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17時47分の終着駅―駅員の少女と、行き先のない僕―  作者: 明石竜


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第八章 夕の仕事

 六日目の朝だった。

 目が覚めたとき、ターミナルはいなかった。昨夜は横に並んで眠っていたのに、朝になると消えている。猫とはそういうものだ、とだんだん分かってきた。

 いるときはいる。いないときはいない。それだけで、理由はない。

 顔を洗いながら、今日で六日目だと思った。

 外の時間がどうなっているか、まだ分からない。スマホはまだ電波が入らない。でも以前ほど気にならなくなっていた。ここにいることが、少しずつ当たり前になっていた。

 それが良いことかどうかは、分からなかった。


 朝食のとき、夕さんが少し考えごとをしているように見えた。

 食事中に遠くを見る癖が、この人にはある。一瞬だけ、どこか別のところに行って、またすぐ戻ってくる。それが今朝は少し長かった。

「夕さん」

「はい」

「何か考えてましたか」

「少し……今日、渚さんに見ていてもらいたいことがあります」

「見ていてもらいたいこと?」

「私の仕事を、一日見てもらえますか。よければ」

 断る理由がなかった。むしろ、聞きたかったことだった。

「はい。ぜひ」


 食事が終わると、夕さんは「では、始めます」と言った。

 最初にしたのは、駅舎の掃除だった。

 雑巾で床を拭いて、ベンチを拭いて、窓を拭いた。棚の帳面を一冊ずつずらして、棚の奥まで拭いた。写真の額のガラスも、丁寧に拭いた。

 その動作は無駄がなかった。どこを拭くか、どの順番でやるか、全部決まっているように見えた。

「毎日やるんですか」

「はい。朝一番にやります」

夕さんは拭きながら答えた。手は止めなかった。

「なんで朝なんですか」

「来てくださる方を、きれいな状態で迎えたいからです。いつ来ても、同じ状態で」

「いつ来ても、同じ状態」

「はい。今日初めて来た方も、何度も来た方も、いないですが、同じ場所に来たと感じてもらいたいので」


 掃除が終わると、夕さんはホームに出た。

 ホームを端から端まで歩いて、線路の状態を確認した。何かのメモを取るわけでも、道具を使うわけでもなく、ただ歩いて、見た。

「何を確認してるんですか」

「線路に異常がないか。電車が来るのに問題がないか」

「問題があったことはあるんですか」

「今まではありません。でも確認することが大切だと思っています」

「確認しなくても、問題ないかもしれないのに?」

「確認しないと、問題があったときに気づけません」

夕さんはとても当たり前のことのように言った。

「それに――」

「それに?」

「毎日確認することで、変化に気づけます。昨日と今日で、何かが少し違う、ということが分かります」

「変化って、どんな変化ですか」

「小さな変化です。草の伸び方とか、光の角度とか。それは問題とは関係ないことが多いですが、変化を見ていると、この駅のことが分かります。今日の駅がどういう状態か」

 夕さんにとって、この駅は生き物みたいなものなのかもしれない、と思った。毎日状態が変わる、生き物みたいな。


 ホームの確認が終わると、夕さんは駅舎に戻って、懐中時計を取り出した。

 蓋を開いて、文字盤を確認した。いつもの動作だった。

「その時計って、何を見てるんですか。時間は17時47分で止まってるんでしょう」

「時間ではないものを見ています」

「時間ではないもの」

「少し、説明が難しいですが……」

夕さんは懐中時計を手の中で持ちながら、どう言えばいいか考えているようだった。「この時計は、来てくださる方のことを教えてくれます」

「来る人のことを?」

「今日、誰かが来そうかどうか。その人がどんな状態にあるか。どんなものを抱えているか。全部ではありませんが、少し分かります」

「それが切符を作るときにも使うやつですか」

「はい。同じ時計です」

 懐中時計が時間以外のものを示す。来る人のことを教えてくれる。それはどういう仕組みなのか、尋ねてみた。

「仕組みは分からないです。でも、この駅に来てから、この時計はこういうものとして働いています」

「夕さんが来る前から、あったんですか」

「はい。来たときにはもう、ここにありました。ちょうど今のように」


 昼前に、夕さんは棚から帳面を一冊取り出して、テーブルに広げた。

 ページを開いて、昨日の橘さんの記録を書いた。名前、来た日、抱えていたこと、行き先。丁寧な文字で、短く、でも必要なことが全部書かれていた。

「見てもいいですか」

「今書いている分は、どうぞ」

