第八章 夕の仕事
六日目の朝だった。
目が覚めたとき、ターミナルはいなかった。昨夜は横に並んで眠っていたのに、朝になると消えている。猫とはそういうものだ、とだんだん分かってきた。
いるときはいる。いないときはいない。それだけで、理由はない。
顔を洗いながら、今日で六日目だと思った。
外の時間がどうなっているか、まだ分からない。スマホはまだ電波が入らない。でも以前ほど気にならなくなっていた。ここにいることが、少しずつ当たり前になっていた。
それが良いことかどうかは、分からなかった。
朝食のとき、夕さんが少し考えごとをしているように見えた。
食事中に遠くを見る癖が、この人にはある。一瞬だけ、どこか別のところに行って、またすぐ戻ってくる。それが今朝は少し長かった。
「夕さん」
「はい」
「何か考えてましたか」
「少し……今日、渚さんに見ていてもらいたいことがあります」
「見ていてもらいたいこと?」
「私の仕事を、一日見てもらえますか。よければ」
断る理由がなかった。むしろ、聞きたかったことだった。
「はい。ぜひ」
食事が終わると、夕さんは「では、始めます」と言った。
最初にしたのは、駅舎の掃除だった。
雑巾で床を拭いて、ベンチを拭いて、窓を拭いた。棚の帳面を一冊ずつずらして、棚の奥まで拭いた。写真の額のガラスも、丁寧に拭いた。
その動作は無駄がなかった。どこを拭くか、どの順番でやるか、全部決まっているように見えた。
「毎日やるんですか」
「はい。朝一番にやります」
夕さんは拭きながら答えた。手は止めなかった。
「なんで朝なんですか」
「来てくださる方を、きれいな状態で迎えたいからです。いつ来ても、同じ状態で」
「いつ来ても、同じ状態」
「はい。今日初めて来た方も、何度も来た方も、いないですが、同じ場所に来たと感じてもらいたいので」
掃除が終わると、夕さんはホームに出た。
ホームを端から端まで歩いて、線路の状態を確認した。何かのメモを取るわけでも、道具を使うわけでもなく、ただ歩いて、見た。
「何を確認してるんですか」
「線路に異常がないか。電車が来るのに問題がないか」
「問題があったことはあるんですか」
「今まではありません。でも確認することが大切だと思っています」
「確認しなくても、問題ないかもしれないのに?」
「確認しないと、問題があったときに気づけません」
夕さんはとても当たり前のことのように言った。
「それに――」
「それに?」
「毎日確認することで、変化に気づけます。昨日と今日で、何かが少し違う、ということが分かります」
「変化って、どんな変化ですか」
「小さな変化です。草の伸び方とか、光の角度とか。それは問題とは関係ないことが多いですが、変化を見ていると、この駅のことが分かります。今日の駅がどういう状態か」
夕さんにとって、この駅は生き物みたいなものなのかもしれない、と思った。毎日状態が変わる、生き物みたいな。
ホームの確認が終わると、夕さんは駅舎に戻って、懐中時計を取り出した。
蓋を開いて、文字盤を確認した。いつもの動作だった。
「その時計って、何を見てるんですか。時間は17時47分で止まってるんでしょう」
「時間ではないものを見ています」
「時間ではないもの」
「少し、説明が難しいですが……」
夕さんは懐中時計を手の中で持ちながら、どう言えばいいか考えているようだった。「この時計は、来てくださる方のことを教えてくれます」
「来る人のことを?」
「今日、誰かが来そうかどうか。その人がどんな状態にあるか。どんなものを抱えているか。全部ではありませんが、少し分かります」
「それが切符を作るときにも使うやつですか」
「はい。同じ時計です」
懐中時計が時間以外のものを示す。来る人のことを教えてくれる。それはどういう仕組みなのか、尋ねてみた。
「仕組みは分からないです。でも、この駅に来てから、この時計はこういうものとして働いています」
「夕さんが来る前から、あったんですか」
「はい。来たときにはもう、ここにありました。ちょうど今のように」
昼前に、夕さんは棚から帳面を一冊取り出して、テーブルに広げた。
ページを開いて、昨日の橘さんの記録を書いた。名前、来た日、抱えていたこと、行き先。丁寧な文字で、短く、でも必要なことが全部書かれていた。
「見てもいいですか」
「今書いている分は、どうぞ」
僕は覗き込んだ。
橘さん、三十一歳、小説家。夢が叶ったけど次が見えなくなっていた。書きたいものと書くべきものの間で迷っていた。行き先は新しい町。
