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17時47分の終着駅―駅員の少女と、行き先のない僕―  作者: 明石竜


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第十二章 夕の過去

 十日目の朝だった。

 目が覚めたとき、ターミナルがいなかった。珍しくなかった。いるときはいる、いないときはいない。それがターミナルだった。

 でも今朝は、その不在が少し気になった。

 何かを感じているのかもしれない、と思った。今日が、普通の日ではない日だということを。

 顔を洗って、廊下に出ると、台所から音がしなかった。

 夕さんがまだ起きていないのか、それとも別の場所にいるのか。台所を覗くと、誰もいなかった。テーブルの上に、お茶だけが用意してあった。湯呑みが二つ。まだ湯気が立っていた。

 夕さんは、どこかにいる。でも台所にはいない。

 お茶を一口飲んで、駅舎に出た。


 夕さんはホームにいた。

 いつもの場所ではなく、ホームの端の方に立っていた。線路の先を見ていた。電車が来る方向でも、出ていく方向でもなく、その間のどこかを見ていた。

 背中だけで、何かを考えていることが分かった。

 声をかけようか迷って、やめた。

 ベンチに座って、同じ方向を見た。夕焼けの中に線路が伸びていた。どこまでも続いているように見えて、でもどこかで終わるはずの線路。

 しばらくして、夕さんが振り返った。

「おはようございます」

声はいつも通りだったけど、目が少し違った。何かを決めてきた後の目、というより、何かを決めようとしている途中の目だった。

「おはようございます。台所にいなかったので」

「少し、外にいたかったので」


 夕さんがベンチに来て、隣に座った。

 二人で線路を見た。

 しばらく、何も言わなかった。

 風が吹いた。草が揺れた。夕焼けの光が少し揺れた。それだけだった。

「今日、話してもいいですか」

「はい」

「昨日の続きです。私の過去について」

「聞きます」

 夕さんは線路を見たまま、話し始めた。


 夕さんが音楽をやりたかったのは、子どものころからだった。

 歌うことが好きだった。特別なことがなくても、ただ歌っているだけで、何かが満たされた。悲しいときも、嬉しいときも、歌うことで気持ちが落ち着いた。

 だから、音楽で生きていきたいと思った。漠然とした夢だったけど、確かな夢だった。

「具体的には、どういうことをしたかったんですか」

「歌うことです。どんな形でもよかった。プロでなくてもよかった。誰かのそばで歌って、その人の何かになれたら、それでよかった」

「誰かの何かに」

「昔、病気だった人がいました。近しい人で、入院していた。その人のそばで歌ったとき、少し表情が和らいだことがあって。そのときの感覚が、ずっと残っていました。声が、誰かに届く感覚」

