第七章 駅ネコの話
五日目の朝だった。
目が覚めたとき、また腹の上にターミナルがいた。今日は顔の上に前足を伸ばして、完全に僕をベッド代わりにしていた。
「重い」と言ったら、ターミナルは片目だけ開けて、それから閉じた。どく気はないらしかった。
しばらくそのままにしていた。
天井の木目を見ながら、考えていた。昨夜から続いている、もやの中の輪郭のことを。人の話を聞くことが、何かに繋がるかもしれないという感触のことを。
まだ掴めていない。でも昨日よりは近い気がした。
ターミナルが伸びをした。前足が僕の顎に当たった。
「痛い」
ターミナルは気にしなかった。
朝食のとき、夕さんに尋ねた。
「今日は誰か来ますか」
「分かりません。来ない日もあります」
「来ない日は、何をしてるんですか、夕さんは」
「駅の手入れをしたり、記録を書いたり。あとは、ここにいます」
「ただいるだけ?」
「ただいるだけです」
夕さんはそれを不思議なことだとは思っていない声だった。
「来る人がいつ来ても、迎えられるように」
ただいるだけ、でも、それは待っているということだ。誰かのために、ここで待っている。
「それって、寂しくないですか?」
僕は昨日より少し踏み込んだ質問をした。
夕さんは少し間を置いた。
「寂しいと感じる余裕がないのかもしれません。来てくださる方のことを考えていると、時間が経ちます」
「余裕がない、というのは」
「寂しいと感じ始めたら、きりがないので」
それは答えのようで、少し違う気もした。でも夕さんはそれ以上言わなかったので、僕もそれ以上聞かなかった。
午前中、誰も来なかった。
夕さんは棚の帳面を一冊取り出して、何かを書いていた。記録だろうと思った。昨日来た橘さんのことか、それとも別の何かか。
僕はホームに出て、線路の近くに座っていた。
ターミナルが隣に来た。今日はやけに近い。昨日から、距離が縮まった気がする。
「ターミナル、ここに来てから何日も経つのに、あんまり話せてないよね、君と」
ターミナルは線路の方を向いたまま、答えなかった。
「夕さんが言ってた。昔からここにいるって。ここがいつできたか、知ってる?」
ターミナルはしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりとこちらを向いた。
金色の目が、まっすぐ僕を見た。
その目の中に、何か深いものがある気がした。年を重ねたものだけが持つ、静かな重さ。
ニャア、と一声鳴いた。
「……教えてくれる感じ、しないよね」
ターミナルは視線を外して、また線路の方を見た。
昼になっても、誰も来なかった。
夕さんが「今日は少し、散歩でもしてみますか」と誘った。
「駅の外に出られるんですか」
「外というか……駅の周りを少し歩けます。あまり遠くには行けませんが」
夕さんとターミナルと三人で、駅の周りを歩いた。
駅舎の裏側に出ると、小さな野原のようなものがあった。草が生えていて、遠くに木が何本か見えた。夕焼けの光の中で、その景色は絵の中みたいだった。
「きれいですね」
「はい。私の好きな景色です」
ターミナルが草の中を歩いていった。低い草をかき分けながら、何かを探すように進んでいく。
「ターミナルって、毎日これをやってるんですか」
「時々です。気が向いたとき」
しばらく並んで歩いた。風が吹いていた。夕焼けの匂いがした。夕焼けに匂いがあるかどうか分からないけれど、この場所の空気はいつも少し甘い気がした。
「ねえ、ターミナルって、本当に昔からここにいるんですか?」
「はい」
「どのくらい昔ですか」
夕さんは少しの間、歩きながら考えた。
「この駅ができたころから、だと思います」
「この駅って、いつできたんですか」
「私が来たときには、もうあったので、正確には分かりません」
夕さんが来たとき。それはいつのことだろう。でも今は聞かなかった。
「ターミナルの年齢って、猫の年齢じゃないのかもしれないですね」
「そうかもしれません」
夕さんはまるで当然のことのように言った。
野原の端に古い石のベンチがあった。夕さんと並んで座った。ターミナルが草の中から戻ってきて、夕さんの膝に乗った。