 僕は覗き込んだ。

 橘さん、三十一歳、小説家。夢が叶ったけど次が見えなくなっていた。書きたいものと書くべきものの間で迷っていた。行き先は新しい町。

 そういう内容が、静かな文章で書かれていた。事実だけではなく、橘さんがここで何を感じていたか、どこが変わったか、そういうことも書かれていた。

「全員、こんなに丁寧に書いてるんですか」

「はい。来てくださった方のことを、ちゃんと残したいので」

「なんで残したいんですか」

「来てくれたことを、証明したいんです。ここに来て、何かが変わったことを。それが記録されていなかったら、なかったことになってしまいそうで」

 昨夜ターミナルのことを考えながら思ったことと、重なった。ここで起きたことを覚えていること。それがこの駅の大切な役割の一つだと、昨日僕は思った。夕さんもそれをやっていた。帳面という形で。


 昼を過ぎてから、夕さんが言った。

「切符の作り方を、見てもらえますか」

「見ていいんですか」

「見ていてもらうだけで。実際にやるのは私がしますが」

 夕さんは懐中時計を出した。蓋を開いて、文字盤に指先を当てた。

「今日、誰かが来るかどうかは分からないですが、切符は、この時計を通して作ります」

「さっき言ってた、来る人のことを教えてくれる時計ですね」

「はい。切符は、その人の行き先が決まったときに作れます。決まる前は、作れません」

「なんで決まる前は作れないんですか」

「行き先のない切符は、切符ではないからです」

「じゃあ、行き先が決まったら、自然にできるんですか」

「自然に、というより――その人の中で行き先が決まったとき、時計がそれを教えてくれます。そのタイミングで、切符を作ります」

「時計が教えてくれる、というのは、どういう感じですか」

 夕さんは少し考えた。

「温かくなります。時計が」


 午後、誰かが来るかもしれないからとホームで待っていた。

 夕さんは入り口の近くに立っていた。来たときにすぐ気づけるように。

 僕はベンチに座って、それを見ていた。

「夕さんって、電車には乗らないんですか?」

「乗りません」

夕さんはためらいなく、すぐに答えた。

「なんでですか?」

「駅員ですから。乗る側ではなく、送り出す側です」

「でも、切符がある人なら乗れますよね」

「そうですね」

「夕さんは、自分の切符を持っていないんですか」

 少し間があった。

「今は持っていません」

「今は、というのは」

「いつかは持つかもしれません」

夕さんの声に何かが混じっていた。

「でも今は、まだです」

 それ以上は聞かなかった。前に同じようなことを聞いたとき、夕さんが少し固くなったのを覚えていたから。


 夕方近く、懐中時計を持った夕さんの手が、少し動いた。

「来ます」

「えっ、今日来るんですか」

「一人。もうすぐ」

 言われてから五分ほどして、ホームに人影が現れた。

 二十代後半くらいの男性だった。服装はカジュアルで、手ぶらに近かった。財布とスマホだけ持っているような、身軽な感じだった。

 でも顔は、身軽とは逆だった。重たいものを載せているような顔だった。

 夕さんがホームに出た。


 男性の名前は、西村拓也と言った。二十八歳。

 駅舎に入って、ベンチに座った。辺りをほとんど見ずに、最初から夕さんを見ていた。目的を持って来たような目だった。

「ここに来たのは、初めてではありません」

 西村さんがそう伝えると、夕さんが少し表情を変えた。

「以前、いらしたことがありますか」

「二年前に。そのとき、切符をもらいました」

「そうですか」

夕さんは記憶を確かめるような間があった。

「今日は、どうして来られましたか」

「また迷ってしまって。二年前にもらった切符の行き先に行きました。でも、そこでも行き詰まってしまって。また来てしまいました」

 二度目の来客。僕はそういう人がいるとは思っていなかった。


「二年前の行き先に行って、何があったか、話せますか」

「転職しました。二年前にここに来たとき、当時の仕事が合わないと思っていて。それで転職する勇気をもらって、新しい仕事に就きました」

「今の仕事は、合っていましたか」

「最初は合っていると思いました。でも一年経ったころから、また違うと感じ始めて。なんか、どこに行っても同じような気がしてきて」

「どこに行っても同じ、というのは」

「環境が変わっても、結局自分が変わっていないから、同じ問題が出てくる。そういう気がして」

 夕さんはじっと聞いていた。急かさなかった。

「具体的には、どんな問題ですか?」

「人と、うまくやれないんです。どこに行っても。嫌われているわけじゃないと思うんですが、なんか、うまく関われない。表面的な関係しか作れない。仕事上の会話はできるけど、それ以上になれない」