「それが、音楽をやりたいという気持ちの根っこですか」

「はい。でも、それを人に言えなかったんです」

「なぜですか」

「恥ずかしかったのかもしれません。誰かの何かになりたい、という気持ちを、ちゃんと言葉にできなかった。音楽をやりたいと言うだけで、なぜやりたいかは言えなかった」

「言えなかったことが、諦めに繋がったんですか」

「そうかもしれません。なぜやりたいかが言えないと、やる理由が薄くなる気がして。周りに反対されたとき、言い返せる言葉がなかった」

「周りに反対されたんですか」

「はい。不安定だから、続かないから、才能がなければ意味がないから。いろいろ言われました。でも、私には言い返す言葉がなかった。本当の理由を言えなかったから」

「本当の理由は、誰かのそばで歌いたかった、ということですか」

「はい。それを言えば、よかったんです。今思えば。でも言えなかった。だから、反対されるたびに、少しずつ諦めていきました」

「少しずつ?」

「一度に諦めたわけじゃないんです。少しずつ、水が蒸発するように。反対されるたびに少し諦めて、また少し諦めて。気づいたら、ほとんど諦めていた」

「気づいたときには」

「もう手を伸ばすことが怖くなっていました。何度も少しずつ諦めてきたから、次に諦めたらもう何も残らない気がして。だから、最後の一歩を踏み出せなかった」

 最後の一歩を踏み出せなかった。

 それが、夕さんをここに連れてきた。


「ここに来たとき、どんな気持ちでしたか」

「疲れていました。諦め続けることに。諦めていないふりをしながら、実は少しずつ諦めていたことに。そういう自分に、疲れていました」

「夢がある状態で、でも動けない状態」

「はい。夢だけがあって、体が動かない。それが一番つらかった。夢がなければ、諦めることもなかった。でも夢があるから、諦めるたびに傷ついた」

「ここに来て、どうでしたか」

「来た最初の日、当時の駅員さんと話しました。名前は覚えていないですが、穏やかな人でした。私の話を長い時間、聞いてくれました」

「夕さんが音楽をやりたかった話も?」

「はい。本当の理由も、その人には言えました。誰かのそばで歌いたかった、という話を」

「言えたんですね、その人には」

「はい。初めて、ちゃんと言えました」

「それで、行き先は決まりましたか」

「決まりかけました。その人が、あなたには声で誰かに届ける力がある、と言ってくれて。その言葉で、もう一度やってみようと思いかけた」

「思いかけた?」

「はい。思いかけて、また怖くなりました。やってみて、うまくいかなかったとき。誰かのそばで歌って、それが届かなかったとき。もし一番大切にしていたものが届かなかったら、もう何もなくなると思って」

「だから、踏み出せなかった」

「はい。そのとき、その駅員さんが言ったんです。行き先が決まらないなら、一緒に働いてみませんか、と」

「それに、頷いたんですか」

「はい。一緒にいれば、いつか決まると思って。働きながら、考えようと思って」

「でも、決まらないまま今になった」

「そうです」

夕さんの声に複雑なものが混じっていた。

「一緒に働き始めて、来る人の話を聞くうちに、気づいたことがあって」

「何ですか」

「話を聞くことが、好きでした。音楽と、似ていると思いました」

「似ている?」

「誰かのそばで歌って、その人の何かになりたかった。話を聞いて、その人の行き先を一緒に探して、送り出す。それも、誰かのそばで、その人の何かになることだと思いました。形は違うけど、根っこは同じだと」

 僕は少し驚いた。

「じゃあ、夕さんは今の仕事の中に、やりたかったことを見つけたんですか」

「半分は、そうです。でも、もう半分は……」

「もう半分は?」

「音楽への気持ちが、消えていないことに、気づいていました。話を聞くことが好きでも、歌いたいという気持ちは別にあって、消えなかった。でも、それを認めると、また動かなければいけなくなるから」

「認めないようにしていた」

「はい。ずっと」


 ターミナルがいつの間にかホームに出てきていた。

 夕さんの反対側に座って、線路を見ていた。三人で線路を見ている形になった。

「夕さん、一つ、聞いていいですか」

「はい」

「当時の駅員さんは、電車に乗って行ったんですよね」

「はい」

「その人は、行き先が決まって、乗りましたか」

「そうです」

「どんな人だったか、覚えていますか」

 夕さんは少し目を細めた。

「穏やかな人でした。でも、芯があった。来る人の話をよく聞いていて、でも厳しいことも言えた。ここに長くいたのに、ちゃんと出ていった人でした」

「その人は、怖くなかったんですかね。外に出ることが」

「怖かったと思います。でも、怖いままでも行けたんだと思います」

「怖いままでも行ける、か」

「はい。怖さが消えてから行くのではなく、怖いままで行く。それが、その人のやり方だったんだと思います」

「夕さんは、怖さが消えるのを、待っていましたか」

 夕さんは少し間を置いた。

「そうかもしれません。怖さが消えたら、行こうと思っていた。でも、消えなかった。いつまでも消えなかった」

「怖さは、消えないものかもしれないですね。橘さんも言っていました。書くのが怖い、でも書かなければ届かない、って。怖さが消えてから書くんじゃなくて、怖いまま書く、ということを選んでいた」

「そうですね。私は、その選択を、ずっとできていませんでした」

「できなかった理由は、何だったと思いますか」

 夕さんはしばらく考えた。


「一人だったからかもしれません。怖いままで行くためには、誰かに話を聞いてもらうことが必要だった気がします。一人で怖さを抱えていると、動けなくなる。でも誰かと共有できると、少し軽くなって、動けることがある」

