第十二章 夕の過去
十日目の朝だった。
目が覚めたとき、ターミナルがいなかった。珍しくなかった。いるときはいる、いないときはいない。それがターミナルだった。
でも今朝は、その不在が少し気になった。
何かを感じているのかもしれない、と思った。今日が、普通の日ではない日だということを。
顔を洗って、廊下に出ると、台所から音がしなかった。
夕さんがまだ起きていないのか、それとも別の場所にいるのか。台所を覗くと、誰もいなかった。テーブルの上に、お茶だけが用意してあった。湯呑みが二つ。まだ湯気が立っていた。
夕さんは、どこかにいる。でも台所にはいない。
お茶を一口飲んで、駅舎に出た。
夕さんはホームにいた。
いつもの場所ではなく、ホームの端の方に立っていた。線路の先を見ていた。電車が来る方向でも、出ていく方向でもなく、その間のどこかを見ていた。
背中だけで、何かを考えていることが分かった。
声をかけようか迷って、やめた。
ベンチに座って、同じ方向を見た。夕焼けの中に線路が伸びていた。どこまでも続いているように見えて、でもどこかで終わるはずの線路。
しばらくして、夕さんが振り返った。
「おはようございます」
声はいつも通りだったけど、目が少し違った。何かを決めてきた後の目、というより、何かを決めようとしている途中の目だった。
「おはようございます。台所にいなかったので」
「少し、外にいたかったので」
夕さんがベンチに来て、隣に座った。
二人で線路を見た。
しばらく、何も言わなかった。
風が吹いた。草が揺れた。夕焼けの光が少し揺れた。それだけだった。
「今日、話してもいいですか」
「はい」
「昨日の続きです。私の過去について」
「聞きます」
夕さんは線路を見たまま、話し始めた。
夕さんが音楽をやりたかったのは、子どものころからだった。
歌うことが好きだった。特別なことがなくても、ただ歌っているだけで、何かが満たされた。悲しいときも、嬉しいときも、歌うことで気持ちが落ち着いた。
だから、音楽で生きていきたいと思った。漠然とした夢だったけど、確かな夢だった。
「具体的には、どういうことをしたかったんですか」
「歌うことです。どんな形でもよかった。プロでなくてもよかった。誰かのそばで歌って、その人の何かになれたら、それでよかった」
「誰かの何かに」
「昔、病気だった人がいました。近しい人で、入院していた。その人のそばで歌ったとき、少し表情が和らいだことがあって。そのときの感覚が、ずっと残っていました。声が、誰かに届く感覚」
「それが、音楽をやりたいという気持ちの根っこですか」
「はい。でも、それを人に言えなかったんです」
「なぜですか」
「恥ずかしかったのかもしれません。誰かの何かになりたい、という気持ちを、ちゃんと言葉にできなかった。音楽をやりたいと言うだけで、なぜやりたいかは言えなかった」
「言えなかったことが、諦めに繋がったんですか」
「そうかもしれません。なぜやりたいかが言えないと、やる理由が薄くなる気がして。周りに反対されたとき、言い返せる言葉がなかった」
「周りに反対されたんですか」
「はい。不安定だから、続かないから、才能がなければ意味がないから。いろいろ言われました。でも、私には言い返す言葉がなかった。本当の理由を言えなかったから」
「本当の理由は、誰かのそばで歌いたかった、ということですか」
「はい。それを言えば、よかったんです。今思えば。でも言えなかった。だから、反対されるたびに、少しずつ諦めていきました」
「少しずつ?」
「一度に諦めたわけじゃないんです。少しずつ、水が蒸発するように。反対されるたびに少し諦めて、また少し諦めて。気づいたら、ほとんど諦めていた」
「気づいたときには」
「もう手を伸ばすことが怖くなっていました。何度も少しずつ諦めてきたから、次に諦めたらもう何も残らない気がして。だから、最後の一歩を踏み出せなかった」
最後の一歩を踏み出せなかった。
それが、夕さんをここに連れてきた。
「ここに来たとき、どんな気持ちでしたか」
