第六章 夢が叶った人
四日目の朝だった。
目が覚めたとき、珍しくターミナルが長椅子の足元ではなく、僕の腹の上にいた。丸くなって、ごろごろと鳴っていた。
重かった。でも、温かかった。
「おはよう」と言ったら、ターミナルは目を開けて僕を見た。それから目を閉じた。どこにも行かなかった。
初めて来た日、僕には近づこうともしなかった猫だ。それが今は腹の上にいる。何かが変わったのか、それともターミナルの気まぐれなのか、分からなかった。でも悪くなかった。
しばらくそのままにしていた。
朝食のとき、夕さんは昨夜より少し表情が戻っていた。
昨日の夕食のときの静けさは、今朝はなかった。いつもの夕さんだった。でも、昨夜僕が言ったことを、夕さんがどこかで考え続けているのは分かった。表情には出ていないけれど、懐中時計を触る回数が、心なしか増えていた気がした。
「よく眠れましたか」と夕さんが聞いた。
「ターミナルが腹の上にいて、最初は眠れなかったんですが、途中からすごく眠れました」
夕さんは少し目を細めた。
「ターミナルが気に入ったようですね、渚さんのことを」
「最初はすごく冷たかったのに」
「ターミナルは、人を見てから決めるんです。時間がかかるだけで」
「夕さんにはすぐ懐いていましたよね」
「私には最初からいてくれました」
夕さんはそれから少しだけ遠くを見て、
「ターミナルがいなかったら、かなり寂しかったと思います」と言った。
それは独り言に近い声だった。僕に言ったのか、自分に言ったのか、分からなかった。
午前中、僕はホームのベンチに座って、線路を眺めていた。
四日間、ここにいる。その間に、三人の乗客が来て、三人とも電車に乗って行った。夢を諦めかけていた大学生と、家に帰れなかった中学生と、会社を辞めたサラリーマン。みんな、ここに来たときより少し軽くなって出ていった気がした。
僕は、まだここにいる。
行き先が決まっていないから。
でも、焦ってはいなかった。来た最初の日より、確かに何かが変わっている気はした。何かが変わっているのに、それが何かはまだ掴めていない。もやの中に手を入れているような感覚が続いていた。
ターミナルがホームに出てきて、僕の隣に座った。
「ねえ、ターミナル。僕の行き先、分かる?」
ターミナルは線路の方を見たまま、何も言わなかった。
「まあ、分かっても教えてくれないか」
ニャア、と一声鳴いた。
「そうだよね」
その人が来たのは、午後だった。
ホームに現れたとき、他の人たちとは少し雰囲気が違った。
三十代前半くらいの女性で、服装は落ち着いていて、バッグは大きめだった。見た目は整っていて、疲れているわけでも、取り乱しているわけでもなかった。どこかに行く途中で迷い込んだ、という感じの人だった。
でも目が、どこか空虚だった。
満たされていない目、というより、何を求めていいか分からない目だった。
夕さんが近づいていくと、女性は少し考えてから言った。
「ここが、終着駅ですか」
「はい」と夕さんが言った。「ようこそ」
女性は「ようこそ、か」と小さく呟いた。それから苦笑いするような顔をした。「こんにちは、でいいのに」
名前は、橘奈緒と言った。三十一歳。
駅舎に入って、ベンチに座るとバッグを足元に置いて、少し辺りを見回した。古い写真や、棚の帳面や、ターミナルを順番に見て、それから夕さんを見た。
「ここ、変なところですね」
橘さんは批判ではなく、ただの感想として言ったみたいだった。
「そうかもしれません」
夕さんは答えた。
「でも、なんか落ち着く。不思議」
「来てくださる方は、そう言ってくれることが多いです」
橘さんはしばらくベンチに座って、足元のターミナルを見ていた。ターミナルは橘さんを見ていた。
「猫、いるんですね」
「ターミナルといいます」
「ターミナル……終着点」
「はい」
「なんか、今の私みたい」
橘さんの声に自嘲があった。
「今の橘さんが、終着点のようだと感じているんですか」
夕さんが尋ねた。
「そうかもしれない。よく分からないんですが。ここに来た理由も、正直よく分からなくて。気づいたら来ていたんです」
「それでいいと思います。気づいたら来ていた方が、多いので」
橘さんはバッグのファスナーを少し触って、また止めた。
「何か話せることがあれば、聞きます」
夕さんは急かさない言い方だった。
橘さんはしばらく黙っていた。どこから話せばいいか探しているような間だった。
「小説家なんです、私」
「そうですか」
「デビューして、三年になります」
「どんな小説を書いていますか?」
夕さんが尋ねた。
「青春小説です。高校生とか、大学生とか、そういう年代の話」
僕は少し耳がダブついた。青春小説。今の僕には少し近い話かもしれない、と思った。
「デビューしたとき、どんな気持ちでしたか」
