと決めていたからだった。それが今朝、向こうから話すと言ってきた。

 何かが、このタイミングに向かって動いていた気がした。

「話して下さい。聞きます」

 夕さんはお茶を一口飲んだ。懐中時計を手の中で持って、蓋を開かずに、ただ持っていた。

 それからゆっくりと、話し始めた。


 夕さんがこの駅に来たのは、かなり前のことだった。

 正確な時間は分からない。ここに来てからは、時間の感覚が外とは違うから。でも、長い時間が経っていることは確かだった。

 来た理由は、僕と同じだった。

「どこに行けばいいか、分からなくなっていました。迷っていて、気づいたら、ここに来ていました」

「夕さんも、乗客として来たんですか」

「はい。最初は、乗客として来ました」

「来たとき、何を抱えていましたか」

 夕さんは少し間を置いた。

「夢がありました。なりたいものが、あった」

「何になりたかったんですか」

「音楽をやりたかったんです」

夕さんの声が、いつもより少し低かった。

「歌うことが好きで、それで生きていきたいと思っていました」

 夕さんが音楽をやりたかった。それは想像していなかった話だった。

「でも、それが叶わなかったんですか」

「叶えようとする前に、諦めてしまいました」

「どうして」

「怖かったんです」


 夕さんが話してくれたのは、こういう話だった。

 歌うことが好きだった。ずっと好きだった。でも、好きであることと、それで生きていくことは違う。周りにはうまい人がたくさんいて、自分がどのくらいのものか、分からなかった。

 挑戦しようとした。でも、一歩踏み出す直前に、止まってしまった。

 失敗したらどうしよう、と思った。やってみてだめだったら、夢が完全に消えてしまう。夢がある状態の方が、夢に向かって失敗した後より、まだいい気がした。

「だから、やらなかったんです。やらないまま、諦めました。やってみてから諦めたのではなく、やらないまま諦めた」

「それが、後悔になりましたか」

「後悔、と言えるかどうか分かりません。でも……やらなかったことが、ずっと胸に引っかかっていました。やってみれば良かった、という気持ちが、消えなかった」


「行き先が決まらなかったんですか」

「はい。来てみたけど、行き先が決まらなかった。音楽の道に進む勇気は出なかった。かといって、別の道も見えなかった。どこにも行けなかった」

「そのとき、どうなったんですか」

「当時の駅員さんが、言って下さいました。行き先が決まらないなら、ここで一緒に働いてみませんか、と」

「それで、駅員になったんですか」

「はい。最初は、行き先が決まるまでの間だけ、と思っていました。しばらくここで働いて、自分の行き先を探しながら、来る人の手助けをする。そういうつもりでした」

「でも」

「でも、気づいたら、長くなっていました。来る人の話を聞いているうちに、時間が経って、気づいたら当時の駅員さんも電車に乗って行ってしまって。一人になっていました」


 駅舎の中が静かだった。ターミナルがいつの間にか夕さんの足元に来ていた。夕さんがターミナルを見下ろして、そっと頭を撫でた。

「行き先が決まらないまま、ここにいるんですか」

「そうです。ずっと、決まらないままでいます」

「音楽の道は、今でも気になっていますか」

 長い間があった。

「気になっています。消えていません。時々、思います。あのとき一歩踏み出していたら、と」

「今からでも、できませんか」

 夕さんは少し表情を変えた。驚いたような、でも予想していたような、そういう表情だった。僕は繰り返し尋ねた。

「今から、ここを出て、音楽をやる。それは、できないことですか」


 夕さんはしばらく黙っていた。

 懐中時計を持ったまま、テーブルの一点を見ていた。


「できないことではないかもしれません。でも、怖いんです。今も」

「やってみてだめだったら、という怖さ、ですか」

「それもあります。でも今は、別の怖さもあります」

「別の怖さ」

「ここを出た後、来る人たちはどうなるのか、という怖さです。私がいなくなったら、この駅はどうなるか。迷った人が来たとき、誰もいなかったら」

「それは、言い訳ですか」

 少し直接的すぎたかもしれない、と思った。でも、聞いてしまった。

 夕さんは怒らなかった。

「……言い訳かもしれません。言い訳と、本当の心配が、混ざっています。どちらが大きいか、自分でも分からないです」

「夕さん、来た人たちに、いつも言ってましたよね。行き先を決めるのは自分だって」

「はい」

「それは、夕さん自身にも当てはまりますよね」

「……はい」

「夕さんの行き先を決めるのも、夕さんです」

 夕さんは何も言わなかった。

「来た人たちが言えなかったことを、夕さんは言葉にしてあげていた。でも夕さん自身は、言葉にできないままここにいる」

「そうです」

夕さんは認めるような声だった。

「分かっています。でも、分かっていてもできないことが、あります」

「そうですね。分かっていてもできないから、みんなここに来るんですよね」

 夕さんは顔を上げて、僕を見た。


「渚さん」

「はい」

「どうして、私のことを聞いてくれるんですか」

「夕さんが、ここにいて、困っている気がするからです。ここにいることが嫌いなわけじゃない。来る人たちを送り出すことも、好きだと言っていた。でも、自分の行き先のことは、ずっと後回しにしている」