「それは、今の職場だけですか」

「いえ。ずっとそうです。学生のときから」


「二年前に来たとき、そのことは話しましたか」

「話しませんでした。二年前は、仕事の話だけで、それで解決したと思っていたので」

「でも、根っこにある問題は別のところにあった」

「そう思います。今になって、やっと」

 西村さんはテーブルに肘を置いて、手の甲に顎を乗せた。疲れているというより、ずっとそのことを考えてきた人の体勢だった。

「人とうまく関われない、と言いましたけど、どういうときに、そう感じますか」

「誰かと話しているとき、気づいたら自分のことを話していないんです。相手の話を聞いていて、それに答えていて、でも自分のことは話していない。で、気づいたら相手だけが話して、自分は何も出していない。それが続くと、お互いのことを知らないまま終わる」

「それは、自分のことを話すのが苦手だから、ですか?」

「苦手です。何を話せばいいか分からなくて。自分のことを話したら、どう思われるか不安で」

「どう思われると思っていますか」

「つまらないとか、たいしたことない人間だとか。自分の話って、別に面白くないと思うんです。相手を楽しませる話が得意じゃなくて」


「西村さん、今、私に話してくれていますよね」

「はい」

「今話していることは、自分のことではありませんか」

 西村さんは少し考えた。

「……そうですね。でも、これは悩みの話なので。普通の話じゃないから、話せる気がして」

「普通の話と、悩みの話は、何が違いますか」

「悩みの話は、聞いてもらわないといけないから、話す理由がある。でも普通の話は、別に話さなくてもいいので、理由がない」

「話す理由が必要ですか」

「必要な気がしています。理由もなく自分のことを話すのは、迷惑じゃないかと思って」

「迷惑だと思ったことがありましたか」

「……ありません。でも、思われそうで」

「思われたことがないのに、思われそうだと思っている」

夕さんは繰り返した。

 西村さんは少し黙った。

「……そういうことかもしれません」


 ターミナルがいつの間にか西村さんの隣に来ていた。

 西村さんは気づいて、少し驚いた顔をした。それからターミナルを見て、「こんにちは」と言った。

 ターミナルはじっと西村さんを見た。

「この猫、前にもいましたね。二年前にも、いました」

「ターミナルは、ずっとここにいます」

 夕さんが伝える。

「覚えてますか、俺のこと」

 ターミナルは一瞬だけ目を細めた。

「……覚えてるんですね」

西村さんは何かが少し緩んだような声だった。

「それは嬉しい」


「話を戻しますが、西村さんは、人と話すとき、相手の話を聞くのが得意なんですね」

「そうだと思います。聞く方が、楽です」

「なぜ聞く方が楽ですか」

「話している人が気持ちよさそうで、それを見ているのが好きです。自分の話より、相手の話の方が、たいてい面白いし」

「相手の話が面白い、というのは、相手に興味があるということですよね」

「あります。人のことは、すごく興味あります。でも自分のことは話せない。バランスが変なんです」

「変ではないと思います」

夕さんがそう言うと、西村さんが顔を上げた。

「聞くことが得意な人は、たくさんいます。それはその人の持っているものです。変なのではなく、そういう人なんだと思います。ただ、聞くだけになってしまうと、関係が一方向になってしまう」