夕さんが尋ねると、橘さんは少し間を置いた。
「嬉しかったです。すごく。ずっと書いてきて、ずっと落選して、それで初めて認めてもらえた気がして。泣きました」
「ずっと書いてきたんですね」
「中学生のときから。投稿し始めたのが高校生で、最初に賞をもらったのが二十七歳でした。十年以上かかりました」
「十年以上」と夕さんは繰り返した。
「長いですよね。でも、やめられなかったんです。書くことが好きだったから。書かずにいられなかったから」
「デビューしてから三年、書き続けていますか」と夕さんが聞いた。
「書いています。二冊出して、三冊目が来年出る予定です」
「順調ですね」
「そうなんです。傍から見れば、すごく順調です。でも――」
橘さんは言葉を止めた。
「でも、幸せじゃないんです」
その言葉は、穏やかに出てきた。でも、ずっと溜め込んでいたものが、やっと出てきたような重さがあった。
「夢が叶ったのに、幸せじゃない。これって、変ですよね」
「変ではないと思います」
夕さんは言った。
「でも、おかしいじゃないですか。ずっと目指していたものを手に入れたのに、どうして幸せじゃないのか、自分でも分からなくて。それが分からないことが、また辛くて」
「幸せじゃない、というのは、どういう感覚ですか」
橘さんは少し考えた。
「空っぽな感じ、というか。書いていて、何のために書いているか分からなくなってきていて。デビューしたときはあんなに嬉しかったのに、今は書いても書いても、何かが足りない気がして。読者さんからは嬉しい感想をもらうんです。でも、読むたびに苦しくなる」
「嬉しい感想が、苦しい?」
「なんでだろうって、ずっと考えていました。嬉しいはずなのに、苦しい。この矛盾が、どこから来るのか、分からなくて」
「一つ、聞いていいですか」と夕さんが言った。
「はい」
「デビューする前と後で、書くときの気持ちは変わりましたか」
橘さんはすぐには答えなかった。
「……変わりました」とやがて言った。「変わったと思います」
「どう変わりましたか」
「デビュー前は、読んでほしい人がいたんです。特定の誰か、というわけじゃなくて、どこかにいる誰かに届けたくて書いていました。でも今は——誰に届けたいのか、分からなくなっています」
「なぜ分からなくなったと思いますか」
「読者が見えるようになったからかもしれません。感想が来て、売上が数字になって、書評が出て。書いている間も、その人たちのことを考えてしまうようになって。この展開は受け入れられるかな、とか、この表現は分かりやすいかな、とか。気づいたら、誰かの期待に応えるために書くようになっていた気がします」
「それは、楽しいですか?」
「楽しくないです」
夕さんの質問に、橘さんは即答だった。言ってから、少し驚いたように自分の口元を見た。
「楽しくない、って思っているのは分かっていましたが、こんなにはっきり言えるとは思わなかった」
「橘さん、最後に、ただ書きたいから書いた、と思えたのはいつですか?」
夕さんの質問を、橘さんはかなり時間をかけて、考えた。
「……二冊目の途中まで、かな。二冊目の最初の方は、まだ楽しく書けていた気がします。でも途中から、担当編集さんの顔が浮かぶようになって。この人はこの展開を好きかな、とか。それから楽しくなくなってきた気がします」
「編集さんのことは、大切に思っていますか」
「はい。いい人ですし、作品のことを真剣に考えてくれています。その人の期待に応えたいと思うのは、当然じゃないですか」
「当然だと思います。でも、期待に応えることと、書きたいものを書くことは、同じですか」
橘さんは答えなかった。
「期待に応えるために書いたものが、橘さんの一番書きたいものと一致しているなら、問題ありません。でも、ずれているとしたら」
「ずれていたら、どうすればいいんですか」
橘さんは少し追い詰められたような声だった。
「仕事で書いているんです。好きなものだけ書いていられない。売れないといけないし、期待に応えないといけないし」
「それはそうです。全部好きなものだけ書けとは言えません。でも、書きたいものをどこかに置いておくことはできると思います」
「置いておく?」
「仕事で書くものと、別に。誰にも見せなくていい。売れなくていい。ただ書きたいから書くものを、どこかに持っておくことはできますか」
橘さんはしばらく黙っていた。
ターミナルが橘さんの方に歩いていって、足元に座った。橘さんはターミナルを見て、手を伸ばして撫でた。
「書いていないです、最近。仕事以外では。書く体力が、仕事で全部なくなってしまって」
「それは、書くことが嫌いになったからですか」
「……嫌いになっていないと思います。でも、書くことが怖くなってきています」