そういう内容が、静かな文章で書かれていた。事実だけではなく、橘さんがここで何を感じていたか、どこが変わったか、そういうことも書かれていた。
「全員、こんなに丁寧に書いてるんですか」
「はい。来てくださった方のことを、ちゃんと残したいので」
「なんで残したいんですか」
「来てくれたことを、証明したいんです。ここに来て、何かが変わったことを。それが記録されていなかったら、なかったことになってしまいそうで」
昨夜ターミナルのことを考えながら思ったことと、重なった。ここで起きたことを覚えていること。それがこの駅の大切な役割の一つだと、昨日僕は思った。夕さんもそれをやっていた。帳面という形で。
昼を過ぎてから、夕さんが言った。
「切符の作り方を、見てもらえますか」
「見ていいんですか」
「見ていてもらうだけで。実際にやるのは私がしますが」
夕さんは懐中時計を出した。蓋を開いて、文字盤に指先を当てた。
「今日、誰かが来るかどうかは分からないですが、切符は、この時計を通して作ります」
「さっき言ってた、来る人のことを教えてくれる時計ですね」
「はい。切符は、その人の行き先が決まったときに作れます。決まる前は、作れません」
「なんで決まる前は作れないんですか」
「行き先のない切符は、切符ではないからです」
「じゃあ、行き先が決まったら、自然にできるんですか」
「自然に、というより――その人の中で行き先が決まったとき、時計がそれを教えてくれます。そのタイミングで、切符を作ります」
「時計が教えてくれる、というのは、どういう感じですか」
夕さんは少し考えた。
「温かくなります。時計が」
午後、誰かが来るかもしれないからとホームで待っていた。
夕さんは入り口の近くに立っていた。来たときにすぐ気づけるように。
僕はベンチに座って、それを見ていた。
「夕さんって、電車には乗らないんですか?」
「乗りません」
夕さんはためらいなく、すぐに答えた。
「なんでですか?」
「駅員ですから。乗る側ではなく、送り出す側です」
「でも、切符がある人なら乗れますよね」
「そうですね」
「夕さんは、自分の切符を持っていないんですか」
少し間があった。
「今は持っていません」
「今は、というのは」
「いつかは持つかもしれません」
夕さんの声に何かが混じっていた。
「でも今は、まだです」
それ以上は聞かなかった。前に同じようなことを聞いたとき、夕さんが少し固くなったのを覚えていたから。
夕方近く、懐中時計を持った夕さんの手が、少し動いた。
「来ます」
「えっ、今日来るんですか」
「一人。もうすぐ」
言われてから五分ほどして、ホームに人影が現れた。
二十代後半くらいの男性だった。服装はカジュアルで、手ぶらに近かった。財布とスマホだけ持っているような、身軽な感じだった。
でも顔は、身軽とは逆だった。重たいものを載せているような顔だった。
夕さんがホームに出た。
男性の名前は、西村拓也と言った。二十八歳。
駅舎に入って、ベンチに座った。辺りをほとんど見ずに、最初から夕さんを見ていた。目的を持って来たような目だった。
「ここに来たのは、初めてではありません」
西村さんがそう伝えると、夕さんが少し表情を変えた。
「以前、いらしたことがありますか」
「二年前に。そのとき、切符をもらいました」
「そうですか」
夕さんは記憶を確かめるような間があった。
「今日は、どうして来られましたか」
「また迷ってしまって。二年前にもらった切符の行き先に行きました。でも、そこでも行き詰まってしまって。また来てしまいました」
二度目の来客。僕はそういう人がいるとは思っていなかった。
「二年前の行き先に行って、何があったか、話せますか」
「転職しました。二年前にここに来たとき、当時の仕事が合わないと思っていて。それで転職する勇気をもらって、新しい仕事に就きました」
「今の仕事は、合っていましたか」
「最初は合っていると思いました。でも一年経ったころから、また違うと感じ始めて。なんか、どこに行っても同じような気がしてきて」
「どこに行っても同じ、というのは」
「環境が変わっても、結局自分が変わっていないから、同じ問題が出てくる。そういう気がして」
夕さんはじっと聞いていた。急かさなかった。
「具体的には、どんな問題ですか?」
「人と、うまくやれないんです。どこに行っても。嫌われているわけじゃないと思うんですが、なんか、うまく関われない。表面的な関係しか作れない。仕事上の会話はできるけど、それ以上になれない」
