第五章 会社を辞めた人
三日目の朝だった。
この駅に来てから三日が経つ。外の世界では時間が止まっているのかもしれないと思っていたけど、確かめる方法はなかった。スマホはまだ電波が入らないし、バッテリーも変わらず減っていない。
ただ、朝になると目が覚めて、夕さんが食事を作っていて、ターミナルがどこかにいる。それが繰り返されているということは、ここには確かに時間の流れがある。外とは違う時間かもしれないけれど、時間はある。
朝食を食べながら、夕さんに聞いた。
「外の時間って、止まってるんですか。僕がここにいる間」
夕さんは少し考えてから答えた。
「止まってはいません。でも、ここにいる間は、外からは見えにくくなっています」
「見えにくく」
「渚さんが急にいなくなって、心配している人がいるとしたら、その人には少しだけ——見えているはずです。ただ、どこにいるかは分からない」
少し、心配になった。
「母が心配してるかもしれない」
「そうかもしれません。ただ、行き先が決まれば帰れます。それまでは、ここにいることが必要だと思います」
行き先が決まれば帰れる。
それを急かすような言い方ではなかった。ただ、事実として言った。
僕は残りの卵焼きを食べながら、もう少しここにいてもいいんだと思った。
午前中、夕さんが駅舎の奥の棚を整理していた。
古い帳面のようなものが何冊もあって、夕さんはそれを一冊ずつ確認しながら並べ直していた。
「それ、何ですか」
「来てくださった方々の記録です」
「全員分、書いてあるんですか」
「はい。名前と、来た日と、行き先を」
棚には、かなりの冊数があった。
「全部読んでもいいですか」と聞きそうになって、やめた。それは、来た人たちのことを書いた記録だ。勝手に読んでいいものじゃない気がした。
「すごく、たくさんいるんですね。ここに来た人」
「はい。いろんな方が来ました」
「みんな、ちゃんと行き先が決まったんですか」
夕さんはしばらく棚を見ていた。
「ほとんどの方は、決まりました」
ほとんど、という言葉が少し引っかかった。決まらなかった人もいる、ということだ。でもその話を今聞くのは、まだ早い気がした。
その人が来たのは、昼過ぎだった。
四十代くらいの男性で、スーツを着ていた。ただしネクタイはゆるんでいて、ジャケットは腕にかけていた。髪は少し乱れていて、全体的に「さっきまで走っていたような」雰囲気があった。
ホームに出てきたとき、きょろきょろするのではなく、立ち止まってその場で大きく息を吐いた。肩が下がった。力が抜けたような、それとも力を抜いたような、そういう息だった。
夕さんが近づいていくと、男性は夕さんを見て、「ここが、終着駅ですか」と尋ねた。
「はい」
夕さんが答えると、男性はもう一度、大きく息を吐いた。
「……来てよかった」
その声に、安堵があった。
名前は、中岡誠と言った。四十三歳。
駅舎に入って、ベンチに座ると、ジャケットを隣に置いた。ネクタイをさらに緩めて、首を回した。それからやっと、前を向いた。
「会社、辞めてきました。今日」
「今日ですか」
「はい。今朝、退職届を出して、そのまま出てきました。引き止められましたが、聞かずに出てきた」
「長い間、お勤めでしたか」
「十八年です。大学院を出て、新卒で入って、ずっといた」
十八年。僕の年齢と同じくらい、同じ会社にいたということだ。
「辞めたことは、後悔していますか」
夕さんが尋ねた。
中岡さんはしばらく考えた。
「後悔していないと思いたい。でも、正直、怖いです。十八年間、あそこにいた。それが急になくなったので」
「どうして辞めようと思いましたか」
夕さんが尋ねると、中岡さんは少し遠くを見た。
「限界でした。単純に」
「どういう意味での限界ですか」
「残業が月に百時間を超えていた時期が、二年続きました。休日出勤も当たり前で、有給を取ったことが一度もなくて。体は動いていましたが、心がついていかなくなっていました」
「心がついていかない」
「朝、起きると、会社に行きたくないと思う。でも行く。また行きたくないと思う。また行く。それを繰り返しているうちに、行きたくないという感覚もなくなってきて」
「感覚がなくなった?」
「何も感じなくなってきました。怒りも、悲しみも、楽しさも。ただ動いているだけの機械みたいになっていた。それが怖くなって、ある日突然、辞めようと思いました」
中岡さんは手の甲を見ながら言っていた。その手は、少し震えていた。話しているうちに感情が動いてきたのか、それとも体に染み込んだ疲れが出てきたのか、分からなかった。
「辞めたことを、周りにはどう思われると思いますか?」
「逃げた、と思われると思います」
夕さんの質問に、中岡さんはすぐに答えた。答えるのが速すぎた。ずっと、そのことを考えていたのだと分かった。
「逃げた、と自分でも思いますか?」
「……思います。正直に言うと」
「なぜですか?」