「後回しにしている、か」

「後回しにし続けていると、いつか後回しにできなくなる気がして。ターミナルが、この駅が消えていくと言っているって、昨日教えてもらいました。来る人が減って、駅が薄くなっていくって。それって、夕さんの行き先が決まらないこととも、関係があるんじゃないかって思って」

 夕さんは動かなかった。

「関係がある、かどうかは、分かりません。でも――そうかもしれない、と思うことはあります」


「夕さんが出ていくべき時期が来ているのに、出ていかないから、駅が薄くなっているのかもしれない。そういうことじゃないですか」

 長い沈黙だった。

 ターミナルが夕さんの足元で、鳴いた。低い声で、一度だけ。

 夕さんはターミナルを見た。それから窓の外の夕焼けを見た。

「怖いんです」

夕さんはさっきより、声が細かった。

「ここを出ることが。この駅を離れることが。来る人を誰かに任せることが。そして――」

「そして?」

「外に出て、音楽をやって、それがうまくいかなかったとき。夢に向かって、また諦めるようなことになったとき。それが一番怖い」

「また諦めることになっても、今とは違います」

「どう違いますか」

「今度は、やってみてから諦めることになる。やらないまま諦めるのとは、違います」


 夕さんはしばらく何も言わなかった。

 懐中時計を、両手で包むようにして持っていた。

 ターミナルが夕さんの膝に前足を乗せた。夕さんはターミナルを見て、その前足に手を重ねた。

「中岡さんに言っていましたよね。逃げることで、次に戦う場所を選べる、って」

「言いましたね」

「夕さんがここにいることは――逃げていることに、なっていないですか」

 それは、かなり直接的な言葉だった。

 言った後、少し心配になった。

 でも夕さんは、怒らなかった。泣きそうな顔にもならなかった。ただ、穏やかにその言葉を受け取っていた。

「……なっているかもしれません。ずっと、そうかもしれないと思っていました。でも、認めたくなかった」

「なんで認めたくなかったんですか」

「認めたら、出なければいけなくなるから」


 駅舎の中が、また静かになった。

 夕焼けの光が、テーブルの上に長い影を作っていた。

「夕さん」

「はい」

「一つだけ、聞いていいですか」

「はい」

「夕さんが出ていったとして、この駅に来る人はどうなると思いますか。本当に、心配していますか。言い訳じゃなく」

 夕さんは少し考えた。

「心配しています。言い訳だけじゃなく、本当に。でも……」

「でも?」

「来る人がいなくなったら、駅はなくなります。来る人がいる限り、駅は続きます。私がいなくなっても、誰かが来て、誰かが駅員になるかもしれない。この駅がそういう場所であり続けるなら、私がいなくても続くかもしれない」

「そうですね。この駅は、夕さんが作ったんじゃない。夕さんが来る前からあった。夕さんが出ていっても、続く可能性はある」

「はい」

「続けるかどうかは、夕さんが決めることじゃないかもしれない」


 夕さんはしばらく、懐中時計を見ていた。

 蓋を、そっと開いた。

 文字盤を見て、何かを確かめるように、少し指を当てた。

「渚さん」

「はい」

「私の行き先が決まっていないのは、行きたい場所が分からないからじゃないんです」

「分かっている、ということですか」

「はい。行きたい場所は、ずっと前から分かっています。でも、行けなかった。行くのが怖かった。そして……」

「そして?」

 夕さんは懐中時計から目を上げて、僕を見た。

「送り出す仕事が、好きなんです。来た人の話を聞いて、行き先を一緒に探して、送り出す。それが、本当に好きで。この仕事を捨てることも、怖い」

「捨てなくても、いいかもしれないですよ」

 僕がそう言うと、夕さんが少し目を見開いた。

「どういう意味ですか」

「ここを出ても、人の話を聞くことは、できます。形は変わるかもしれないけど、同じことを、別の場所でもできます。夕さんが持っているものは、この駅だけのものじゃないと思います」


