第十一章 行き先のない切符
九日目の朝だった。
目が覚めたとき、ターミナルが珍しく顔の近くにいた。鼻と鼻が触れそうな距離で、じっとこちらを見ていた。
「近い」と言ったら、ターミナルはゆっくりと瞬きをした。それから、何事もなかったように離れていった。
猫の挨拶だったのかもしれない、と思った。
起き上がって、窓の外を見た。いつもの夕焼け。でも今朝は、その光の中に何か違うものが混じっている気がした。うまく言葉にできないけれど、今日は普通の日とは違う、という予感があった。
根拠のない予感だったけど、ここに来てから、根拠のない予感はだいたい当たっていた。
朝食のとき、夕さんの様子がいつもと少し違った。
昨日と比べると、表情が少し落ち着いていた。昨日は話した後、どこか力が抜けたような静けさがあった。今日はそれとも違う。何かを考えながら、でも穏やかでいる、そういう様子だった。
「昨日、よく眠れましたか」
「はい。久しぶりに、よく眠れた気がします」
「何かが変わりましたか」
「少し、自分でも、何が変わったかはっきりとは分かりませんが。でも、昨日話せたことで、何かが少し軽くなった気がします」
「それはよかった」
「はい。よかったです」
ターミナルが台所から出てきて、夕さんの足元に座った。夕さんがお茶を飲みながら、ターミナルを見下ろした。その目が、昨日よりも少し柔らかかった。
午前中、懐中時計を確認した夕さんが言った。
「今日、来ます。一人」
「どんな人ですか」
「少し、難しい方かもしれません」
「難しい、というのは」
「行き先が、すぐには決まらないかもしれません。それと――」
夕さんは少し間を置いた。
「この駅のルールを、守ってもらえないかもしれない」
「この駅にルールがあるんですか」
夕さんは少し考えてから、うなずいた。
「一つだけ、あります」
「何ですか」
「ここに留まり続けることはできない、というルールです」
そのルールを聞いたのは、初めてだった。
「留まり続けることはできない、というのは、ここにいられる時間が決まっているということですか」と僕は聞いた。
「決まっている、というより、この駅は、通り過ぎる場所です。来て、話して、行き先を見つけて、出ていく。それが、この駅の在り方です。ここに永遠にいることは、できません」
「僕も、いつかは出なければいけない」
「はい。行き先が決まれば、出ることになります」
「行き先が決まらなかったら」
「決まるまでは、いられます。でも……」
夕さんは少し言葉を選んだ。
「決まらないまま長くいると、この駅との境目が薄れていきます。外の世界との繋がりが、薄くなっていきます」
「それって、どういうことですか」
「帰れなくなる、ということです」
夕さんは囁くような声で言った。
帰れなくなる。
その言葉が、少し重く落ちた。
「夕さんは、もしかして、もう帰れないんですか」
夕さんは少し間を置いた。
「帰れる場所が、もうあるかどうか分かりません。長くここにいたので。外の世界の時間が、どのくらい経っているか、私には分からない」
「それは……」
「でも、ここを出ることは、できます。外の世界に戻れるかどうかは分からなくても、ここを出て、どこかへ向かうことは、できます。それが私にとっての、行き先だと思っています」
夕さんが話した言葉の重さを、少しずつ理解した。
夕さんはもう、元いた場所には帰れないかもしれない。でも、前には進める。行き先が決まれば、前には進める。
昼過ぎ、その人は来た。
ホームに現れたとき、他の人たちとは明らかに違う雰囲気だった。
三十代くらいの男性で、服装は地味だった。でも目が、違った。他の人たちは迷っている目をしていた。この人の目は、決めている目をしていた。
何かを決めてきた人の目だった。
夕さんがホームに出ると、男性はすぐに言った。
「ここに残りたいんです」
名前は、松本幸雄と言った。三十五歳。
駅舎に入って、ベンチに座った。背筋が伸びていた。頼みごとをしに来た人の姿勢だった。
「ここに残りたい、と言いましたが」
夕さんの声はいつも通り静かだったが、少し慎重だった。
「はい。ここにいたいんです。外には帰りたくない」
「理由を聞いてもいいですか」
「外に居場所がないからです」
松本さんは迷いのない言い方だった。考えてきた言葉だと分かった。
「家族とはうまくいっていない。仕事もない。友達もいない。外に戻っても、行く場所がどこにもない。でも、ここは違う」