「十八年いて、急に辞めた。もっと別の方法があったかもしれない。上に掛け合うとか、部署を変えてもらうとか。でもそれをせずに、退職届だけ出して出てきた。それは逃げだと思います」
「別の方法を試みたことは、ありましたか?」
夕さんがこう尋ねると、中岡さんは黙った。
「……三年前に、一度上に相談しました。業務量が多すぎる、人を増やしてほしいと。でも聞いてもらえなかった。むしろ、もう少し頑張れと言われた。それから相談するのをやめました」
「それは逃げではないと思います」
夕さんの言葉を聞いて、中岡さんが顔を上げた。
「相談して、聞いてもらえなかった。それでも三年間、続けた。それは十分に戦ったことだと思います」
「でも、最終的には辞めた」
「はい。でも辞めることと逃げることは、同じじゃないと思います」
中岡さんはしばらく夕さんを見ていた。
「どう違うんですか?」
声に少し力が入っていた。反論したいのか、納得したいのか、どちらか分からなかった。
「逃げるというのは、問題から目を背けることだと思います。でも中岡さんは、問題を三年間見続けた。相談もした。それでも変わらなかったから、自分が出た。それは逃げではなく、判断だと思います」
「判断」
「自分の体と心を守るための、判断です。それは正しい判断だと思います」
中岡さんは視線を落とした。
「でも、残してきた部下たちのことが気になります。俺が辞めたら、あいつらの仕事が増える。それは分かっていて辞めた。それが、一番きつい」
その言葉は、さっきまでと違った重さがあった。自分のことではなく、他の人のことを心配している言葉だった。
「部下のことを、大切に思っているんですね」と夕さんが言った。
「そりゃそうです。一緒に働いてきた人間ですから。でも……正直に言うと、俺が残ったとしても、あいつらの仕事量は変わらなかったと思います。会社の構造が問題で、一人残ったところで変わらない。でも、それを言い訳にしている気もして」
「言い訳ではないと思います。中岡さんが残ることで変わらないなら、残ることの意味は何ですか」
中岡さんは答えなかった。
「部下のために自分を壊すことが、部下のためになりますか」
駅舎の中が静かになった。
ターミナルが中岡さんの足元に近づいてきて、においを嗅いだ。中岡さんはターミナルに気づいて、少し驚いた顔をした。
「猫、いるんですね」
「ターミナルといいます」
夕さんが伝えた。
中岡さんはしゃがんで、ターミナルに手を伸ばした。ターミナルは少し考えるような間を置いてから、手に頭を押しつけた。
「この感触、久しぶりだな。うちも昔、猫いたんです。十年前に死んで、それから飼ってない」
「そうですか」
「忙しくなってから、自分の生活のことが全部後回しになっていた。猫を飼う余裕も、植物を育てる余裕も、本を読む余裕も。気づいたら全部なくなっていた」
「それは、今からでも取り戻せます」
夕さんがそう言うと、中岡さんはターミナルを撫でながら、ふっと笑った。
「そうですね。そうかもしれない」
笑顔は小さかったけど、本物だった。
「これから、どうしようと思っていますか」と夕さんが聞いた。
「それが、まだ決まっていなくて。辞めることだけ決めて、その後のことはあまり考えていなかった。というより、辞めるのがやっとで、その先を考える余裕がなかった」
「何か、やってみたいことはありますか」
「あります。資格を取りたいと思っていました。社会保険労務士の資格です。人事の仕事を長くやってきたので、独立して、会社員が働く環境を改善する仕事がしたいと思っていました」
「いつから思っていましたか」
「五年前から。でも、忙しくて勉強する時間がなかった。で、気づいたら五年経っていた」
「今なら、時間があります」
夕さんがそう言うと、中岡さんは少し苦笑いした。
「そうなんですが、いきなり勉強しろって言われても、なかなか体が動かなくて。しばらくは茫然としてそうです」
「茫然としていていいと思います。しばらくは」
「いいんですか」
「十八年間、動き続けてきた体です。急に止めたら、しばらくは動き方を忘れます。それは当然のことだと思います。でも、茫然とする時間が終わったとき、やりたいことがあるのは、強いと思います」
「強い? 俺が?」
「次にやりたいことがある人は、立ち直りが早いです。社会保険労務士の資格を取って、会社員が働く環境を改善したいという目標は、具体的です。それはすぐに動けなくても、方向として持っているだけで違います」
中岡さんはしばらく黙っていた。
「でも、俺みたいな人間が独立なんて、できるのかな」
「できるかどうかは、やってみないと分かりません。でも、できないと決める必要もないと思います」
「根拠もなく、できると思えないです」
「根拠は、これから作るものだと思います。今は根拠がなくていい。ただ、やってみようと思えるかどうかだと思います」
中岡さんはターミナルを撫でる手を止めた。
「……やってみようとは、思っています。怖いけど。失敗するかもしれないけど。でも、あのまま続けていたら、もっと怖いことになっていた気がするから」