「疲れていました。諦め続けることに。諦めていないふりをしながら、実は少しずつ諦めていたことに。そういう自分に、疲れていました」
「夢がある状態で、でも動けない状態」
「はい。夢だけがあって、体が動かない。それが一番つらかった。夢がなければ、諦めることもなかった。でも夢があるから、諦めるたびに傷ついた」
「ここに来て、どうでしたか」
「来た最初の日、当時の駅員さんと話しました。名前は覚えていないですが、穏やかな人でした。私の話を長い時間、聞いてくれました」
「夕さんが音楽をやりたかった話も?」
「はい。本当の理由も、その人には言えました。誰かのそばで歌いたかった、という話を」
「言えたんですね、その人には」
「はい。初めて、ちゃんと言えました」
「それで、行き先は決まりましたか」
「決まりかけました。その人が、あなたには声で誰かに届ける力がある、と言ってくれて。その言葉で、もう一度やってみようと思いかけた」
「思いかけた?」
「はい。思いかけて、また怖くなりました。やってみて、うまくいかなかったとき。誰かのそばで歌って、それが届かなかったとき。もし一番大切にしていたものが届かなかったら、もう何もなくなると思って」
「だから、踏み出せなかった」
「はい。そのとき、その駅員さんが言ったんです。行き先が決まらないなら、一緒に働いてみませんか、と」
「それに、頷いたんですか」
「はい。一緒にいれば、いつか決まると思って。働きながら、考えようと思って」
「でも、決まらないまま今になった」
「そうです」
夕さんの声に複雑なものが混じっていた。
「一緒に働き始めて、来る人の話を聞くうちに、気づいたことがあって」
「何ですか」
「話を聞くことが、好きでした。音楽と、似ていると思いました」
「似ている?」
「誰かのそばで歌って、その人の何かになりたかった。話を聞いて、その人の行き先を一緒に探して、送り出す。それも、誰かのそばで、その人の何かになることだと思いました。形は違うけど、根っこは同じだと」
僕は少し驚いた。
「じゃあ、夕さんは今の仕事の中に、やりたかったことを見つけたんですか」
「半分は、そうです。でも、もう半分は……」
「もう半分は?」
「音楽への気持ちが、消えていないことに、気づいていました。話を聞くことが好きでも、歌いたいという気持ちは別にあって、消えなかった。でも、それを認めると、また動かなければいけなくなるから」
「認めないようにしていた」
「はい。ずっと」
ターミナルがいつの間にかホームに出てきていた。
夕さんの反対側に座って、線路を見ていた。三人で線路を見ている形になった。
「夕さん、一つ、聞いていいですか」
「はい」
「当時の駅員さんは、電車に乗って行ったんですよね」
「はい」
「その人は、行き先が決まって、乗りましたか」
「そうです」
「どんな人だったか、覚えていますか」
夕さんは少し目を細めた。
「穏やかな人でした。でも、芯があった。来る人の話をよく聞いていて、でも厳しいことも言えた。ここに長くいたのに、ちゃんと出ていった人でした」
「その人は、怖くなかったんですかね。外に出ることが」
「怖かったと思います。でも、怖いままでも行けたんだと思います」
「怖いままでも行ける、か」
「はい。怖さが消えてから行くのではなく、怖いままで行く。それが、その人のやり方だったんだと思います」
「夕さんは、怖さが消えるのを、待っていましたか」
夕さんは少し間を置いた。
「そうかもしれません。怖さが消えたら、行こうと思っていた。でも、消えなかった。いつまでも消えなかった」
「怖さは、消えないものかもしれないですね。橘さんも言っていました。書くのが怖い、でも書かなければ届かない、って。怖さが消えてから書くんじゃなくて、怖いまま書く、ということを選んでいた」
「そうですね。私は、その選択を、ずっとできていませんでした」
「できなかった理由は、何だったと思いますか」
夕さんはしばらく考えた。
