表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17時47分の終着駅―駅員の少女と、行き先のない僕―  作者: 明石竜


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/8

第七章 駅ネコの話

 五日目の朝だった。

 目が覚めたとき、また腹の上にターミナルがいた。今日は顔の上に前足を伸ばして、完全に僕をベッド代わりにしていた。

「重い」と言ったら、ターミナルは片目だけ開けて、それから閉じた。どく気はないらしかった。

 しばらくそのままにしていた。

 天井の木目を見ながら、考えていた。昨夜から続いている、もやの中の輪郭のことを。人の話を聞くことが、何かに繋がるかもしれないという感触のことを。

 まだ掴めていない。でも昨日よりは近い気がした。

 ターミナルが伸びをした。前足が僕の顎に当たった。

「痛い」

 ターミナルは気にしなかった。


 朝食のとき、夕さんに尋ねた。

「今日は誰か来ますか」

「分かりません。来ない日もあります」

「来ない日は、何をしてるんですか、夕さんは」

「駅の手入れをしたり、記録を書いたり。あとは、ここにいます」

「ただいるだけ?」

「ただいるだけです」

夕さんはそれを不思議なことだとは思っていない声だった。

「来る人がいつ来ても、迎えられるように」

 ただいるだけ、でも、それは待っているということだ。誰かのために、ここで待っている。

「それって、寂しくないですか?」

僕は昨日より少し踏み込んだ質問をした。

 夕さんは少し間を置いた。

「寂しいと感じる余裕がないのかもしれません。来てくださる方のことを考えていると、時間が経ちます」

「余裕がない、というのは」

「寂しいと感じ始めたら、きりがないので」

 それは答えのようで、少し違う気もした。でも夕さんはそれ以上言わなかったので、僕もそれ以上聞かなかった。


 午前中、誰も来なかった。

 夕さんは棚の帳面を一冊取り出して、何かを書いていた。記録だろうと思った。昨日来た橘さんのことか、それとも別の何かか。

 僕はホームに出て、線路の近くに座っていた。

 ターミナルが隣に来た。今日はやけに近い。昨日から、距離が縮まった気がする。

「ターミナル、ここに来てから何日も経つのに、あんまり話せてないよね、君と」

 ターミナルは線路の方を向いたまま、答えなかった。

「夕さんが言ってた。昔からここにいるって。ここがいつできたか、知ってる?」

 ターミナルはしばらく黙っていた。

 それから、ゆっくりとこちらを向いた。

 金色の目が、まっすぐ僕を見た。

 その目の中に、何か深いものがある気がした。年を重ねたものだけが持つ、静かな重さ。

 ニャア、と一声鳴いた。

「……教えてくれる感じ、しないよね」

 ターミナルは視線を外して、また線路の方を見た。


 昼になっても、誰も来なかった。

 夕さんが「今日は少し、散歩でもしてみますか」と誘った。

「駅の外に出られるんですか」

「外というか……駅の周りを少し歩けます。あまり遠くには行けませんが」

 夕さんとターミナルと三人で、駅の周りを歩いた。

 駅舎の裏側に出ると、小さな野原のようなものがあった。草が生えていて、遠くに木が何本か見えた。夕焼けの光の中で、その景色は絵の中みたいだった。

「きれいですね」

「はい。私の好きな景色です」

 ターミナルが草の中を歩いていった。低い草をかき分けながら、何かを探すように進んでいく。

「ターミナルって、毎日これをやってるんですか」

「時々です。気が向いたとき」

 しばらく並んで歩いた。風が吹いていた。夕焼けの匂いがした。夕焼けに匂いがあるかどうか分からないけれど、この場所の空気はいつも少し甘い気がした。

「ねえ、ターミナルって、本当に昔からここにいるんですか?」

「はい」

「どのくらい昔ですか」

 夕さんは少しの間、歩きながら考えた。

「この駅ができたころから、だと思います」

「この駅って、いつできたんですか」

「私が来たときには、もうあったので、正確には分かりません」

 夕さんが来たとき。それはいつのことだろう。でも今は聞かなかった。