「怖い?」
「書いても、面白くなかったらどうしようと思うようになって。デビュー前は、面白くなかったとしても、また書けばいいと思っていました。でも今は、面白くないものを書いてしまったら、自分がただの凡人だと証明されてしまう気がして」
「デビュー前と、何が変わったんですか」
「肩書きができた。小説家、という」
「その肩書きが、怖いんですか」
「怖いです。小説家なのに、面白いものが書けなかったら、と思うと。デビュー前は、まだ何者でもなかったから、失敗しても失うものがなかった。でも今は、失うものがある気がして」
「橘さん、小説を書き始めた理由を覚えていますか?」
「覚えています。中学のとき、すごく好きな小説に出会って。その本を読んで、初めて、誰かの書いた言葉でこんなに救われることがあるんだと思って。それで、自分も誰かをそんなふうに救える言葉を書いてみたいと思って、書き始めました」
「誰かを救える言葉」
夕さんは繰り返した。
「はい。そのために書き始めました」
「今も、その気持ちはありますか?」
橘さんは少し考えた。
「あります。消えていない。でも、どこかに埋まってしまっていて、見えにくくなっています」
「読者さんの感想が、嬉しいのに苦しい理由は、それかもしれません。届いているのは分かる。でも、届けたかった言葉と、届いた言葉がずれている気がして、苦しい。そういうことではないですか」
橘さんはしばらく動かなかった。
「……そうかもしれない。そうだと思います。なんか、求められているものを書いて、それが届いていても、自分が書きたかったものじゃないから、空っぽな気がして」
「書きたかったものって、何ですか?」
「自分が救われたときのような言葉。誰かに、あ、これだ、と思ってもらえるような。でも今は、そういうものが書けている気がしなくて」
「書けなくなったんですか」
「書けなくなったのか、書かなくなったのか、分からないです」
「もう一つ、聞いていいですか?」
「はい」
「橘さんが救われた小説って、どんな本でしたか?」
橘さんは少し驚いたような顔をした。そういう質問をされると思っていなかったのかもしれない。
「普通の中学生の話です。特別なことは何も起きなくて、ただ毎日がちょっとずつ変わっていくような話。でも、読んでいて、ああ、こういう気持ちって言葉にできるんだと思って。自分だけじゃないんだと思えて」
「それは、売れた本でしたか?」
「……あまり売れていない本です。図書館で偶然見つけた本で、知っている人が少ない本でした」
「売れなかったけど、橘さんを救った」
「はい」
「だとしたら、橘さんが今、求められているものを書いても、届かない人がいます。でも、橘さんが本当に書きたいものを書いたとき、それがどこかの一人に届く可能性があります」
橘さんは黙っていた。
「売れることと、届くことは、似ていますが、少し違います。橘さんが書き始めた理由は、売れるためでしたか?」
「違います。届けたかったから、書き始めました」
「今も、届けたいですか」
「届けたいです。でも、何を届ければいいか、分からなくなっています」
「分からなくなっているのは、届けたいものがなくなったからですか? それとも、届けたいものが何かは知っているけど、書くことが怖くなっているからですか?」
橘さんは長い間、黙っていた。
「……後者だと思います。書きたいものは、あります。でも書くのが怖い。上手く書けなかったとき、自分が小説家として終わりになる気がして」
「それは、書くことを諦める理由になりますか?」
「なっていました。でも――」
橘さんは言いかけて止まった。
「でも、なんですか?」
夕さんが続きを促した。
「でも、書かなかったら、どこかの誰かに届かないままになる。私が救われたみたいに、私の書いたものに救われる人が、もしかしたらどこかにいるかもしれない。それは……それを考えると、怖いとか上手く書けないとか、言っていられない気もして」
「そうですね」
夕さんの声はいつもと同じ静かさだったけど、少し温かかった気がした。
「書いてみようと思います。仕事とは別に。誰にも見せなくていいから。ただ、書きたいから書く、ということを、もう一度やってみようと思います」
「それが、次の行き先になると思います」
「でも、夢って、叶ったらそれで終わりじゃないんですね」
「そうだと思います」
「叶ったら、次の夢が必要になる。叶う前は、叶えることが目標だったけど、叶えた後は、また別の目標を見つけなきゃいけない。それが、こんなに難しいとは思わなかった」
「夢の後の方が、むずかしいことがあります。夢を持っているときは、向かう方向が決まっています。でも叶えた後は、また方向を決めなければならない。その難しさを、叶える前には分からないことが多いです」