「それは、今の職場だけですか」
「いえ。ずっとそうです。学生のときから」
「二年前に来たとき、そのことは話しましたか」
「話しませんでした。二年前は、仕事の話だけで、それで解決したと思っていたので」
「でも、根っこにある問題は別のところにあった」
「そう思います。今になって、やっと」
西村さんはテーブルに肘を置いて、手の甲に顎を乗せた。疲れているというより、ずっとそのことを考えてきた人の体勢だった。
「人とうまく関われない、と言いましたけど、どういうときに、そう感じますか」
「誰かと話しているとき、気づいたら自分のことを話していないんです。相手の話を聞いていて、それに答えていて、でも自分のことは話していない。で、気づいたら相手だけが話して、自分は何も出していない。それが続くと、お互いのことを知らないまま終わる」
「それは、自分のことを話すのが苦手だから、ですか?」
「苦手です。何を話せばいいか分からなくて。自分のことを話したら、どう思われるか不安で」
「どう思われると思っていますか」
「つまらないとか、たいしたことない人間だとか。自分の話って、別に面白くないと思うんです。相手を楽しませる話が得意じゃなくて」
「西村さん、今、私に話してくれていますよね」
「はい」
「今話していることは、自分のことではありませんか」
西村さんは少し考えた。
「……そうですね。でも、これは悩みの話なので。普通の話じゃないから、話せる気がして」
「普通の話と、悩みの話は、何が違いますか」
「悩みの話は、聞いてもらわないといけないから、話す理由がある。でも普通の話は、別に話さなくてもいいので、理由がない」
「話す理由が必要ですか」
「必要な気がしています。理由もなく自分のことを話すのは、迷惑じゃないかと思って」
「迷惑だと思ったことがありましたか」
「……ありません。でも、思われそうで」
「思われたことがないのに、思われそうだと思っている」
夕さんは繰り返した。
西村さんは少し黙った。
「……そういうことかもしれません」
ターミナルがいつの間にか西村さんの隣に来ていた。
西村さんは気づいて、少し驚いた顔をした。それからターミナルを見て、「こんにちは」と言った。
ターミナルはじっと西村さんを見た。
「この猫、前にもいましたね。二年前にも、いました」
「ターミナルは、ずっとここにいます」
夕さんが伝える。
「覚えてますか、俺のこと」
ターミナルは一瞬だけ目を細めた。
「……覚えてるんですね」
西村さんは何かが少し緩んだような声だった。
「それは嬉しい」
「話を戻しますが、西村さんは、人と話すとき、相手の話を聞くのが得意なんですね」
「そうだと思います。聞く方が、楽です」
「なぜ聞く方が楽ですか」
「話している人が気持ちよさそうで、それを見ているのが好きです。自分の話より、相手の話の方が、たいてい面白いし」
「相手の話が面白い、というのは、相手に興味があるということですよね」
「あります。人のことは、すごく興味あります。でも自分のことは話せない。バランスが変なんです」
「変ではないと思います」
夕さんがそう言うと、西村さんが顔を上げた。
「聞くことが得意な人は、たくさんいます。それはその人の持っているものです。変なのではなく、そういう人なんだと思います。ただ、聞くだけになってしまうと、関係が一方向になってしまう」
「どうすればいいんですか」
「全部を話さなくていいと思います。でも、一つだけ。相手が話してくれたことに対して、自分はこう思う、という一言を足すことはできますか」
「一言だけ?」
「一言だけでいいです。感想でも、共感でも、質問でも。自分の言葉を一つ混ぜるだけで、会話が変わります」
「やってみます」
西村さんは少し考えてから、「でも、また行き詰まったとき、ここに来ていいですか」と問いかけた。
「来ていいです」
夕さんはすぐにそう答えた。
「また迷ってもいいですか」
「迷ってもいいです。一度行き先が決まっても、また迷うことはあります。迷ったらまた来て下さい」
西村さんは少し表情が和らいだ。
「前に来たとき、切符をもらって、そこに行ったら全部解決すると思っていました。でも解決しなかった。また来てしまって、申し訳なかったんですが」
「申し訳なくないです。人の悩みは、一回で全部解決しないことが多いです。何度も来ていい場所だと思っています」
「そういう場所なんですね、ここは」
「そうありたいと思っています」
夕さんが懐中時計を出した。