「ターミナルの年齢って、猫の年齢じゃないのかもしれないですね」

「そうかもしれません」

夕さんはまるで当然のことのように言った。


 野原の端に古い石のベンチがあった。夕さんと並んで座った。ターミナルが草の中から戻ってきて、夕さんの膝に乗った。

「夕さん、ターミナルのことを、もう少し教えてもらえますか」

 夕さんは少し考えてから、うなずいた。

「私が知っていることだけですが」と前置きして、話し始めた。


 夕さんがこの駅に来たのは、かなり前のことだった。

 そのときすでに、ターミナルはいた。今と変わらない姿で、今と変わらない場所に、いた。

 最初、夕さんはターミナルのことを普通の猫だと思っていた。駅に住み着いた野良猫が、たまたまここにいるだけだと。

 でも、少ししてから気づいた。

 ターミナルは、来た人の名前を知っていた。

「名前を知っている?」

「はい。来た方が名乗る前に、ターミナルはその人の名前を知っているようなんです。呼ぶわけではありませんが――目の向け方が、違います。名前を知っている人に対する目の向け方をします」

「それって、どういうことですか」

「分かりません。でも、この駅に来る方のことを、ターミナルは事前に知っているのかもしれません。誰が来るか、何を抱えているか」

 僕はターミナルを見た。ターミナルは夕さんの膝の上で目を閉じていた。

「それって……ターミナルは、僕のことも知ってたってことですか。来る前から」

「そうかもしれません」

 来た最初の日、ターミナルは僕に冷たかった。でも徐々に距離を縮めてきた。それは気まぐれじゃなくて、何か理由があったのかもしれない。


「ターミナルは、昔の話をすることがあります」

「話す? 猫なのに?」

「言葉を使うわけではありません。でも、伝えてくる、という感じがします。夢の中で、だったり、ふとした瞬間に、だったり」

「夕さんが受け取るんですか」

「そうです。私だけかもしれません。長くいるから、分かるようになったのか――あるいは、ターミナルが私だけに伝えているのか」

 夕さんはターミナルを見ながら言った。ターミナルは目を閉じたまま、でも耳だけが少し動いた。

「ターミナルが伝えてきたことを、教えてもらえますか」

 夕さんはしばらく黙っていた。

「少し、長い話になります」

「聞きたいです」


 夕さんが話してくれたのは、この駅の始まりの話だった。

 この駅がいつできたのか、正確には誰も知らない。ただ、ある時期から、迷った人がここに辿り着くようになった。どこに行けばいいか分からなくなった人、行き先を見失った人、立ち止まってしまった人が、気づいたらここに来るようになった。

 最初は人も多く、駅員も複数いた。来る人が多いから、それだけ手が必要だった。

 棚に並んでいる帳面の数が、そのことを示していた。

「あの帳面、全部で何冊あるんですか」

「数えたことはありません。でも、かなりの数だと思います」

 棚いっぱいに並んでいた帳面。あれが全部、ここに来た人の記録だとしたら、相当な数の人がここを通り抜けていったことになる。

「昔はにぎやかだったんですか」

「そうらしいです。ターミナルが伝えてくることの中に、人の笑い声があることがあります。たくさんの人が来て、話して、電車に乗っていく。そういう景色が、伝わってきます」

「でも今は、夕さん一人だ」

「はい。少しずつ、来る人が減っていきました。それと同時に、駅員も減っていきました。みんな、自分の行き先を見つけて、電車に乗っていきました」

「駅員も、電車に乗って行くんですか」

「そうです。ここで働く人も、最終的には自分の行き先を見つけて、出ていきます」

「夕さんも、いつかは出ていくんですか」

 少し間があった。

「そういうことになると思います」

夕さんの声に複雑なものが混じっていた。

「ターミナルだけが残るんですか。みんな出ていって」

「ターミナルだけが、ずっとここにいます」

 ターミナルは夕さんの膝の上で、目を閉じたままだった。

 ずっとここにいる。来る人が変わっても、駅員が変わっても、自分だけがここにいる。それがどういうことか、猫には分からないのかもしれない。あるいは、全部分かっていて、それでもここにいるのかもしれない。