「ここが、どう違いますか」
「ここは、穏やかです。夕焼けがずっと続いていて、時間が止まっていて、誰かが来て、話して、去っていく。それを見ているだけでいい。それだけでいい気がして」
「それだけでいい、というのは」
夕さんが尋ねた。
「自分が何かをしなくていい、ということです。外にいると、何かをしなければいけない。働かなければいけない、人と関わらなければいけない、何者かにならなければいけない。でもここにいれば、何もしなくていい。ただ、いるだけでいい」
「ただ、いるだけ」
「ここに来てから、しばらく座っていました。誰も来なかった。でも、穏やかだった。外にいるとき、いつも何かに追われている気がしていた。でもここは、追われない。それが……」
「それが、何ですか」
「久しぶりに、生きていていいと思えた気がして」
松本さんの声が、そこで少し変わった。それまでは決意を持った声だったけど、その言葉だけは、子どもみたいな声だった。
駅舎の中が静かになった。
ターミナルがいつの間にか入り口の近くに来ていた。松本さんを見ていた。でも近づかなかった。
「松本さん、外に居場所がなかった、と言いましたが、どのくらいそういう状態が続いていましたか」
「長いです。何年も前から」
「誰かに話したことはありますか」
「ないです。話せる人がいなかった。家族には心配かけたくなくて、友達もいなくて、一人で抱えてきました」
「ここに来るまで、一人で」
「はい」
「それは、つらかったと思います」
「つらかったです。でも、つらいという感覚も、だんだん薄くなってきていた。麻痺してきていたのかもしれません」
「松本さん、ここに残りたいという気持ちは、分かります。ここが穏やかだというのも、そうだと思います。でも、一つだけ話させて下さい」
「はい」
「ここは、留まる場所ではないんです。通り過ぎる場所です。来て、話して、行き先を見つけて、出ていく。それがこの駅の在り方で、それ以外のことはできません」
「それは、ルールですか」
「はい。ルールです」
「ルールを変えることはできないんですか」
「できません。私が決めたルールではなく、この駅がそういう場所だというルールです」
「では、行き先が決まらなければ、ここにいられますか」
夕さんは少し間を置いた。
「決まるまでは、います。でも、決まらないまま長くいると、外の世界との繋がりが薄れていきます。帰れなくなります」
「帰れなくなっても、いいです」
松本さんは即座にそう答えた。
「松本さん、帰れなくなる、ということは、ここにいることを選んだということではありません。外にも行けず、ここにも完全にはいられず、どちらにも属せない状態になります。それは、今より穏やかではありません」
「どういうことですか」
「ここに来た人が、行き先を決めないまま長くいると……どこにも行けなくなります。外の世界からも消えて、でもここにも留まれなくて、どこかに漂う状態になります」
松本さんの顔が、少し変わった。
「それは、消えることと、同じですか」
「似ていると思います」
夕さんの声は静かだったけど、はっきりとしていた。
松本さんはしばらく黙っていた。
決めてきた表情が、少し揺れていた。
「では、行き先を決めれば、外に出られますか」
「はい」
「外に出て、居場所のない世界に戻ることが、行き先ですか」
「居場所のない世界に戻ることではないと思います。行き先は、居場所を見つける場所でもあります」
「でも、見つけられなかったらどうするんですか」
松本さんの声に怒りが混じってきていた。怒りというより、恐怖が形を変えたものだった。
「外に出て、また居場所を探して、また見つけられなかったら。その繰り返しじゃないですか」
「そうかもしれません」
「そうかもしれない、で、外に出ろと言うんですか」
「はい」
松本さんは夕さんを見た。怒っているような、泣きたいような、そういう顔だった。
「理由は何ですか。外に出ることが正しいという根拠は何ですか」
「根拠はありません。でも、松本さんが外に出ることの方が、ここに留まることより、可能性がある」
「何の可能性ですか」
「生きることの可能性です。ここに留まることで、松本さんは安全でいられるかもしれない。でも生きることはできません。外に出ることで、つらいことがまたあるかもしれない。でも、生きることはできます」
松本さんは黙っていた。
「松本さんが、ここで言いましたよね。久しぶりに、生きていていいと思えた、と」