「夕さん、ターミナルのことを、もう少し教えてもらえますか」
夕さんは少し考えてから、うなずいた。
「私が知っていることだけですが」と前置きして、話し始めた。
夕さんがこの駅に来たのは、かなり前のことだった。
そのときすでに、ターミナルはいた。今と変わらない姿で、今と変わらない場所に、いた。
最初、夕さんはターミナルのことを普通の猫だと思っていた。駅に住み着いた野良猫が、たまたまここにいるだけだと。
でも、少ししてから気づいた。
ターミナルは、来た人の名前を知っていた。
「名前を知っている?」
「はい。来た方が名乗る前に、ターミナルはその人の名前を知っているようなんです。呼ぶわけではありませんが――目の向け方が、違います。名前を知っている人に対する目の向け方をします」
「それって、どういうことですか」
「分かりません。でも、この駅に来る方のことを、ターミナルは事前に知っているのかもしれません。誰が来るか、何を抱えているか」
僕はターミナルを見た。ターミナルは夕さんの膝の上で目を閉じていた。
「それって……ターミナルは、僕のことも知ってたってことですか。来る前から」
「そうかもしれません」
来た最初の日、ターミナルは僕に冷たかった。でも徐々に距離を縮めてきた。それは気まぐれじゃなくて、何か理由があったのかもしれない。
「ターミナルは、昔の話をすることがあります」
「話す? 猫なのに?」
「言葉を使うわけではありません。でも、伝えてくる、という感じがします。夢の中で、だったり、ふとした瞬間に、だったり」
「夕さんが受け取るんですか」
「そうです。私だけかもしれません。長くいるから、分かるようになったのか――あるいは、ターミナルが私だけに伝えているのか」
夕さんはターミナルを見ながら言った。ターミナルは目を閉じたまま、でも耳だけが少し動いた。
「ターミナルが伝えてきたことを、教えてもらえますか」
夕さんはしばらく黙っていた。
「少し、長い話になります」
「聞きたいです」
夕さんが話してくれたのは、この駅の始まりの話だった。
この駅がいつできたのか、正確には誰も知らない。ただ、ある時期から、迷った人がここに辿り着くようになった。どこに行けばいいか分からなくなった人、行き先を見失った人、立ち止まってしまった人が、気づいたらここに来るようになった。
最初は人も多く、駅員も複数いた。来る人が多いから、それだけ手が必要だった。
棚に並んでいる帳面の数が、そのことを示していた。
「あの帳面、全部で何冊あるんですか」
「数えたことはありません。でも、かなりの数だと思います」
棚いっぱいに並んでいた帳面。あれが全部、ここに来た人の記録だとしたら、相当な数の人がここを通り抜けていったことになる。
「昔はにぎやかだったんですか」
「そうらしいです。ターミナルが伝えてくることの中に、人の笑い声があることがあります。たくさんの人が来て、話して、電車に乗っていく。そういう景色が、伝わってきます」
「でも今は、夕さん一人だ」
「はい。少しずつ、来る人が減っていきました。それと同時に、駅員も減っていきました。みんな、自分の行き先を見つけて、電車に乗っていきました」
「駅員も、電車に乗って行くんですか」
「そうです。ここで働く人も、最終的には自分の行き先を見つけて、出ていきます」
「夕さんも、いつかは出ていくんですか」
少し間があった。
「そういうことになると思います」
夕さんの声に複雑なものが混じっていた。
「ターミナルだけが残るんですか。みんな出ていって」
「ターミナルだけが、ずっとここにいます」
ターミナルは夕さんの膝の上で、目を閉じたままだった。
ずっとここにいる。来る人が変わっても、駅員が変わっても、自分だけがここにいる。それがどういうことか、猫には分からないのかもしれない。あるいは、全部分かっていて、それでもここにいるのかもしれない。
「ターミナルは、寂しくないんですかね」
「ターミナルに聞いたことがあります」
「なんて答えましたか」
「答えの代わりに、夕焼けを見ました。それが答えだと思いました」
「来る人が減っている、というのは、どういう意味ですか。迷う人が減っているということ?」