「ターミナルは、寂しくないんですかね」

「ターミナルに聞いたことがあります」

「なんて答えましたか」

「答えの代わりに、夕焼けを見ました。それが答えだと思いました」


「来る人が減っている、というのは、どういう意味ですか。迷う人が減っているということ?」

「一つには、そうだと思います。行き先が見つかる人が増えれば、ここに来る人は減ります。それはいいことだと思っています」

「一つには、というのは」

「もう一つの理由は、分かりません」

夕さんは少し言葉を選ぶような間があった。

「ただ――ターミナルが、駅が少しずつ消えていると伝えてくることがあります」

「消えている?」

「はい。この駅自体が、少しずつ薄くなっているような……そういう感覚が、伝わってくることがあります」

 僕は駅舎を振り返った。古い木造の建物。色あせた看板。でも清潔で、大切に使われてきた駅。

「どういう意味で消えているんですか」

「分かりません。ただ、昔と今では、何かが違うとターミナルは伝えてきます。昔の方が、この駅は――濃かった、と」

「濃かった」

「来る人が多くて、声が多くて、感情が多くて。それが今は、薄くなっている。人が来ない日が増えた。駅自体が、その分、薄れていっている気がする、と」


 ターミナルが目を開けた。

 夕焼けを見ていた。ただまっすぐに、光の中を見ていた。

 その横顔は、何かを知っている顔だった。全部を知っていて、でも全部は言えない、そういう顔だった。

「ターミナル、ここが好きですか」

 僕が話しかけても、ターミナルはこちらを向かなかった。

 でも、鳴いた。

 さっきとは違う声だった。低くて、少し長い声。悲しいとも、穏やかとも取れる声だった。

「好き、なんですね。ここが」

 僕は呟く。

 ターミナルは夕焼けを見続けていた。

 夕さんがターミナルの頭を、そっと撫でた。ターミナルは目を細めた。


「一つ、聞いていいですか」

「はい」

「ターミナルって、名前を覚えているって言いましたよね。来た人の名前を」

「はい」

「ここを通り過ぎた全員の名前を、覚えているんですか」

 夕さんはターミナルを撫でながら、少し考えた。

「そうだと思います。全員の」

「ということは、ターミナルの中には、たくさんの人がいるんですね。ここを通っていった全員が」

 夕さんは少し目を細めた。

「そういう考え方、したことなかったです。でも、そうかもしれません」

「だからここにいるのかもしれない。この駅を通っていった全員を、覚えているから。忘れないように、ここにいるのかもしれない」

 夕さんはターミナルを見た。

 ターミナルはそのとき、夕焼けから視線を外して、僕を見た。

 金色の目が、まっすぐに僕を見た。

 それが肯定なのかどうか、分からなかった。でも、否定ではない気がした。


 石のベンチに座ったまま、しばらく三人で黙っていた。

 風が吹いた。草が揺れた。ターミナルの耳がぴくりと動いた。

「夕さん、この駅って、なくなることがありますか」

 夕さんはすぐには答えなかった。

「分かりません。でも、ターミナルが『駅が消える』と伝えてくるということは、可能性はあるのかもしれません」

「なくなったら、ここに来るはずだった人はどうなるんですか」

「どこにも来られなくて、ずっと迷い続けるのかもしれません。あるいは、別の場所が現れるのかもしれません。分からないです」

「それって、困りますよね」

「そうですね」

夕さんは短く言ったけど、声は確かだった。

「だから夕さんは、ここにいるんですか。駅がなくならないように」

 夕さんはしばらく黙っていた。

「それだけではないと思います。でも、それも一つの理由かもしれません」


 夕方、駅舎に戻った。

 夕さんがお茶を入れてくれた。僕はベンチに座って、それを飲みながら、今日聞いた話を整理していた。

 ターミナルが棚の帳面を見上げていた。

 あの帳面に記録されている全員の名前を、ターミナルは覚えている。ここに来て、話して、行き先を見つけて、出ていった全員を。

 それはどういうことだろう、とぼんやり考えた。

 忘れられる、ということは、どういうことだろう。

 ここを通った人たちは、この駅のことを覚えているだろうか。電車に乗って、新しい町に行って、新しい日々を始めて、この古い終着駅のことを、どのくらい覚えているだろうか。