「はい」
「生きていていいと思えたなら、生きていてほしいんです。ここで止まるのではなく、外で」
ターミナルが、ゆっくりと松本さんの方に歩いていった。
松本さんは気づいて、ターミナルを見た。
ターミナルは松本さんの足元に来て、止まった。それから、座った。
松本さんはしばらくターミナルを見ていた。それから、手を伸ばした。ターミナルはその手に、頭を押しつけた。
「この猫」
松本さんの声が少し変わっていた。
「名前はなんですか」
「ターミナルです」
夕さんが答えた。
「ターミナル……終着点」
「はい」
「俺は、ここが終着点だと思って来ました」
松本さんはターミナルを撫でながら言う。声が少し子どもっぽくなっていた。
「ここより先はないと思って来ました」
「ここは終着点ではありません」
「分かっています。でも、そう思いたかった」
「どうしてですか」
「終着点なら、諦める理由になるから。ここが終わりなら、もう何もしなくていいから。諦めていいから」
「松本さん、諦めたいんですか。本当に」
松本さんはターミナルを撫でる手を止めなかった。
「……諦めたいのか、諦めなくていい理由がほしいのか、分からないです。どっちなんだろう、自分でも」
「どちらだと思いますか」
「多分、諦めなくていい理由がほしいんだと思います。ここに留まれると言われたら、諦めなくていい理由になると思って来ました」
「ここに留まることが、諦めなくていい理由になると思っていた」
「でも違いましたね」
松本さんは少し苦笑いするような声だった。
「ここに留まることが、消えることに近いなら、それは諦めることと同じか、それ以上だ」
「そうです」
「じゃあ、諦めなくていい理由って、何ですか」
夕さんは少し間を置いた。
「私には、用意できません」
「え」
「諦めなくていい理由は、私が渡せるものではないと思います。松本さんの中にあるものだと思います」
「俺の中に」
「はい。今日、ここに来ました。外に居場所がないのに、来ました。帰れなくなってもいいとまで思って、来ました」
「そうですね」
「なぜ来たと思いますか」
夕さんの問いかけに、松本さんは黙っていた。
「消えたかったなら、来なくてよかったはずです。ただ消えればよかった。でも来た。ここに来て、話した。それはなぜだと思いますか」
松本さんはターミナルを撫でながら、長い間黙っていた。
ターミナルは撫でられるがままになっていた。ごろごろとは鳴かなかった。ただ、そこにいた。
「……来たかったからだと思います。どこかに行きたかった。どこかで誰かに話を聞いてほしかった。消えたかったんじゃなくて、ただ、どこかに行きたかった」
「そうですね」
「でも、外に行き先がない」
「今は、ないと思っています。でも、作ることはできます。行き先は、最初からあるものじゃなくて、作るものでもあります」
「作る、というのは」
「まず、一つだけ決めることです。大きなことじゃなくていい。明日、どこかに行く。誰かに連絡する。何かを食べに行く。それだけでいい。行き先は、小さいことから作れます」
「小さいこと」
「はい。大きな居場所を一気に作ろうとしなくていい。一つだけ、明日行く場所を決める。それが最初の行き先です」
松本さんはしばらく考えていた。
「……一個だけ、思い当たる場所があります。昔、行ったことがある図書館。誰とも話さなくていいし、ただいるだけでいい場所。でも、外の場所です」
「それが、行き先になりますか」
「なるかもしれません。また来てもいいですか、この駅に」
松本さんは西村さんと同じことを聞いた。
「いつでも」
夕さんは西村さんのときと同じように答えた。
「また迷ったとき、来ていいですか」
「はい。でも……来なくていいようになることを、願っています」
夕さんの言葉を聞いて、松本さんは少しだけ笑った。
夕さんが懐中時計を出した。
蓋を開いて、しばらく見ていた。それから、ゆっくりと切符を作った。
松本さんに手渡されたそれを、松本さんは受け取った。
「図書館の、最寄り駅です」
松本さんは切符を見た。
「ここに来たとき、終着点だと思って来た。でも終着点じゃなかった」
「はい」
「終着点じゃないということは、まだ続くということですか」
「そうです。まだ続きます」
松本さんは切符を、胸ポケットに入れた。大切にしまうような動作だった。
電車が来た。
松本さんが立ち上がって、ホームに出た。ターミナルもホームに出てきた。