 長い沈黙だった。

 ターミナルがごろごろと鳴き始めた。

 夕さんはターミナルを見て、それから窓の外を見て、僕を見た。

「渚さんは、いつの間に、そんなことが言えるようになったんですか」

「ここに来てからです。来た人たちの話を聞いていて、夕さんの仕事を見ていて、自分のことを話して。少しずつ、何かが変わりました」

「七日間で、ずいぶん変わりましたね」

「夕さんのおかげだと思います」

 夕さんは少し目を伏せた。

「私は、何もしていません」

「してくれました。ここにいて、話を聞いてくれて、食事を作ってくれて、仕事を見せてくれた。それが全部、僕には必要だった」


「渚さん」

夕さんの声が少し変わっていた。やわらかくて、でも何か決意みたいなものが混じっていた。

「はい」

「私のことを、心配してくれているんですか」

「はい」

僕は迷わずに答えた。

 夕さんは、しばらく何も言わなかった。

 目が、少し潤んでいた。泣くかどうか、その手前にいるような目だった。


「長い間、私の話を聞いてくれた人が、いませんでした」

「来た人たちに、ずっと聞いてもらいたかったんじゃないですか」

「そうかもしれません。でも、聞けませんでした。来た人たちは、自分のことで精一杯で。私が話す場面ではなかった」

「今は、話せましたよね」

「はい。話せました」

「答えを出すのは、まだ先でいいと思います。でも、今日話せたことは、よかったと思います。夕さんが自分のことを話せたのは、よかった」

「そうですね。よかったです」

「昨日、夕さんが言ってました。自分のことを話せない人が、人の話を聞けるようになったとき、初めて本当の対話ができる、って」

「言いましたね」

「今日、夕さんも話せました。だから、今日の会話は、本当の対話だったと思います」

 夕さんは少し笑った。

 短い笑顔だったけど、いつもより少し長かった。

「そうですね。本当の対話でした」


 午後、誰も来なかった。

 夕さんはホームの掃除をして、帳面に何かを書いていた。

 僕はホームのベンチに座って、空を見ていた。

 夕さんが自分のことを話した。行き先が分からないのではなく、行くのが怖かった。ここにいることが、逃げることになっているかもしれないと、薄々気づいていた。

 それを聞けたことが、今日一番大切なことだった。

 まだ夕さんの行き先は決まっていない。でも今日、一つ何かが動いた気がした。扉が少し開いた気がした。

 ターミナルがホームに出てきて、夕さんの近くに座った。夕さんが掃除の手を止めて、ターミナルを見た。

 何か、二人の間で言葉のない会話がある気がした。

 僕には聞こえない会話が。


 夕食のとき、夕さんが「今日は、ありがとうございます」と言った。

「こちらこそ。話してくれて」

「なかなか、言えないことを言えました。渚さんが聞いてくれたから」

「夕さんが話す準備ができていたからだと思います」

「準備ができていたかどうか、分かりませんが……でも、渚さんが聞いてくれる人だと、信じられたから、話せたと思います」

 信じてもらえた、ということが、嬉しかった。

 自分が誰かに信じてもらえた、という感覚が、こんなに温かいものだとは思っていなかった。

「夕さん」

「はい」

「僕、人の話を聞くことを仕事にしたいと思っています。まだ具体的には決まっていないけど。でも今日、夕さんの話を聞いて、もっとそう思いました」

「なぜですか」

「話してよかった、と思ってもらえたときの感覚が、好きだから。宝探しみたいだって言ったけど、それだけじゃなくて……誰かの扉が開く瞬間に、一緒にいられることが、好きだと思いました」


 夕さんはしばらく黙っていた。

 それからゆっくりと、懐中時計を取り出した。

 蓋を開いた。

 少しの間、文字盤を見ていた。

 それから、かすかに笑った。

「どうしましたか」

「少し、温かくなっています」

「温かくなっている、というのは……」

「渚さんの行き先が、見えてきています」

 僕は少し息を吸った。

「でも、まだ言いません。渚さん自身が気づくまで」

「そうして下さい。自分で気づきたいので」

 夕さんは懐中時計の蓋を閉じた。

 ターミナルがごろごろと鳴いた。


 その夜、なかなか眠れなかった。

 今日、夕さんの話を聞いた。

 行き先は分かっている。でも、行くのが怖い。この仕事を失うのも怖い。でも、逃げていることも、薄々分かっている。

 そういう人が、ここにいる。

 来た人たちを送り出して、自分は送り出されないまま、ずっとここにいる。

 それをどうにかしたいと思った。

 でも、どうにかすることが僕にできるのか、分からなかった。

 ただ聞いただけだ。夕さんが話してくれただけだ。

 でも、話してよかったと夕さんが言った。扉が少し開いた気がすると、僕は思った。

 それでいいのかもしれない、とも思った。

 全部を解決しなくていい。一緒にいて、聞いて、扉が少し開く瞬間に立ち会う。それが、人の話を聞くということかもしれない。

 ターミナルが足元で丸くなった。

 夕焼けは続いていた。時計は17時47分のままだった。

 でも今夜は、その静けさの中に、何かが動いている音がする気がした。

 見えないけど、確かに動いている何かが。

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