「どうすればいいんですか」

「全部を話さなくていいと思います。でも、一つだけ。相手が話してくれたことに対して、自分はこう思う、という一言を足すことはできますか」

「一言だけ?」

「一言だけでいいです。感想でも、共感でも、質問でも。自分の言葉を一つ混ぜるだけで、会話が変わります」


「やってみます」

西村さんは少し考えてから、「でも、また行き詰まったとき、ここに来ていいですか」と問いかけた。

「来ていいです」

夕さんはすぐにそう答えた。

「また迷ってもいいですか」

「迷ってもいいです。一度行き先が決まっても、また迷うことはあります。迷ったらまた来て下さい」

 西村さんは少し表情が和らいだ。

「前に来たとき、切符をもらって、そこに行ったら全部解決すると思っていました。でも解決しなかった。また来てしまって、申し訳なかったんですが」

「申し訳なくないです。人の悩みは、一回で全部解決しないことが多いです。何度も来ていい場所だと思っています」

「そういう場所なんですね、ここは」

「そうありたいと思っています」


 夕さんが懐中時計を出した。

 蓋を開いて、しばらく見てから、切符を作った。

 西村さんに手渡されたそれを、西村さんは受け取った。

「今度は、どこですか」

「今いる町の、別の場所です。遠くに行く必要はないと思います。今いる場所で、少し変えてみることが、今の西村さんには向いていると思います」

「同じ町の中で」

「はい。環境を変えることより、自分の関わり方を少し変えること。それが今回の行き先だと思います」

 西村さんは切符を見て、うなずいた。

「分かりました。一言、混ぜてみます。自分の言葉を」


 電車が来た。

 西村さんが乗り込む前に振り返って、夕さんに言った。

「また来るかもしれません」

「いつでも」

「その猫にも、よろしく言っておいて下さい」

「ターミナルに?」

「俺のことを覚えていてくれて、ありがとうって」

 夕さんはターミナルを見た。ターミナルはホームの端に座っていた。

「伝えます」

 西村さんは電車に乗った。扉が閉まって、電車が動き出した。夕焼けの中に消えた。


 ホームに静けさが戻った。

 僕は夕さんの隣に立っていた。

「夕さん」

「はい」

「さっき、電車は一日一本って言ってましたよね」

「はい」

「でも、今日はもう電車が来ましたよね。今後また誰か来ても、乗れないんですか」

「電車は、切符を持った人が来たとき、来ます。一日一本というのは、一人の乗客に対して一本という意味です。複数来れば、複数来ます」

「それは、乗る人が決まったとき?」

「行き先が決まったとき、です」

 行き先が決まったとき、電車が来る。

「じゃあ、僕の行き先が決まったら、電車が来るんですか」

「そうです」

夕さんの言葉はプレッシャーではなかった。ただの事実として聞こえた。行き先が決まれば、電車が来る。決まるまでは、来ない。それだけだ。


 夕食のとき、今日一日見ていたことを振り返っていた。

 掃除、ホームの確認、懐中時計の確認、帳面への記録、乗客との対話、切符、電車の見送り。夕さんの一日は、全部が繋がっていた。準備して、迎えて、聞いて、送り出す。それが繰り返されている。

「夕さん、今日、仕事を見せてもらってよかったです」

「どうでしたか」

「すごく、丁寧だなと思いました。全部が。掃除も、確認も、話を聞くことも。全部、来る人のためにある」

「当然のことだと思っています」

「当然じゃないと思います。これだけのことを、毎日、一人で、ずっとやり続けるのは」

 夕さんは何も言わなかった。

「夕さんは、この仕事が好きですか」

 少し間があった。

「好きだと思います。来た方が、変わっていくのを見るのが、好きです。来たときより、少し軽くなって出ていく。その瞬間が好きです」

「でも、自分は残る」

「はい」

「それでも、好きですか」

 また間があった。今度は少し長かった。

「……好きです。でも――」

 続きはなかった。でも、という言葉の後に何があるか、僕には少し分かる気がした。


 ターミナルが夕さんの足元に来た。

 いつも通りの動作で、夕さんの足元に寄って、そこにいた。

 夕さんがターミナルを見下ろした。

「ターミナルが、西村さんのことを覚えていてくれて、よかったです」

夕さんは独り言に近い声だった。

「二年前のことを、覚えてるんですね」

「ずっと前のことも、覚えています。ターミナルは、全部覚えているので」

「夕さんも、全員覚えていますか」

「覚えています。帳面に書いてあるから、というだけでなく、覚えています」

「それは、すごいですね」

「忘れたくないので。来てくれた方のことを、忘れたくない」

 その言葉は、静かだったけど、何か強いものが根っこにある声だった。


 眠る前に、今日のことを整理した。夕さんの仕事を一日見ていた。全部が、来る人のためにあった。掃除も、確認も、記録も、対話も。でも、それをしている夕さん自身は、電車に乗らない。送り出すだけで、自分は残る。それは今まで、当然のことのように見えていた。でも今日一日見ていると、少しだけ違って見えてきた。

 夕さんがここで仕事をしている理由が、「駅員だから」だけではないような気がした。もっと深いところに、何かある気がした。

 今度聞こうと決めていることを、今夜また思った。

 どうしてここにいるのか、と。

 でも、もう少し待った方がいい気がした。夕さんが話せる準備ができたとき、聞く。それまでは、待つ。

 人の話を聞くことが得意な人間が、聞いてもらえる側になれないまま、ずっとここにいる。

 そのことが、今夜はずっと頭の中にあった。

 ターミナルが足元に来て、丸くなった。

 夕焼けは続いていた。時計は17時47分のままだった。


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