扉が開いて、乗り込む前に松本さんが振り返った。
夕さんを見て、それから僕を見た。
「あなたも、ここに来てるんですね」
「はい。行き先を探しています」
「見つかりそうですか」
「もうすぐ、だと思います」
松本さんはうなずいた。
「俺みたいな人間でも、行き先を持てましたから。あなたにも、きっと」
「ありがとうございます」
松本さんはターミナルを見て、言った。
「ターミナル、ありがとう。そばにいてくれて」
ターミナルは一度、ゆっくりと瞬きをした。
松本さんは電車に乗った。扉が閉まった。電車がゆっくり動き出して、夕焼けの中に消えた。
ホームに静けさが戻った。夕さんが電車の消えた方向を見て、頭を下げた。
それからしばらく、そのまま立っていた。
「夕さん」
「はい」
「今日、難しかったですか」
夕さんは少し考えた。
「難しかったです。ルールを伝えることが、特に」
「ルールを伝えることが」
「留まれない、と言うことは、お断りすることです。来てくれた方に、ここにはいられないと伝えることは、つらいです」
「でも、伝えなければいけなかった」
「はい。伝えなかったら、松本さんは本当に消えてしまっていたかもしれない。それの方が、ずっとつらかった」
「夕さん」
「はい」
「夕さん自身は、このルールに縛られていますか」
夕さんは少し間を置いた。
「縛られている、と言えるかもしれません。私もここに留まり続けています。ルールに則れば、もうとっくに出なければならない時期を過ぎているのかもしれない」
「なのに、出られていない」
「はい」
「誰かに、ルールを伝えてもらいましたか。夕さん自身は」
夕さんは答えなかった。
その沈黙が、答えだった気がした。
誰もいなかったのだ。夕さんに、留まれないと伝えてくれる人が。
「松本さんに言ったこと、ここに留まることが消えることに近いなら、それは諦めることと同じか、それ以上だ、って。それは……」
「分かっています」
夕さんは穏やかな声で言った。でも、少し苦しそうだった。
「自分のことは、自分では言えないことがあります」
「だから、誰かに言ってもらわないといけない」
「そうかもしれません」
ターミナルが夕さんのそばに来た。
夕さんがターミナルを抱き上げた。珍しかった。夕さんがターミナルを抱き上げるのを見たのは、初めてだった。
ターミナルは抱かれたまま、おとなしくなっていた。
夕さんはターミナルを抱いたまま、夕焼けを見ていた。
「夕さん、僕が、言いますよ」
「何を?」
「夕さんは、もうここを出る時期だと思います。ここに留まり続けることは、夕さんにとって、いいことじゃないと思います」
夕さんは夕焼けを見たまま、答えなかった。
「分かっていると思います。でも、誰かに言ってもらうことが必要だと思うから、言います」
ターミナルが夕さんの腕の中で、低く鳴いた。
夕さんはターミナルを見た。それから、少し目を閉じた。
「……ありがとうございます」
「聞こえました」
夕食のとき、二人ともあまりしゃべらなかった。
でも、黙っていることが重くなかった。何かを整理している時間だった。
食事が終わって、お茶を飲みながら、夕さんが言った。
「渚さん」
「はい」
「今日のことを、考えています」
「松本さんのことですか」
「松本さんのこともですが、渚さんが言ってくれたことを」
「出る時期だということを」
「はい。それを、考えています」
僕は何も言わなかった。今は、聞くだけでいい気がした。
「まだ、答えは出ていません。でも、考えています。ちゃんと、考えています」
「それでいいと思います」
眠る前に、今日のことを振り返った。松本さんが来て、ここに残りたいと言った。夕さんがルールを伝えて、松本さんが行き先を見つけて、電車に乗った。
そして夕さんに、出る時期だと言った。言えてよかった、と思った。根拠のある言葉ではなかった。でも、言わなければいけない気がして、言えた。
夕さんが「聞こえました」と言った。
聞こえました、という言葉が、頭の中に残っていた。
誰かの言葉が、誰かに届く瞬間。
それが好きだ、と思った。さっきより少し、確かに好きだと思った。
ターミナルが足元で丸くなった。今夜は静かで、ごろごろとも鳴かなかった。ただ、そこにいた。夕焼けは続いていた。時計は17時47分のままだった。
でも今夜の静けさは、昨夜とは少し違う重さを持っていた。
何かが、動き始めている気がした。
もうすぐ、何かが変わる。そういう夜だった。