「夕さんには、そういう人がいなかった」

「はい。聞く側ばかりでした。話す側になれなかった」

「昨日と一昨日、話を聞きました。夕さんの話を」

「はい」

「少し、軽くなりましたか」

「なりました。確かに」

「だったら、もう少し話せますか。今日も」

 夕さんは僕を見た。

「何を、話せばいいですか」

「音楽のことを。今でも、歌いたいという気持ちがあるなら、その話を」


 夕さんはしばらく黙っていた。

 懐中時計を取り出して、蓋を開かずに手の中で持った。

「あります。今も、歌いたいという気持ちが」

「どんなときに感じますか」

「電車を見送るとき、です」

「電車を見送るとき?」

「乗っていく人の後ろ姿を見るとき、何か歌いたくなります。送り出す歌を。行ってらっしゃい、という気持ちを、声にしたくなります。でも歌いません。ただ、頭を下げます」

「歌わない理由は」

「恥ずかしいから、というわけじゃないです。なんか……まだ、その資格がない気がして」

「資格?」

「自分の行き先も決めていないのに、人を送り出す歌を歌う資格がないと思っていました」

「それって、自分が出ていかないと、歌えないということですか」

「そういう気持ちがあります。でも……」

「でも、何ですか」

「でも、変かもしれないとも思っています。自分の行き先が決まってから歌う、というのは、また怖さが消えてから動こうとしているのと同じかもしれない、と」

「同じだと思います」

 夕さんが顔を上げた。

「行き先が決まってから歌うんじゃなくて、歌いたいから歌う。それでいいんじゃないですか」

「今すぐ、ということですか」

「今すぐじゃなくてもいい。でも、資格があるかどうかで決めることじゃないと思います。歌いたいかどうかで、決めることだと思います」


 夕さんはしばらく黙っていた。

 ターミナルが夕さんの方に歩いてきて、膝に乗ろうとした。夕さんが膝を整えてやると、ターミナルはおさまった。

「渚さん」

「はい」

「昨日、私が松本さんに言ったことを、渚さんが私に言い返してくれましたよね」

「はい。出る時期だ、と」

「今日も、そうしてくれています。私が来た人たちに言ってきたことを、渚さんが私に言ってくれている」

「気づいていましたか」

「気づいていました。でも、嫌じゃなかった。むしろ……」

「むしろ?」

「ちゃんと届いています。渚さんの言葉が」


「夕さん、一つだけ、お願いがあります」

「何ですか」

 僕は少し緊張した。でも、言おうと思った。

「歌ってもらえませんか」

 夕さんが動いた。ターミナルが耳を立てた。

「今、ここで。資格とか行き先とか関係なく。歌いたいなら、歌っていいと思うので」

 夕さんはしばらく何も言わなかった。

 懐中時計を持ったまま、線路の先を見ていた。

「……怖いです」

「知っています」

「うまく歌えないかもしれない」

「それでもいいです」

「誰かに聞かれるのは、久しぶりで」

「聞きたいから、お願いしています」


 長い沈黙があった。

 風が止んだ。草が揺れるのが止まった。夕焼けだけが、やわらかく光っていた。

 夕さんが、ゆっくりと息を吸った。

 目を閉じた。

 それから、歌い始めた。

 歌詞のない歌だった。メロディだけの、言葉のない歌だった。

 でも、その声は。

 僕は何も考えられなくなった。

 きれいだとか、上手だとか、そういうことじゃなかった。ただ、その声が、夕焼けの中に溶けていった。線路の先まで、届いていく気がした。

 ターミナルがごろごろと鳴き始めた。穏やかに、でも確かに。

 夕さんは目を閉じたまま歌っていた。短い歌だった。でも、長い時間を生きてきた声だった。

 ここに来た人たちへの、送り出す歌みたいだった。

 行ってらっしゃい、という気持ちが、声になったみたいだった。


 歌が終わった。

 夕さんが目を開けた。

 線路の先を見たまま、しばらく動かなかった。

「夕さん」

「はい」

「ありがとうございます」

 夕さんは何も言わなかった。

「届きました。ちゃんと」

 僕がそう伝えると、夕さんの目が、少し潤んだ。

 泣くかどうかの手前で、止まっていた。