蓋を開いて、しばらく見てから、切符を作った。
西村さんに手渡されたそれを、西村さんは受け取った。
「今度は、どこですか」
「今いる町の、別の場所です。遠くに行く必要はないと思います。今いる場所で、少し変えてみることが、今の西村さんには向いていると思います」
「同じ町の中で」
「はい。環境を変えることより、自分の関わり方を少し変えること。それが今回の行き先だと思います」
西村さんは切符を見て、うなずいた。
「分かりました。一言、混ぜてみます。自分の言葉を」
電車が来た。
西村さんが乗り込む前に振り返って、夕さんに言った。
「また来るかもしれません」
「いつでも」
「その猫にも、よろしく言っておいて下さい」
「ターミナルに?」
「俺のことを覚えていてくれて、ありがとうって」
夕さんはターミナルを見た。ターミナルはホームの端に座っていた。
「伝えます」
西村さんは電車に乗った。扉が閉まって、電車が動き出した。夕焼けの中に消えた。
ホームに静けさが戻った。
僕は夕さんの隣に立っていた。
「夕さん」
「はい」
「さっき、電車は一日一本って言ってましたよね」
「はい」
「でも、今日はもう電車が来ましたよね。今後また誰か来ても、乗れないんですか」
「電車は、切符を持った人が来たとき、来ます。一日一本というのは、一人の乗客に対して一本という意味です。複数来れば、複数来ます」
「それは、乗る人が決まったとき?」
「行き先が決まったとき、です」
行き先が決まったとき、電車が来る。
「じゃあ、僕の行き先が決まったら、電車が来るんですか」
「そうです」
夕さんの言葉はプレッシャーではなかった。ただの事実として聞こえた。行き先が決まれば、電車が来る。決まるまでは、来ない。それだけだ。
夕食のとき、今日一日見ていたことを振り返っていた。
掃除、ホームの確認、懐中時計の確認、帳面への記録、乗客との対話、切符、電車の見送り。夕さんの一日は、全部が繋がっていた。準備して、迎えて、聞いて、送り出す。それが繰り返されている。
「夕さん、今日、仕事を見せてもらってよかったです」
「どうでしたか」
「すごく、丁寧だなと思いました。全部が。掃除も、確認も、話を聞くことも。全部、来る人のためにある」
「当然のことだと思っています」
「当然じゃないと思います。これだけのことを、毎日、一人で、ずっとやり続けるのは」
夕さんは何も言わなかった。
「夕さんは、この仕事が好きですか」
少し間があった。
「好きだと思います。来た方が、変わっていくのを見るのが、好きです。来たときより、少し軽くなって出ていく。その瞬間が好きです」
「でも、自分は残る」
「はい」
「それでも、好きですか」
また間があった。今度は少し長かった。
「……好きです。でも――」
続きはなかった。でも、という言葉の後に何があるか、僕には少し分かる気がした。
ターミナルが夕さんの足元に来た。
いつも通りの動作で、夕さんの足元に寄って、そこにいた。
夕さんがターミナルを見下ろした。
「ターミナルが、西村さんのことを覚えていてくれて、よかったです」
夕さんは独り言に近い声だった。
「二年前のことを、覚えてるんですね」
「ずっと前のことも、覚えています。ターミナルは、全部覚えているので」
「夕さんも、全員覚えていますか」
「覚えています。帳面に書いてあるから、というだけでなく、覚えています」
「それは、すごいですね」
「忘れたくないので。来てくれた方のことを、忘れたくない」
その言葉は、静かだったけど、何か強いものが根っこにある声だった。
眠る前に、今日のことを整理した。夕さんの仕事を一日見ていた。全部が、来る人のためにあった。掃除も、確認も、記録も、対話も。でも、それをしている夕さん自身は、電車に乗らない。送り出すだけで、自分は残る。それは今まで、当然のことのように見えていた。でも今日一日見ていると、少しだけ違って見えてきた。
夕さんがここで仕事をしている理由が、「駅員だから」だけではないような気がした。もっと深いところに、何かある気がした。
今度聞こうと決めていることを、今夜また思った。
どうしてここにいるのか、と。
でも、もう少し待った方がいい気がした。夕さんが話せる準備ができたとき、聞く。それまでは、待つ。
人の話を聞くことが得意な人間が、聞いてもらえる側になれないまま、ずっとここにいる。
そのことが、今夜はずっと頭の中にあった。
ターミナルが足元に来て、丸くなった。
夕焼けは続いていた。時計は17時47分のままだった。