「そうだと思います」
「一個だけ、聞いていいですか」
「はい」
「逃げることは、悪いことですか」
夕さんはすぐには答えなかった。
窓から夕焼けが差し込んでいた。ターミナルが中岡さんの膝に乗ろうとして、中岡さんが膝を整えてやった。
「逃げることが必要なときがあります。壊れる前に、離れることが必要なときが」
「でも逃げたら、負けじゃないですか」
「何に負けるんですか」
夕さんの問いかけに、中岡さんは答えなかった。
「戦い続けることが正しくて、離れることが負けだとしたら、戦い続けた先に何があるんでしょう。中岡さんは十八年間、戦い続けて、何も感じなくなりました。それは勝ちですか」
中岡さんの顔が、少し歪んだ。
「……負けですね。それは」
「逃げることで、次に戦う場所を選べます。逃げることは、諦めることじゃない。場所を変えることだと思います」
中岡さんは少し目を赤くしていた。
泣くかもしれない、と思った。でも中岡さんは泣かなかった。奥歯を噛んで、天井を一瞬見て、それから息を吐いた。
「ありがとうございます。なんか、認めてもらえた気がして」
「認めるも何も、中岡さんはちゃんとやってきた人です」
「そう言ってもらえる人が、一人もいなかった。家族にも、友達にも。逃げたんじゃないか、もっと頑張れたんじゃないかって、みんな思っているような気がして、それが一番きつかった」
「ここに来てくださってよかったです」
夕さんのその言葉は短くて、でもまっすぐだった。
夕さんが懐中時計を取り出した。
蓋を開いて、しばらく見てから、切符を作った。
中岡さんに手渡されたそれを、中岡さんはじっと見た。
「資格学校のある駅です。今すぐ通わなくていい。でも、いつか行こうと思ったとき、その駅に行けば、あとは分かります」
「今すぐじゃなくていいんですか」
「しばらく休んでから、でいいと思います。茫然とする時間が終わったら」
中岡さんは切符を見て、小さく笑った。
「なんか、許可をもらえた気がします。しばらく休んでいい、って」
「十八年分、休んでいいと思います」
夕さんは穏やかな声で言った。
電車が来た。
中岡さんは立ち上がって、ジャケットを着た。ネクタイはそのままゆるんでいたけど、それでいいと思った。スーツの中岡さんではなく、ネクタイがゆるんだ中岡さんで電車に乗る方が、今日この日には合っていた。
ホームに出て、扉が開いて、乗り込む前に振り返った。
「あの子も、悩んでるんですか」
中岡さんは僕を指して尋ねた。
「はい」
夕さんが答えた。
「何歳ですか」
「十七です」
その質問には僕が答えた。
「十七か。俺が十七のとき、何も考えてなかったな。悩んでるってことは、ちゃんと考えてるってことだ。それはいいことだと思います」
「ありがとうございます」
「焦らなくていいですよ。俺みたいに四十過ぎてから気づくよりは、早い方がいい」
中岡さんはそう言って笑った。自分のことを少し笑える余裕が、さっきよりあった。
中岡さんは電車に乗った。扉が閉まった。
電車がゆっくり動き出して、夕焼けの中に消えた。
しばらく、ホームで夕さんと並んで立っていた。
ターミナルが足元にいた。今日はずっと近くにいた気がした。
「夕さん」
「はい」
「さっき中岡さんに言ってたこと。逃げることで、次に戦う場所を選べる、って」
「はい」
「それって……夕さん自身は、どうですか」
夕さんは少し間を置いた。
「どういう意味ですか」と聞いた。
「夕さんって、この駅にずっといますよね。来た人を送り出して、自分は残って。それって……逃げることも、戦う場所を選ぶこともできない状況じゃないですか」
夕さんは答えなかった。
ターミナルがニャア、と一声鳴いた。それがどういう意味かは分からなかったけど、何か言いたかったのだと思った。
「余計なこと、言いましたか」
「いいえ。余計なことではないと思います」
でも、それ以上は言わなかった。
懐中時計を取り出して、蓋を開いて、しばらく見て、また閉じた。
その動作を、僕はじっと見ていた。
夕食のとき、夕さんがいつもより少し無口だった。
無口といっても、もともと多くを話す人ではない。でも今夜は、それより少し静かだった。食事の間、箸を動かしながら、どこか遠くを見ていた。
僕は何も言わなかった。
言える言葉がなかったし、今は言わない方がいい気もした。
ターミナルが夕さんの足元に座って、ずっとそこにいた。離れなかった。
食事が終わって、後片付けをしながら、夕さんが言った。
「渚さん」
「はい」
「今日、聞いてくれたこと。ありがとうございます」
それだけだった。
僕は「いえ」と言って、それ以上は何も言わなかった。
夕焼けは続いていた。時計は17時47分のままだった。
でも今夜は、この駅の静けさが少し違う重さを持っているような気がした。
夕さんが抱えているものの重さが、少しだけ見えた気がして、僕はしばらくそのことを考えていた。