「一人だったからかもしれません。怖いままで行くためには、誰かに話を聞いてもらうことが必要だった気がします。一人で怖さを抱えていると、動けなくなる。でも誰かと共有できると、少し軽くなって、動けることがある」
「夕さんには、そういう人がいなかった」
「はい。聞く側ばかりでした。話す側になれなかった」
「昨日と一昨日、話を聞きました。夕さんの話を」
「はい」
「少し、軽くなりましたか」
「なりました。確かに」
「だったら、もう少し話せますか。今日も」
夕さんは僕を見た。
「何を、話せばいいですか」
「音楽のことを。今でも、歌いたいという気持ちがあるなら、その話を」
夕さんはしばらく黙っていた。
懐中時計を取り出して、蓋を開かずに手の中で持った。
「あります。今も、歌いたいという気持ちが」
「どんなときに感じますか」
「電車を見送るとき、です」
「電車を見送るとき?」
「乗っていく人の後ろ姿を見るとき、何か歌いたくなります。送り出す歌を。行ってらっしゃい、という気持ちを、声にしたくなります。でも歌いません。ただ、頭を下げます」
「歌わない理由は」
「恥ずかしいから、というわけじゃないです。なんか……まだ、その資格がない気がして」
「資格?」
「自分の行き先も決めていないのに、人を送り出す歌を歌う資格がないと思っていました」
「それって、自分が出ていかないと、歌えないということですか」
「そういう気持ちがあります。でも……」
「でも、何ですか」
「でも、変かもしれないとも思っています。自分の行き先が決まってから歌う、というのは、また怖さが消えてから動こうとしているのと同じかもしれない、と」
「同じだと思います」
夕さんが顔を上げた。
「行き先が決まってから歌うんじゃなくて、歌いたいから歌う。それでいいんじゃないですか」
「今すぐ、ということですか」
「今すぐじゃなくてもいい。でも、資格があるかどうかで決めることじゃないと思います。歌いたいかどうかで、決めることだと思います」
夕さんはしばらく黙っていた。
ターミナルが夕さんの方に歩いてきて、膝に乗ろうとした。夕さんが膝を整えてやると、ターミナルはおさまった。
「渚さん」
「はい」
「昨日、私が松本さんに言ったことを、渚さんが私に言い返してくれましたよね」
「はい。出る時期だ、と」
「今日も、そうしてくれています。私が来た人たちに言ってきたことを、渚さんが私に言ってくれている」
「気づいていましたか」
「気づいていました。でも、嫌じゃなかった。むしろ……」
「むしろ?」
「ちゃんと届いています。渚さんの言葉が」
「夕さん、一つだけ、お願いがあります」
「何ですか」
僕は少し緊張した。でも、言おうと思った。
「歌ってもらえませんか」
夕さんが動いた。ターミナルが耳を立てた。
「今、ここで。資格とか行き先とか関係なく。歌いたいなら、歌っていいと思うので」
夕さんはしばらく何も言わなかった。
懐中時計を持ったまま、線路の先を見ていた。
「……怖いです」
「知っています」
「うまく歌えないかもしれない」
「それでもいいです」
「誰かに聞かれるのは、久しぶりで」
「聞きたいから、お願いしています」
長い沈黙があった。
風が止んだ。草が揺れるのが止まった。夕焼けだけが、やわらかく光っていた。
夕さんが、ゆっくりと息を吸った。
目を閉じた。
それから、歌い始めた。
歌詞のない歌だった。メロディだけの、言葉のない歌だった。
でも、その声は。
僕は何も考えられなくなった。
きれいだとか、上手だとか、そういうことじゃなかった。ただ、その声が、夕焼けの中に溶けていった。線路の先まで、届いていく気がした。
ターミナルがごろごろと鳴き始めた。穏やかに、でも確かに。
夕さんは目を閉じたまま歌っていた。短い歌だった。でも、長い時間を生きてきた声だった。
ここに来た人たちへの、送り出す歌みたいだった。
行ってらっしゃい、という気持ちが、声になったみたいだった。
歌が終わった。
夕さんが目を開けた。
線路の先を見たまま、しばらく動かなかった。
「夕さん」
「はい」
「ありがとうございます」
夕さんは何も言わなかった。