「一つには、そうだと思います。行き先が見つかる人が増えれば、ここに来る人は減ります。それはいいことだと思っています」
「一つには、というのは」
「もう一つの理由は、分かりません」
夕さんは少し言葉を選ぶような間があった。
「ただ――ターミナルが、駅が少しずつ消えていると伝えてくることがあります」
「消えている?」
「はい。この駅自体が、少しずつ薄くなっているような……そういう感覚が、伝わってくることがあります」
僕は駅舎を振り返った。古い木造の建物。色あせた看板。でも清潔で、大切に使われてきた駅。
「どういう意味で消えているんですか」
「分かりません。ただ、昔と今では、何かが違うとターミナルは伝えてきます。昔の方が、この駅は――濃かった、と」
「濃かった」
「来る人が多くて、声が多くて、感情が多くて。それが今は、薄くなっている。人が来ない日が増えた。駅自体が、その分、薄れていっている気がする、と」
ターミナルが目を開けた。
夕焼けを見ていた。ただまっすぐに、光の中を見ていた。
その横顔は、何かを知っている顔だった。全部を知っていて、でも全部は言えない、そういう顔だった。
「ターミナル、ここが好きですか」
僕が話しかけても、ターミナルはこちらを向かなかった。
でも、鳴いた。
さっきとは違う声だった。低くて、少し長い声。悲しいとも、穏やかとも取れる声だった。
「好き、なんですね。ここが」
僕は呟く。
ターミナルは夕焼けを見続けていた。
夕さんがターミナルの頭を、そっと撫でた。ターミナルは目を細めた。
「一つ、聞いていいですか」
「はい」
「ターミナルって、名前を覚えているって言いましたよね。来た人の名前を」
「はい」
「ここを通り過ぎた全員の名前を、覚えているんですか」
夕さんはターミナルを撫でながら、少し考えた。
「そうだと思います。全員の」
「ということは、ターミナルの中には、たくさんの人がいるんですね。ここを通っていった全員が」
夕さんは少し目を細めた。
「そういう考え方、したことなかったです。でも、そうかもしれません」
「だからここにいるのかもしれない。この駅を通っていった全員を、覚えているから。忘れないように、ここにいるのかもしれない」
夕さんはターミナルを見た。
ターミナルはそのとき、夕焼けから視線を外して、僕を見た。
金色の目が、まっすぐに僕を見た。
それが肯定なのかどうか、分からなかった。でも、否定ではない気がした。
石のベンチに座ったまま、しばらく三人で黙っていた。
風が吹いた。草が揺れた。ターミナルの耳がぴくりと動いた。
「夕さん、この駅って、なくなることがありますか」
夕さんはすぐには答えなかった。
「分かりません。でも、ターミナルが『駅が消える』と伝えてくるということは、可能性はあるのかもしれません」
「なくなったら、ここに来るはずだった人はどうなるんですか」
「どこにも来られなくて、ずっと迷い続けるのかもしれません。あるいは、別の場所が現れるのかもしれません。分からないです」
「それって、困りますよね」
「そうですね」
夕さんは短く言ったけど、声は確かだった。
「だから夕さんは、ここにいるんですか。駅がなくならないように」
夕さんはしばらく黙っていた。
「それだけではないと思います。でも、それも一つの理由かもしれません」
夕方、駅舎に戻った。
夕さんがお茶を入れてくれた。僕はベンチに座って、それを飲みながら、今日聞いた話を整理していた。
ターミナルが棚の帳面を見上げていた。
あの帳面に記録されている全員の名前を、ターミナルは覚えている。ここに来て、話して、行き先を見つけて、出ていった全員を。
それはどういうことだろう、とぼんやり考えた。
忘れられる、ということは、どういうことだろう。
ここを通った人たちは、この駅のことを覚えているだろうか。電車に乗って、新しい町に行って、新しい日々を始めて、この古い終着駅のことを、どのくらい覚えているだろうか。
でも、ターミナルは覚えている。
誰も覚えていなくても、ターミナルだけは覚えている。
それは、何かに似ている気がした。