「届きましたか」

夕さんの声が少し細かった。

「はい。届きました」

 ターミナルがごろごろと鳴き続けていた。


「ずっと、届くかどうか、分からなかった。自分の声が誰かに届くかどうか。だから、怖くて歌えなかった」

「届きます。届くかどうか試してみなければ分からないけど、届くと思います。さっき、届いたから」

「さっきは、渚さんだから」

「そうかもしれない。でも、一人に届けば、もう十分じゃないですか」

 夕さんはしばらく黙っていた。


「一人に届けば、十分」

「最初は一人でいいと思います。橘さんが救われた本も、あまり売れていなかったけど、橘さん一人に届いた。それだけで、その本の意味があった」

「そうですね。そうでしたね」


 しばらく二人で、線路を見ていた。

 ターミナルが夕さんの膝の上で目を細めていた。

「渚さん」

「はい」

「今日、歌えました」

「はい」

「久しぶりに、歌えました。ここに来てから初めて、誰かの前で歌いました」

「初めてだったんですか」

「はい。ここで一人で歌ったことはあります。でも、誰かの前では歌えませんでした。資格がないと思っていたから。でも今日、歌えました」

「何かが変わりましたか」

「変わりました。何が変わったかは、まだはっきりとは分かりません。でも、何かが変わりました」

「それでいいと思います」


 午後、夕さんはいつも通りに仕事をした。

 ホームを掃いて、帳面に記録を書いて、懐中時計を確認した。

 でも、何かが違った。

 動き方が、少し違った。今まではどこか重力に引かれているような動き方だった。今日は少し、浮いている気がした。軽い、というほどではないけれど、重くなかった。

 誰も来なかったけど、それでよかった気がした。

 今日は、夕さんの日だったと思った。


 夕食のとき、夕さんが少し多くしゃべった。

「昔のことを、あまり話したことがなかったんです。ここに来てから、自分の過去を誰かに話したのは、初めてかもしれません」

「そうですか」

「来た方には、私の話をする場面がなかったので。でも渚さんには、話せました。二日続けて」

「話してくれてよかったです」

「渚さんが聞いてくれるから、話せました。聞き方が、上手です」

「そうですか」

僕は照れくさかった。

「急かさないし、否定しないし、でも引き出してくれる。来た方々に、私がしていることを、渚さんもしてくれています」

「夕さんから学んだんです。見ていて、覚えました」

「渚さん」

「はい」

「行き先は、見えてきていますか」

 懐中時計のことを言っているのか、それとも直接聞いているのか、分からなかった。でもどちらにも、答えは同じだった。

「見えてきています。もうすぐ、ちゃんと見えると思います」

「そうですか」

夕さんは懐中時計を取り出して、蓋を開いた。少し見て、また閉じた。

「そうですね」

「何か見えましたか」

「はい。もうすぐです」

 もうすぐ。

 その言葉を聞いて、今度は怖くなかった。

 むしろ、早く見えてほしい、と思った。


 眠る前に、今日のことを思い返していた。

 夕さんが話してくれた。音楽のこと、諦めてきたこと、届くかどうか怖かったこと。そして、歌ってくれた。

 あの歌声が、まだ耳の中にある気がした。

 言葉のない歌だったけど、言葉より多くのことが伝わった気がした。夕さんがここで過ごしてきた時間が、送り出してきた人たちへの気持ちが、全部込められていた気がした。

 届くかどうか分からなくて、怖くて、でも歌った。

 それが、一番大事なことだと思った。

 届くかどうかより、歌いたいから歌う。

 怖くても、歌う。

 それが夕さんの次の行き先に、繋がっていく気がした。

 ターミナルが足元に来て、丸くなった。

 今夜は、ごろごろと鳴いていた。長く、穏やかに。

 まるで今日の歌の余韻みたいだった。

 夕焼けは続いていた。時計は17時47分のままだった。

 でも今夜は、その光が少し違う色をしている気がした。

 明日から、何かが変わる。

 そういう夜だった。


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