「届きました。ちゃんと」
僕がそう伝えると、夕さんの目が、少し潤んだ。
泣くかどうかの手前で、止まっていた。
「届きましたか」
夕さんの声が少し細かった。
「はい。届きました」
ターミナルがごろごろと鳴き続けていた。
「ずっと、届くかどうか、分からなかった。自分の声が誰かに届くかどうか。だから、怖くて歌えなかった」
「届きます。届くかどうか試してみなければ分からないけど、届くと思います。さっき、届いたから」
「さっきは、渚さんだから」
「そうかもしれない。でも、一人に届けば、もう十分じゃないですか」
夕さんはしばらく黙っていた。
「一人に届けば、十分」
「最初は一人でいいと思います。橘さんが救われた本も、あまり売れていなかったけど、橘さん一人に届いた。それだけで、その本の意味があった」
「そうですね。そうでしたね」
しばらく二人で、線路を見ていた。
ターミナルが夕さんの膝の上で目を細めていた。
「渚さん」
「はい」
「今日、歌えました」
「はい」
「久しぶりに、歌えました。ここに来てから初めて、誰かの前で歌いました」
「初めてだったんですか」
「はい。ここで一人で歌ったことはあります。でも、誰かの前では歌えませんでした。資格がないと思っていたから。でも今日、歌えました」
「何かが変わりましたか」
「変わりました。何が変わったかは、まだはっきりとは分かりません。でも、何かが変わりました」
「それでいいと思います」
午後、夕さんはいつも通りに仕事をした。
ホームを掃いて、帳面に記録を書いて、懐中時計を確認した。
でも、何かが違った。
動き方が、少し違った。今まではどこか重力に引かれているような動き方だった。今日は少し、浮いている気がした。軽い、というほどではないけれど、重くなかった。
誰も来なかったけど、それでよかった気がした。
今日は、夕さんの日だったと思った。
夕食のとき、夕さんが少し多くしゃべった。
「昔のことを、あまり話したことがなかったんです。ここに来てから、自分の過去を誰かに話したのは、初めてかもしれません」
「そうですか」
「来た方には、私の話をする場面がなかったので。でも渚さんには、話せました。二日続けて」
「話してくれてよかったです」
「渚さんが聞いてくれるから、話せました。聞き方が、上手です」
「そうですか」
僕は照れくさかった。
「急かさないし、否定しないし、でも引き出してくれる。来た方々に、私がしていることを、渚さんもしてくれています」
「夕さんから学んだんです。見ていて、覚えました」
「渚さん」
「はい」
「行き先は、見えてきていますか」
懐中時計のことを言っているのか、それとも直接聞いているのか、分からなかった。でもどちらにも、答えは同じだった。
「見えてきています。もうすぐ、ちゃんと見えると思います」
「そうですか」
夕さんは懐中時計を取り出して、蓋を開いた。少し見て、また閉じた。
「そうですね」
「何か見えましたか」
「はい。もうすぐです」
もうすぐ。
その言葉を聞いて、今度は怖くなかった。
むしろ、早く見えてほしい、と思った。
眠る前に、今日のことを思い返していた。
夕さんが話してくれた。音楽のこと、諦めてきたこと、届くかどうか怖かったこと。そして、歌ってくれた。
あの歌声が、まだ耳の中にある気がした。
言葉のない歌だったけど、言葉より多くのことが伝わった気がした。夕さんがここで過ごしてきた時間が、送り出してきた人たちへの気持ちが、全部込められていた気がした。
届くかどうか分からなくて、怖くて、でも歌った。
それが、一番大事なことだと思った。
届くかどうかより、歌いたいから歌う。
怖くても、歌う。
それが夕さんの次の行き先に、繋がっていく気がした。
ターミナルが足元に来て、丸くなった。
今夜は、ごろごろと鳴いていた。長く、穏やかに。
まるで今日の歌の余韻みたいだった。
夕焼けは続いていた。時計は17時47分のままだった。
でも今夜は、その光が少し違う色をしている気がした。
明日から、何かが変わる。
そういう夜だった。