「ねえ、夕さん」
「はい」
「ターミナルがここにいることって、この駅にとってどういう意味があるんでしょう」
「どういう意味ですか」
「ターミナルがいなくなったら、この駅はどうなりますか」
夕さんは少し考えた。
「ターミナルがいなくなることは、考えたことがありませんでした」と夕さんは言った。「ターミナルは、ずっとここにいるので」
「ずっと、ということは――この駅がある限り、いるってことですか」
「そうだと思います」
「逆に言うと、ターミナルがいる限り、この駅はある?」
夕さんはしばらく黙っていた。
「……そういうことかもしれません」
夕さんはゆっくりと言った。
「考えたことはなかったですが、ターミナルとこの駅は、切り離せないと思います」
ターミナルが棚から視線を外して、こちらを向いた。
また、あの金色の目だった。全部知っているような目。
「ターミナルが、この駅の核なんですね。建物でも、線路でも、時計でもなくて」
夕さんは何も言わなかった。
でも、その沈黙は肯定だった気がした。
夕食のとき、夕さんがいつもより少し多めにご飯を作った。
「今日は話をたくさんしましたね」
「はい。ターミナルのこと、駅のこと。いろいろ教えてもらえてよかったです」
「渚さんが聞いてくれたから、私も整理できたことがあります」
「整理?」
「普段、一人でいると、考えていても言葉にならないことがあります。聞いてもらうと、言葉になります」
それはさっきまで話していたことに繋がる気がした。人の話を聞くことが、その人の言葉を引き出す。聞く側が黙って聞くことで、話す側の言葉が出てくる。
「夕さんって、すごく上手に聞きますよね。来た人たちの話を。急かさないし、否定しないし、でもちゃんと引き出す」
「そうでしょうか」
夕さんは特に照れる様子もなく、本当に分かっていないような言い方だった。
「そうです。僕、人の相談に乗るのが得意だって思ってたけど、夕さんと比べたらまだまだだなって思います」
「得意なんですか、渚さんも」
「友達にはよく言われます。でも、ただ聞いてるだけで、何もできてないって思ってました。夕さんみたいに、切符を渡せるわけじゃないし」
「切符は手段です。大切なのは、話を聞いて、一緒に考えることだと思います。それは、渚さんにもできると思います」
「できる、じゃなくて……やってみたいのかもしれません」
ターミナルが夕食後、珍しくテーブルに前足をかけてきた。夕さんに「降りなさい」と言われて、ゆっくり降りた。
「ターミナル、今日はよくしゃべりましたね」
僕はしゃべったわけではないけれど、なんとなくそう感じた。
「そうかもしれません」
夕さんはそう言って微笑む。
「ターミナルにとっても、誰かに話を聞いてもらえるのは、嬉しいのかもしれない」
「どうでしょう。ターミナルに聞いてみますか」
「ターミナル、今日、話せてよかったですか?」
僕が話しかけると、ターミナルは僕を見た。
それからゆっくり目を細めた。
目を細めたのは、眩しいからじゃなかった。そういう表情だった。
「よかったみたいですね」
「はい」
その夜、眠る前に、ターミナルが隣に来た。腹の上ではなく、横に。
並んで横になっている感じで、ターミナルの体が温かかった。
「ターミナル、みんなを覚えてるんですね、ずっと。ここに来た全員のことを」
ターミナルは何も言わなかった。
「忘れないでいてくれる人がいるって、来た人にとっては、大事なことな気がします。たとえ来た本人が忘れても、ここで何かが変わったことを、誰かが覚えていてくれる」
ターミナルがごろごろと鳴き始めた。
「それって、この駅の大切な役割だと思います。行き先を見つけることだけじゃなくて、ここで何かがあったことを、誰かが覚えていること」
ごろごろという音が続いた。
僕はそれを聞きながら、目を閉じた。
もやの中の輪郭が、また少しだけ濃くなった気がした。
人の話を聞くこと。覚えていること。忘れないでいること。
それが何かと繋がりかけていた。でも、もう少しだった。夕焼けは今夜もずっと続いていて、時計は17時47分のままで、ターミナルのごろごろという音だけが部屋に満ちていた。