「じゃあ、夢を叶えない方がよかったんですか」
橘さんは笑いながら言った。
冗談めかした言い方だったけど、少し本気も混じっていた。
「そうは思いません。夢を叶えたことで、次の夢を見つけられる場所に立てた。夢の後に立てるのは、夢を叶えた人だけです」
橘さんはその言葉をしばらく聞いていた。
「なんか、そう言われると、ちゃんと前に進んでいる気がしますね。終着点じゃなくて」
「終着点じゃないと思います。ここは、次に行く場所を決める駅ですから」
夕さんが懐中時計を取り出した。
蓋を開いて、しばらく見てから、切符を作った。
橘さんに手渡されたそれを、橘さんは受け取って見た。
「新しい町、ですか?」
「はい。今住んでいる場所から、少し離れた町です。知らない町を歩いてみることが、橘さんには必要な気がしました」
「なぜですか?」
「書くことと、見ることは繋がっています。知らない景色が、書きたいものを引き出すことがあります。あと――少し、今いる場所から離れることが、橘さんには必要な気がします」
「今いる場所から離れる」
「仕事のこと、編集さんのこと、読者さんのこと。それを全部一度置いて、ただ知らない町を歩いてみる。そうしたら、書きたいものが戻ってくるかもしれません」
橘さんは切符を見て、小さく笑った。
「行ってみます。知らない町」
電車が来た。
橘さんは立ち上がって、バッグを持ってホームに出た。扉が開く前に、振り返った。
夕さんを見て、それから僕を見た。
「あなたは、何を迷っているんですか?」
橘さんは直接的な聞き方だったけど、嫌な感じはしなかった。
「行き先が分からないんです。どこに行きたいか」
「どこに行きたいか」
橘さんは繰り返した。
「私は行きたい場所があるのに進めなくなっていたけど、行き先自体が分からないのは、また別の難しさがありますね」
「そうなんです」
「でも、こうして、いろんな人の話を聞いていたら、何かヒントになることがあるんじゃないかな」
「そうかもしれません」
「私の話も、役に立てば」
橘さんはそれから夕さんに向かって「ありがとうございました」と頭を下げた。
「なんか、久しぶりに、書いてみようかなという気持ちになっています」
「それが、一番大切なことだと思います」
夕さんは笑顔で伝える。
橘さんは電車に乗った。扉が閉まった。電車がゆっくり動き出して、夕焼けの中に消えた。
ホームに静けさが戻った。
僕はしばらく、電車の消えた方向を見ていた。
橘さんの話が、頭の中でゆっくりと動いていた。
届けたかったものと、届いたものがずれている。
書きたいものがあるのに、怖くて書けない。
夢が叶ったのに、空っぽな感じがする。
それは全部、橘さんの話だった。でも、どこかに自分と重なるものがあった気がした。
何かを届けたいという気持ち。誰かのために何かをしたいという気持ち。
僕にもそういう気持ちが、あるんだろうか。
ぼんやりとした輪郭が、もやの中に浮かんでいる気がした。まだ掴めない。でも確かに、そこにある。
「夕さん」
「はい」
「橘さん、小説を書き始めたのって、誰かに届けたかったからだって言ってましたよね」
「はい」
「僕って、誰かのために何かをしたいという気持ちが、あるんだろうかって思って」
「どうですか」
「……あると思います。人の相談に乗るのが得意だって、ずっと言われてきて。でも、それを活かして何かをしようと思ったことが、なかった。ただ聞いてきただけで」
「ただ聞くことと、何かをすることは、違いますか?」
僕は少し考えた。
「違うかもしれないし、同じかもしれない。人の話を聞くことが、何かをすることに繋がる場合が、あるのかもしれない」
夕さんは何も言わなかった。でも、聞いていた。ちゃんと聞いていた。
その夜、僕はなかなか眠れなかった。
ターミナルがまた腹の上に来て、丸くなった。重かったけど、今夜はその重さが考えるための錨になる気がした。
人の話を聞くことが、何かに繋がる。
夕さんはここで毎日、来た人の話を聞いている。聞いて、一緒に考えて、行き先を見つける。それは確かに、何かをしているということだ。人の役に立っているということだ。
僕は今まで、人の相談に乗っても、それが「仕事」になるとは思っていなかった。ただの「性格」だと思っていた。周りに合わせて生きてきた延長で、人の話を聞くのが得意なだけだと思っていた。
でも、もしかしたら。
もやの中の輪郭が、少しだけ濃くなった気がした。
掴めない。でも、見えてきた気がする。
ターミナルがごろごろと鳴いた。
「うん」
僕は何に「うん」と言ったのか分からなかったけど、言いたかった。
夕焼けは続いていた。時計は17時47分のままだった。
でも今夜は、その夕焼けが、少しだけ違う色に見えた気がした。