 でも、ターミナルは覚えている。

 誰も覚えていなくても、ターミナルだけは覚えている。

 それは、何かに似ている気がした。


「ねえ、夕さん」

「はい」

「ターミナルがここにいることって、この駅にとってどういう意味があるんでしょう」

「どういう意味ですか」

「ターミナルがいなくなったら、この駅はどうなりますか」

 夕さんは少し考えた。

「ターミナルがいなくなることは、考えたことがありませんでした」と夕さんは言った。「ターミナルは、ずっとここにいるので」

「ずっと、ということは――この駅がある限り、いるってことですか」

「そうだと思います」

「逆に言うと、ターミナルがいる限り、この駅はある?」

 夕さんはしばらく黙っていた。

「……そういうことかもしれません」

夕さんはゆっくりと言った。

「考えたことはなかったですが、ターミナルとこの駅は、切り離せないと思います」

 ターミナルが棚から視線を外して、こちらを向いた。

 また、あの金色の目だった。全部知っているような目。

「ターミナルが、この駅の核なんですね。建物でも、線路でも、時計でもなくて」

 夕さんは何も言わなかった。

 でも、その沈黙は肯定だった気がした。


 夕食のとき、夕さんがいつもより少し多めにご飯を作った。

「今日は話をたくさんしましたね」

「はい。ターミナルのこと、駅のこと。いろいろ教えてもらえてよかったです」

「渚さんが聞いてくれたから、私も整理できたことがあります」

「整理?」

「普段、一人でいると、考えていても言葉にならないことがあります。聞いてもらうと、言葉になります」

 それはさっきまで話していたことに繋がる気がした。人の話を聞くことが、その人の言葉を引き出す。聞く側が黙って聞くことで、話す側の言葉が出てくる。

「夕さんって、すごく上手に聞きますよね。来た人たちの話を。急かさないし、否定しないし、でもちゃんと引き出す」

「そうでしょうか」

夕さんは特に照れる様子もなく、本当に分かっていないような言い方だった。

「そうです。僕、人の相談に乗るのが得意だって思ってたけど、夕さんと比べたらまだまだだなって思います」

「得意なんですか、渚さんも」

「友達にはよく言われます。でも、ただ聞いてるだけで、何もできてないって思ってました。夕さんみたいに、切符を渡せるわけじゃないし」

「切符は手段です。大切なのは、話を聞いて、一緒に考えることだと思います。それは、渚さんにもできると思います」

「できる、じゃなくて……やってみたいのかもしれません」


 ターミナルが夕食後、珍しくテーブルに前足をかけてきた。夕さんに「降りなさい」と言われて、ゆっくり降りた。

「ターミナル、今日はよくしゃべりましたね」

僕はしゃべったわけではないけれど、なんとなくそう感じた。

「そうかもしれません」

夕さんはそう言って微笑む。

「ターミナルにとっても、誰かに話を聞いてもらえるのは、嬉しいのかもしれない」

「どうでしょう。ターミナルに聞いてみますか」

「ターミナル、今日、話せてよかったですか?」

 僕が話しかけると、ターミナルは僕を見た。

 それからゆっくり目を細めた。

目を細めたのは、眩しいからじゃなかった。そういう表情だった。

「よかったみたいですね」

「はい」


 その夜、眠る前に、ターミナルが隣に来た。腹の上ではなく、横に。

 並んで横になっている感じで、ターミナルの体が温かかった。

「ターミナル、みんなを覚えてるんですね、ずっと。ここに来た全員のことを」

 ターミナルは何も言わなかった。

「忘れないでいてくれる人がいるって、来た人にとっては、大事なことな気がします。たとえ来た本人が忘れても、ここで何かが変わったことを、誰かが覚えていてくれる」

 ターミナルがごろごろと鳴き始めた。

「それって、この駅の大切な役割だと思います。行き先を見つけることだけじゃなくて、ここで何かがあったことを、誰かが覚えていること」

 ごろごろという音が続いた。

 僕はそれを聞きながら、目を閉じた。

 もやの中の輪郭が、また少しだけ濃くなった気がした。

 人の話を聞くこと。覚えていること。忘れないでいること。

 それが何かと繋がりかけていた。でも、もう少しだった。夕焼けは今夜もずっと続いていて、時計は17時47分のままで、ターミナルのごろごろという音だけが部屋に満ちていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